事件はもう解決済み

2015年10月18日年間第29主日
・第1朗読:イザヤの預言(イザヤ53・10-11)
・第2朗読:ヘブライ人への手紙(ヘブライ4・14-16)
・福音朗読:マルコによる福音(マルコ10・35-45)

【晴佐久神父様 説教】

 今、さらりと読みましたけれども(※1)、今の朗読の最後の1行(※2)なんか、もう、キリスト教の究極の神髄を1行で表しているというような本質ですね。心して読まなきゃならないこと。だって、
 「この『身代金』(マルコ10:45)、この私のために払われたんだ・・・!」っていう福音ですから。
 その喜び、それを深く味わわなければならないから。

 「身代金」ってねえ、ちょっと穏やかじゃない言葉が使われてますけれども、もう、そのとおりです。・・・「命の代価」ですね。
 「いったい、自分の身代金はいくらくらいだろう?」って考えてみてください。本来は、いくら払ったって足りないっていうくらい、人は尊いものでしょう?
 ・・・どうなんでしょうね。テロリストがやって来て、晴佐久神父を拉致してですね、教会に、「今日のバザーの売り上げを全部出せ!」と。(笑) ・・・今日、教会バザーの日ですけれども(※3)、そんな要求が来たら、どうします? バザーの売り上げ、今日、いくらくらいになるんでしょうか。4、50万ですか? そんないかない? 全額出していただけますか? たぶん、出していただけるんじゃないかと期待いたしますけれども。
 じゃあ、晴佐久神父を拉致してですね、東京教区に要求が来た、としましょう。
 「3億出せ!」と。
 ・・・出してくれますかね、岡田大司教様。(笑) どうなんだろう。3億出しますかね。
 「あの神父、そこそこ働くけど、まあ、よくて300万だな」(笑)
 ・・・まさかそうは言わないでしょうが、いくらだろう、私の代価。自分に3億の価値があるか、どうか。
 サン・ピエトロ広場で、私、つい先月、教皇さまに一般謁見しましたけど、あそこにテロリストが乱入して、私を捕らえて、教皇フランシスコに、「この一人の神父の身代わりに、お前の命を差し出せ!」と、そう言ったら、教皇、何て言いますかねえ。私、あの教皇さま、「どうぞ」って自らを差し出すような気がする。・・・いや、絶対差し出すでしょうね。そういう人って気がする。
 イエス・キリスト。・・・イエス・キリストは、すでに身代金を払いました。この私のために、自分の命を払ってくださいました。解決済みなんです。こんな私のために、もうすでに、やってくれてるんです。全額払いました。だから私、解放されてるんです。「バンザイ!!」って話なんですよ。
 キリスト教は、喜びの宗教です。福音を聴いて、「この私は、神の愛によって、もうすでに罪の闇から解き放たれた。もちろんいまだに罪深いんだけれども、相変わらずだめな人間ではあるんだけれども、神は赦してくださっている。神はそれを、イエス・キリストにおいて私たちに示してくださった。イエス・キリストの十字架と、その十字架を復活の栄光に変えた神さまのみわざにおいて、この私はもうすでに永遠の滅びから解放された! よかったねえ・・・」っていう、喜びの教えです。
 私たちは、もうすでに、救われております。
 こんなうれしい話、ないじゃないですか。そのことを、教会は、すべての人に告げ知らせます。

 この最後の1行に、「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(マルコ10:45)と、イエスさまのことが書かれていますけれども、「多くの人」っていう言い方は、日本語だと、まあ、「少しの人は、それに当たらない」っていうニュアンスに読めちゃいますけれど、本来の、ユダヤ的な言い回しでの「多くの人」は、これはもう、「すべての人」です。「数えきれないほどの大群衆」みたいな、多さの極みを語っているんであって、ニュアンスとしては「もれなく」です。「すべての人」って翻訳しても構わないところですけれども、直訳的には、「多くの人」。
 ちょうど、第1朗読(※4)でしたか、イザヤの預言の最後の1行もそうでしたね。預言者はイエスさまのことを預言して、こう言っております。
 「わたしの(しもべ)は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った」(イザヤ53:11)
 この「多くの人」も同じですね。二元論を超えた、「すべての人」です。
 ・・・つまり、「あなた」です。
 つまり、「わたし」です。
 その罪が赦され、正しい者とされるために、神さまご自身が、イエスを通して、私たちの罪を自ら負って、ないものにしてくれた。・・・なんて優しい話! なんてありがたい話!!
 「ああ、ホントによかった。もう、そんなことをしていただけたんだから、ホントに神さまにふさわしい感謝と賛美を捧げ、神さまの恵みにふさわしい生き方をしよう!」って、心から思うじゃないですか。

 私いつか、姉を殺した夢を見た話をしましたけど(※5)、忘れられないんですよね。・・・姉を殺したんです。で、その姉が今、そこで聴いてますから、(笑) 「すいません;」って感じですけど。ブルーシートにくるんでね、階段の下みたいな所に、こう、ずるずると引っ張ってって。・・・で、そのときに、ものすごく後悔したんですよ。
 「ああ、なんてことしちゃったんだろう! 日本の警察は、ぜったい俺を捕まえるに違いない。そして刑務所に入る。偉そうに、神父として立派なことをしゃべってきたけれども、『なんだ、あいつ、人殺しか』と言われる。これまでの実績とか、人としての名誉はすべて消し去られて、あとは刑務所で暮らすしかない、もしかしたら死刑。ああ、もう取り返しがつかない。なんてことしたんだろう・・・!!」
 あの後悔、・・・こんなことしなければよかった、というすごい後悔の気持ち、はっきりと覚えてます。だから、ハッと目覚めたときに、「あっ、夢だった! よかった! ぼくは姉を殺してなかった! もう、二度と姉を殺しませんっ!!」と、(笑)そう思った。あの安心感は、いっそうはっきり覚えてます。ホントにホッとしたというか。でもこれ、本来そんなことしてないのに、夢の中で、そうしちゃったって思い込んで苦しんでたってことですよね。
 ・・・実は、この「思い込んで苦しんでいる」っていうのが、罪の本質なんですよ。
 本来、神さまがお造りになった世界には罪なんかなかったのに、人の中に、「罪」というものが入り込んで、人々を、「お前は罪びとだ!」と、悪の力は思わせたんですね。もちろん、これは罪の定義にもよりますけど、この世的に言って、我々は大変罪深い存在ではありますけれども、「本質は」罪がないんです、私たち。
 最初の罪の話がそうでしょう。アダムだって、約束破って、木の実食べちゃったけど(cf.創世記3:6)、あれたぶん、「食べちゃったぁ〜。ごめんなさ〜い!」って神さまに謝れば、「まったく、しょうがないなあ・・・」で済んだんじゃないかな。
 ところが、アダムは、「神は赦してくれないだろう」って思い込んだ。まあ、(へび)がそう思わせたのかもしれない。実は、赦してくれないって思うことの方が、よっぽど罪なのに。
 それで、アダムは、「自分は罪を犯した」「神は怒って赦してくれないだろう」と、自分を責めて、神を恐れて()()に隠れた(cf.創世記3:8〜10)っていう、そこから「罪」が始まってる。もともと裸だってのに、自分は裸だということを罪だと感じてしまう、「罪意識」ってやつですね。
 そもそもは、絶対に赦してくれる神っていう「善」だけだったのが、赦すことも赦さないこともある神だと思い込んじゃった。すなわち「善悪」にとらわれるようになってしまった。
 このように、自分は罪びとだと思い込んで決めつけて、自分を責め始める。しまいに相手も責めはじめる。・・・人類がとらわれている罪の闇って、そういうところがありますね。神さまにしてみたら、み〜んな、ホントにかわいい、いい子なのに、神の子の方で勝手に思い込んで、苦しんでいる。
 だから、イエス・キリストが来られて、「神は正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる方だ」 (cf.マタイ5:45)って教えてくれたんです。「神は、すべての人をわが子として愛している。確かに、みんな、しょうもない子ではあるけれども、だからといって、愛さないわけじゃない。むしろ、しょうもない子ほど、可愛がってくれる。あなたは今、もう、神に愛されているんだ」と。
 イエスは、それをなんとか伝え、分かってもらいたいという必死な思いで生きていたし、それを表すこれ以上できないという最高のわざが、イエス・キリストの十字架なんです。
 ・・・あれは、「あなたは赦されている」というしるしです。
 もはや、救い主によって、私たちは罪の闇から解き放たれて、
 私の本質は善なんだ、
 私は神さまから愛されるに値する存在なんだ、
 神さまからいただいている永遠の命に目覚め、神さまのみもとに生まれる日も近い、
 こんな希望を持つことができるようになった。・・・これを「救い」といいます。
 それこそ、悪い夢から覚めて、「ああ、自分は滅ぼされるような罪人じゃなかったんだ!」って、本来そうじゃなかったんだって気づく瞬間の、救いの喜び。
 「私はもう救われている」ことに目覚めて信じることで、この世でその救いを味わえる。ありがたい話ですよ。
 このキリスト教の本質、その喜びを、みんなに伝えたいなと思う。

 先々週の入門講座に来た方ですけど、「ず〜っと教会に来たかったけれど、自分のような人間は行っちゃいけないと思ってた」って、みんなの前で言いましたよ。
 「こんな私はふさわしくないんじゃないか。クリスチャンは、みんな正しくて立派な人に見える。私なんかは、とてもふさわしくない。もう少し立派になって、もう少し正しい人になったら教会に行こうと、そう思っていた。でも、最近、だんだん年を取ってくると、もう死ぬまでに間に合わないんじゃないかと思った」って。(笑) 面白い言い方ですね。
 もう人生も、残り少ない。正しい人になるの待ってたら、これ、一生教会に行けないまま終わっちゃう。で、恐る恐る来てみたら、神父がね、それを聞いて、こう言ったんです。・・・私ですけど。
 「今この部屋に、入門係をはじめ、いろんな人がいっぱいいるけれども、今、この部屋の中にいる人間の中で、あなたが一番いい人です。(笑) 見てください、みんな悪そうな人たちでしょう?(笑)教会は、悪い人たちの集まりですから、安心して来てくださいね」と。
 実際に、悪い人たちが集まってます。でも、そんな私たちに、神は言います、「わたしはお前を罪に定めない。お前は本当にいい子なんだ。だいじょうぶだ。わたしは愛している。あなたを必ず救う。罪を抱えている、その思いは、苦しいだろう? わたしの赦しを信じなさい」と。それを信じた人たちが、教会に集まっている。
 主イエス・キリストの十字架による救い、そして主の復活によって開かれた喜びの世界は、このような救いの世界。これはもう、みんなに伝えないと。

 昨日の、私のラジオ放送、聴きました?
 FEBC(※6)というキリスト教のラジオ局です。今日もこの説教を録音しておりますけれども(※7)、FEBCのラジオ放送で、特別番組を、昨日の夜10時から放送しました(※8)。私と、パーソナリティーの方の、まあ、「対談」なんですけれども、「対談」といっても、私だけがひたすらしゃべりまくっちゃったっていう、そういう番組ですが、三十数分に編集されたものが放送されました。され・・・ましたよね、聴きました?
 聴いた方、おられます? ・・・ああ、ありがとうございます。もしかして、「あれを昨日聞いたから、今日、ここに来た」っていう方、います? ・・・そんな方はいませんか。・・・ああ、いました。ありがとうございます。そういう方もおられる。うれしいですねえ。
 「あなたと出会い、主イエスと出会う-晴佐久昌英神父・吉崎恵子特別対談-」っていうタイトルで、話のテーマは、「あなたはもう救われている!」っていう内容なんですよ。
 「あなたはもう救われている」、これは、どうしてもみんなに伝えたかった。だからラジオ放送で、昨日の特別番組、これは、とてもよかったと思います。もっとも、私は聴いてないんで、・・・っていうか、コワくて聴けない。(笑) ホントにそこがちゃんと伝えられていたかどうか、あまり自信がないタイプなんで、コワくて聴きませんでしたけれども、それでも、覚えてますよ。
 スタジオで、十字を切って祈って、
 「聖霊、来てください。これを聴く人に、『あなたは本当に愛されてるんだ。もう救われてるんだ』という福音が届きますように!」
 ・・・そんな思いで語ったのは、よく覚えている。細かい内容はもう、収録が数カ月前で忘れちゃいましたけど、でも、きっと昨日の夜も、暗闇の中で自分を責めている人、罪意識に苦しんでいる人に、そんな福音がひと言でも届いて、そしてそこに希望が生まれるなら、やっぱりそれは、聖霊の働きだと思う。
 「あなたは、もう救われている!」
 この福音を知らずに苦しんでいる人が多いっていうことを思うと、もう少し、今の教会が、
 「イエス・キリストの十字架によって、すべての人がもう救われてるんだ!」、
 これを真剣に伝える努力を、も〜う少し、していいんじゃないかと思いますよ。

 先週、永山駅の近くに大きな病院がありますけれども、そこをお訪ねしました。
 妹さんが、「兄のところにぜひ行ってあげてください」って言うんですよ。お兄さまは信者じゃない。本人は、自分は無神論者だと言っている。でも、重い病気で、つらい様子で、妹さんは、「ぜひ救いのことばを」と。
 私、「本人は、私の訪問を望んでるんですか?」って聞いたら、「いや、病気になって苦しむようになってから、『神父来てくれ』じゃ、虫がよすぎる」とおっしゃったとか。まあ、そういう誇り高い方なんですね。それで、どうしようかなあ・・・と思ったんですけど、ふっと、近くを通りかかったときに、寄ってみようと思って、寄りました。
 するとですね、暗〜い一人部屋で、カーテンを閉め切って横になっていて、私が、「妹さんから頼まれてまいりました。近くの教会の神父です」って言いましたら、「今日は気分が悪いので、お話しできません」と、そう言われた。それで、すいません・・・って気持ちになって、「じゃあ、お祈りしてますね。失礼しました」って言って、帰ってまいりました。・・・でも、そのときの暗い部屋の様子を、私、忘れられない。この人に、どうやったら福音を告げられるか。考えさせられた。
 ところが、ほんの数日たったら、本人から電話がきて、「神父さん、お話が聞きたいので、来てください」って言うんですよ。
 「ただ、二つお願いがある。一つは、私の質問に答えてほしい。もう一つは、それをビデオで撮らせてほしい」
 私、ビックリしました。その真剣さに感動もしました。精いっぱい生きてきて、つらい病気になり、今、一番の試練の中にある時に、神父の話を真剣に聞きたいって言ってるんです。自分は本当のことを知りたい。だから、本当のことを語ってくれ。神がおられるなら、その神の本当のところを知りたいという、その思いは、すごくよく分かりますし、まあ、一世一代の勝負ですよね。しかも、そこをきっちり、ビデオカメラで撮りたいっていうんだから、これは、本気でしょう。
 私はもう、「望むところです!」という感じで出かけました。お部屋に入ったら、奥さまが三脚立てて、ビデオカメラで撮ってるんです。そして、彼は聞きました。
 「神父さん、お答えください。この私の苦しみに、何の意味があるんですか?」
 ・・・そう聞かれました。
 私、うれしかったです。「その質問を待っていた!」と、「それに答えたいんだ!」と、もう、そう思いましたから。
 向こうも真剣勝負です。抜く寸前の刀を、片手でパチンと鳴らしてね、命がけでこっちに向かってくるような質問ですね。
 「神がホントにおられるなら、この苦しみは何なんだ?」と。
 「死を前にしたこの人生に、何の意味があるんだ?」と、そういうことでしょう。
 私も当然、パチンと刀を鳴らして、真剣勝負です。・・・まあ、ただ、その方がご存じなかったのは、この私が、その剣の達人だっていうことなんですね。(笑) 今まで、この真剣勝負をどれだけやってきたことか。やっぱり、命がけの真剣勝負って、美しい真剣勝負ですよ。
 私の最初の一太刀、真剣にお相手した一太刀は、こういう言葉です。
 「今、私が語っているこの言葉は、神さまの言葉です。あなたを生んだのも神。あなたを生かしてきたのも神。あなたを、この試練を超えて、永遠なる喜びの世界に招いているのも神。あなたを今ここで愛しているその神が、今日、私をここに連れてきて、あなたに、『本当にお前を愛しているよ』と、『お前は永遠の命に生まれていくんだよ』と、それをなんとか伝えようとしています。
 あなたが、神を信じていようと信じていまいと、そんなことは一切関係ない。私は、あなたに、あなたを愛している神の言葉を語るためにまいりました」
 そうお話しいたしました。そこから先、十数分ですかねえ。本人は、「体調が悪いので、お返事は15分以内でお願いしたい」っておっしゃるんで、短い時間ですけれど、精いっぱいお話ししました。・・・キリスト教の本質を。
 「あなたはもう、すでに救われてるんだ」っていうこと。
 「神に愛されている」っていうこと。
 「永遠の命が約束されている」っていうこと。
 「今、こうして私と出会っている、この『今、ここ』こそが、救いの現場だ」ということ。
 それを教え、それを与えてくださった「イエス・キリスト」っていう方が、ホントにどれほど尊い方かっていうことを、私、お話ししながら、つくづくと感じました。これは、イエスのみわざだ、と。この人は、今日、救いに目覚めてくれた、と。だって、イエス・キリストが話してるんですもん。私がしゃべってるんじゃない。
 主が、今、この人に触れてるんだなと思うと、すごくうれしかったし、もう、ああいうのは内容じゃないですね。ホントに信じて、その方と向かい合って語って、
 「自分は望まれて生まれてきたんだ」
 「愛されて生きてきたんだ」
 「今、単に死んでくんじゃない。これからホントに生まれてくんだ」
 そういう福音、神の言葉は、その人の心の奥に、ほんのかけらでも宿ったならば、もうそれは、だれも止めることができずに、どんどんと膨らんでいきます。
 彼は言ってくれました。
 「神父さまの教会は、どこにありますか?」と。
 ですから、病院の下の永山橋から、下流に二つ目の橋のたもとにありますと答えたら、
 「ああ、それなら分かりやすい。永山橋のたもとの飲み屋によく通ってました。(笑) その二つ下の橋の角の教会、・・・退院したら、参ります」と、そうおっしゃってくださいましたよ。
 ・・・皆さん、この人は、「救いを求めているところに神父がやって来て、『救いを与えられた』」ってことじゃないですね。「自分はもう救われていることを知らない人のところに神父がやって来て、自分がもう『救われていることに目覚め始めた』」んですよ。

 イエスさまは、すでに、私たち「すべての人を」、救ってくださいました。
 「人類、罪にとらわれて苦しんでる事件」は、もう解決済みなんです。主は、「身代金」を払ってくださいました。
 ・・・感謝の祭儀を捧げましょう。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)

※1:「さらりと読みましたけれども」
本日(2015年10月18日〈年間第29主日〉の福音朗読箇所)
 マルコによる福音書10章35〜45節。(または10章42〜45節)
  〈小見出し:「ヤコブとヨハネの願い」10章35〜45節〉
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※2:「今の朗読の最後の1行」
(該当箇所)
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を(ささ)げるために来たのである」(マルコ10:45)
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※3:「今日、教会バザーの日ですけれども」
 この日、カトリック多摩教会では、年に一度のバザーの日に当たっていた。
 スローガンは、「ひとつになって 楽しもう!」。
 開催のお知らせを、カトリック新聞に掲載していただいたり、信徒が近隣にチラシを配布したり、ホームページやブログで宣伝したりした成果もあってか、当日は多くの方々が来場してくださった。
 晴佐久神父とのおしゃべり会、聖堂案内、信徒手作りの数々の食べものをはじめ、雑貨などの手作り品の売り場、掘り出し物が期待できる既製品売り場、ビンゴ会場などなど、あちこちに笑顔があふれた。
 おかげで、教会内外、「ひとつになって」「楽しむ」ことのできるバザーとなり、感謝。

舞台裏ですかわいらしいPOP♪
掘り出し物もいっぱい☆見るも選ぶも楽しいひと時♪「神父さんとのおしゃべり会」で。ビンゴは、大人にも子どもにも大人気♪

                 (画像はクリックで拡大表示)
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※4:「第1朗読」
本日(2015年10月18日〈年間第29主日〉の第1朗読箇所)
 イザヤ書53章10〜11節
  〈小見出し:「主の僕の苦難と死」52章13節〜53章12節から抜粋〉
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※5:「私いつか、姉を殺した夢を見た話をしましたけど」
(参考)
・ 「悪い夢からパッと目覚めたら」(「福音の村」2012年12月2日説教)
  >>> 説教の上から3段落目をお読みください。
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※6:「FEBC」既出
◎FEBC(
Far East Broadcasting Company)
 「イエス・キリストとはどのようなお方なのか」ということを伝えるための、キリスト教放送局。2014年、放送開始60周年を迎えた。(>>>「FEBCについて」)
 カトリック、プロテスタントの枠を超え、番組は、礼拝、聖書の話、信仰入門講座、祈りや黙想、対談などいろいろで、それぞれの教派から、神父や牧師、シスターや信徒など、いろいろな方が出演している。
 ラジオ放送は、AM1566kHzで、夜9時半から10時45分まで毎日放送(>>>「AM1566FEBラジオ」)。また、スマートフォンからでも、パソコンからでも、聴くことができる。(>>>「聴き方ガイド」)
 晴佐久神父は、過去に、FEBC主催の講演のほか、「あなたに話したい」という番組名で、2006年4月3日から9月25日まで、また、「あなたは救われた」という番組名で、2013年2月2日から9月30日まで、ミサ中の説教が録音され、番組の長さに合わせて編集したうえ、放送されている。
(参考)
・ 「FEBC Online (キリスト教放送局 日本FEBC)」(ホームページ)
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※7:「今日もこの説教を録音しておりますけれども」
 晴佐久神父の説教が、FEBCで放送されることが決まり、今年(2015年)の7月から、録音が始まった。放送は、来年春以降の予定。
(参考)
・ 「全国の皆さん、お待たせしました」(「福音の村」2015年7月5日説教)
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※8:「昨日の夜10時から放送しました」
 番組名: <FEBC特別番組>「あなたと出会い、主イエスと出会う-晴佐久昌英神父・吉崎恵子特別対談-
 放送日: 2015年10月17日(土)夜10時2分より36分間
―――――――
【お知らせ】
 インターネット(パソコン・スマートフォン共通版)で聴くことができます。
 ぜひお聴きください!(
聴取期限:11月13日<金>
>>> <FEBC特別番組>「あなたと出会い、主イエスと出会う-晴佐久昌英神父・吉崎恵子特別対談-」(FEBC Online
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2015年10月18日 (日) 録音/2015年10月23日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英