天国のメモリー

2012年5月6日復活節第5主日
・第1朗読:使徒たちの宣教(使徒9・26-31)
・第2朗読:使徒ヨハネの手紙(一ヨハネ3・18-24)
・福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ15・1-8)

【晴佐久神父様 説教】

 「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」
 ここはそんな、イエスさまとつながっている現場ですから、安心して、聖なるお方としっかりとつながっている喜びをもって、このひとときをお捧げいたしましょう。ここはイエスさまと真につながる天国の入り口ですからね、安心して。

 今日、カトリック教会以外で受洗した方をカトリック教会へお迎えする式をいたします。今一番前に座っておられる方です。小さな娘さんもご一緒ですね。娘さんは、お名前何ていうの? そう、ようこそ、ようこそ。恥ずかしそうにしてるけど、一番前に座ったの初めてなのね? さっきから何度も、後ろに座ってるママの所に行って、またパパの所に戻ってきて、またママの所に行って・・・って、真ん中の通路を行ったり来たりで、楽しそうでしたねえ。(笑)いいんですよ。ここはイエスさまの家族のおうちですからね。あなたのおうちなんですよ。自由に行き来してください。ちょうどさっき第1朗読で、サウロがね、「エルサレムで使徒たちと自由に行き来した」って読んでる時に、あなたが目の前で「自由に行き来」してたから、(笑)なんかいいなあ、と思って見てたんですよ。
 一番前の席もいいでしょ、なかなか。いつでも来てくださいね。ここはいいとこですよ。イエスさまとつながっていて、何があっても安心な所。大人たちも、1週間の間には心配なことやイライラすることもいろいろありましたけども、こうしてここに来て、イエスさまとつながっていれば、もうだいじょうぶ。ちょうど、あなたがパパの手をそうやって握っているように、パパがあなたを膝の上でそうやってしっかり抱きかかえているように、神さまとちゃんとつながっていれば、何の心配もない。ね、今パパに抱かれて、なんの心配もないでしょ? いい場所だね。最高の椅子ですよ、そこ。
 まさに教会は、イエスさまの膝の上なんですよ。こんなダメな自分、こんな弱い自分、こんな情けない自分だけれども、安心して、神さまの膝の上で、ホッといたしましょう。イエスさまがちゃんと私たちのことを知っていて、しっかりと手を握っていてくださるっていうことだけは、どんなときも絶対忘れないようにしましょう。今日のこういうミサで、そういう練習をしてるともいえますねえ。

 以前の教会で私が洗礼授けた方ですけど、男性です・・・30代の男性で、入門講座に通い始めたころ、言うんですよ。「神父さん、ぼくのこと忘れないでくださいね」って。
 まあ、確かに何十人も求道者がいれば、みんなの名前ちゃんと覚えるのはなかなか大変なんで、覚えきれない。でもまあ、わざわざそう言われたら、「もちろん、忘れませんよ」と答えるしかない。
 「神父さん、ぼくの名前覚えてください。ぼくは誰々です」って言うから、
 「ハイハイ、覚えます、覚えます。心配しないでね。忘れませんよ ^^」ってお返事したんですけど、翌週の入門講座のときに、私に聞くんです。
 「神父さん、私、誰ですか?」(笑)・・・試験するんですよ〜。で、私、覚えてなかったんです。(笑)
 「いや〜、ごめんなさい。え〜っと確か・・・」って最初の1文字は出てくるんですけど、その次の1文字が出てこない。・・・「う〜ん (-_-;*)」
 そしたらがっかりした顔で、「私、〇〇です」と。
 「神父さん、覚えててくださいよ」
 「ハイ、もうだいじょうぶ。覚えましたから」
 まあ、そんなやりとりがあったんですけど、なんとその彼が、昨日の夜のミサに突然来てたんですよ。・・・で、私、名前忘れてた。(笑)ミサが始まって顔見た瞬間「あ、まずい! あの人、来てるよ〜。苗字なんだったかな。『名前覚えててくださいね』の人だ・・・」。やっぱり最初の1文字は思い出せるんだけど、その後がね〜、出てこない。たぶんこれだったはずってのはあるんだけど、自信がない。で、ああ、どうしよう・・・と思ってミサ中困ってたんですけど、いよいよミサの後でエントランスのとこで挨拶するとき、たぶんこれだろうと思って「ああどうも、○○さん!」って声をかけたら、「違いますっ!」(笑)・・・やっぱり間違えた。

 あの〜、でもですね、実は昨日のそのミサでは予防線を張ってね、説教で話したんです、「この世は不完全で、人は全部忘れていくのである」と。(笑)
 いや、でも、真実でしょう。この世の記憶なんていうものは、やがて全部消えていくものです。しかし、天には完全なるメモリーがあって、天は絶対忘れない。つまり、この世のすべてのことは、ちゃ〜んと天に保存してあるから、何の問題もないんです。
 これは事実ですよ、事実。だって、この世でね、私に「覚えててくださいね」と言い、「ハイハイ、覚えましょう」と私が答え、この私の脳ミソの中にちゃんと記憶されました、と。でも、それって、ほんのひとときのことでしょ? やがて私もこの世を去ってですね、この脳は消えちゃうわけですよ。火葬場で焼かれちゃったら、この脳ミソの中の記憶なんていうものは、この世のもうどこにも残らないわけでしょ? 「じゃあ、残るように書き留めましょう」って立派な日記残しても、よほどの有名人ならね、出版されたりもするかもしれないけれど、私たちの書いたことなんかは、やがてどっかに捨てられちゃうし、その「よほどの有名人」の本だって、やがては古本屋にもなくなって誰も読まなくなる。
 この世で覚えた記憶、この世に残す記録なんてものは、しょせんはそんなもんだっていうふうに思って、あんまり「覚えててくださいね」とか「忘れないでね」とか言わずに・・・とか、なんかすごく言いわけがましい(笑)説教をしたんです。・・・でも、真実です。この世で覚えていてもらおう、忘れられたくないと思っても、それは不可能だし、求めてもしょうがないことだって、もう最初から思ったほうがいい。
 しかし、イエスさまは絶対忘れない。・・・これが信仰ってやつです。この世は忘れても、天には永遠のメモリーがあって、われわれのこの世界での、あらゆることが大切に保たれている。何かを大事にしたこと、試練の中で忍耐したこと、誰かを精いっぱい愛したこと、そういうことが全部消えないで、天において大切にされている、永遠なるものとして祝福されてるっていう、そういう信仰が私たちを安心させ、元気づけるんじゃないですか。そう思っててくださいよ。

 そういえば、イエスさまも、ほら、ルカ福音書で言ってましたよね、十字架の上で。隣には犯罪人も十字架につけられていて、イエスさまに言いますよねえ。
 「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ23:42)
 この願いは、やっぱり立派ですよ。まあ、犯罪人ですしね、十字架上で殺されたら誰も思い出さないような人でしょ。
 「こんなわたしは、忘れ去られていくだろう。それでも構わない。しかし、イエスさま、御国においでになる方、私を覚えててください。私を思い出してください」
 ・・・そう願う。するとイエスさまは宣言しました。
 「はっきり言っておくが、あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)
 ・・・そう宣言なさった。ここでイエスさまと一緒にいて、イエスさまとつながっていて、イエスさまに覚えていてもらうって信じること、それはもう、楽園の始まりなんです。
 この世のことにね、あんまりとらわれないように。なんか妙にプライドを持ってですね、「もっと俺は大切にされるべきだ」とか、「もっと私は有名になるべきだ」とか、まあ、いろいろ思うかもしれないけれども、この世のことはやがて消えるんです。
 しかし、どんな小さな愛でも互いに愛し合ったり、どんな小さな信仰でもイエスさまとつながっていたり、どんな小さな希望でも私は永遠なる天を生きるって希望をもっていたら、もうそのこと自体が、この世のどんな名誉や、さまざまな業績よりも価値がある。この聖堂はそういう場所ですから、やっぱりそういうふうに、・・・何て言うんでしょう、ちょっと浮世を離れてね、気持ち良く天での栄光を仰ぎ見ましょう。

 実際、この聖堂、今週一週間、素晴らしい一週間でしたよ。
 先週日曜日はここで幼児洗礼式があったでしょう? 幼児洗礼式なんていうのは、もうまさに、「この世に生まれただけではなく、天に生まれる」という恵みのしるしですから、そういう意味では、この世に生まれたのも「おめでとう」ですけど、その直後の幼児洗礼式は、「もっとおめでとう」なんですよ。そうなりますよね? だって、この世に生まれても、やがてこの世に死ぬわけですけど、天に生まれていくんであれば、それは永遠ですから。日曜日の幼児洗礼式、嬉しかったですよ。子どもたちが4人ね、「おぎゃあ、おぎゃあ」と泣いて。あれは私たちの姿でもあります。天に生まれていく私たち。まるで赤ちゃんのように何もできないけれども、神さまが生んでくださった姿・・・。天に記憶されたひととき。

 月曜日には、ここでお通夜があったんですよ。24歳でした。男性。お母さまがねぇ・・・泣いて泣いて。ホンットにかわいそうだった。火曜日はその息子さんのご葬儀。カトリックの洗礼は受けているお母さまですけど、どこの教会にも所属してなかったんですね。で、息子さんは信者じゃないんだけれども、突然亡くなったということで、葬儀の場所ですごくお困りだった。そんな電話がきたので、「じゃあ、あなたは多摩教会の信者ってことにしましょう」と言い、息子さんも聖書熱心に読んでたっていうし、いつかは洗礼を受けたいって言ってたっていうんで、「息子さんも多摩教会の信者になったってことにしましょう」と言って、ヨハネっていう洗礼名を付けて、望みの洗礼の臨終洗礼という扱いで、多摩教会の信徒として、ここで通夜、葬儀をいたしました。
 ご両親には、私、通夜と葬儀で一生懸命お話をいたしました。「息子さんは天国です。お二人に先立って、天国に生まれていったんです。今も生きているんです。もう息子さんと会えないと思ってつらい気持ちでしょうけれども、そんなことない。むしろこの世ではまだ本当の家族が始まってもいないくらいで、天国でこそ本当の家族を、神さまの恵みのうちに体験できますから、その日を信じて、安心して、希望をもって、お二人も天国へ向かいましょう」と。そういうお話をいたしました。
 24歳ですから、友達もいっぱい来てるわけですよ。だから、友達にもお話ししました。彼とはたくさん、いい思い出があったに違いない。楽しかったこと、つらかったこと、乗り越えたこと、キラキラする体験をいっぱいしたに違いない。しかし、それらはむなしく消えてしまうのか。そんなはずがない。人は死ぬために生きてるんじゃない。生まれるためだ。天には永遠のメモリーがあって、そこに全部、尊い日々として保存されてる。亡くなった方の人生の一日一日は、決して消えることがない。愛し合ったそのすべての日々が、ちゃんと神さまの喜びとして、永遠なる輝きをもって天にある。天に生まれて、それをすべて味わうことができる。彼の人生を誇りに思って、神さまにお委ねしましょうと、そういうお話をいたしました。
 若い人の死は本当に不条理で理解しがたいですけれど、第2朗読にあるとおりです。
 ・・・「神は、わたしたちの心よりも大きい」

 お父さまがね、呆然となさっていて、見てても痛ましかった。お母さまももちろん、ポロポロ涙こぼしてつらそうでしたけど、お父さまの方は憔悴しきっちゃっていてね、声も出ないんですよ。で、ご遺族の代表挨拶はお母さまがなさった。お父さまはもう、ただただ呆然として、ショック受けてらっしゃって。だけど、火葬場でね、お父さまが私のところに来て、「神父さま、救われました!」ってひと言おっしゃった。24歳の息子が突然死んで、その素晴らしい日々はすべて消えてしまった、もう取り返しがつかない・・・そう思っている時に、「いいや消えていない。むしろ祝福されて、すべては天において神さまの喜びとなってる。そしていつの日か私たちもそこで、それを共にすることができる」。そういう話は、お父さまにとって本当に救いだったんだと思う。・・・「救われました!」って言ってくださった。
 お母さまが、お通夜の夜、息子さんのアルバムを作ってこられました。息子さんのいろんな日々を記録したアルバムを夜遅くまで熱心に編集したものを、みんなに見せてました。きっと、息子のことをみんなにもっと知ってほしい、ずっと覚えていてほしいっていう思いがあるんでしょう。だから私、お母さまに申し上げた。「天国には、息子さんのすべての日々、その尊い喜びの日々、悲しみを超えていく日々、そのすべての日々がホントに全部、素晴らしいアルバムとしてとってありますから、どうぞお楽しみに」と。

 木曜日にはここで、追悼ミサがありました。おととし亡くなった方です。つらい日々を乗り越えて、この2年間、奥さまはホントに偉かった。2年間、娘さんも、ホントに偉かった。この2年間はつらかったに違いない。素晴らしいご主人、お父さまだったですしねえ。
 「ぽっかりと穴のあいたような」という言葉がありますけれども、まさにそういう思いだったんじゃないですか。でも、信仰をもって毎週ミサで天国とつながって、天に生まれて行った者のために祈り、また自分もその天に向かっていくという信仰を新たにし、イエスさまが共にいてくださるから希望をもって今日をまた生きていこうっていう、その2年間は尊い日々だったんです。奥さま、今日も来られてますから、励ましたいです。あなたはほんとに偉かった。試練の中でも教会のために熱心に奉仕なさって。
 その2年間は、でも、まさに天においての永遠のメモリーですし、天を生きているご主人が、ちゃんとそれを共有してるわけですよ。この聖堂に来ると、ここはホントに天国の入り口だから、天国とこの世がほとんど一つ、連なってるっていう感じです。イエスにつながってるって、そういうことですよ。「わたしはぶどうの木だ。あなたたちは枝だ」(cf.ヨハネ15:5)っていうの、そういうことですよ。イエスは天国なんだから。神の愛そのものなんだから。私たちがこの世でささやか〜に愛すること、忍耐すること、それは全部、そのまま天国とつながっているし、イエスってそのつながりのことなんです。しかも、「わたしにつながっていなさい」と言いながら、「わたしもあなたがたにつながっている」と言う。天の方からつながってるなら、これはもう絶対です。

 金曜日には、ここで結婚式があったんですよ。美しい結婚式でした。今日ちょっと、祭壇の花、いつもより立派でしょ? これ、結婚式のお下がりです。(笑) この教会で、いつも熱心に祭壇奉仕してくれている青年の結婚式でしたからねえ、みんなで一生懸命準備して。いい結婚式でした。昔はよく新婦泣いたもんですけど、最近はもう新婦の方はケロッとした顔してることが多い。でも、昨日はぽろぽろ涙こぼして泣いててね。ん〜、あの感動の涙というか、安心の涙というか、・・・美しいですね。
 昨日お話ししたことは・・・これはあなたたちふたりのことじゃない、今ホントに喜んでるのは、あなたたちよりも両親よりも、本当に喜んでいるのは天の父だってこと。神が、あなたたちを生み、育て、結んでくれた。それはご自分の喜びとするためだ、と。だから、結婚式も天国の入り口なんですよね。お互いを通して神を知る。お互いを通して永遠の愛に触れ始める。お互いに、この世ではさまざまな限界がある中でも、精いっぱい、ささやかに愛し合うのは、やっぱり「天」という永遠なる愛に触れる道でもあるんです。ふたりがつながることが、天とつながることなんです。だから、お互いの中に宿っているキリストを大切にしましょう、と。
 昨日の結婚式もまた、天での永遠のメモリーになることでしょう。この世ではやがて忘れ去られちゃいますし、「あの写真、どこにいったんだっけ?」ってなりますし、それこそ津波でね、すべての記録が流されてしまいましたなんてことがあったじゃないですか。でも、たとえこの世の記録は失われても、二人が「生涯愛と忠実を尽くすことを誓います」と宣言したそのひととき、司祭が手を伸ばして「神が結ばれたものを人が分けることはできません」と宣言したその一瞬は、もはや天国での永遠の喜びとなっているし、それはどこにも流されません。

 この1週間、この聖堂は、天国の入り口でした。神さまが扉を大きく開いてくださっていました。今日もまた、私たちはここで天の国を仰ぎ見ます。いろんな悩みがあるけれども、たくさん恐れることがあるけれども、「信じればイエスとつながれる。もうだいじょうぶだ!」と。

2012年5月6日 (日)録音/5月10日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英