教会家族に救われました

【カトリック本所教会】

2017年4月30日 復活節第3主日
・ 第1朗読:使徒たちの宣教(使徒言行録2・14、22-33)
・ 第2朗読:使徒ペトロの手紙(一ペトロ1・17-21)
・ 福音朗読:ルカによる福音(ルカ24・13-35)


【晴佐久神父様 説教】

 「どうぞお座りください」って言う前に、みんな座っちゃった・・・。(笑)
 ご無沙汰でした。この本所教会の聖堂で以前にミサをしたのが、もう去年ですね(※1)。あっという間に日々が過ぎて。
 ・・・今日で、4月最後の日ですもんね。もう、4カ月過ぎちゃったんですよ、「明けましておめでとう」なんて言ってから。1年の3分の1、過ぎちゃった。自分も含め、「何、うかうかしてるんですか?」って言いたいよ。「今日」という恵みの日をちゃんとやってないと、ワクワクと喜びを持って生きてないと、人生、何やってたんだろうってことになっちゃいますよ。

 私、最近、さすがに体は少しずつ衰えてきてますけれど、でも、だからこそ、「よしっ! そろそろ本番だ。ひと花咲かせてやるぞ!」みたいな気持ちになってます。先月で、もう司祭叙階30周年なんですね(※2)。「もう、30年もやってきたのに、まだこんなんか・・・。うかうかしてられない。本気モードでやってこう!」っていう気持ち。最近、今まで以上に、聖霊の働きを感じるんですよ。聖霊が促すんですね。「最後にひと花、咲かせなさい!」みたいな。
 皆さんもね、最後に・・・皆さんに「最後」は申し訳ないか。(笑)でもね、だれだって限りある生ですから、せっかく頂いた恵みの今日、自分らしい花、咲かせましょうよ、キラキラッと輝く花を。神の恵みの中で、みんなで楽しく工夫して、いろいろなチャレンジをしながら。
 では、皆さんが咲かせる花って、何の花か。キリスト者の咲かせる花といえば、それはもう、人助けの花です。世界を救う花です。大げさじゃなく、今、そういう花を必要とする世の中になりつつありますから。緊張が高まり、不安が高まり、・・・この国でも「戦争」なんて言葉すらうろつき始めている。こんなときこそ、チャンスなんです。教会の恵みをね、キラキラ輝かせて、福音の花を咲かせるとき。そんな、恵みの「今日」を、ホントに大切にしないとね。教会の存在意義がなくなっちゃいますから。
 気がつけば、強い者が、平気で弱い者いじめする世の中です。何とかしなくちゃね。・・・いやあ、30年も、ホントに、何をうかうかやってたんだろう・・・。さすがに、聖霊が働くわけですよ。「よしっ、ぼんやりしてられない。やってやろうじゃないか!」っていう気持ちです。みんなで、全員で、心ひとつにして、神の国のために立ち上がりましょうよ。

 さっき香部屋で、・・・ここ、すごいですね、侍者(※3)に、先輩、後輩っていうのがきちんとあるのね。「あっ、こちらは先輩で・・・」とか。さらには、「こちらは大先輩です」って。(笑) それでいうんだったら、私、こちらの前任の加藤英雄神父より先輩なんですよ、(笑) 渡邉神父からしたら、大先輩です(※4)
 でもね、今はもう、そんなこと言ってる場合じゃないんですよ、実は。つい先日洗礼を受けた人も、30年、50年の大先輩も、司教も司祭も、助祭も修道女も、侍者も信者も、もうみ~んな、なんていうんでしょう、・・・総動員? 戦争のたとえみたいで、ちょっとイヤですけど、まさに、総動員で福音のために働く時が、今、来てます。この勝負のときを、主イエスと共に戦い抜かない限り、教会の未来はないです。
 急に悪くなるんじゃなくて、少しずつ、少しずつ悪くなったせいで、本人もそんなに深刻な状況だって気付かないうちに死んじゃったって話、あるじゃないですか。気が付けば、後戻りできないようなところまで来ちゃってるっていう。私みたいな人間でも、多少は預言のたまものを頂いてるわけですから、「ここがギリギリだよ」と、「世界を救う道を、教会が回心して、本気で歩み始めるチャンスだよ」と、今、特に呼び掛けたいですね。
 さっきペトロが、「この世は仮住まい」って言ってましたでしょ (一ペト1:17) (※5)。「仮」ってことは、「本番」があるってことですから、その本番の先取りとしての教会、目に見えるしるしとしての救いの場を、この仲間で一緒に目指しましょう。
 ねっ、「仮住まい」に、そんなにこだわることないじゃないですか。建物とか財産とか、しょせん「仮」なんだから、そんなにムキになって守ることないですよ。仮住まいっていうのは、やがて出ていく所ですから。やるべきことは、「本住まい」の準備です。「本住まい」の先取りです。「みんな一つの家族になって、本住まいの神の国のしるしになりましょう」って言いたいんです。

 具体的な話をいたしましょう。
 その神の国という「本住まい」への一番の準備、私は、キーワードはやっぱり、「教会家族」だと思います。「福音的な家族」だと思います。それを実際にやっていくことだと思います。
 血縁の家族だけでは、もうやっていけない時代が来ました。なんとなく、皆さん、分かりますでしょう? 血縁の家族だけだと、みんなもう、いっぱいいっぱい。子育てから介護の問題に至るまで。小さな家族でね、信頼し合って助け合ってとかいっても、世の中が激変してますから、数名の小さな血縁の家族だけじゃあ、もう無理でしょう。そんなときに、キリストの教会は、「血縁家族を超えた、本物の家族が、ここにあるぞ!」と言って、「教会家族」を、この世界に示すわけです。
 カトリック本所教会も、ちゃ~んと家族になりましょうね。お互いに、もっと知り合って、助け合って、まるで血がつながっているかのように、・・・いやいや、血がつながっている「以上に」です。霊的につながって、お互いに助け合うような、そういう教会、やってみませんか? 少しずつでも。
 こうしてミサに集まっていても、お互いに、今何を悩んでるのか、どんな病気で苦しんでるのか、家庭がどんな問題を抱えているのか、何も知らなじゃないですか。そこをまず、聞き合って、語り合って、「それじゃあ、こんなふうにお手伝いしましょう」「それじゃあ、みんなに呼び掛けて一緒にお祈りしましょう」って、もっともっと、「家族なら、当然でしょ?」っていうようなつながりを。
 先日、テレビで、「子どもに財産を残すべきか、使い切るべきか」っていう特集をやってました。ボタンを押すと、今、その場でアンケートが取れるじゃないですか。で、その結果は、「子どもに財産を残さず、使い切ったほうがいい」っていう人のほうが、5割以上でした。
 確かにね、この世の財産、子どもに残したって、ろくなことないですよ。(・・・笑) 感謝してくれるかと思いきや、彼らは、「・・・こんだけ!?」って言うんですよ。(笑) それどころか、兄弟で争い始めたり。そんな思いをするくらいなら、もうぜんぶ使いきっちゃったほうがいい。ただし、「使いきる」っていっても、「じゃ、楽しく遊びましょう♪」じゃなくって、血縁を超えた教会家族のために、お互いに使い合うっていうのが正解だと思う。・・・まあね、もちろん、自分のことがあるから、半分くらいは残しといてね。(笑) いや、でも、実は、人生、なんとでもなるんです。そうしてやがてはみんな、お金なんかまったく必要ない、天国の住まいに入るんだし。・・・もっとこの世で分け合って、融通し合ってね。
 お金って、時にはすごく人を苦しめるんですよ。変なお金を残すと、家族がバラバラになりますよ、逆に。最近、相続の悩みを聞かされること増えたんですけど、そんな話聞いても、答えようがない。悩むくらいなら使っちゃえって言いたい。本当の家族のために。下手に血縁に残すと、ケンカ始めますから。
 むしろ、血がつながっていない者同士で、いろいろ分かち合って、融通し合って、助け合って、「これこそ、ホントに家族だね~」っていえるような集まりを目指してね、私、具体的に、小さな家族をつくってます。まだまだ本当に小さな、お遊びみたいな家族ですけど、もう、10くらい始めましたよ。だんだんとね、そのチーム同士も、関わり合い始めたりして、なんだか楽しいですよ。
 私はそれを、「福音家族」って呼んでます。そんな福音家族を、「一緒にやっていきましょう!」ってね、私は呼び掛けたい。

 さっきの福音書(※6)、思い出してください。復活のイエスが、何をしましたか? また再び、「福音家族」をつくったんですよね、バラバラになりかけていた「家族」を一つに集めて。
 エマオに向かうこの二人は、いうなれば、「家族」から離れていくところだったんでしょ。イエスさまが殺されて、絶望して。その絶望の深さはどれほどだったかをイメージしていただきたいんですけど、イエスを囲んで一つの家族になっていた弟子たちは、そのイエスが突然殺されちゃって、すべてが終わっちゃったと思い込んだわけでしょう。「もう、自分たちも死んじゃった」くらいの気持ちですよ。もちろん、この二人だけじゃない。弟子たちはみんな、死んだも同然だったし、そうしてバラバラになっていった。
 でもね、そのバラバラになって、エルサレムから去っていこうとする、この二人の後ろから、復活のイエスさまが追いかけてきて、そっと寄り添って、その心の闇、今の苦しみを聴いて、福音を語り掛けてくださった。そのイエスさまに、「一緒にご飯、食べましょう」って言ったら、共にとどまってくださって、そのとき、「これは主だ!」と気が付いた。・・・と、見えなくなった。
 「見えなくなった」 (ルカ24:31) っていうのは、なんでだか、分かります?
二人が、「もう一度、教会家族に帰ろう!」「もう一度、福音家族に戻ろう!」って思った、その集まりそのものが、イエスになっちゃったんですよ。・・・分かりますかね。だからもう、イエスが見えてちゃいけなんです、逆に。
 二人がエルサレムに取って返すと、他の人たちも、「私も主に会った!」「私たちも主に会った!」というふうにして、みんな集まってた。つまり、復活の主が、みんなを呼び集めて、もう一度、福音家族を新たに始めたんです。これが救いですよ。復活の主です。もう、白い服を着たイエスさま、見えなくっていいんです。イエスは、福音家族そのものになったんだから。
 皆さん、ご覧ください。本所教会に、現実に信じる仲間が集まってますでしょ? この集いが、「復活の主」です。ここが、「福音家族」なんです。家族なんだから、家族みたいにしましょうよ。よそ行きじゃなくって。一緒にご飯を食べ、信頼し合って、正直に何でも語り合って。別に、ケンカしたって構わない。だけど、絶対に切れない仲。
 復活の主に出会った弟子たちは、生前のイエスさまが、「本物の家族をつくろう!」っていう思いで、弟子たちと生活を共にし、福音を語り続け、神の国のために働いておられたことを思い出して、本気モードで出発したのです。

 先週、浅草教会でもお話ししたんですけど、よく、「最後の晩餐(ばんさん)」っていいますでしょ? たとえば、エマオに向かう弟子と食事を共にしたイエスさまがパンを裂く行為を、「最後の晩餐を思わせる」っていうようなこと、聖書と典礼の解説にも書いてありますけど(※7)、よ~く考えてみてくださいね。「最後の晩餐」って、なんで、「最後」っていうんですか? 言うまでもないことですけど、「いつもの晩餐」があったからでしょ? 急に集まって食べても、「最後の晩餐」っていいませんよ。いつも(・ ・ ・)、イエスさまは弟子たちと一緒に食べてたんです。それはもう、まさに、神の国の先取りのような、楽園の食事だったはず。みんなで集まって、貧しくても喜びにあふれた食卓を、毎日続けていた。だけど、いよいよ明日殺されるっていう夜に、イエスさまが、「最後に(・ ・ ・)、この食事をすると」開いたのが、「最後の晩餐」なわけです。
 ミサはその記念ですから、皆さんも、毎日曜日、「最後の晩餐」の記念をしているわけですけれども、じゃあ皆さん、「いつもの晩餐」は、いつやってるの? 「いつもの晩餐」なしにミサだけしたって、それ、「最後の晩餐」にならないんですよ。「いつもの晩餐」があるからこそ、そのいつもの仲間たちで、あの「最後の晩餐」の記念をする喜びはいかばかりかっていう話なんだから。
 皆さん、いつ一緒に食べてるんですか? 家族なんでしょ? 一緒に食べましょうよ。もっと信頼し合って、集まって、仲間で語り合って、喜びをもって。・・・ごちそうでなくてもいい。お互いに分かち合って、仕え合って、「いつもの晩餐」、しましょうよ。
 イエスと共にある、その「いつもの晩餐」が、「最後の晩餐」に結実しましたけれども、なんと、それは「最後」じゃなかった。イエスは復活し、バラバラになりかけた弟子たちを集めて、再び一緒に食事をしてくださった。その意味では、あれは最後じゃなかったんです。じゃあ、それを何て呼んだらいいか。
 「最後で最初の晩餐」
 私は、そう言いたい。「最初で最後」っていうと、一回きりってことですけど、「最後で最初」っていえば、もう、永遠ってことです。この、「最後で最初の晩餐」の記念をして、わたしたちは、「いつもの晩餐」を繰り返します。イエスさまはもうこの世にはおられないけれど、わたしたちの「一緒ごはん」、それ自体がイエスさまそのものだというような、教会家族が始まったんです。
 そんな食卓をね、キリストの教会は、ず~っと二千年間、やり続けたはずじゃないですか。教会がだんだん高齢化してるの、信者が少ないのって心配してるけれど、私に言わせれば、「一緒にご飯、食べてるの?」、そう言いたい。一緒にご飯を食べてる所には、仲間が集まってきますよ。だって、その食卓自体が、復活の主なんだから。
 今、一人ぼっちでご飯を食べている人、「もう自分には、ホントの家族なんかいない」とか、「私のこと、分かってくれる人なんか誰もいない」とか、「このまま一人ぼっちで生きてくのは不安だ」とか、そんなことを思ってる人を、復活の主は、み~んな集めてきますよ。それこそ、私が今、「一緒ごはん」をしながら体験してることです。

 ちょうど昨日、ご葬儀ミサをしましたけれど、その方とご遺族なんか、まさにその証人です。
 何年か前に、プロテスタント教会の親子が相談に来ました。ご主人が急死なさって、本当につらい思いをして苦しんでおられる母親と、まだ若い息子です。
 初めはお母さまだけ来たんですね。お母さまは絶望して、現実の苦しみの中で、信仰すら失いかけていた。最後の頼みの綱とでもいうんでしょうか、私のところにいらしたので、私は福音を語りまくりましたし、ミサに通うようになり、入門講座で「教会家族」を知り、少しずつ信仰を取り戻していきました。
 そのうちに、「息子も落ち込んで苦しんでるので、連れてきたい」と、若い息子も連れてきた。母親に無理やり連れてこられたので、今でも覚えてますよ、彼、応接室で最初に会った時、顔も合わせないんです。ふてくされてて、そっぽ向いてるの。何にも話さないし。
 私、その時、私の、・・・まあ、なんでしょう、取りえなんでしょうかねえ、意地が発動しました。「こいつを、ぜっっったいに、『晴佐久神父に会って救われた』と言わせてやる!」と。(笑)
 その方法はただ一つ。彼に、教会家族を体験してもらうこと。
 もちろん、人を救うのは福音なんですけど、初めのうちは、言葉で何を言ったって無駄なんですよ、「家族」がいないと。家族の言葉だからこそちゃんと聞くんだし、家族体験の中でこそ、福音が意味を持ってくるんだから。
 さいわい、私には、洗礼を授けた若い仲間がいっぱいいたし、その仲間たちで教会家族をつくっていたところだったので、その教会家族に彼を紹介して、家族として大切にしてほしいと頼みました。やっぱり、家族体験は大きいですね。血縁の家族を失って絶望した親子ですけど、教会の家族と出会って救われたんです。家族ができると、どんどん元気になりますし、やがて、転会式をして、二人とも正式に教会家族の一員となりました。今や、教会の青年会の中心人物ですし、私と一緒に海外を旅行するほど親しくなって、私の片腕になっております。今年の無人島キャンプなんかは、私が隊長で、彼が副隊長。
 もちろん彼は、「晴佐久神父に会って救われた」と思ってくれているでしょうが、実は晴佐久神父に会ったってことは、教会家族に会ったってことですし、それは、イエスに会ったってことなんです。だからこそ、どんどん元気になり、どんどん明るくなり、信仰が深くなり・・・。いくら言葉でだけ教えを語っても、そんなこと、起らなかったと思うよ。家族がいたから、起こったことなんです。
 その彼のお母さんの、そのまたお母さん、つまり彼のおばあちゃんが、この前、亡くなりました。実はそのおばあちゃんにも、数年前に洗礼を授けました。3人で暮らしていたんですけど、これで三世代、信者になったんですね。この一家、血縁の家族が少ないんです。彼も一人っ子。お母さまも一人っ子。だから、おばあちゃんが亡くなると、本当に母と子と二人だけになっちゃった。
 このおばあちゃん、最初に私に会ったとき、「あ~ら! ハンサムね~💕」(笑)って言ってたようで、「ファンになった」とも言ってたとか、そのあとも、いつも「あのカッコいい神父さま」の事を話していたとか・・・。ですから、亡くなる前に、病床を訪ねた時も、本当にうれしそうでした。まあ、カッコいいとか言われると、うれしいじゃないですか。私の気持ちの中では、なんかもう、家族の一員っていうかね。葬儀ミサでも、家族の葬儀を司式しているって気持ちでしたよ。
 昨日のご葬儀で、お母さま、気持ちをこらえきれず、声を上げて泣いておられました。息子も涙止まらないしね。当然でしょう、血縁の家族が、二人っきりになっちゃったんだから。お母さま、あんまり泣かれるんで、ご遺族あいさつ、大丈夫かなって、気になりましたけど、最後のあいさつのときは、しっかりとあいさつしてくださいました。
 彼女は、集まったみんなの前で、はっきりと、こう言いました。
 「私たち一家は、教会家族に救われました」
 ・・・教会家族は、人を救うことができます。

 仮住まいも、そろそろですね。本住まいの、本家族に向かって、本腰入れるときです。
 今の世の中、バラッバラでしょ。もうね、あんまり血縁は気にせずに、まあ、そこそこは大切にしながら、まずは、「血縁を超えた福音家族を何よりも大切にしてやっていこう!」っていう、そんな出発の日として、今日のミサを捧げたい。
 聖なる霊が、私たちの間に降って、私たちの心が強められ、温められて、「本物のキリストの家族になることができますように!」と、そう祈ります。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます)

※1:「この本所教会の聖堂で以前にミサをしたのが、もう去年ですね」
この日(2017年4月30日 復活節第3主日)、晴佐久神父は、カトリック本所教会でミサを司式した。
 前回司式したのは、2016年10月30日 年間第31主日。(その際の説教は>こちら
*****
 カトリック東京大司教区で、教区内のすべてのカトリック教会は、「福音的使命を生きる」ことをより活性化するため、22の宣教協力体に分かれ、典礼や行事などを通し、協力して活動を行っている。
 晴佐久神父が主任司祭を務めるカトリック浅草教会、カトリック上野教会は、カトリック本所教会と共に、「下町宣教協力体」という協力体に属している。
(参考)
・ 「神の国ファイターズ」(「福音の村」2016/10/30説教)
 >下町宣教協力体 (上記説教‐参照※1)(東京大司教区‐宣教協力体
 >カトリック本所教会(上記説教‐参照※2)(カトリック本所教会HP
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※2:「先月で、もう司祭叙階30周年なんですね」
 晴佐久神父は、1987年3月15日に司祭に叙階されたので、今年でちょうど30周年となる。
 (1957年10月22日生まれ)
(参考)
教区司祭紹介 第53回」(「東京教区ニュース第323号」 2015/6/15
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※3:「侍者」 (既出)
 ミサや他の典礼祭儀において、特に祭壇の周囲で司式司祭を補佐する。
 通常、アルパ(体全体を包む長い白衣)を着用し、司式司祭や他の奉仕者と共に入退堂する。主な役割としては、典礼書、十字架、ろうそく、パンとぶどう酒、水、香炉などを運ぶこと、福音朗読のときに司祭、あるいは助祭に付き添うこと、祭壇の準備を手伝うことなどがある。
 従来、少年が務めることが多いが、年齢に特に規定はない。また、男性が務めることが慣例であったが、近年では女性が務めることもある。
(参考)
・ 「侍者」(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008年)
・ 「侍者とは何をする人ですか」(カトリック大阪教区 典礼委員会) など
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※4:「私、こちらの前任の加藤英雄神父より先輩なんですよ、渡邉神父からしたら、大先輩です」
◎加藤英雄神父 (敬称略)
 加藤英雄神父は、1989年2月26日に司祭に叙階されたので、晴佐久神父の2年後輩となる。
 (1945年9月12日生まれ)
 カトリック本所教会で、2011年4月から2017年4月まで主任司祭を務めた。
 現在、カトリック木更津教会・館山教会の主任司祭。
(参考)
・ 「教区司祭紹介 第56回」(「東京教区ニュース第326号」 2015/10/16
・ 「2017年度 司祭人事異動」(カトリック東京大司教区)
・ 「主任司祭 ステファノ・ボナベントゥラ 加藤英雄 神父」(カトリック木更津教会HP
・ 「カトリック木更津教会」「カトリック館山教会」(カトリック東京大司教区)
*****
◎渡邉泰男神父 (敬称略)
 渡邉泰男神父は、2006年3月5日に司祭叙階されたので、晴佐久神父の19年後輩となる。
 (1958年6月9日生まれ)
 2017年4月から、カトリック本所教会で主任司祭を務めている。
(参考)
・ 「きょう恵みが与えられた 二人の新司祭が誕生」(東京教区ニュース第231号)
・ 「現在のカトリック本所教会主任司祭カトリック本所教会HP
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※5:「さっきペトロが、『この世は仮住まい』って言ってましたでしょ (一ペト1:17)
この日、2017年4月30日(復活節第3主日)の第2朗読箇所から。
 第2朗読の箇所は、以下のとおり。
  使徒ペトロの手紙(ペトロの手紙一)1章17~21節
  〈小見出し:「聖なる生活をしよう」1章13~25節から抜粋〉
===(聖書参考箇所)===
また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。 (一ペト1:17/赤字引用者)
*****
 同じ「ペトロの手紙一」には、他にも同様の表現がある。
・ イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。 (一ペト1:1/赤字引用者)
・ 愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、
仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。 (一ペト2:11/赤字引用者)
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※6:「さっきの福音書」
この日、2017年4月30日(復活節第3主日)の福音朗読箇所から。
 ルカによる福音24章13~35節
  〈小見出し:「エマオで現れる」24章13~35節〉/以下は参考画像

「エマオへの道」ロバート・ズンド
「エマオへの道」ロバート・ズンド
 
「エマオの晩餐」レンブラント
「エマオの晩餐」レンブラント

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※7:「『最後の晩さんのことを思わせる』っていうようなこと、『聖書と典礼』の解説にも書いてありますけど」
 この日に会衆に配られた『聖書と典礼』には、福音朗読箇所の欄外に、以下のような注釈があった。
===(『聖書と典礼』欄外)===
・ 福音朗読 「パンを裂くと、彼らはイエスだと分かった」
 
イエスが復活した日の夕方の出来事。イエスが聖書を解きあかし、パンを裂くことをとおして、この弟子たちは復活のイエスに出会う。ミサとのつながりを感じさせる箇所であると言えよう。
  ・・・ (『聖書と典礼』〈復活節第3主日A年 2017.4.30〉、p.5、オリエンス宗教研究所/赤字引用者)

・ 24:30 「パンを取り・・・お渡しになった」
 
これは五つのパンを大群衆に分けたときの動作であり、最後の晩さんでもイエスはこの動作を行った(ルカ9:16、22:19)教会は今もこの動作をミサの中で繰り返している
  ・・・ (『聖書と典礼』〈復活節第3主日A年 2017.4.30〉、p.6、オリエンス宗教研究所/赤字引用者)

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2017年4月30日(日) 録音/2017年5月25日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英