黒い羊が来るべきところ

2013年12月29日 聖家族
・ 第1朗読:シラ書(シラ3・2-6、12-14)
・第2朗読:使徒パウロのコロサイの教会への手紙(コロサイ3・12-21)
・福音朗読:マタイによる福音(マタイ2・13-15、19-23)

【晴佐久神父様 説教】

 今年も、最後の主日になりました。
 説教壇で言うことでもないかもしれませんが、この一年、どうもありがとうございました。そんなふうに、お互いにご挨拶するべき、年の瀬の最後の日曜日ということでしょう。
 当たり前ではないですよね。この一年。
 神さまは、こうして私たちを、お望みによって集めて、結び合わせて、この日を迎えさせてくださいました。そうして私たちは、来たるべき2014年をこの仲間で迎えようと、そういう日曜日です。信じ合う心をいっそう新たにして。
 特に神父なんかは、信者との信頼関係が持てなかったら、ホントにな〜んの意味もない、ま〜ったく意味がない存在ですからね。皆さんに信じていただかなかったら、私も皆さんを信じなかったら、一緒に神を信じなかったら、「信頼関係」っていう最高の宝を持てないなら、何の意味もない。
 信者同士も、信じ合わなかったらこの集まり自体の意味はないし、神父なんかはホントに、ここに皆さんがちゃんと信じ合って集まってないなら、神父であるという意味はまったくない。皆さんだったら、教会の他に仕事があったり、家族があったりでしょうけど、神父は教会だけですから。「信頼関係」だけで成り立っている、この現場に奉仕するだけですから。
 そういう思いから言っても、ホントに感謝です。この一年、私たち、信じ合ってやってきましたから。いろいろ大変なこともありましたけども、一つひとつ乗り越えて、「おかげでいっそう信頼関係が強まりました」っていう、そういう恵みを分かち合いましょう。・・・神さまはこの一年、ちゃんと私たちを結んでくださったし、さらに、この聖なる家族を増やしてくださっていますから。

 1週間前、先週の待降節第4主日の日曜日に、教皇さまがホームレスをお迎えになったっていう話をして、福音は「大逆転」だと申し上げました。まさにそのホームレスにとっては、想像もしなかったことが現実になったわけで、「福音を信じれば、私たちのうちに大逆転が起こる。それを信じてやっていこう、今年のクリスマスは、大逆転のクリスマスにしよう、明日23日も大逆転が起きるかもしれない、楽しみだ!」っていう説教をいたしました。
 すると、まさに翌日に「レ・ミゼ君」が現れて、それこそ本人にとっては「大逆転のクリスマス」になりました。『レ・ミゼラブル』がきっかけで教会に来たので、通称「レ・ミぜ君」ですが、これはクリスマスの日の説教を聞いてない人はわからないでしょうから、まあ、あとで「福音の村」で読んでみてください(※1) 
 かいつまんで話すと、先週月曜日の「祈りと聖劇の夕べ」に一人の大学生がやってきて、彼はそれまでホントに苦しい人生を生きてきたけれども、多摩教会に出会って、その日23日から三日間、この教会に泊まって、24日のクリスマスのミサ(※2)と、25日の「心の病で苦しんでいる人のためのクリスマス会」(※3)にも出て、26日にやっと帰ったと思ったら昨日28日のミサにまた来て、また泊まって、そして今、まだ寝てるんです。(笑) 昨日も一緒に食事しながら福音を話しましたけど、もう先週ずっと二人でしゃべりまくってますから、今やすごく仲いいんです。信頼関係が生まれてるんですよ。
 昨日も、「だけど、1週間前は、お互い知らなかったんだねえ」「そうですよね」って話てたわけですけど、ともかく彼はそれまでの口癖は「死にたい」「死にたい」だったんです。それが今は、口をついて出てくるのは「マイロード(My Load)!」だって言うんですね。「わが主よ、わが神よ」「私の主、私の神よ」って、もうその「神さま」「神さま」っていうのが口癖になってる。・・・大逆転!
 「きっと大逆転のクリスマスになる、楽しみだ!」なんて言って、1週間たったらもう、言ったとおりに、福音に救われて大逆転した人が、今は自分の洗礼名を考えてるんですよ。洗礼式ではぜひ、みんなでお祝いしていただきたい。神さまが、ちゃんと結び合わせてくださってるんです。

 神さまが呼んできて、結んで、家族にしてくれる。
 わが教会は、そういうことが普通にあり得る教会だということに、誇りを持っていただきたい。
 で、その秘密は、「信頼関係」なんですよ。互いに信じ合い、初めて来た人を信じられなかったら、「もうこんなとこ来たってしょうがない」って言って、誰も来なくなるんです。
 教会は、信じ合うところです。というか、信じ合うところに教会が成立する。「信じ合う」って理屈じゃない。この世の理屈で、「〇〇だから信じる」なんていうのは、「信じる」うちに入らない。根拠はただ、神のうちにある。「私はあなたを信じます」と、「君を信じるよ」と、「そういう私たちを出会わせてくださった神さまの思いを信じよう」と、一見うまくいかない仲に見えても、自分にとって都合の悪い相手に見えても、「神さまが合わせてくださったんだから信じよう」と、その信仰においてのみ、教会は成立しております。多摩教会は、そういう教会なんだって胸張っていただきたい。

 事実、先週の説教で、ホームレスの話をしましたでしょう。そして、「クリスマスに、ホームレスの方、呼んで来てくださいよ」って話しました。教皇さまだって「呼んで来てください」って言ってんだから、神父も信者に「呼んで来てください」って、まあそう申し上げただけですけど、そうしたら、ホントに声かけた人がいるんですよ。・・・エライですよね〜、そういうのって。私、ホントうれしい。
 多摩センターの駅前の、バスの発着場があるじゃないですか。歩道のテラスが屋根になってる、下の所。あそこにいつもいる方なんだそうですけど、クリスマスの前の日にお見かけして、どうしようかと思ったけど、説教を思い出して、勇気を出して声をかけたそうです。そうしたら、すごく喜んでくれた、と。「おお、その教会なら知ってるよ、川沿いをず〜っと行った所だろ」と。で、「『そうですよ。今度のクリスマス、パーティーもありますから、ぜひ来てください』ってお誘いしたんです」って。顔輝かせて報告してくれました。
 そういう話、好きだな〜。なんかこう、ちょっと単純でね、ちょっと浮世離れしててね、「信じる」っていうことだけで生きてる人たち、キリスト者。声掛けて、その後どうなるかとか、もうそういうことはどうでもいいんです。「信じよう」って思って、声をかけること、そこに教会が成立する。
 声掛けられたその方が実際に来たかどうか、私はわからない。ただ、「クリスマスに、ホームレスの方が来てましたよね」って私に報告してくれた人、いましたよ。キャリーバッグをカラカラ引っ張ってたと。うれしい話です。どんどん呼んだらいいんですよ。先のこと考えても意味がない。ただ信じればいいだけのことなんです。
 そんな話をしてたら、ある教会から来た一人の青年が、「うちの教会で、ホームレスの人が来た途端に、ご婦人方が一斉に、ホールに置きっぱなしだった自分のバッグを取りに行った」っていう話をしてくれて、「それがすごくショックだった」って言ってました。
 まあ、ご婦人方の気持ちは、わかります。「恐れ」ですよね。取られるんじゃないかって思った。でも、そんなこと言うんだったら、みんな怪しいじゃないですか、ホームレスに限らず。普段はなんでホールにバッグを置きっぱなしにできるんですか。信じ合ってるからでしょう。
 信じてるから、私たち、一緒にいるわけでしょう? 初めて来た人とでも、その「信じる」っていうのを始めればいいんです。それがなかったら、もう関係が成り立たないですよ。仮に財布の一つや二つ取られたって、別にいいじゃないですか。「それが何だ!」って話ですよね。たいして入ってないんでしょ?(笑) 「1個取られたら、もう1個どうぞ」っていう説教もありました、つい先日のクリスマスに。でもそれは、現実離れした話でしょうか。
 取られたら、即、警察とかじゃなくて、「何だよ、黙って取ってくなんて、水くさい。家族なんだから、必要ならそう言ってくれよ。もう勝手に取ったりしないでくれよ」って言えばいいだけじゃないですか? そうやって、信頼関係をつくっていけばいい。・・・それでいいんじゃないですかねえ。
 まあ、訪ねてきたホームレス見て、そのような犯罪を思い浮かべてしまうこと自体が、もうすでに何かが終わってるわけで、信じ合う教会っていうのをやってる意味がない話なんですよ。・・・私たちは、ただ信じて、信じて、信じて。

 クリスマスの、その「もう一個どうぞ」っていう説教っていうのは、『レ・ミゼラブル』の話なんですけど、司教さまが「銀の食器だけじゃなく、銀の燭台も持ってけ」っていう話で、「それがキリスト教だ。イエスさまは、『右の頬をたたかれたら、左の頬も出せ』と言った」と(※4)
 そんな話をしたら、これまた一人の青年から、昨日報告をいただきました。
 新宿駅の切符売り場で、ホームレスとおぼしき方から声をかけられて、「品川まで行きたいんだけど、お金がない。200円くれないか」と頼まれた、と。まあ、年末にはそういう方多いんで、これは、そう言っては、みんなからお金をもらっている方なんだろうなと思った。で、こっちもそんなに持ってるわけじゃないし、一瞬どうしようかなと思ったけど、クリスマスの、「右の頬をたたかれたら左の頬も出せ」っていう説教を思い出して、お財布開けてですね、「200円くれ」って言ってるのに、千円札渡したって。・・・いや、もらった方は喜んだでしょうねえ。
 私、その話にも、感動した。「やったね!!」と言って、ベタ褒めしましたよ。だって、「右の頬をたたかれたら、左の頬を出せ」だったら、これ、400円のはず。(笑)・・・でしょう? それを千円っていうことは、さらに、右出して、左出して、(笑)もうひとつ右ですからね。立派なもんですよ。これ、たかが数百円の話じゃないんです。・・・「信じた」んですよ。相手を。出会いを。未来を。・・・信頼関係。
 信頼関係から何かが始まって、私たちは神さまのおつくりになった家族になれる。信頼関係がなかったら、もうそれは、世間一般と一緒。教会っていう意味がないです。

 そうだ、あともう一人。
 クリスマスの直後に交通事故に遭った人がいる。この前、洗礼を受けた女性ですけども、自転車での右直事故ですね、右折してきた車が直進の自転車をひいちゃうっていうやつ。自転車、ぶっ壊れちゃった。で、自分も足の骨を折った。救急車で運ばれた。
 だけど、その病院から教会に電話してきてですね、「お祈りしてくれ」って電話でしたけど、私に言うんですよ。「こんな目に遭っちゃって、ショックだし、すごく悲しいけれど、私をひいた車の運転手さんは逃げずに警察に連絡してくれたし、救急車を呼んでくれたし、誠実に対応してくれた」と。「だから私はその方に『ありがとう』って言えたし、神父さんの説教を思い出して、こんなときに恨んだり怒ったりするんじゃなくて、相手の立場に立って、私だけじゃなく相手もショック受けてるわけだから、その相手の心が傷つかないように、いろいろ気を使ってお話をしたし、相手の保険の手続きのために、すごくこっちもめんどくさいんだけど協力して、丁寧に一生懸命やってます」って。
 「偉いじゃないですか〜」と、これも私、褒めました。
 こっちは何も悪くないのにひどい目に遭ってね、でも、「なんでこんな目にあわすんだ! 謝れ! 責任とれ!」って思いじゃなく、むしろ相手の立場に立って、その相手のために、いろいろと奉仕する。いいですね〜。福音を聞いて、素直に実行する。そうやって、具体的に、ささやかでも、みんなでやってったら、ホントにそこに神の国が美しく現れるんじゃないですか。そんな教会に憧れていいんじゃないですか。そうやって、信じ合って、みんなを受け入れていきましょうよ。

 イエスさまと、ヨセフさまと、マリアさま。「聖家族」と呼ばれてますけど、その基本は「信頼関係」です。これはもう、強〜力(キョ〜リョク)な信頼関係です。
 そもそもが、「知らぬ間に妻が妊娠しました」っていう話ですよね。でも、ヨセフさまは、天使の言葉を「信じて」、妻を「信じて」、受け入れたんですよ。そこから救いの歴史が始まりました。
 マリアもマリアで、ヨセフの愛を「信じて」、神さまのみ言葉を「信じて」、それでこの夫婦は成立しているんです。信じるに値する、な〜んの証拠もない。しかし、神のみ言葉を「信じ」、互いに相手を「信じて」いる。それだけで成立する。・・・そして、その信頼のうちに生まれて来た子どもを、徹底して「信じる」
 この3人の聖家族を成立させているのは、神からいただいた信頼関係、それだけなんですよ。
 ヨセフの夢に天使が現れて、「起きてすぐ逃げなさい」って言ったら、「ヨセフは夜のうちにエジプトに去った」ってあるでしょ(※5)? これ、起きて「すぐに」「夜のうちに」、天使の言葉を信じて出発したんです。つまり、マリアさまも、それを信じたわけですよね。
 「おい、マリア、起きろ」って言っても、マリアが、
 「うるさいわねえ、もう。こんな遅くに何言ってんのよっ。また変な夢でも見たんでしょ。いいかげんにしてちょうだい。私は信じないわよ」って言ったら、・・・イエスさまはヘロデに殺されてるんです。
 「あなたがそう言うんだったら、それを信じます」、そう言って旅に出る。それは、乳飲み子抱えた母親にとっては大変なことですけれども。・・・その信頼関係において、聖家族が成立する。
 教会なんて所は、もうそれだけでやってくしかないんじゃないですか? 「信頼関係」、最高の武器であり、そして最高の宝でもある。

 数日前に電話してきた方、「年が明けたらまいります」って言ってましたけど、自分はすっごい変わり者で、いつもみんなから嫌われたり、疎外されて、仲間はずれにされる。そういう人間なんだ、と言ってました。
 だけど、ある修道院に出会って、そこの朝のミサに通うようになり、信仰に救われ始めたんだそうです。それで、いよいよ洗礼を受けたくなって、勇気を出して近くの教会に行ってみたら、やっぱり「変な人」って思われて、信者たちから嫌がられちゃったみたいです。
 そういうの、わかりますでしょ? 目立つ人、自分たちの常識とは違う人、受け入れがたい人を排除しようとする。人間の社会、みんなそうですよ。悲しいかな、教会にもそういうところがある。
 で、みんながね、「あの人がいると落ち着かない」「私たちの和を乱す」ということで、神父に、「あの人を、受け入れられません。どうにかしてくれ」と言い出した。
 で、神父がその人に言ったんですって。「信者の皆さんが動揺してますので、ここの教会では一緒にやって行けません。来ないでください」と。
 それで、ある人から、そういうことならと紹介されて、多摩教会に電話してきたんですよ。
 あのですね、教会っていう所は、自分たちの平穏無事を願って、いつもの同じ人で気持ちよく過ごす所ではありません。それは、教会ではありません。排除された人を、ただ信じて、信頼関係を持った仲間で迎え入れる所なんです。だから、その「変わった人」、みんなから嫌われて、見捨てられている人を、「聖家族」として迎え入れましょう。・・・これが教会です。
 それはチャレンジですけれども、これができたときに、いっそう「聖家族」になれる。それができないときに、教会の意味もなくなっていく。・・・非常にシンプルな話です。そのチャレンジをしないっていうのは、すごく残念なこと。
 気持ちはわかりますよ、いつもこう、安心できる身内で、穏やか〜な気持ちで、波風立てずにいる平穏無事はいいもんですけれども、ホントの教会は、「聖家族」は、迎え入れるところです。
 私は会ってないから、どんな人かわからない。どこまで「変」なのか、楽しみです。(笑)
 「ぜひ、いらっしゃい!」と申し上げました。助けを求めてきた、その人を、信じたから。ただ彼は非常に傷ついているんで、何とかそれを癒やしたいですね。「来ないでくれ」と言われたとき、神父さんからこう言われたそうです、「白い羊の中に黒い羊が1匹入ってると、いじめられるものです」と。「だから、あなたのためを思って、そういうふうに申し上げるんですよ」って言った。
 私、びっくりして「ホントにそう言ったんですか?」って言ったら、「ホントにそう言われました。とっても傷ついた」って。だから私、彼に申し上げました。私の尊敬している神父さんだったので。
 「わたしは、その神父さまを尊敬しています。あの神父さまがそうおっしゃるんだったら、きっと、神父さまだけがご存じの何か深いわけがあって、そのような判断をなさったんでしょう。私はその判断を信じます。あなたも信じてください。みんなのために、あなたのために、ホントにそれが一番いいことなんでしょう。ただ、私のことも信じていただきたい。私は、あなたを信じます。私は、あなたが変な人であればあるほど、燃えます」と。(笑)
 「そもそも、多摩教会は、全員『黒い羊』ですから。(大笑) み〜んなまっ黒けですからご安心ください。黒い神父、黒い信者。・・・黒い羊が来るべき所です」。
 見捨てられた人を受け入れる。それはイエスのなさったことですし、それこそが、聖なる家族の本質じゃないですか?
 「白い羊」は、イエス・キリストのみ。「その真っ白な小羊の血で、私たちを洗って白くする」って聖書に書いてある(※6)
 主が宿っているところには、汚れも恐れもありません。私たちが、もし本当に信じ合って、新しい一人を迎えるならば、2014年、今年にも増して輝く多摩教会になりますよ。どんな人が来ようとも、現れようとも、「信じて」ください。お願いしますよ。私が、「いや、これだけは無理だ!」って言ったら叱ってください。「神父さん、信じようって言ってたのに、おかしいじゃないか。裏切られた」、そう言ってください。私にも、意地があるからね、開心して、本当の教会を、教皇さまの夢見ている「真の教会」を目指したい。
 もっともっと「家族」になりたいでしょう?
 ・・・今日は、「聖家族」の主日。


【 参照 】

※1「1週間前、・・・福音は『大逆転』だと申し上げました。・・・あとで『福音の村』を読んでみてください」
・ 2013年12月22日(待降節第4主日)説教「大逆転のクリスマス」 参照
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※2:「24日のクリスマスのミサ」
・ 「クリスマス・ミサ(12月24日・25日)<カトリック多摩教会ホームページ>
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※3:「25日の『心の病で苦しんでいる人のためのクリスマス会』」
・ 「心の病で苦しんでいる人のためのクリスマス会<カトリック多摩教会ホームページ>
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※4:「クリスマスの、その『もう一個どうぞ』っていう説教っていうのは・・・」
・ 2013年12月25日<主の降誕(夜半のミサ)>説教「どうぞ何でも盗んでいってください」 参照
・ 「イエスさまは『右の頬をたたかれたら、左の頬も出せ』と言った」
  「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬を持向けなさい」(マタイによる福音書5章39節)  
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※5:「『ヨセフは夜のうちにエジプトに去った』ってあるでしょ?」
・ 「ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、」(マタイによる福音書3章14節)
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※6:「『その真っ白な小羊の血で、私たちを洗って白くする』って、聖書に書いてある。」
・ 「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」(ヨハネの黙示録7章14節)
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2013年12月29日 (日) 録音/2014年1月4日掲載
Copyright(C) 晴佐久昌英