もうだいじょうぶ。ご安心ください。

2012年6月24日 洗礼者聖ヨハネの誕生
・ 第1朗読:イザヤの預言(イザヤ49・1-6)
・ 第2朗読:使徒たちの宣教(使徒言行録13・22-26)
・ 福音朗読:ルカによる福音(ルカ1・57-66,80)

【晴佐久神父様 説教】

 この洗礼者ヨハネの誕生のくだりを読むと、おととしのイスラエル巡礼旅行を思い出します。
 エンカレムっていう所に「洗礼者聖ヨハネ誕生の教会」っていうのがあって、確かに山里で美しい所でした。そこには「聖母ご訪問の教会」っていう、聖母がエリサベトを訪問なさった記念の教会も建っていて、そこでその日のミサをお捧げしました。美しい教会でね、ただその日は曇っていて、空が暗くて少し雨模様だったんですけど、ミサの後みんなでゾロゾロっと外に出て門の所まで来たら、急に雲間が裂けて、パ〜ッと日が差したんですね。スポットライトみたいに教会の上に日が差して、キラキラッと輝いて。そういうの今までも見たことはあるけれども、あんなにくっきりと光が下りてくる様子っていうのは、これは後にも先にも珍しいというか、感動的というか。
 それでもう、みんな口々に「わ〜!きれいっ!」って感動してね。で、私その時にすごく覚えてるのは、みんなの顔が本当に輝いてるんですよ。まあ、旅先だから、ちょっと疲れていて、なんとなくみんなブスッとした感じで回ってるわけですけど、その光を見た時のみんなの顔の輝きが、実に美しいというか・・・。「わ〜!すてきっ!」って笑顔で感動してる時のそういう顔って、いいですね。その光自体はもちろんきれいなんですけど、それよりもみんなの顔がホントにステキで、私はそっちが「ああ、いいなあ」って、それが忘れられないんです。っていうのも実は、その直前のミサの説教のとき、みんなの顔が疲れてるっていうか、なんだかブスッとした感じだったのが妙に気になってたんで、その直後のみんなのキラキラッと輝く顔が余計に印象的だったんです。
 で、そのとき、ああ私もこういう顔をつくり出したいなって、ホントに心からそう思った。こんな顔にさせることができる、光差し込む説教をしたいって、そう思ったのをよく覚えてます。
 今日は梅雨の晴れ間ですか、いいお天気ですけど、私も皆さんの顔をキラキラッとさせるようなお話、できるといいんですけれど。

 この、ザカリアの舌がパッとほどけて、賛美の言葉が溢れだすシーンがあります。これが私にとっては、今日の福音書で一番印象的なシーンなんですけど、そのいきさつは皆さん、ご存じですね。
 不妊の女だったんですね、エリサベトが。で、ご主人のザカリアは、祭司。ある時このザカリアに天使ガブリエルが現れて、「エリサベトに子どもが生まれる」と宣言する。しかしザカリアは、信じられなかったんですね。「妻は不妊だし、二人とももう年老いている。どんな証拠でそれが分かるんだ」みたいなことを言うんですよ。するとガブリエルは、「わたしは神から遣わされたのだ。わたしの言葉は必ず実現する。あなたはそれを信じなかったから、その口は閉ざされる」っていうようなことを言って、ザカリアは口がきけなくなる。
 そして、今日読まれたところです。エリサベトに子どもが生まれてですね、ザカリアも喜んだことでしょう。天使のお告げどおりに、「この子の名はヨハネ」って示した時に、舌がほどけて賛美の言葉がほとばしる。つまり、まさに神さまのみ言葉がちゃんと実現するっていうことをホントに受け入れた時に、舌がほどけて、賛美の言葉がパ〜っと溢れ出る。美しいシーンです。
 何かが邪魔してたんですね、ザカリアの中で。何かが邪魔してた。目の前に天使が現れてみ言葉を語ってるのにですよ、それでも信じられないんだから。
 どうでしょう、皆さんだったら、天使が現れて「これこれ、こうなる」って宣言されたら、感動して、「え〜、そうなんですか! 信じますっ!」って素直に言いますか?・・・どうなんでしょう、たぶんザカリアみたいに私たちの中にも何か邪魔があって、せっかく神さまがそうおっしゃってくださってるのに、受け入れられないんじゃないですか。自分の中の思い込みとか、この世の常識とか、私なりの判断とか、なにか一人ひとりのとらわれによって、「神の言葉は必ず実現する」っていうことが信じられないでいる。それが私たちの現実じゃないですか。

 しかし、私たちが信じようと信じまいと、神の言葉は実現します。神が「わたしはあなたを愛している」と言ったら、その愛は必ず実現します。神が「わたしはあなたを救う」と言ってるんだから、あなたは必ず救われます。そんな「神さまのみ言葉に対する信頼」っていうものが私たちの中にある時にこそ、私たちの口からも感謝と賛美の思いが溢れてくる。
 「ザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた」ってありますが、その賛美のことばは、今日読んだ箇所の後に「ザカリアの預言」として載っております。カトリックの日々の祈りである「教会の祈り」で、毎朝お祈りするところです。「神をほめたたえよ、イスラエルの神を」で始まる、朝の祈り。最後は「夜明けの太陽は私たちに臨み、闇と死の陰にある人を照らし、わたしたちの歩みを平和に導く」という一節で終わる「ザカリアの賛歌」です。きれいでしょ?
 「夜明けの太陽が私たちに臨む」「闇と死の陰にある人を照らす」、これ、預言ですから神の言葉ですよ。神の言葉が、ザカリアの口を通して溢れてくる。「夜明けの太陽は私たちに臨み、闇と死の陰にある人を照らす」、そういう言葉を信じましょう。
 事実、「闇と死の陰」にあるんじゃないですか、私たち。しかし今、「夜明けの太陽」が私たちを照らします。夜と朝はまったく違う。だって、太陽が昇るんですよ。そうして世界は一変する。私たちの心の奥底にまで、日の光が届く。そしてもう永遠に、闇と死はうち払われる。これは神がなさってること。ちょうど、それこそパッと雲間から日が差すように、太陽の光が私たちの心の奥底に届く。

 考えてみたら、黒〜い雲の下で、どれほど心が塞がっていようとも、雲の上では太陽は輝いてるわけですよね。ほら、よく宇宙から地球を撮った映像があるじゃないですか。あれ見れば分かるとおり、地球は丸く青く光っていて、影なんかひとつもないわけですよね。まあ、この前みたいな日食の時はね、月の影が小さく通っていくんでしょうけれど、普段、太陽の光は、地球全体に、ちゃんと全部当たってる。なにひとつ影がない。もちろんそこには白い雲が見えますし、その雲の下では、「暗いねえ」と、「日が差さないねえ」と、「梅雨明けはいつかねえ」と言ってるかもしれないけれど、太陽が消えたわけじゃない。日の光は当たってる。しかし何かが邪魔をして、その光が届いていない。日の光が心の底まで届いていない。それが、「闇と死」の状況です。でもそれは、日の光がないわけじゃないんです。
 それこそ、先週の説教ですよ。先週、「天の救い」と「地の救い」の話、しましたでしょう? 「天の救い」は、神の愛であり、この太陽の光みたいに、全員に当たってるんです。そしてやがて、私たちはいつかみんな、その天の光の中に招き入れられる。すでにすべての人が本来的に天の救いに与かっているんです。まさに「みんな神の子だ、神の国は来た」ってイエスさまが言ってるのは、そのことです。なのに、そのみ言葉が実現すると信じない者は自分の心に雲をかけて、その救いのみ言葉が心の輝きになってない。疑いと恐れという、闇と死の陰に閉ざされている。
 そこに差し込む光であるイエスさま自身が、天の救いです。日の光のように現れて、その光は、闇と死の陰にあるわたしたちを照らして、そこに輝きが溢れる。そのとき私たちは、「ああ、私、救われてたんだ!」って知る。「私も救いのうちにあったんだ」って気付く。そして「私は、本当に必ず、完全な救いに入っていくんだ」っていう希望を持つ。・・・それを私は「地の救い」と呼ぶ。
 「天の救い」は、み〜んなの上に、ちゃんと当たっています。後は、それに目覚めて、「地の救い」の喜びを知り、「あなたもそうなんだよ」って、周りの人にも教えてあげるのみ。いかなる時も、太陽の光は消えていません。日は必ず差しています。
 ザカリアに比べたら、聖母マリアは同じ状況なのに・・・信じたんですよ。「お言葉どおりになりますように」って言ったんです。だから、エリサベトの聖母への賛歌にもあるように、「神の言葉は必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」って聖母マリアは言われる。私たちも、そう言われたいですね。
 「神の言葉は必ず実現する」。それを信じた者はなんと幸いか。み言葉はいっぱい語られるけれども、「それは私のことだ」って、そう信じられなかったら・・・。

 第1朗読で、「主は母の胎にあるわたしを呼び」っていうようなことが、何度も言われましたでしょう。「主は母の胎にあったわたしを形づくられた」とか、そういう言い方です。これは、神さまがそもそもの始めから特別にこの私を愛して選んで、今日まで計らってくださったことを表す言い方です。
 皆さんも、かつてはみんなお母さんのおなかの中にいたわけですよねえ。そしてその時はみんな、今の悩みとか、この苦しい状況とか、世の中の問題とか、何にも知らなかったわけでしょ。でも、そんな何にも知らない、まだち〜いさな胎児だったその時から、もう神さまはこの私をちゃんと愛して、選んで、導いておられた。すべては神がなさっておられることであり、その計らいはこの世を超越している。
 先ほど、答唱詩編でも歌いました。これ、美しい答唱詩編ですよね〜。
 「神の計らいは限りなく、生涯わたしはその中に生きる」
 さっき皆さん、何気な〜く歌ってましたけれど、これほど美しい詩はないですよ。
 「神の計らいは限りなく、生涯わたしはその中に生きる」
 詩編の唱和の部分はおひとりで歌ってくださいましたけど、これも美しい。
 「わたしがすわるのも、立つのも知り、遠くからわたしの思いを見通される。歩く時も、休む時も見守り、わたしの行いをすべて知っておられる」
 ・・・なんか安心じゃないですか? 神さまはすべてを知っておられて、私は生涯、その計らいのなかを生きている。私が計らってるんじゃない。「神さまが」計らってる。
 確かに、私たちの人生に、いいこととか悪いこととか、いろんなことがある。それをみんな、いいとか悪いとか、勝手なことを言うけれども、実はぜんぶ神さまの計らいの中にあると信じられたら・・・。こうしてミサを捧げている間も、さっきから立ったり座ったりしていますよね。「わたしがすわるのも、立つのも知り」・・・私たちが何気なくやってること、日常のすべて、喜んだり悲しんだり、イライラしたりもめたり、何気なくやっていることすべてに、神さまは太陽のような光をちゃんと当てて、見守っている。だから、安心。「あなたのすべてを計らっている」。それは「この私に」語られてる言葉だって、気付いてください。
 「くちびるにことばがのぼる前に、神よ、あなたはすべてを知っておられる」とも歌いましたでしょう? 私たちいろんなことしゃべりますけれども、話そうと思うこと、しようとすること、それ以前に、もう神さまはそれをすべて知っておられる。そうして、あったか〜い眼差しで全部見守っていて、やがてはご自分がおっしゃったとおりの救いを実現していく。私たちはそれを、ただただ信じて、あれよあれよと見守るばかり。まあ、そういう神さまの救いのみ業(わざ)にささやか〜な協力をするのが、私たちキリスト者ってことなんでしょう。

 ちょうどメンテナンスの時期でですね、3カ月前に洗礼を受けた方との面接をしているわけですけれども、先週聴いた方のお話では、「もう、この3カ月間、洗礼を受けてからは本当に嬉しくって嬉しくって、普段何気ない時でも、思わずニコニコしちゃうんです」って言ってましたよ。いいですねえ。ずっと続いてほしいですねえ。私たちも、初めはよかったけれど、受洗後30年たったら、こんなになっちゃったっていうふうに(笑)、言われたくないですねえ。3カ月たって、まだこう、普段普通にしててもニコニコしちゃうって、それは、神さまが輝かせてる顔ですよ。人を洗礼に導けば、そんな顔をつくり出せるっていうのは、これは私たちキリスト者の、何て言うんでしょう、誇りというか、・・・喜びですね。
 実際、明るくなって顔変わっちゃったもんだから、久しぶりに実家に帰ったら、「あんた変わったわね」って言われたんですって。その実家もね、いろんな問題抱えていて、ご両親もつらい状況でですね、もちろん本人もつらかったんですけど、「もうあんたの面倒まで見られないから」って言われて、去年の夏、出てきたんですね。でも、こっちで教会に出会い、福音に出会い・・・。あの頃、そうして救いの喜びに出会った頃のこと、よく覚えてます。やがて洗礼を受け、顔まで変わって、実家に帰ったら、「あんた変わったわね」って驚かれて、その救いの喜びの気配は当然家族にも及んでいくわけですよね。実際、「あんた、やっぱり帰ってきなさいよ」って言われたとか。
 これ、神さまの輝きを宿している者の光っていうのは、もうホントに「闇と死の陰にある人」は感じるんですよね。「ここに光がある」っていうこと。救いが始まってるってこと。もうそれこそ、何か言うの言わないのの話じゃなく、「ただこういう救いの喜びを生きている人がそこに行けば、その人を通して何か素敵なことが起こっちゃう」っていうようなことじゃないですかねえ。

 2週間前からこの教会に通い始めたひとりの青年も、みるみる顔が変わりましたねえ。幼児洗礼だったんですけど、ほとんど教会に通ってなかったんです。地方から都内に出てきて働いたけど、いろいろ無理がたたって精神的に落ち込んで、仕事をやめました。で、この近くに引っ越してきたんですよ。近くに教会があるのは知っていて気になっていたけど、敬遠していたのが、ある日勇気を持って入ってみたら、先々週の初聖体の日だったんですね。で、初聖体の子どもたちのキラキラしてる様子を見て、自分の初聖体のときを思い出した。そして、「やっぱりここに救いがある。ここに来るしかない。今、つらくて、救いのない気持ちでいる今こそ、ここに来なくっちゃならないんだ」・・・そう思って、翌週の聖書講座に来て、入門講座に来て、先週のミサに来て、また入門講座に来て、昨日のミサに来た。
 私、昨日、ミサの前にその彼に話しました。ず〜っと神さまに導かれてたんだってことを、信じてほしいって。
 「あなたは、子どもの頃、初聖体受けてから、教会を離れ、元気に働いたり、落ち込んで苦しんだりしてきたけど、今まで神さまはあなたのことを片時も忘れずに、恵みを注ぎ続けていた。そのことに気づいてほしい。そうして、これからもあなたを、決して見捨てない。見放さない。あなたはそのことに今、気づき始めたところだ。あなたは、もうだいじょうぶ。もう救われた。必ず楽になれるから、安心してこの教会に通い続けて、福音をいっぱい聞いてほしい。あと1年もたったら、その顔は輝いている」
 ・・・私、そう宣言いたしました。
 実際、そういう宣言をしているだけでですね、目の前で顔が変わっていくんですよ。で、そのお話の後、昨日の夜のミサに彼も出たんですけど、その夜のミサのあと、もう顔が違いますもんね。「神父さん、ありがとうございます。ホントに、今、心が落ち着きました」って、そう言って帰って行きましたよ。名残惜しそうにね、振り向きながら。

 昨日の昼の入門講座に来てた方も、そんな方でした。九州の方なんですけど、やっぱり洗礼を受けて、もう20数年たってるんです。・・・この方は地元の教会に熱心に通っているんですけど、つらい気持ちを抱えて苦しんでいる。「自分は救われないんじゃないか」って、ホントに自分を責めて、苦しんでいる。それはたぶん、教会に通っていても福音を聞き違えているんですね。「あなたが、ホントにちゃんと信じて、正しい生活をしないと、救われない」と、福音をそうとらえてしまって、そう思い込んで、苦しんでいた。それはホントにつらかったようです。
 で、そんな苦しみの中で、ある時縁あって、カトリック多摩教会のホームページを開いてみた。そうするとですね、「カトリック多摩教会」って書いてあるその次に、こう書いてあるんですよ。皆さん、ご存じですか? 私たちの教会のホームページの最初の1行目に何が書いてあるか言える人? ・・・え〜っ? いないんですか? (笑)あっ、あそこに知ってる人がいました! そうなんですよ、こう書いてあるんです。
 「もうだいじょうぶ。ご安心ください。神さまはあなたを愛しています」
 そう1行目に書いてあるんです。覚えといてくださいね。
 「もうだいじょうぶ。ご安心ください。神さまはあなたを愛しています」
 どんなに頑張ってもダメなんじゃないか、罪深い私は救われないんじゃないかって、ず〜っとつらい思いをして苦しんでいた人が、「もうだいじょうぶ」って言われて、「ご安心ください」って言われて、「神さまはあなたを愛しています」って言われて、ホントに嬉しくなって、矢も盾もたまらず飛行機に乗って、多摩教会に昨日来られたんですよ。そうおっしゃいましたよ。昼の入門講座にも出て、そして、この方も昨夜のミサにもおられました。
 「もうだいじょうぶ。ご安心ください。神さまはあなたを愛しています」
 今日のミサで、皆さんに語られてる言葉です。神の言葉は必ず実現すると信じた人は、なんて幸いでしょう。・・・皆さんの顔も少し明るくなってきたかな♪

2012年6月24日 (日) 録音/6月30日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英