何を語るかではない、なぜ語るかだ

2015年11月29日 待降節第1主日
・第1朗読:エレミヤの預言(エレミヤ33・14-16)
・第2朗読:使徒パウロのテサロニケの教会への手紙(一テサロニケ3・12-4・2)
・福音朗読:ルカによる福音(ルカ21・25-28、34-36)

【晴佐久神父様 説教】

 今日のこの説教を何の話題から始めるか、 もう分かっている人は、晴佐久説教通ですね。
 ・・・当然、羽生結弦(はにゅうゆづる)の話をしたいんです。(笑)
 まあ、今まで何度も語ってきたので、もう彼の話題を持ち出すのはくどい(・ ・ ・)からやめようと思っておりましたが、昨日のあの300点超えを見ちゃうと(※1)、これに触れずにはいられない。一ファンとして、フィギュアスケートをず〜っと見てきた者として、あんなフリーの演技を生きてる間に見ることができたっていう幸いを、共有してほしいんです。(笑) 感動を押し付けたいわけじゃないですけど、ホントに感動した。鳥肌どころか、なんかこう、全身がヤマアラシかなんかみたいにバーッとなってね。もう、興奮しました。すごかったですよね〜。
 彼の語録にあるんですけどね、
 「自分にとって、勝つとか負けるとかは大きな目的じゃない。自分がより高みに行けるのかどうか、それが一番重要なんだ」
 って、そんなようなこと言ってるんですよ。そこはもう、意地っ張りですしね。この自分が、もう一歩先に行けるか、もう一段高みにのぼれるか、もっと美しく自分の秘められた可能性を花開かせることができるのか、と。生きてる間にね。それこそ、神さまからいただいたこの人生の中で、いただいた力を眠らせたままにしてるんじゃなく、自分に与えられた美しさを開花させ、より高みを目指そうっていう、その思い、 ぼくは、それに心を打たれる。
 そうして常に高みを目指しつつ、ひとつ、またひとつと結果を出していく。その裏には驚くべき努力というか、意地というか、 まあ、数々の試練が、あるわけですけど。なんか、直前練習中にほかの選手とぶつかって、けがして倒れて、血を流しながら本番滑ってたこともありましたよね(※2)
 まあ、自らを「絶対王者」とまで言ってる(※3)あいつに、しかし、私は負けないぞ、と。(笑) あんな若い子を相手にですね、この老骨にむち打つのもどうかと思うかもしれませんが。・・・負けたくないですねえ。私も意地っ張りですし。常に高みがあるはずだと、そう信じて。

 じゃあ、それで言うなら、たとえばひとりのキリスト者として、「この私の高みって、何だろう?」って思うわけですよ。・・・「私の高み」。
 まあ、一キリスト者としてですね、「あなたの高みとは?」と言われたら、これはもう、
 人を救うことでしょう。
 福音を伝えることでしょう。
 よき知らせを美しく宣言することでしょう。
 素晴らしいフィギュアスケートの演技も人を感動させて、力づけますけれど、キリストの福音はその一桁上、二桁上の力と美しさ、そして、多くの人を救うという最高の価値を持ってるから。
 フィギュアスケートじゃないですけど、司祭の説教なんていうのは、まさにフリーの演技ですからね、もう、好き勝手に精いっぱいしゃべります。でもそれにもやっぱり、高みがある。その高みを目指して、もう一歩上の美しい福音を、もっと分かりやすい救いの知らせを、もっとみんなの試練の現実にちゃんと希望を与える、そういう実際の実りのある説教をしたいと、やっぱり、そう思いますねえ。そのために、努力もしますし、人前できちんと福音を宣言するためにも、日ごろからさまざまな恐れや困難を、負けずに乗り越えていく。 これはでも、司祭の務めではなく、キリスト者の務めなんですよね、本来。
 私の大好きな、イザヤの預言の中の言葉ですけれど、
 「なんと美しいことか。よい知らせを伝える者の足は」(cf.イザヤ52:7)(※4)
 そういう一節があるんです。
 結弦くんの手足も長くてきれいですけれど、福音を告げる者の足は美しいと。「なんと美しいことか。山々を行き巡り、よい知らせを伝える者の足は」・・・いい言葉ですよね。それに続けて、
 「彼は平和を告げ、恵みのよい知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる」(cf.イザヤ52:7)
 ・・・旧約聖書のイザヤの預言ですけれど、「彼は平和を告げ、恵みのよい知らせを伝え、救いを告げる」っていう、それは、イエス・キリストにおいて完全に実現するんですね。で、われわれは、もう新約の時代を生きていますから、このイエス・キリストを伝えれば、この「よい知らせ」を伝えることになる。・・・これは幸いな仕事です。美しい高みです。キリスト者の、・・・何でしょう、・・・誇り? 誉れ? 特権? 皆さんにも、必ずできることです。
 私は幸い、「説教」なんていう場が与えられていて、好きなだけ福音を語れる。これ、本当に幸いなことです。こうしてみんな、一生懸命聴いてくれる。でも、そんな皆さんも、「説教」とはいわないまでも、いや、説教なんかより、もっとリラックスした現場で、説教よりもっと身近な言葉で、目の前のひとりの人に、この「よい知らせ」を伝えることができるんです。必ずできます。
 まずは、モチベーションが大事なんですよね。 伝えることができるっていうこと、それが素晴らしいっていうことを信じて、それをしたいって願う。しかも、常にもっと高みを目指し続ける。ともかく、救いを目指している目の前のひとりを救えるんだから、チャレンジしよう、と。

 先週、3教会合同のミサがありまして(※5)、3人の主任司祭が一緒にミサをしました。大勢集まってましたよ、調布教会に。で、ミサの前に確認すると、私が説教だっていうんですよ。「えっ? 私でしたっけ?」って戸惑ってたら、「そう決めたはずだ」と言われましたけど、そのとき私が、「ああ、よかった〜♪」って喜んでたら、驚かれたんですよね、「そう言えるのは、いいねえ」って。
 私、正直言って人前に立つのは苦手ですけれども、当然のことながら「福音を語りたい」ってモチベーションはあります。じゃなきゃ司祭になるはずもない。だから、「説教」とかってのも、実は「やらせて、やらせて!」って感じなんですよ。人の説教を聴きながらでも、(オレならこう言うな・・・)とか、(笑) 内心ひそかに思ってますからねえ。
 だけど、あまりそうでないことも多いらしく、「信じられない」って言われますよ、「説教したい」って言うと。でもね、したくない説教を聴かされる身にもなってほしい。(笑) 話す方が、しぶしぶ語っている、つらい思いをして語っている、そんな説教を聴いてたら、 聴いてる方もつらくなっちゃうじゃないですか。他のスピーチなんかとは違って、こればっかりは、語りたい人が語らなくっちゃ。
 ・・・なぜなら、「説教においてはモチベーションがすべて」だから。

 先週、大阪で伝道集会っていうのがありました(※6)。これはプロテスタントの、日本基督教団大阪教区の伝道集会です。最近は、プロテスタントから呼ばれることが多くて、結構評判で、今回の伝道集会にも大勢集まってました。牧師先生も多かった。
 で、伝道集会っていうことですから、まあ、「福音を語る」とか、「救いを宣言する」とか、そういうことが、やっぱりテーマなわけでしょ。で、牧師先生も大勢いるわけですから、私、福音を宣言する秘訣(ひけつ)をね、お話ししたんです。「敵に塩を送る」じゃないですけど、・・・あっ、プロテスタントは「敵」じゃないですよ。今の、割愛、割愛。 (^┰^;)ゞ(笑) ・・・まあ、「仲間に塩を送る」ってことで、(笑) 秘訣を教えちゃいました。
 これは、私がいつも大切にしている、自分なりの言い方ですけれど、
 「説教は、何を語るかじゃない。なぜ語るかだ」
 これだけは、私、大事にしてきました。
 「何を語るか」なんて、中味は別に、「羽生結弦」でも「宇宙の神秘」でも、何でもいいんですよ。それらを通して、福音を語ってるわけだから。だから「何を」って言ったって、そんなの「福音」に決まってるんであって、福音じゃなきゃ説教ですらないわけですし、それはどうでもいいんです。
 大事なのは、「なぜ(・ ・)語るか」です。
 なぜ(・ ・)、私はここに立って、皆さんに、こんな貴重な時間をいただいて、粗末な口を開いているのかといえば、それは、福音を告げたいからです。イエス・キリストがそうしたいからです。そのイエスの思いとひとつになって、イエスさまにこの口をお貸ししている。これが私の動機です。
 これがなければ、何語っても「福音」にならない。逆に言えば、これさえあれば、「中身」は必ず、伝わる。たとえ何の話をしてたって、伝わる。・・・聞く人は実は、語る人の中身じゃなくて、その動機に反応してるんです。
 どんなに立派に、正しいことを語ってても、その言葉がホントに目の前のこの人を救う神のみ言葉だと信じて語ってなければ、伝わりません。
 逆に、こんな私でも勇気を持ってきちんと福音を宣言すれば、目の前のこの人の恐れが打ち砕かれるんだという、その信念さえあるなら、「だから私は口を開くんだ」という動機さえあるなら、 皆さん、ホントに、いくらでも人を救えます。この世界が神の国に変わっていきます。 それには資格も何もいらない。求道者でもいい。
 ・・・これが、真実です。

 イエスさまが、今日の待降節第1主日、カトリックの暦でいえば「新年」に(※7)、はっきりと福音書の中で、私たちに語ってくれたこと(※8)、これ、一読すると、何だか、「天体が揺り動かされる」(ルカ21:26)だとか、怖いことがいっぱい書いてあるように思うかもしれないけども、イエスさまは、この「怖いこと」をずらずらとぜんぶ並べて、何を言いたいのか。このルカの21章でいえば、その前のところに、戦争の話、災害の話、迫害の話、まあ、怖い話がずらずらと出てきて、しまいには「天体が揺り動かされる」ですからね。だから、この世における恐ろしいことをぜんぶ並べたうえで、イエスさまは、こう宣言するんです。
 「しかし、こういうことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。もうすぐ、真に解放される」(cf.ルカ21:28)
 これは、それこそ、恐ろしいことがたくさん起きている、この現代社会の現実から解放されるときがもう来ているってことです。人間の苦しみ、人間の弱さ、テロで殺し合うような、人間の罪にとらわれている現実から、ホントに解放される、そのときが、もう近い。いや、もう来てるんだ、と。
 イエスさまの宣言です。ありとあらゆる恐ろしいことを並べたうえで、しかしそんなものは、物の数ではない。むしろ、そういう恐ろしいことが起こったら、「身を起こして頭を上げろ」と。
 ・・・ぼくはもう、その宣言を信じます。それだけを。
 これは、なんかちょっとこう、「病気が治りますように」とか、「平和に暮らせますように」とかっていうレベルの話じゃないんです。たとえどれほど悪いことがあって、もう絶望的状況だとしても、そんな中でこそ、主が、宇宙の支配者である王が、「身を起こして頭を上げろ」って、そう言った。ぼくは、その言葉を信じようって思うし、その信仰をモチベーションとして、みんなにも「そう信じましょう」ってね、語りかけます。

 「量子もつれ」って知っていますか?
 ・・・知ってる人はすごいですよ。量子力学を知っている人。先月、オランダのデルフト工科大学で実験があって、とてつもない成果があったんですよ。
 「量子もつれ」っていうの、私も何となくは聞いてたけど、よく知らなかった。でも、今回ちょっと調べてみて、すこ〜し分かってきました。
 素粒子が、もつれた状態になるんですって。粒子同士が。もつれた状態っていうのは、二つの粒子が互いに関わってる状況なんですね、双子みたいに。で、ほら、双子って、離れていても、片方がおなか痛くなったら、もう片方がおなか痛くなったりとかって、不思議なつながりがあるみたいに、よく言われるでしょ。離れてても、何かが(・ ・ ・)つながってるって。
 で、その「何か」が、この「量子もつれ」の状態にある二粒の粒子の間にあるんですね。
 ・・・なんだかよく分からないけれど、ともかく互いに「もつれて」関わってるんです。で、実際、片方の状態が平衡状態になるのかな、ともかく変化すると、もう片方も必ず同じ状態になる。・・・つまり、双子の間みたいに、何らかの形で情報が伝わってるんです。不思議な現象です。
 でね、問題は、この伝わっているってのが、「伝わっている」どころか、「同時」だっていうんですよ。片方の量子がそういう状態になると、もう片方も、全く同時に、そういう状態になる。同時なんです。だから、確実に何かがつながってるんですけど、それが伝わるのが「同時」だってことは、情報が光の速度より速く伝わってるわけですよね。しかも、同時なんだから、それが何光年離れてても、そうなんだっていうんですよ。
 「光より速いものはない」って、アインシュタインが相対性理論を打ち立てましたけれども、そのアインシュタインは、この現象を、幽霊現象として、すごく嫌ったんです。「そんなことがあるはずはない」と。で、実際には、そのことは実験でも、なかなか分からなかった。
 でも今回、もつれにある粒子を、二粒のダイヤモンドに一粒ずつ入れて、1.3キロ離れた所で観測して、その変化がまったく同時だっていうことが、証明された。つまり、情報が光の速度よりも速く伝わって、双方が瞬時に変わるってことです。何千光年離れていようとも。
 ・・・宇宙って不思議ですね

 私、このニュースを聞いたときに、実はものすごく励まされた。というのは、そのことでひとつ、思い出したこともあって。
 26歳のときに、本当に真っ暗闇の、闇の体験をしました。それはもう、地獄だった。完全な闇でした。どんどん、どんどん落ちていって、そして、(ああ、もう、これを「地獄」というんだ・・・)と。すべてから離れていて、完全に何の意味もない孤独。・・・宇宙の真ん中に、ベッドが浮いているような体験だった。
 そのときね、自分もカトリック信者だし、もう神学生でしたから、「本気で祈るしかない・・・!」と、まあ、そうせざるを得ない状況になって、もう、
 「神さまぁ―――――っ!」
 みたいにね、叫んだ瞬間がある。そのときに、ビッグバンみたいに、
 「わたしはある(・ ・)
 っていう、神の実在を感じたんですけど、そのときの実感に、これがあったんです。「これ」っていうのは、「今ここに」生きている私と、宇宙の一番端の星が、「つながってる」っていう感覚だった。
本来なら、宇宙の一番端は137億光年先だから、今見てる星は137億年前の星ですし、光の速度で137億年かけた先の星と、ようやく今の自分の思いがつながってるはずなんだけど、そうではなくて、私の存在は、全宇宙と、「今、同時に」「瞬時につながってる」っていう、充足した実感。・・・これはもう、時間とか空間とか、超えてるんです。
 いうなれば、「神の愛」ってイエスが呼んだ、「慈しみ」と呼んだ、「神のみ心」と呼んだ、・・・なんかそういう、全存在を満たしてる、時空を超えた聖なる働きに、ひとりの人間の小さな魂が純粋に反応した瞬間じゃないですかね。
 この全存在は、神さまのみ心に満たされています。・・・「すべての存在が」です。
 どんな災害も、どんな迫害も、どんな病も、・・・死ですら、すべて、同時なる神さまのみ心の働きのうちにある。それに心を開いて、主と共に常に神の救いに目覚めて、いつもまっすぐに反応しているとき、私の中に、真の平和がある。
 「身を起こして頭を上げろ」(cf.ルカ21:28) 「これらのことから逃れて、人の子の前に立て」(cf.ルカ21: 36)ってイエスさまが言う、そのような宣言をするモチベーションはもう、この世に支配されているものではない。先週の言葉で言うなら(※9)、「この世には属していない」っていう、それでしょう。
 この世の動機では、福音は宣言できません。

 新しい年、待降節が始まりました。主を迎える準備をいたします。
 しかし、試練はなおも続く。でも、あなたがたキリスト者は、その試練を見たら、「身を起こして頭を上げ」ましょう。そして、同じように試練を味わっている人に、「もう、神の救いは来てるんだ」と宣言しましょう。
 私がそう口にしたとき、同時に(・ ・ ・)、あなたの中で救いが実現すると、福音にはそのような力があると、 私は信じて、今日も皆さんに福音を宣言いたしました。
 ・・・少し、高みに行くことができたでしょうかね。
 打倒、羽生結弦。(笑) 今日の説教、300点超え、(笑) できましたかねえ。
 ・・・さっき歌ってくれた君の答唱詩編は300点超えてましたよ(※10)


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)

※1:「あの300点超えを見ちゃうと」
11月28日、フィギュアスケートのグランプリ(GP)シリーズ最終戦、NHK杯が長野県ビックハットで行われ、前日のショートプログラムで106.33点という世界最高得点を記録した羽生結弦選手が男子フリーに登場。フリーでも、世界最高得点の216.07点を記録し、合計322.40点で優勝した。 300点を超えるのは史上初。
(参考)
・ 期間限定で表示される「2015NHK杯国際フィギュア」のオフィシャルサイトでは、美しい映像でご覧いただけます。ページ(>>こちら)の「※滑走順/競技結果」の表で一番上、総合順位「1」「羽生結弦」の欄で、水色に白抜きの文字で「動画」と書いてあるボタンをクリックしていただくと、「SP(ショート・プログラム)」「FS(フリー・スケーティング)」それぞれ、演技の動画が開きます。
・ 「羽生結弦が抱く成長への果てなき渇望 世界最高得点も『これがゴールではない』」(Sportsnavi)
・ 「羽生結弦」(ウィキペディア)
・ 「羽生結弦 NAVERまとめ
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※2:「ぶつかって、けがして倒れて、血を流しながら本番滑ってたこともありましたよね」
 2014年11月、上海開催の中国杯。ショートプログラムフリースケーティング前の練習中に中国選手との衝突事故が起きた。応急処置を受けたまま演技に臨み、脳震とうが疑われたので、その後、危険だったのではと賛否が分かれたが、結果は銀メダルだった。(参考:「羽生結弦」ウィキペディア
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※3:「自らを『絶対王者』とまで言ってる」
 11月28日、NHK杯で優勝した羽生結弦選手の、インタビューを受けての言葉。
 「緊張したんですが、長野のオリンピックがあったリンクで滑ることで、自分自身にプレッシャーをかけて、『絶対王者』だぞと言い聞かせてやっていた」などと語った。
(参考)
・ 「羽生結弦、322.40点の世界最高得点で優勝 『絶対王者だと言い聞かせながらやっていた』【NHK杯】」(THE HUFFINTON POST)
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※4:「なんと美しいことか。よい知らせを伝える者の足は」(cf.イザヤ52:7)
イザヤ書52章7節には、以下のようにある。
 
「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え 救いを告げ あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる」
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※5:「先週、三教会合同のミサがありまして」
 カトリック東京大司教区では、教区内のすべての教会は、22の宣教協力体に分かれ、協力して活動を行っている。多摩教会は、調布教会、府中教会と共に、「多摩東宣教協力体」に属し、相互に交流を深めている。
定期的に三教会合同のミサもあり、説教、先唱、朗読など、教会ごとに役割分担をしている。
主任司祭は、調布教会は藤川長喜神父様(サレジオ会)、府中教会はビッフィ・マウリツィオ神父様(ミラノ外国宣教会)。
(参考)
カトリック調布教会
カトリック府中教会
カトリック多摩教会
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※6:「先週、大阪で伝道集会っていうのがありました」
 11月23日(月・祝日)の午後、大阪市の日本基督教団東梅田教会で伝道集会が開かれ、晴佐久神父が福音を語った。タイトルは、「神はあなたと話したい〜神の愛を聞く喜び〜」。
 以下に、当日出席された方のブログや、教会のfacebook(フェイスブック)をご紹介します。そのときの様子が伝わるかと思います。
(参考)
・ 「カリスマと呼ばれる晴佐久昌英神父さま」(個人ブログ「私の小さな歩みのブログ」)
チラシ画像画像1画像2画像3日本基督教団東梅田教会 facebook
日本基督教団東梅田教会(ホームページ)
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※7:「今日の待降節第1主日、カトリックの暦でいえば『新年』に」
  カトリック教会には、特有の暦(「典礼暦」または「教会暦」)があり、キリストの神秘を、1年を通して思い起こしていく。教会の「1年」は、1月1日から12月31日でくくられるのではなく、「待降節第1主日」に始まり、「王であるキリスト」の祭日で終わる。
 この説教のあったのは、「待降節第1主日」なので、「新年」第1回目の主日となる。
 もう少し詳しくは、先週(2015年11月22日の説教「わが教会はこの世には属していない」)の【参照】※1にご案内しましたので、そちらをご覧ください。
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※8:「はっきりと福音書の中で、私たちに語ってくれたこと」
2015年11月30日の福音朗読箇所
 ルカによる福音書21章25〜28節、34〜36節
  〈小見出し:「人の子が来る」(21章25〜28)の抜粋〉
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※9:「先週の言葉で言うなら」
 先週、2015年11月22日の福音朗読箇所は、ヨハネによる福音書18章33b〜37節。
 その中の、ヨハネ福音書18章36節には、以下のようにある。
「イエスはお答えになった。『わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない』」
(参考) 
・ 「わが教会はこの世には属していない」(「福音の村」2015年11月22日説教)
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※10:「さっき歌ってくれた君の答唱詩編は300点超えてましたよ」
 この日は青年会の奉仕によるミサで、答唱詩編(☆)の詩編本文は、青年がソロで美しく歌い上げた。
☆「答唱詩編」
 主日と祝日のミサでは、第1朗読(通常、旧約聖書)、第2朗読(通常、使徒の書簡)、福音朗読(福音書)の、3回聖書が朗読される。
 第1朗読の後、一同は少しの間、その神の言葉を味わい、その後に、「答唱詩編」が唱えられる。これは、歌われる場合が多いが、朗読される場合もある。本来、答唱詩編は詩編による黙想なので、歌われる詩編は第1朗読にあわせて選ばれ、朗読された神の言葉を味わうことができるように工夫されている。
 詩編本文と答唱句から構成されていて、詩編本文は先唱者が、答唱句は会衆全員が、それぞれ交互に歌うことが勧められている。それによって、互いに聴き、互いに祈るためのものであるということを忘れないようにする。
(参考)
・ 「ミサ司式第」(2006年『ともにささげるミサ 改訂版』) 
・ 「ミサ司式第」(「ミサ」 ウィキペディア)
・ 「(8)答唱詩編」(カトリック田園調布教会) ほか
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2015年11月29日 (日) 録音/2015年12月6日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英