とっても澄んだ、静かな気持ち

【カトリック上野教会】

2016年9月3日 年間第22主日
・ 第1朗読:エレミヤの預言(エレミヤ20・7-9)
・ 第2朗読:使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ12・1-2)
・ 福音朗読:マタイによる福音(マタイ16・21-27)

【晴佐久神父様 説教】

 私が誰だか分かりますか? (笑) ちょっと無人島キャンプで、日焼けしすぎちゃいました。
 そうしてキャンプから戻ってくると、9月の第1日曜日ですから、去年からは、「被造物を大切にする世界祈願日」(※1)なわけです。環境保護を祈る日ですけども、例年、キャンプから戻ると、そうなんですよね~。今年も大自然の中でいろんな体験をして、心は喜びに満ちあふれておりますから、大自然の素晴らしさ、環境の大切さを皆さんと分かち合いたいと思っております。
 今年うれしかったことは、無人島キャンプ歴30年で、ついに、最長不倒記録を打ち立てたんですね。無人島滞在の連続最長記録です。これは、私だけ先に渡っていたので私だけなんですけど、八泊九日おりました。一週間以上、無人島の浜で暮らしていたわけですが、結論から言うと、なんだかつき物が落ちたような感じで、非常にすっきりとした、とてもいい気持ちです。デトックスっていうか、・・・なんて言ったらいいんでしょうね、・・・・便秘が治ったときみたいな、(笑) あんまりいいたとえじゃないかもしれないけど、詰まってたものが全部洗われて、すっきりしたような感じ。
 無人島は人工物がまったくなくて、周囲のすべてが神のみわざですから、神さまのみわざのみに触れ続けるわけです。そうすると、いや応なしに人間の小ささを知りますし、結局、人間である私が何を考えようと、何を計画しようと、そういうことをはるかに超えた神さまの偉大なみわざが行われてるんだから何も心配することはないっていう、すがすがしい気持ちになるなんですね。
 「いや、そんなこと言っても、私たちは八泊九日なんて休めませんよ」とか、皆さん思うかもしれないけど、どんな形でかはともかく、こういうすがすがしい気持ちをこそ、他の何を置いてでも人生において求めるべきなんじゃないかなと、今、すごくそう思ってます。
 皆さんも忙しい毎日でしょうけど、じゃあ、そうして忙しく人工物の中で生きて、悩んで、死んで、それが人生でいいのか。なんとか、万難を排してでも、こういう、・・・なんていうんでしょう、余分なものはいったん捨てて、余計な心配からいったん離れて、もう、すっきりと、神のみわざだけに信頼するっていう、そういうすがすがしい気持ちを求めるべきじゃないですか? そういう解放された心、神のみ手の中での本当の安心、それがあるからこそ、他のみんなとも、ちゃんとつながれるっていう希望、こういう心を、本来、宗教は求めてるわけでしょ。
 皆さん、洗礼を受けて何を求めてるかっていえば、それは救いじゃないですか。じゃあ、「救い」って何ですか? 天国に行くこと? そんなの、どのみち、いつの日か神のみ旨の内に天に生まれ出ていけば、みんな救われるんだし、その意味ではもうみんなすでに救われてるわけで、求めるまでもない。本当に求めるべき救いは、生きてる間にそんな恵みの世界を先取りして、神のみ手の内にある安心を知ることでしょう? この苦難の人生の中で、神のみわざのうちに、自分は本来汚れのない聖なる存在なんだっていうことを思い起こし、神の愛に包まれて満ち足りることでしょう?
 そういう、明鏡止水とまでは言いませんが、この世における静かな心持ちこそを、「救い」っていうんじゃないですか? しかも、それを一人で味わうのではなく、みな共に分かち合って感謝し合い、神を賛美して祈るひと時みたいなのが、生きる原点、最高の境地なんじゃないですか?
 無人島の浜でもミサをするわけですけれども、ホントにすがすがしいミサでしたよ。日没と同時に開祭するんです。昼間は日光が当たって暑いですから、日没と同時に入祭の歌を歌って、ミサを始めます。マジックアワーと呼ばれる、すべてが美しく見える明るい時間帯が1時間ほどありますから、ちょうどその時間をミサに充てるんですね。・・・気持ちがいい。サンゴの石を積んで祭壇を造り、流木を結わえて十字架を造り、みんな砂の上に座ってね。やがて、夕焼け空になり、司祭も空を見上げてね、桃色に染まる雲を見つめながら、感謝と賛美を捧げる。・・・地球に生まれてきて、人類、あとは何をしたらいいんだろう・・・って感じですね。
 おかげで私、ホントにすっきりして、おととい戻ってきたんですけど、あまりにも原点に還りすぎて、なんだか、自分が神父であるっていうことさえ忘れかけてしまいました。実際今も、私、ここで、こんな服着て、皆さんの前に立って、何してるんだろう。・・・そんな感じ。「え~、神父のくせに何を言うか」って思うかもしれませんけど、皆さんだって、何なんですか、そもそも。母親なんですか? 主婦なんですか? 日本人なんですか? 信者なんですか? 社会人としての今の役割、教会員としての奉仕・・・、いったい何をしているんでしょう。もちろんそれは、それぞれ大事なことなんでしょうけど、でも、一番大事なことですか? 「それがなければ、もはや自分ではない」というほどの本質ですか?
 私たちは、何なのか。一番は、「神に望まれて生まれてきた神の子だ」ってことじゃないですか。それ以外のことはすべて二番目以下でしょう。
 神に愛されて存在している神の子。その原点においては、すべての人が、なんの汚れもない、聖なる存在です。神の子としての喜び、それを味わわせたくて、神さまは地球という美しい、天国の入り口のような星をつくって、そこに私たちを住まわせた。神の素晴らしさ、美しさを与えたくて、ご自分の素晴らしさ、尊さを味わわせたいと思って、神さまは私たちを生み育てておられるのです。そうして神は万全を尽くしているのに、・・・ぼくら、それを知らず、それを受け止めずに、何をしてるんでしょう。一番の原点に目覚めずにいて、いくら二番目以下のことをやっていても、それはやっぱり、この世に生まれてきた甲斐(かい)がないってことじゃないですかねえ。

 八泊九日の間、いろいろありました。
 最初は素晴らしい(なぎ)だった。プールのように澄んだ美しい海で泳いだりしてましたけど、三日目だったかな、ずっと南ですけど、台風が通過したんですね。沖縄の南を、中国に向かって一つ通り過ぎたんです。遠いから、天気はいいんですけど、うねりが来るでしょ。で、うねりが来ると、もう帰れないんですよ。浜辺は波が立ちますから。港のない無人島ですから、沖に船を泊めて、そこから小さい船に乗り移って、砂浜に近いところまできて、飛び降りて渡るんだけど、その小さい船が、ドカンドカン波が来ると、もう浜辺に近づけなくなるんですね。つまり、閉じ込められるわけです。もちろん、台風が過ぎると、またきれいに()いで、帰ってこれました。当然船長さんは、そういうことが分かってますから、今回は浜辺に置いといてくれたんですけど、判断によっては、「うねりが長引きそうだから、うねりが来る前に撤収!」ってことも、よくあります。
 去年がそうでした。覚えてますかね、二日で撤収しちゃいましたっていう話、ここでしたと思いますけど(※2)、あれは、迷走台風がどっちに来るか分からなかったからです。泣く泣くの撤退でした。でも、それも神の計らいですしね、去年はそれで、神の声を第一にする、「勇気ある撤退」の話をね、確か、したと思います。「この人類も、今、勇気ある撤退をするときなんじゃないですか?」と、「これ以上突き進んじゃいけないところを突き進んでませんか?」と、そんなような話をここでしたと思いますけど。実際には、大したうねりも来なくて、撤退しなくてもよかったんだけれども、それは、結果論ですし、船長の判断は神の声ですから、それに逆らったら、われわれは生きていけない。
 今年は逆で、うねりが来ているんだけど、船長、置いてるんですよ、ぼくらを。ちょっと怖かったですよ。このまんまうねりが続いたら、帰れないんじゃないかって。・・・でも、船長の見立てのとおり、ちゃんと台風は通り過ぎて、凪になって、ぼくらは帰ってきました。
 だから、実をいうと、あんなうねりがあるときに、あの島にいたのは、今年が初めてなんですね、30年間の無人島生活で。で、「初めて」という体験をしました。それは、大潮で、満潮で、台風のせいで高潮気味のときに、あれだけのうねりが来ると、私がいつもキャンプしていたあの浜は、一瞬水没するってことが分かったんです。テント張って、タープ張って、いろいろ並べて生活してるわけですけど、水没しちゃった。浜っていったって、幅は十数メートルしかありませんし、山側はよじ登らなきやならないような限られた場所なんで、そこが水没したら、もう生きてけない。仕方なく、山側のちょっと高台になってる狭いスペースにテントだけは移しましたけど、他の備品はぜんぶ水没して、潮をかぶってしまいました。初めての体験でしたけど、忘れられない思い出を得たという意味では、すごく幸いな体験でもありました。
 何が幸いかっていうと、一番は、「やっぱり人間は浅はかだ」ってことを改めて体感したってことです。人の考えって、浅はかですねえ。もう30年もここでキャンプやってるんだから、ここは平気だとかね、実に浅はか。でも、大潮で、満潮で、高潮気味で、うねり・・・となると、ここまで水が来るんだっていう、まあ、当たり前っちゃ当たり前なんだけれども、人間の傲慢さを思い知らされるというような体験をして、なんかうれしかった。テントサイトが水没して、プールみたいになって、いろんなものがプカプカ浮いてるのを見て、なんだか笑っちゃうくらい、すがすがしかった。
 今回、私、あそこに八泊九日いるうちに、なんだかとってもスッキリしました。人間の考えは、もうどうでもいいや、と。もちろん、考えなきゃ生きてけませんよ、いろいろ考えて、一番良いことを工夫して、計画立てて、協力して。それは人間の素晴らしさですし、科学技術、政治、経済・・・、一緒にいいことを考えて考えて、考え抜いて、みんなの幸せをつくっていきましょう。それはそうなんだけれども、最終的には、本当に最終的には、人間の考えをはるかに超えた「神の御心(みこころ)」というものに全面的に信頼するしかない。それによってのみ、ぼくらは最高の幸いを得る。
 例えば、病気になったとしても、あっちのお医者さまはこう言った、こっちのお医者さまはこう言ってるって、いろいろ考えますね。あるところまではそれでいいんだけど、最後の最後はね、そういう人間の言葉ではなくて、「神さまは何を望んでおられるか」「神の御心は、今、私に何を語り掛けているのか」、・・・それを求め、それを信じる以外、ないんですよ。この、原点に立ち還るっていう意味では、今年の最長不倒、八泊九日の無人島生活で、私はつき物を落としてもらったような、何か、さわやかな・・・そう、「洗礼」ですよね、まさに「洗われた」っていうような思いになりました。それは皆さんにも、ぜひ共有してほしいなと思う。・・・とっても澄んだ、静かな気持ち。

 今朝、ついさっき、ふと気づいたんですけど、ミサの前って、することが決まってるじゃないですか。起きて、顔を洗って、食事して、ああして、こうして、で、今日の聖書の箇所を読んで・・・って、いつも同じことをするわけですよね。で、今朝、とても不思議というか、面白かったのは、時間がたつのが遅いんですよ。ず~っと何十年も同じことをしてますから、その時間感覚ってあるじゃないですか。「もうそろそろ10分たったな」とか、「そろそろ9時半だから、ああしなきゃ」とか、「10分前だから香部屋に」とか。まあ、10分前に香部屋に行ったことないですけど、私。(笑)
 ともかく、時間がたつのが遅いんですよ。「あれ? まだ5分しかたってない。・・・まだ10分しかたってない。変だなあ・・・」っていう。時間がたつのが遅いっていうのは、・・・何でしょうねえ、心が静まってるというか、集中力が増しているってこと?・・・どういうことなんでしょう。うまく分析できませんけど、ともかく、奇妙なほど、時間がたつのが遅い。・・・何でしょうねえ。これ、もっともっと極めると、なんかすごいことになるのかも。「今が永遠」・・・って、そんな感じ?
 この今、こうして共にある、このひと時こそが、ホントにかけがえのない、神さまがつくっている時間、神さまが与えている恵み、人間の考えをさし挟む余地のない完全さ。・・・そういうものが、今、ここに、確かにあるっていう実感。たぶん、そこから目が曇らされて、忙しく人間のわざをなしている状態が罪の状態なんでしょうけれども、洗礼を受けて洗われた者は、すっきりと、一番大事なことだけを実感する。

 第1朗読(※3)、面白かったですねえ。エレミヤ、「わたしの負けです」って言うんですよ (エレミヤ20:9) 。エレミヤにしてみたら、「預言者になんか選ばないでくれよ」って感じですよね。預言者に選ばれちゃったら、神の言葉を語らなきゃならない。みんなからは責められるし、しまいには、殉教すらあるわけでしょ。「わたしは一日、笑いものにされ、みんなに(あざけ)られて、主の言葉ゆえに、一日中恥を受けなければなりません。だからもう主の名なんか口にすまいと思っても、主の言葉が火のように燃え上がって、押さえつけておこうとしても無理です。わたしは疲れ果てました。わたしの負けです」って (cf.エレミヤ20:7-9)
 人間の思いや、計画や、そういうものを圧倒的に超える神の力によって、私たちは、「神の勝ち」っていうことを体験いたします。でも考えてみたら、私が勝っちゃったら、不幸せなんですよね。だって、「私の勝ち」なんて、ろくでもないものでしょ。ろくでもない私が勝っちゃったら、ろくでもない結果になるだけ。全能の神が勝つこと、完全なる神のみ前で「私は負けです」って、すべてを受け入れること。それこそが、「勝ち」です。まさに、「負けるが、勝ち」ですよ。あらゆる出来事、状況を、きちんと受け止めて、最善を尽くしつつも、最後はぜんぶ神さまにお任せして、心安らかであること。これですよね。

 パウロは第2朗読(※4)で、「自分の体を聖なる生けるいけにえとして(ささ)げなさい。これこそ、なすべき礼拝だ」と言いました (cf.ローマ12:1) 。「自分の体」(※5)って、私のすべてですよね。神さまから頂いた体です。私の場。恵みの場。まさに被造物です。この私自身を、「聖なる献げものにしなさい」と。「これこそ、なすべき礼拝だ」と。
 ミサで、こうして祈っている皆さんは、神から頂いた「自分」という体、さらには心、魂も、すべて神さまにお献げいたします。・・・でもこれ、気持ちいいですねえ。何かこう、自分の都合、自分の勝手で自分を守ろうとするんじゃなくって、ぜんぶ、神さまのみもとに(さら)して、「これをお献げします」と。日の光のもとに晒すとね、ご覧のとおりどんどん黒くなっちゃいますけど、心のなかで、魂の世界で、神さまの光をどんどん浴びれば、私たちはどんどん神の子として変えられていくんです。パウロの言い方だと、「心を新たにして自分を変えていただき」 (ローマ12:2) って。神さまによって変えていただく。そうして、「何が神の御心であるか、何が完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」 (cf.ローマ12:2)
 ああ、そんな心持ち、気持ちいいね。自分の考えだけで何か考えてるときって、結構いつもイライラするじゃないですか。違います? 自分の弱さを持ち出せば不安だし、自分のとらわれを持ち出すとイライラするし。でも、「心を新たにして自分を変えていただき」、神さまの考え、これは間違いがないわけだから、「それにお任せします」と。神さまの計画、これはもう絶対ですから、「それを信じます」と。これはイライラもないし、不安もないですねえ。
 「ラウダート・シ」(※6)っていう教皇さまの回勅の中でも、社会不安について書かれておりましたけれども、彼が言うには、脅威なのは、単に自然環境が変動して災害が激化しているとか、そういうこともさることながら、それによる社会不安がね、とても問題なんだということを、教皇さま、言っておられましたよ。・・・社会不安。みんな、人間の考えで不安になるんですね。
 今回、無人島から一番近くにある「与路(よろ)」っていう島(※7)に行ったとき、船を待つ間、そこの誰もいない無人の待合室にテレビがあって、何週間ぶりかでテレビ見たんですけど、ちょうど朝のワイドショーで、今朝、北朝鮮のミサイルが北海道を通過したっていうのをやってました。なんか、頑丈な建物に逃げろとか、サイレンが鳴ってみんな緊張したとか、大騒ぎしていた。私、何のことかよく分からずに、ぼんやりテレビ見てましたけれど。・・・大騒ぎだったんですか? 島ではもう、まったく何も知らずに空を仰いでおりましたが。ミサイルが落ちてくるとか、緊急放送とか、大変な時代になったと思うかもしれませんけれども、そういう「不安」のほうが、私は問題だと思いますよ。
 東日本大震災のときも、教会に来られた人がおりました。家に一人でいると不安だ、余震で眠れないと言って。別に地震で怪我(けが)したわけでも何でもないんだけど、心に怪我してるんですね。心の怪我は、結構治りにくいです。ミサイルにしても、警報サイレンを鳴らしたところでですね、逃げようったって逃げれるもんじゃないし、かえって、精神的に不安定になる大勢の人が生まれて、そっちの方が、よほど被害が大きいと思う。
 「この世界は、実は不穏な世界なんじゃないか」「人類の歴史は、だんだん悪い方に行くんじゃないか」、そういう不安。この方が、よほど被害が大きい。もちろん、防げるものは防がなきゃなりませんから工夫はしますけれども、何がどうなるかなんて分かりゃしないでしょ。ミサイルから逃げて建物の中に入ったら、地震でつぶれちゃいました、なんてことがありうるわけでしょ。
 まず第一に、何よりも第一に考えなければならないのは、神の御心を知って、信頼して安心して確信を持って、自分の命を生きていくことじゃないですか?
 この社会不安の時代、人間の考え、人間の恐れを第一にしていると、人々はますます心配して、そして、心配した人は争い始めるんですよ。その心配を消し去りたいがために誰かを責めはじめ、どこかを攻撃して心配の元をせん滅すれば安心できる、そう思ってるんですよ。・・・これは完全な間違いです。「実は恐れることが一番問題だ、実は神の国に心配なんかないんだ」っていうこと、これに気付くほうが、われわれにとっては、よほど聖なる道。

 考えてみたら、この地球なんて、人類が誕生する前は無人島ならぬ、無人星だったわけですよね。人類って、誕生してたかだか2、30万年ですから、それ以前は何十億年も無人星だった。美しい大自然の中をあらゆる生き物が調和して生きていた。ベースキャンプは、よくゴキブリが出るんで、みんな最初のうちは、「キャ~!」とか、「うわっ!」とか言って大騒ぎしてるんですけど、ず~っといると慣れちゃうんですよね。当たり前の光景になってくる。なにしろ彼らはこの星の大先輩ですから、もっと尊重しなきゃならない。
 よく考えてみたら、人類30万年っていうけれど、ゴキブリさんは3億年ですからね。30万年×1,000? 300万、3,000万、3億。・・・そうですね。人類の歴史なんて、ゴキブリの千分の一なんですよ。本来、ゴキブリさまが、(笑) 住んでいる星に、千分の一の新参者の人類が現れて、ゴキブリさまを見るやいなや、シューッ!って毒ガスをかける。(笑) ひどいじゃないですか。一緒に暮らしてきゃいいんですよね、考えてみたら。ゴキブリで死んだ人っていうの、聞いたことないですし。
 なんかこう、人類ってわがままですよね、ものすごく。人類が登場するまで、この美しい星を、誰も汚す人がいなかった。どんな毒ガスも吹きかけなかった。すべては神の御手のままだった。人類は、そこに何のために生まれてきたのか。よもや、いなくてもいい徒花(あだばな)として生まれたのではありません。この美しい星を、本当に味わって、本当に大切にして、そこで生きている喜びを、神さまに感謝と賛美として捧げるためにつくられたんです。それをやらずして、不安とか、いら立ちとか、そういうもので心をいっぱいにしていること、これがやっぱり罪です。その罪を吹き払うために、イエスさまが来られた。
 だから、イエスさまは、ペトロに宣言します(※8)
 「サタン、退け。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」 (cf.マタイ16:23)
 それこそが、サタンです。罪ですね。・・・「神のことを思わず、人間のことを思っている」
 じゃあ、どのようにして神のことを思うか。イエスさまは、ひと言、ペトロに言いました。
 「自分を捨てて、わたしに付いてきなさい」 (cf.マタイ16:24)
 ・・・そうなんです。イエスさまが、究極の、完成された人類ですから、彼のしたようにして、彼の言ったように言い、彼が愛したように愛するとき、私たちは神の御心に(かな)った者として生きていくことができるんです。そういうモデルがあるって、うれしいことですよ。「じゃあ、どうしたらいいの?」っていうときに、そのモデルを見て、それに付いていけばいいんです。これはやっぱり、キリスト者としての最高の恵みじゃないですか。聖書を開けば、イエスさまが何て言ったかって、もう書いてあるわけですから、困ったとき、悩んだとき、恐れたとき・・・。
 今、目の前に、大きな病気から生還してきた方もいますね。がんの手術、大変でしたね。何とか生き延びましたけど、再発するかどうかって心配したりしてるんでしょう? だけど、そんなこと、いっさい考える必要ないですよ。いっさいです。どうなるかなんて誰にも分らない。確かなことは、「今日、ここにいる」ってこと。ゆったりと時間が過ぎていきます。空を見上げてください。上を見ましょう。横を見ても、ぜんぶ人間がつくったものですから、下を見ても、ぜんぶ人間がつくったものですから、木だって人間が植えた木ですからね、上を見上げてくださいよ。
 「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
 わたしの助けはどこから来るのか。
 救いは神から。
 天地を造られた神から来る」 (cf.詩編121:1~2)
 無人島で、ず~っと雲を見てましたけど、ぼくらは、雲の中に神を見た旧約の人たちと同じように、この空を見上げて、神さまを仰ぎ見ます。

 おととい、警察から電話があって、私がちょっと関わって、友達になろうとしているホームレスの方のことで、警視庁の刑事さんからの電話でした。その方が、違法なものを隠し持っていて、本人はそれを「晴佐久神父に預けた」って言ったって言うんです。私、ちょっとショックでした。なんだか裏切られたっていう気持ちなんですよ。「信頼関係が第一でしょ」ってね、よく言ってるんですけど、うそをついたわけですね。で、おとといは、もうお付き合いするのをやめようかなって思ってたんですよね。だけど、昨日から、とっても澄んだ、静かな気持ちだし、考えてみたらその方だって神の子で、非常に美しい聖なる存在なわけですし、本人、きっと現れるでしょうから、その時は心から歓迎しようと、そう決心しました。

 私たちは、この星に、神さまから選ばれて生まれてまいりました。
 「被造物を大切にする世界記念日」、9月の第1日曜日、最高の被造物は、実は人類だということを思い起こし、聖なる存在として、さわやかに、この一日を過ごそうと思っております。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます)

※1:「被造物を大切にする世界祈願日」
 2015年、教皇フランシスコは、9月1日を「被造物を大切にする世界祈願日」と定め、カトリック教会の暦に加えられた。日本の教会は、「主日に全教会で祈ることがふさわしい」と、毎年9月の第1日曜日となった。
 この祈願日は、東方正教会の呼び掛けにより、同教会の環境保護祈願の日である9月1日に、全キリスト者が同じ意向で祈りを捧げてはどうかとの提案を、教皇フランシスコが受け入れたもの。
 この日、各々の個人や共同体は、神から、「被造物」という素晴らしい作品の管理を任されたことを感謝し、被造物や環境保護のための助けを願い、わたしたちが生きているこの世界に対して犯してきた罪へのゆるしを願う機会になるとしている。
(参考)
・ 「教皇フランシスコ、 2016年9月1日『被造物を大切にする世界祈願日』メッセージ:『わたしたちの共通の家にいつくしみを』」(カトリック中央協議会)
・ 「『日本の教会における祈願日』新設と名称変更のお知らせ」(カトリック中央協議会)
・ 「10月4日までの『被造物の季節』に祈りや行動を呼び掛け 9月1日は『被造物を大切にする世界祈願日』(クリスチャントゥデイ 2016/9/1
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※2:「二日で撤収しちゃいましたっていう話、ここでしたと思いますけど」
(参考)
・ 「まだ間に合うよ」(「福音の村」2016年9月4日説教)中ほど(上から6段落目)>この辺
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※3:「第1朗読」
この日、2017年9月3日(年間第22主日)の福音朗読箇所。
 エレミヤの預言(エレミヤ書)20章7~9節
  〈小見出し:「エレミヤの告白」20章7~18節から抜粋〉
===(聖書参考箇所)===
 主の言葉のゆえに、わたしは一日中
 恥とそしりを受けねばなりません。
 
主の名を口にすまい
 もうその名によって語るまい、と思っても
 主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて
 火のように燃え上がります。
 押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。

 わたしの負けです。 (エレミヤ20:8後半~9/赤字引用者)
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※4:「第2朗読」
この日、2017年9月3日(年間第22主日)の第2朗読箇所。
 使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマの信徒への手紙)12章1~2節
  〈小見出し:「湖の上を歩く」〉
===(第2朗読全文)===
 
兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。 (ローマ12:1~2/赤字引用者)
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※5:「自分の体」
◎「体」
 「精神」に対する「肉体」のような意味ではなく、人間全体をさすことば。 > (『聖書と典礼』〈年間第22主日A年 2017.9.3〉、p4、オリエンス宗教研究所より)
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※6:「ラウダート・シ」
 2015年6月18日、教皇フランシスコが発表した、環境に関する回勅。「ラウダート・シ」は、「主を賛美せよ」の意味。
 表題は、アシジの聖フランシスコの「太陽の賛歌」の中の言葉「ラウダート・シ、ミ・シニョーレ」(「わたしの主よ、あなたは称えられますように」)から取られている。
(参考)
・ 『回勅 ラウダート・シ ―ともに暮らす家を大切に』(カトリック中央協議会)
・ 「教皇フランシスコ、回勅『ラウダート・シ』発表」(バチカン放送局 2015/6/18
・ 「教皇フランシスコによる回勅『ラウダート・シ』要旨」(バチカン放送局 2015/6/18
・ 『回勅 ラウダート・シ ―ともに暮らす家を大切に教皇フランシスコ(著)、瀬本正之・吉川まみ(翻訳)(Amazon) など
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※7:「無人島から一番近くにある『与路』っていう島」
yoroshima-S 左の地図は大まかな位置を示しました。
 クリックすると拡大しますが、広域地図をご覧になりたい方は、「Google Map」や「Yahoo! Japan地図」などをご覧ください。
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※8:「だから、イエスさまは、ペトロに宣言します」
この日、2017年9月3日(年間第22主日)の福音朗読箇所より。
 マタイによる福音書16章21~27節
 〈小見出し:「イエス、死と復活を予告する」〉
===(聖書参考箇所)===
(イエスは、ご自分の受難と死、そして復活について打ち明け始められた。)
すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。
 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」 (マタイ16:22~24/(カッコ)内補足・赤字引用者)

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2017年9月3日(日) 録音/2017年9月18日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英