「ああ、かわいい、おお、いい子だ」

2016年1月10日 主の洗礼
・第1朗読:イザヤの預言(イザヤ40・1-5、9-11)
・第2朗読:使徒パウロのテトスへの手紙(テトス2・11-14、3・4-7)
・福音朗読:ルカによる福音(ルカ3・15-16、21-22)

【晴佐久神父様 説教】

 今、私、「司祭」が、朗読いたしました。・・・最後の一節、
 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に(かな)う者」(ルカ3:22)
と朗読いたしました
 司祭が口を開いてしゃべっているわけですけれども、これ、誰が言ったかというと、天の声、「神」ですね。神の声が天から聞こえ、それが今、福音書の朗読として(※1)、司祭の口からあふれてきて、皆さんの耳に届き、皆さんの心にストンと入っていきました。
 ・・・なんという声が入っていったんですか。
 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(ルカ3:22)
 こういう声を、こうして(じか)に聞いて、ちゃ〜んとそれが心の中に入ってくるなんていうのは、どれほどの恵みであり、力になるかということを、まずは理解していただきたい。
 今、ちゃんと聞きましたでしょ? この声には力があります。神さまの、わが子に対する愛情表現ですから、神の子である皆さん一人ひとりに、今日、・・・「今日(・ ・ )」ですよ、このミサの中で、今、座っている皆さんに語りかけられたこの言葉。
・・・これには力があります。これを聴いてもらいたいし、「これさえ聴いていれば、もうだいじょうぶ」っていう、そんな安心感を持ってほしいのです。

 言ってることは、まあ、聖書の言葉ですから、ちょっと硬めの言い方ですよね、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(ルカ3:22)。でも、読めば分かるとおり、二人称一人称でしょ。
 「『あなた(・ ・ ・)は』『わたし(・ ・ ・)の』愛する子、『わたし(・ ・ ・)の』心に適う者」(ルカ3:22/強調引用者)
 これは、真の親が、わが子に対して、まごころから、どうしても言いたい言葉として語っている言葉です。私の翻訳で言うならば、お母さんが赤ちゃんにかける言葉に翻訳するわけですね。それが一番近いから。お母さんが生まれたばかりの赤ちゃんにかける言葉っていうのが、神さまが神の子に対してかける言葉に一番近いから、翻訳するわけですけれど。
 「あなたはわたしの愛する子」っていうのは、「ああ、かわいいね、かわいいねぇ〜」って言ってるわけですよね。これは、二度繰り返すところがポイントです。(笑) 「かわいいね、かわいいねぇ〜」って、そういう日本語の、強調する言い方、あるでしょ? ただ、「あらまあ、かわいいわねえ」っていうんじゃない。よそのお母さんだったら、「あら、かわいいわね〜」って、1回しか言わない。(笑) でも、わが子に対しては、「ああ、かわいいね*^^*、かわいいねぇ〜」ってね、二度繰り返す。
 「わたしの心に適う者」っていうのは、これは、親の思い、親の「心」に「適って」いるわけだから、「ああ、いい子だね、いい子だねぇ〜」って言ってるわけですね。これも二度繰り返すところがポイントです。「いい子だね、いい子だねぇ〜、ああ、いい子だ、おお、よしよしよし⌒∇⌒。ああ、かわいい、かわいい♡ いい子だ、いい子だ♡♡」、これを繰り返し、繰り返し、お母さんは言い続けます。「ああ、かわいい、かわいい」「おお、いい子だ、いい子だ」。・・・まあ、翻訳するならば、そういうこと。
 でも、聖書ですからね、そのまま載せちゃうと、ちょっとね。・・・「すると、『ああ、かわいい、かわいい。おお、いい子だ、いい子だ』という声が、天から聞こえた」じゃあ、(笑) ちょっとくだけすぎなんで、一応硬い言葉になってますけど、言ってることはそうですよ。これはもう、子どもを育てたことがある方なら分かるはず。何ていうんでしょう、「さあ、言おう」と思って言うような言葉じゃないやつね。もう、自然と口からあふれてきちゃう。
 「ああ、かわいい、おお、いい子だ」、もう、本来は、神さまがそんなことを直接人間に語り掛けるなんて、(おきて)破りなんですよ。でも、ここはもう、黙っていられない感がね、あふれてるんです。
 「天が開け」(ルカ3:21)ってありますでしょ。ホントは、天国にみんなが来るまで、直接語りかけちゃいけないんでしょう、きっとね。神さまとしてもね。だから、「天が開け」(ルカ3:21)っていうのは、「神さまの口が開いちゃった」っていう感じですね。もう、わが子の素晴らしさを見て、思わず言っちゃった。たぶん、言っちゃったあとで、神さま、「あっ! しまった」って思ったんじゃないかな。(笑) 「ああ、かわいい、かわいい。う〜ん、いい子だ、いい子だ」・・・思わず言っちゃったんですよ。
 そんな親からあふれる声が、イエスさまには、100パーセント、スコーンと聞こえてくる。神さまから、ホントに愛されて生まれてきて、すべてをその神さまにお捧げして、神さまと親子として一致している、イエスさまにおいては、親の声がスコン、と聞こえてくる。
 でも、それでいうなら、もうホントに、ミサなんていうのは、このイエスさまと一致して、イエスさまと一緒にこの声を聴いている、そういう現場ですから、「天が開け」(ルカ3:21)てるんですよ、今。
 それが直接聞こえてきたら、ホントにうれしいでしょうねえ。でも、今は、直接聞こえてこない。だけど、もしも今、天が開けてね、「あ〜あ、かわいい、かわいい」って聞こえたら、ちょっと気持ち悪いですよね。(笑) そうではなくて、今、一人のキリスト者である司祭の口を通して、神さまはおっしゃったんです。
 私の声、聞こえましたでしょ? 「神さまの声なんて、聞こえな〜い」なんて言わないでください。聞こえてるんです。聖なるミサは、そういう恵みのときです。福音書が読まれて、福音が皆さんの心にストンと届く。それによって、皆さんが、恐れから解放され、さまざまないら立ち(・ ・ ・ ・)とか、さまざまな悩みとか、そういうものから解放されて、「ああ、よかった!」っていう気持ちになる。
 ・・・これが「教会」ってことですし、「ミサ」っていうことですし、「信仰」っていうことですし、まあ、すべて、神さまのみ(わざ)ですね。だって、向こうが口を開かなきゃ聞こえないんだから。
 今、聞こえている。もう、届いている。・・・神さまの愛が、ちゃんと私の心に触れている。その喜びは、これは、他の何にも代え難い。代えられない。だから、ミサはやっぱり、そういうふうに感じられる典礼として整えてね、きちんと捧げることが大切だと、私は常々思う。いい加減にやってると、届いているはずのものが、感じられないっていうことさえありますから。

 この多摩教会に来てからも、少しずつ、少しずつ、皆さんと典礼を整えてまいりましたけど、だいぶきちんとしてきたんじゃないですか? 実を言えば、毎回、少しずつ微調整してるんですよ。
 今、ふと見たら、この朗読台の聖書を載せる斜めの台に、 ストッパーの板がちゃんと付いてるんですね(※2)。これ、先週、頼んだんですよ。というのは、聖書は載るけれども、その上に載せた 『聖書と典礼』(※3)が落ちちゃう。・・・実は、そっちのほうが読みやすいんで、聖書の上に『聖書と典礼』を重ねて読んでるんですね、さも聖書を読んでいるかのように。(※4)・・・ばらしちゃうと。(笑) それが、落ちるんですよ、手前に。だから、「もっとストッパーを大きくできませんか」って言ったら、なんと翌週には、もうこうして、板が付いている。典礼担当の方が、微調整、微調整で、少しずつ、ほんのちょっとのことでも整えていこうとしてるんです。そういえば、答唱詩編の独唱も、だいぶ上達してきましたよね、少しずつ、少しずつです。すべては、 神の愛を、みんなが実感して、まごころから受け止めるためです。
 私、入堂して来たときに、祭壇前で深くお辞儀しますでしょ。だいたい、4、50秒、頭を下げてるわけですけれども(※5)、あのとき、祈ってるんです。
 「このミサは、一生一度の聖なるミサ。天地がつながる恵みのとき。このミサに参加している人たちすべてが、ホントに(・ ・ ・ ・)救いに目覚めますように。神さまの愛のお声が、福音としてみんなの心に届きますように。そうして、キリストの体であるご聖体をいただいて、あらゆる悪に打ち勝ち、心が晴れやかになり、新たな希望に満たされる、恵みのミサになりますように」と、まごころ込めて祈っている時間なんですよ。
 最初の15秒くらいは、「こんな罪深い私がミサを捧げちゃっていいんですか。どうかお願いいたします。この私を清めてください」という回心の思い。それからの15秒は、「こうしてミサが実現していることを、ホントに心から感謝します。これはすべてあなたのみ業です。あなたを()めたたえます」という感謝と賛美。残りの15秒は、「ここから先は、あなたが働いてください。あなたがこの私を使ってください。私の口と手をあなたにお任せします。すべてをあなたに委ねます」という、信仰の心。・・・そんな祈りを捧げつつ、頭を下げてるんです。
 そこをきちんとくぐり抜けて、ミサに入っていく。その先は、もう神さまの世界。天と地が、ホントにつながってる恵みの場。そう信じて、私もミサを捧げ、口を開いて福音を読み、そしてたとえば今、この「説教」というかたちで、「皆さんの心に、今、神さまがホントに語り掛けてるんですよ」と確信を持って伝えています。
 少しずつ、少しずつ、微調整して、「よい典礼にしよう」「よいミサにしよう」と心掛けてきましたし、今日もまた、「主キリストと共に、完全な礼拝を捧げたい」という熱い思いを持って、ここに立っています。もちろん、これは、司祭と信徒の共同作業ですけれども、 そのような現場をつくり出したいという熱い思いがあるのです。すべては、神の愛を、本当に受け止めるためです。
 さっき、そうして祭壇前で深く礼をして頭を上げたら、祭壇の上の十字架(※6)が、5センチくらいずれてたんですよ、左に。私、それをそ〜っと元に戻したんです。ね、ごらんください、今、完っ璧に真ん中にありますでしょ。(笑) 「いや、十字架が5センチずれてたって、人は救われるだろう」って言うならば、それはそうです。だけど、その、気づかれないような、ほんのちょっとしたことの積み重ねが、私たちのまごころからの礼拝として、神さまに届くんじゃないですか。
 私たちは、「このミサにおいて、神の愛を知り、救われるんだ」っていうこと、正確に言うと、「このミサにおいて、私たちはすでに神の愛の内にあり、すでに救われていることに、目覚められるんだ」っていうことを、なんとかかたち(・ ・ ・)にしたいという、熱い思いは忘れないようにしたい。

 とはいえ、昨日のミサなんか、始める前にちょっとイライラしててね、そのままミサ始めたんですよ。時々、そういうことがある。まあ、それほど強いイライラじゃなかったんですけど、なんていうか、疲れてるときの「ちょっとしたイライラ」ね。
 金曜日、土曜日と、面談とか電話相談がダーッと続いたんですね。お正月明けってこともあって、大勢たまってたんですよ。で、ぶっ続けで聴いていると、まあ、一人ひとりの面談としては、福音に触れて目の前で人が救われていくわけですから、感動もあるし、うれしいことではあるんだけれども、続いて聴いてると、やっぱり疲れてイライラもしてくるんですね。で、イライラの一番の原因は、悪霊があまりにもしつこいからです。
 悪霊、みんなに取りついてるわけですけど、皆さんだって、取りつかれてるんですよ。あの、そうやって、きれ〜な顔していても、(笑) 悪霊はちゃんと、みんなに少しずつ取りついてる。だから、それを、福音で追い出すわけですね。でも、追い出しても追い出しても、しつこい。
 ・・・私のイメージでは、ハエたたきでね、(笑) 悪霊がピヨピヨンって出てきたら、パン!っと、たたくみたいな。(笑) まあ、みんなそれぞれ、いろ〜んな悪しきハエを持っててね、いろんなのがブーンって飛びまわってるんですよ。人によってそれぞれ違うんです。ちょっとずつね。ハエの種類も。私はそれを、福音でパンッ! パンッ! パンッ!と、たたくわけですね。でも、いくらたたいても、たたいても、また出てくる。まあこれ、そういう自分だってそうですから、経験してることですけども。
だけど、そうすると、だんだん、イライラしてくるんですね。何度追い出しても、皆さんまたおんなじことを繰り返すし、さっき追い出したのにもう別のが出てきたり、なんだかもう、一つひとつたたいてるのが面倒くさくなってくるっていうか、こうなったら巨大なキンチョールみたいな、(笑) 福音チョールで、(笑) シューっといっぺんに、簡単にやっつけちゃいたくなる、そんな気持ちになる。
 ・・・でも、これがまた、悪霊の(わな)なんでしょうね。「徒労感」っていうやつですね。やってもやっても終わらないので、くたびれ果てて、「もういいや」って感じになっちゃう。
 昨日は、複数の面談の最後に電話相談がきて、これはもう、何年も話を聴いている方ですけれども、最初に電話してきたときと、ほぼおんなじことを言ったんですよ。ひたすら福音を語ってきた身としては、「もう、今までのは何だったんだろう・・・」って、ちょっと思っちゃうわけですよね。福音を語り続けるうちに少しずつ元気になり、やがて福音を信じて、「神父さまのおかげで、すっかり信仰が強くなりました」とか何とか言ってくれれば、「ふふふ・・・ (^ー^* )v」って感じになるんですけど、なんかまた、たたいたはずのが、ブーンと出てくると、・・・なんか、「もう、いいや。飛んでろ!」(笑)みたいな感じに、ついなる。そんなイライラ感っていうの、これ、分かりますかね。「こんなことしてて、何になるんだろう・・・」とまではいかないけれど、「あ〜あ」っていうような感じ。
 そんな徒労感もあって、もう4年も一緒に暮らしている同居人に、昨日のミサ前に、メールで当たっちゃったんですね、私。本人は今、二十歳(はたち)になったんで、小学校時代過ごした金沢へ、同級生と一緒に成人式に出るために行ってるんですけど、土曜日に出るって言ったのに、金曜日に挨拶もせずに、荷物まとめていなくなっちゃったんですよ。だから、「なんだよ、こういうの、さみしいよ。こっちは病気のこと心配してるんだから、心配かけないためにも、ひと言『行ってきます』くらい挨拶(あいさつ)してほしかったな〜」みたい思いを込めてメールしたんです。そしたら、なんか言い訳みたいなのが返ってきたんで、こっちもイライラしてたもんだから、さらに八つ当たりみたいなメール、送っちゃったんですよ。(笑)・・・ああいうのは、ホント、我ながらいやだね。イライラしてるときは、人に会わないほうがいいですね。皆さん、イライラしてるときは、メールもしない方がいいですよ。
 ところがですね、直後にミサが始まってね、頭を下げて、福音を読んで、「あなたはわたしの愛する子」(ルカ3:22)なんていう、こんな尊いみ言葉に触れると、「なんて自分は小さかったんだろう」「なんて情けない存在だろう」って、もう、心から、スーッと清められた気持ちになって、ミサの後で、「イライラして当たっちゃいました〜。ごめんね、おゆるしを〜」って、(笑)メールしました。すると、向こうからもね、「いや、今回はぼくの方が悪かった。ごめんなさい」っていうメールが返ってくる。
 ・・・謝り合うって、いいですね〜。(笑) ホントに気持ちがいい。なんかこう、スカーッとね、天とつながるような気持ち。

 悪霊が、こう、ブンブン、ブンブンと、執拗に私たちの周りを飛び回るんだけれども、やっぱり、さっきのキンチョールの話じゃないけど、ミサが一番ですよ。これが一番力があるっていうのは、理屈じゃない。事実です。
 やっぱり、この聖なるミサで、福音を聴いて、神さまの愛のみ言葉をしっかり受け止めて、そしてもう、あとはスッキリ爽やか。・・・そういう恵み、ぜひ、神さまの声、今もこう、聞こえてるわけですから。今、響いてるんですよ。
 このみ言葉は、こっちが頼んだから言ってくれるっていうようなもんじゃない。私たちがいい子だから、「いい子だ、いい子だ」って言ってるんじゃないんですよ。・・・関係ないんです。いい子だろうが悪い子だろうが関係なく、向こうが、「ああ、いい子だ、いい子だ」って言ってる。私たちが、ホントにかわいいから、ホントにふさわしいから、ホントにきれいだから、「かわいい、かわいい」って言ってるんじゃない。向こうは、どうしても、そう思うんですよ。・・・どんな顔であろうがかわいいんです。
 実際、ありますでしょう? 親が「かわいい、かわいい♡」って言ってるのに、よその人は心の中で思ってるんですね、「それほどでもないけどねぇ・・・」って。(笑) よその人は、正直にそう思うわけですよ。でも、親はそんなの関係ないんです、「どんな顔だちか」「どんな性格か」なんていうの。・・・とにかく「かわいい」んです。「いい子」なんです。それはもう、親としては思い続けるし、言い続ける。当然、今も、私たちに言っている。 でも、私たちは気づいていない。
 それに気づく方法として、この「ミサ」があるし、あるいは、そうねえ、普段だったら、「小さなミサ」ともいうべき祈りとして、胸に十字を切ったらいいんですよ(※7)。「神さまが今、私を愛している」っていう恵みに目覚めるために。「ああ、いい子だ、いい子だ」っていう声を聞くために。それを聞き、それに目覚めたとき、私たちは、イライラから解放されて、人に当たったりとか、ばかなことしないで済むようになる。
 地球の平和だって、(もと)をただせば、そういうところからしか始まらないわけでしょ。

 今日のミサに、大阪から通っている方もいますし、名古屋から新幹線で通ってる方もいます。どちらも今年、洗礼を受ける方です。今年の受洗者には、大阪から夜行バスで入門講座に通っている人、名古屋から新幹線で入門講座に通っている人がいるんですよ。その方たち、一人ひとりが、万感の思いでね、そのような福音を聴きに通ってるんです。「ああ、私は、本当に神さまから『いい子だ、いい子だ』と言われてるんだ」という確信を深めるために。み言葉のもとに、神の子たちが集まってきて、入門講座が行われ、ミサが捧げられているっていうことを、誇りに思って感謝します。
 昨日入門講座に来たある方は、みんなの前で話してくれました。以前にいた教会で、「悪い子は祝福を失う」って教わったと。怖くなってその教会では洗礼を受けなかったんですけれども、「悪い子は祝福を失う」って言われたことが、ものすごく負の思いとして心に残っちゃって、それからずっと、とても不安で苦しい思いをして生きてきた方です。何か良くないことが起こると、やっぱり私が悪い子だから祝福を失ってるんだって思っちゃうんですね。しかし、入門講座で、「祝福は決して失われないんだ」っていうことを学んで救われたんです。昨日も、はっきり申し上げました。
 「そもそも、失われるようなものは、最初っから祝福ではありません。『祝福を失う』という言葉は、文法としては成り立つけれども、語義矛盾であって、意味のない言葉です」
 ・・・分かります? 言ってること。
 本物の「祝福」ならば、失われないんです。神さまの祝福は完全で、永遠で、決して消えない。
 神さまが「ああ、いい子だ、いい子だ。かわいい、かわいい」って祝福してくれたら、それは永遠です。やがて、「やっぱり、そんなにかわいくないね・・・」とか、「いい子じゃなくなったから取り消し」とかってことがありえない。祝福は決して消えない。だから、「祝福が失われる」っていう言い方に意味はない。失われるようなら、祝福じゃないんだから。
 福音を聴きましょう。決して失われない祝福をいただきましょう。 祝福を初めから受けているという福音を聴き続けて、「ああ、私は『ああ、いい子だ、おお、かわいい』って言われ続ける存在なんだ」という思いを、大切にし続けましょう。

 第2朗読(※8)の、「すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました」(テトス2:11)っていう、この最初の一行、これが、もうまさに、神の祝福ですよ。これは決して消えません。
 「すべての人々」ですよ。「かわいいか、かわいくないか」「いい子か、悪い子か」、そんなこと関係ない。
 「すべての(・ ・ ・ ・)人々に救いをもたらす神の恵みが現れました(・ ・ ・ ・ ・)(テトス2:11/強調引用者)
 これ、完了形ですよ、「現れました」。
 ・・・もう、「現れました」。私たちのうちに、もう、「聞こえました」。
 5節、
 「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、ご自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました」(テトス3:5)
 どれほど、「ハエ」が飛び回っていようとも、神さまの、この祝福で、すべて(・ ・ ・)、吹き飛びます。
 どうぞご安心ください。ひと声聞けばいいんですよ、 「ああ、いい子だね、いい子だね」っていう声を。心を開いて、それを聴き取りましょう。それは、今も響いております。もし、ホントにそれを耳で聴きたいんであれば、この言葉を録音して、繰り返し聞いたらどうですかね。・・・今日、ラジオ放送の録音をしてますけれども(※9)、ラジオをお聴きの皆さん、この声を録音しておいて、繰り返し、繰り返し、エンドレスで流しておけば、悪霊なんか、吹き飛びますよ。
 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」
 「ああ、かわいい、かわいい。おお、いい子だ、いい子だ!」


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)

※1:「福音書の朗読として」
2016年1月10日(「主の洗礼」の祝日)の福音朗読箇所
 ルカによる福音書3章15〜16節、21〜22節
  〈小見出し:3章1〜20節「洗礼者ヨハネ、教えを宣べる」から抜粋、21〜22節「イエス、洗礼をうける」〉
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※2:「この朗読台の聖書を載せる斜めの台に、 ストッパーの板がちゃんと付いてるんですね」
 
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※3:『聖書と典礼』既出
 『聖書と典礼』(発行:オリエンス宗教研究所)は日本のカトリック教会共通の小冊子で、主日のミサ、また、一部の祝日のミサのときに用いられる。
 B6版のものと、少し大きめのB5版のものがあり、通常は8ページ程度から成る。
 ミサは典礼書に従って進められるが、聖書の朗読箇所や、答唱詩編、アレルヤ唱、共同祈願などは、ミサのたびに異なるので、この小冊子が会衆(参加者)に配布され、それに添って進んでいく。
 表紙には、その日の典礼に合わせた、美しい絵画やイコンなどが載っている。
(参考)
・ 「オリエンス宗教研究所
・ 「聖書と典礼」(オリエンス宗教研究所)〈美しい表紙絵の解説は、過去の分も載っています〉
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※4:「聖書の上に『聖書と典礼』を重ねて読んでるんですね、さも聖書を読んでいるかのように」
 
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※5:「だいたい、4、50秒、頭を下げてるわけですけれども」
 ミサが開祭されると、会衆は起立し、入祭の歌で、司祭と侍者が聖堂に入堂するのを迎える。会衆が歌っている中、司祭は侍者と共に、祭壇前まで進み、深く頭を下げるが、このとき、晴佐久神父のお辞儀は、下の画像の状態で「だいたい、4、50秒」になる。
 
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※6:「祭壇の上の十字架」
 
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※7:「十字を切ったらいいんですよ」
◎ 十字の切り方 (ごく一般的なカトリック信者の切る十字)
沈黙のうちに切る場合もあるが、以下は、
「父と子と聖霊のみ名によって。アーメン」と唱えながら切る場合の紹介。
【右手】
 
揃えた指先の中指1本か、中指と人差し指の2本を使う。
 動かす順序は、
(上下→左右→中央)で、以下のとおり。
( 上 ) 「 父と 」 と唱えながら、
       右手の指先で
(額、眉間が一般的)に軽く触れる。
( 下 ) 「 子と 」 と唱えながら、
       同じ右手の指先で
(おへそから、みぞおち辺り)に軽く触れる。
( 左 ) 「 聖霊の 」 と唱えながら、
       同様に、右手の指先で、
左肩(前面)に触れる。
( 右 ) 「 み名によって 」 と唱えながら、
       次に、
右肩(前面)に触れる。
(中央) 「 アーメン 」 と唱えながら、
       
手を合わせる。(合わせない場合もあるが、合わせた方が美しい)
       手を合わせるとき、両手指をまっすぐ伸ばし、右親指を左親指の上にして組むといい。
       その場合、親指でも十字の形をつくっていることになる。
       この「アーメン」のとき、指先を唇にもっていく地方もある。
       これは、十字への敬意のしるしで、十字架に接吻していることを表している。
【左手】
 
右手で十字を切っている間、左手指はきちんと揃えて胸にあてていると美しい。
 これは、「右手を使っているときは、左手は胸に当てる」という、典礼の伝統的な所作による。

(参考)
・ 晴佐久昌英(2012:p.26-31「十字の切り方」)『十字を切る』女子パウロ会 (取り扱い:女子パウロ会Amazon 他)
・ 「十字架のしるし(十字を切る)」(「キリスト教豆知識」/ラウダーテ
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※8:「第2朗読」
2016年1月10日(「主の洗礼」の祝日)の第2朗読箇所
 テトスへの手紙 2章11〜14節、3章4〜7節
  〈小見出し:2章1〜15節「健全な教え」、3章1〜11節「善い行いの勧め」から抜粋〉
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※9:「今日、ラジオ放送の録音をしてますけれども」(既出)
 晴佐久神父の説教が、FEBC(キリスト教放送局 日本FEBC)で放送されることが決まり、昨年(2015年)の7月から、録音が始まった。放送は、春以降の予定。
(参考)
・ 「全国の皆さん、お待たせしました」(「福音の村」2015年7月5日説教)
・ 「事件はもう解決済み」(「福音の村」2015年10月18日説教)
・ 「教会のご公現」(「福音の村」2016年1月3日説教)など。
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2016年1月10日 (日) 録音/2016年1月23日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英