あったか〜い「交わり様」

2012年6月3日三位一体の主日
・ 第1朗読:申命記(使徒4・32-34、39-40)
・ 第2朗読:使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ8・14-17)
・ 福音朗読:マタイによる福音(マタイ28・16-20)

【晴佐久神父様 説教】

 三位一体の主日には、この聖堂のステンドグラスはホントに素晴らしいなと、改めて仰ぎ見るわけです。あの一番上の丸い所が三位一体の神ですね。真ん中が「父」、右側が「聖霊」、左側が「イエス・キリスト」です。父と子と聖霊が、お三方肩寄せ合って、顔寄せ合って、「ひとつである」っていうステンドグラスですよ。その下にイエスさまのご誕生からご生涯、そしてご復活までが描かれているわけですけれども、いうなればそのイエスさまの生涯は、あの一番上の丸の中の神秘を表してるんです。「神は愛そのものだ」「神は愛の交わりである方だ」っていうことを、目に見える形で表しているのが、イエスさまですから。
 私たち、神さま、神さまってひと言で言いますけど、「神さま」っていうと、なんとなく遠い方っていうか、抽象的っていうか、もしかすると厳しく冷たい方を想像してしまうかもしれない。でもイエスさまがどうしても私たちに表したかった神さまは、「父と子と聖霊の愛の交わりであるお方」です。だから、ちょっと長いですけれども、ホントは「父と子と聖霊の愛の交わりである神さま」って言わないと、神さまがちゃんと伝わらない。「神さま」ってひと言で言っちゃうと、なかなかね、神さまの本質、その素晴らしさがピンとこないので、「父と子と聖霊の愛の交わりである神さま」っていつも言えたらいいですし、もしそれじゃ長いっていうんだったら、「交わり様」とか言った方がいいかもしれない。(笑)
 いつか入門講座でそう言って、「交わり様」「交わり様」って言ってたら、「変な宗教みたい」って言われて(笑)やめましたけど、まあでも実際には口にしなくとも、「交わり様」っていう言い方、ちょこっと覚えといてください。だって、「神さま」は「交わり様」なんだから。その交わりの中に私たちは生まれてきたし、その交わりの中で生きているし、その交わりそのものの中に、いつの日か完全に入っていく。こんなあったかい話、ないでしょう。
 「神さま」のことを冷たい方だと思ったり、厳しい方だと感じたり、怖いお方のように思い込んでしまっている人は、これからは「交わり様」ってね、心の中で呼んでください。あったか~い愛の交わりの中に私たちは生まれてきたし、究極のあったか~い愛の交わりである三位一体である神さまの中にやがて生まれていくプロセスが、人生なんです。
 私たち、決してひとりぼっちじゃない。さっき、イエスさまが「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)って約束してくれたじゃないですか。愛の交わりを知らずに苦しんでいる私たちに、イエスさまは寄り添って付き添って、ご自分の中に溢れているその交わりに(あずか)らせようとしている。「いつも」ですよ。皆さんが生まれた時から、ずっとイエスさま、一緒だった。信仰を持つ前からも、ずっと一緒に歩んでいた。そのイエスさまに出会って信じてから、そして洗礼を受けてからは一層、いつもいつも、ずっと一緒にいた。たとえ皆さんの方が忘れていても。

 昨日、聖心女子高の同窓会の記念ミサを学院聖堂で捧げてまいりましたけど、あの学校、古い学校ですから、ずいぶん昔の同窓生も集まったりする。昨日の集まりは「還暦の記念のミサ」っていうことで、全員還暦なんです。私、お説教で申し上げました。「女性の年齢を聞くのは失礼だというけれども、私はここにいる皆さん全員の歳を知っております」と。(笑)みんな60歳。60歳といえば、新たに生まれ変わる年でしょ、「還暦」って。そんな節目に集まってミサをするって素晴らしいじゃないですか。
 卒業以来40年以上たっているわけで、40年ぶりにミサに与かるという人もいました。高校生の頃、カトリックの学校ですから年に何度かミサがあったんじゃないですか? でも、まだ10代ですからねえ。いろんな思いでミサに与かっていたでしょうけれども、まあ、神さまのことをどれだけ分かっていたか。それなりに信じていた人もいたでしょうけど、「ミサに出ろって言うから出ました」っていう人もいたかもしれない。それでもみんな、何か神聖なるものは感じていたはず。でも、それから40年たって還暦ともなれば、これはもう10代の思いとは全然違ってきているはず。それだけ苦しみをくぐり抜けてきたでしょうし、それだけつらい思いを背負って生きてきて、そうして40年たって、またミサに帰ってくる。高校生の頃、友達とミサを共にしたその聖堂で、40年たってまたミサを捧げるとき、それはやっぱり違うと思う。
 それで、皆さんにお話ししました。聖心の聖堂は、「イエスのみ心の聖堂」ですから、イエスさまの胸に熱い愛のみ心が描かれた大きな絵がかかっている。愛の溢れるイエスさまが、大きく両手を広げてみんなを迎えている絵が、昔っからずっとみんなを見守ってるわけですよ。だからこう申し上げました。「あの絵を見てください。イエスさまはこうして40年間、皆さんを待ってました。皆さんを神さまの愛の中に招き入れようと、ず~っと皆さんと一緒にいて、気づいてくれるのを待ち続けていました。洗礼を受けていようといまいと、この聖堂でミサを捧げたあの若き日から今日に至るまで、いつも共にいて、愛し続けていてくださったんですよ」と。
 還暦といえば、原点に還って新たに生まれる、「恵みのとき」じゃないですか。だから「ここから出発しよう」と。だんだん年とって、何かが終わってくみたいな感覚じゃなくって、「さあ準備期間は終わった。神に愛されていることを信じて、ここから出発だという気持ちで生きて行こう。父と子と聖霊の交わりの中にようこそ!」っていう思いでお話をして、そういうとき、最後に私はいつも付け加えるんですが、「洗礼を受けましょう。よろしかったら多摩教会へどうぞ」と。(笑)
 でもまあ、そのおかげで何人かの方が「ぜひ多摩教会に行きたい」って話をしてたっていうし、実は今日さっそくいらしている方がおられます。そんなあなたに申し上げたい。「今、神はあなたに特別に語りかけています。あなたが高校生だった時から、ず~っと『交わり様』として守って導いてこられたし、そしてついに今、ご自分の交わりの中に受け入れてくださろうとしていますよ」と、申し上げたい。
 「交わり様」はあったかいんです。私たちの背負っている苦しみをいつも一緒に背負ってくださっている。私たちと交わりたいからです。「交わり様」は、私たちをひとりにしておきません。たとえ40年間ひとりぼっちのつもりでも、どんな人よりもですよ、この世のだれよりも身近にいる。だから、「この世の人に冷たくされた」とか「この世の人に意地悪された」とか「この世の人と別れちゃった」とか、そんなことは二の次三の次でいいんです。「交わり様」が共にいて、私たちがその中でホッとできるなら、怖いものなし!

 先週福島に行ってまいりましたけど、福島の教会の皆さん、ホントに喜んでましたよ。多摩教会の10人くらいの方とね、聖母像の祝福式に出席するために、福島の野田町教会をお訪ねしてまいりました。去年ふらりと立ち寄ったとき、震災でマリア像が壊れてしまって、皆さんがしょんぼりしているのを見かねてですね、「こういう時こそ、心の支えとなるシンボルが必要でしょう。ぜひこの聖堂に、マリア像を寄付させてください」って言って、多摩教会の皆さんに呼び掛けて、バザーの収益金もそっくり含めて100万円集めてお贈りしました。そのマリア像が、ついに立派に安置されました。聖母子像でね、イエスさまを抱いているマリアさまが右側、もう一体、ヨセフさまのご像が左側。祭壇を聖家族が見守っているという配置です。
 皆さん喜んでくださってね。聖家族のご像なんていうのは、まさに「交わり様」を表してるわけですから、「ここは神の愛の満ち満ちている所ですよ」という、目に見えるしるしでしょう。震災で不安になっている人、放射能のことを恐れている人、大切な人をなくして苦しんでいる人、そういう一人ひとりに、「いいや、この試練は『交わり様』の愛の中にあっては何ほどのものでもない。神の愛は今ここにある。だいじょうぶ。安心してください」と、そう呼びかけているわけでしょ? みんなホントに、そうして多摩教会が心に掛けてくれたということを、とっても喜んでくださっていたし、ある意味、もう「姉妹教会」みたいなもんですからねえ、野田町の方も、多摩教会をぜひ訪問したいって言ってました。
 そのあとの祝賀会で、多摩のどなたかが、「いいですねえ、ヨセフ像・・・うちの聖堂にはヨセフさまがいませんから」なんて口走っていて、まさか野田町の方がヨセフ像送ってこないか心配しちゃいましたけど、(笑)なんにせよ、私たちの間に交わりが生まれたんですよ。「交わり様」の中で、交わりが生まれたんです。それって、どんな物資よりも尊いんじゃないですか。そうして私たちがお互いに心に掛けあって、お互いをいたわりあって、「つらいだろうなあ、何かしてあげたいなあ」って関わりあって、「交わり様」の中でどんどん交わりを深めていって、ご縁が深まっていって、その先はもう、神の国でしょう。教会は「交わり様」の目に見える印ですから。
 福島の地は、除染、除染で大変ですから、先週のミサでは、ちゃんと皆さんにお話ししてきました。「父と子と聖霊の交わりである天の国は、まったく汚染されてません。0シーベルトです。聖霊が宿っているあなた達の魂も、まったく汚されてません。0シーベルトです。この世がどれほど汚染されようとも、恐れずに生きていきましょう。神さまの愛という最高に清らかな恵みの中を、爽やかに生きていきましょう」と。まあ、先週は聖霊降臨の主日でしたからねえ、特にそういうお話をして励ましてまいりました。
 そうなんです。「交わり様」の交わりには汚れがないんです。人間の世がどれほど汚れていようとも、私たちは「神の愛」という、まったく汚れのない恵みの中を生きているんです。そんな「交わり様」の愛を信じて受け入れるとき、私たちも本当に交わることができる。今こそ、そんな安心感、そんな交わりが必要なんじゃないですか?

 三日前は、被災地の南三陸に行ってきました。南三陸はですね、なぜか行きにくいんですよ。他の被災地は、もうずいぶん回ってきましたけど、南三陸って、なんか行きにくいんですよね。交通の便っていうのもありますけど、個人的なタイミングもあって。訪問は1年ぶりになっちゃいました。一緒に行った助祭さんは、去年、南三陸のカトリック米川ベースで半年近く奉仕していたので、「神父さまが南三陸に来たのは、昨年の6月2日以来です」って、ちゃんと覚えてくれていて。
 まあ、1年たっても、津波で流された所はほとんど何も変わってないっていう状態ですけれど、それでも仮設の商店街ができていて、プレハブですけれどね、3、40軒の商店街が少し内陸の荒れ地にできていて。ぜひ、皆さんも行かれたらいいですよ。観光バスが止まって、ぞろぞろゾロゾロみんな降りて、お買い物してました。私も、南三陸では有名なお店で、以前は3階建ての立派なお店だったのが、今は小さなプレハブのお店なんですけども、そこでウニ丼食べました。美味しかった! ぜひ南三陸に行って、ウニ丼召しあがってきてください。あの~、1800円のお店と2000円のお店があるけど、1800円のお店がおいしいそうですよ。(笑)いや、地元の人がそう言ってたから。・・・あっ、まずい。これ、営業妨害ですね。2000円のお店のも、おいしいと思います。(笑)南三陸のウニ丼ね、有名だったんですけど、すべて流されて。それでもなんとか営業再開して、それはそれは前向きに頑張っていますから、交わりを大切にして応援しましょうよ。
 その仮設の商店街の周りに側溝があって、まだ津波のヘドロが溜まってる所があるんですよ。ヘドロって、臭うじゃないですか。で、そこに、米川ベースのボランティアの人たちが入ってですね、側溝の泥かきをしてました。ヘドロをかき出して、袋に詰めて運び出す仕事です。みんなで商店街の裏で、ていねいに泥かきしてるんです。頭が下がりました。ベース長がね、さわやかな笑顔の青年なんですけど、うれしそうに案内してくれるんですよ。「ほら、こっちです、見てください! こんなにきれいになって、水が流れました!」まさにそこを、爽やかな水が流れてる。いや、それは美しい光景でした。みんな、泥まみれになりながら、一生懸命泥かきしている。苦しむ現場と交わる人たち。
 え~皆さん、米川のベース長からの伝言です。「ぜひ、米川のボランティアベースにいらしてください」と。「米川ベースは、男性はもちろん、女性向きのベースですし、ご高齢の方も大勢来られています」と。「どんな種類の仕事でもありますし、どなたでも役に立てますよ」と。「力仕事もあれば、漁業支援、農業支援、その他、お茶の会で被災者のお話を傾聴するようなボランティアに至るまで、いろいろな奉仕があります」と。「最近、ボランティアの数が少し減ってきたところですが、これからが本番ですから、ぜひ応援してください」と。
 ボランティアって、つまりは交わりじゃないですか。直接会って、「大変でしたねえ」ってひと言うだけでも、どれだけ素晴らしいものが流れるか。ほんの1時間泥かいてでもですね、側溝にきれいな水が流れたら、どれほど私たちの中に神の愛が流れるか。それは「交わり様」の愛の交わり、愛の流れに与ることじゃないですか。
 「米川ベースにぜひボランティアを送ってください」と言われたので、私、「それじゃあ、多摩教会を米川ベースの東京出張所にいたしましょう」なんて・・・いつも思いつきで勝手なこと口走るんで、すいません(笑)・・・でも言っちゃいました。「米川ベース東京出張所:カトリック多摩教会」。どうぞ皆さん、「米川ベース」覚えといてください、南三陸の入り口の所にあるベースです。「女性向き」って言ってましたよ。ほんの数日でも構いません。まだボランティアしたことないっていう人も、これを機会に申し込んでみてはいかがですか。カトリックの仙台サポートセンターに連絡すれば、いろいろ教えてくれますから。この東京出張所から、あの米川ベースに大勢の人が行って、あそこで「交わり様」の素晴らしさを共に味わうことができたらいいですね。今日のこのミサ、三位一体のミサが、そういう「交わり様」の喜びが溢れているミサとなって、大勢の人のところに、その喜びが溢れていく、そういうミサであることを祈ります。

 さっき、第2朗読で言われていたように、私たちは神さまの相続人なんだから(cf.ローマ8:17)、どんな交わりでもできるはずなんです。・・・「神さまの相続人」ってすごいことでしょ? 神さまが、愛するわが子に、ご自分の大切なものを全部受け継がせたいと、そう願ってるってことですよ。大切なものって「愛」に決まってますよね。「交わり様」の愛の交わりを、私たちにそっくり相続させたいんです。今日それをちゃんと受け止めてください。そして、深~い交わりの中に一緒に入っていこうじゃないですか。できるんです。そこにはもう「恐れ」ってありません。それが私たちの教会の本質。
 福音書には、「父と子と聖霊の名によって、すべての民に洗礼を授けなさい」っていうイエスさまの命令があったけれど、それって言い直せば、「父と子と聖霊っていう、その交わりの中にみんなを入れなさい」っていうことでしょ? 「洗礼」ってそういうことですから。その「父と子と聖霊の『交わり様』の中に入った安心の中でこそ、教会の洗礼を受けよう」っていう思いが生まれる。まずは、父と子と聖霊の深~い交わりの中に私たちが入って、そこへみんなも招き入れるっていうのが、教会の本質です。
 米川ベースの人たち、ホントに熱心に奉仕していたし、さらには南三陸で被災者の心のケアをしているカトリック信者さんの小さなケアハウスも立ち寄ったんですけど、そこでも熱心に奉仕している人たちがいました。その地に住み込んで、苦しんでいる人の心のケアをしているんです。1年が過ぎて、精神的に元気な人はそれなりに元気になるけれど、心が苦しい人はますます苦しくなっていて、二極化が進んでいるとか。かなり傷んだ家を借りて暮らしていて、「雨漏りがひどくって、この前の大雨の時はバケツ抱えて寝てたんです。でも大船渡ベースの神父さんが来て、屋根を直してくれたんで雨漏りがしなくなりました」って言ってました。そこを拠点に、南三陸で苦しんでいる人、心が傷ついている人のために一生懸命働いているボランティアの方たちがいるんです。・・・美しい。そこにも立ち寄って励ましてきました。
 あったか~い「交わり様」が、こうして交わりに奉仕するさまざまな人を通して、試練の中であったかい交わりを必要としている所にやってきて、「もうだいじょうぶ。あなたを愛しているよ」って語りかけているその姿に、いつも共にいてくださるイエスさまのお姿を見て、ああ、イエスさまは約束を果たしてくださっているって、感動いたしました。


お説教冒頭のステンドグラスは、多摩教会のホームページでご紹介しております。
こちらをご覧ください。

2012年6月3日(日)録音/6月6日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英