あとは俺に任せろ

【カトリック浅草教会】

2016年10月23日 年間第30主日
・ 第1朗読:シラ書:(シラ35・15b-17、20-22a)
・ 第2朗読:使徒パウロのテモテへの手紙(二テモテ4・6-8、16-18)
・ 福音朗読:ルカによる福音(ルカ18・9-14)

【晴佐久神父様 説教】

 わたくし、不肖、晴佐久昌英、昨日をもちまして、59歳となりました。(拍手👏)
 ・・・いや、申し訳ない・・・(;^◇^;)ゝ、もう来年、60ですよ、60。来年の10月22日、カレンダーを見たら、日曜日なんですね。第四日曜日ですから、浅草教会なんですね。え~、来年は謹んで、還暦ミサを、(笑) 捧げさせていただきましょう。「赤いちゃんちゃんこ」ならぬ赤いカズラ(※1)着たりして。(笑)・・・いやはや、自分がそんな年になろうとは。
 おやじが50歳で死んだときに、「自分は50まで生きられるかどうか」ってね、思ったもんですけど、すでにそれからもう10年近く。
 でも、「年を取る」っていうのは、いいですね。ひとつ、すごく実感する、いいことがある。・・・それは、何か。

 昨晩、毎夏の島のキャンプ仲間が集まって、私の誕生日をお祝いしてくれました。大勢集まってくれたんですけど、このキャンプ仲間って、10代、20代、30代、40代、50代、ぜんぶ(そろ)うんですよ。・・・いいチームですよね。なかなか、そういう集まりってないんじゃないですか。パーティーでこれほど幅広い年代層が集まるのって。
 でも、そうすると、当然、ジェネレーションギャップの話になるんですよ。(笑) 「私たちはね、子どものころ、グレープフルーツに砂糖をかけてたのよ」とかね、(笑)なんか、そんな話でね、盛り上がる。
 昨日は、「言葉の使い方の違い」が話題になった。例えば、「琴線に触れる」っていう言葉。・・・「心の琴線に触れる」とかって普通に言うでしょ。
 これ、皆さん、どういう意味か分かりますよね。私はもちろん、「心の琴線に触れる」と言われれば、深く感動するっていうかね、心の奥でグッとくるっていうような、いい意味にしか使わないし、それを悪い意味に使うなんて、ゆめゆめ思ってなかったけど、昨日、若い子が、これを「怒りを買うこと」って言う意味で使ってるって言うんです。つまり、「逆鱗(げきりん)に触れる」みたいな意味で使ってるって言うんですよ。しかも若い世代ではそれが普通になりつつあると。これにはびっくりしました。「へえ~」って思いましたし、でもまあ、言葉っていうのは、だんだん変わっていきますからね。年取れば取るほど、ぎょっとするような言葉遣いに()うわけです。
 ついこの前も、上野教会に有名なコイン鑑定士がいて、その方と私と、何人かで一緒に食事をしたんですね。テレビにも出たりする鑑定士で、コインショップの店主でもある方です。で、その鑑定士さんが「非常に貴重なコインを手に入れた」みたいな話をしたとき、そこにいた若い子が、本人としては、「それは、とてもいい物ですね。うらやましいです」っていう意味で使ったんですけど、鑑定士さんに向かって言ったんです。「それは眉唾(まゆつば)ものですね」って。(笑) 私、びっくりして、「いや、それを言うなら、垂涎(すいぜん)ものっていうんだよ」って、あわてて訂正させていただきましたけど。あとで彼が言うには、「眉に唾がかかるほど、うらやましくてよだれが出てる」っていう意味だと思ってたって。
 ・・・若い子、面白いですね、真逆の意味とも知らず、「眉唾ものですね」って。これは単なる誤用ですし、広がらないことを願うばかりです。じゃないと、そのうち言われるかもしれませんからね。「晴佐久神父さんの本、眉唾ものですね」とか。(笑) まあでも、若い子たち、しょうがないかな、と思うのは、やっぱり、まだまだね、経験が少ないから、知らないんですよね。

 だけどね、この、「知らない」っていうことでいうなら、実は若い子たちが一番知らないのは、私、おそらく、「神の愛」だと思うんですよ。
 まだ本当の意味での試練もあまり体験してなかったりすると、人は当然、自分の力で生きているような感覚になるから、別に神の愛を必要としないっていうか、そういうことをあまり考えないですよね。自分がもうホントに何にもできなくなる、完全にアウトっていうような、そういう思いになる体験がないと、ついつい、何に頼らなくても生きていけるような気持ちになっちゃうんですよね。ある意味それが普通のことですし、それがやっぱり、いい悪いは別にして、「若さ」っていうことだと思う。
 人生には、そういう若いときも必要だなとは思いますよ。子どもの時から老成してるってのも変ですから。若いときは、やっぱり自分の力を信じて、粋がっちゃったりしてね、自分で何でもできるみたいに思いあがって、頑張って。・・・それでいいと思う。だって、そういう日々があればこそ、自分の限界を知り、人の弱さを知って、神の愛に目覚めていくわけだから。
 皆さんもそうでしょうけど、年を重ねていくと、もうホント~に、自分の力ではもはやどうすることもできないっていう体験をしますし、そんなときに、ようやく、何か自分の力を超えた存在に出会えたんじゃないですか。そんな弱くて小さな自分を、この世に望んで生み、愛して育て、今も生かし、そんな自分を選んで、ご自分の栄光のためにお役に立ててくださる方、そのような神の愛が、今、この私を生かしてくれているんだっていうことに気づいていく。
 この気づいていくプロセスが、人生なんです。その愛に最初っから気づいていたのはイエスさまくらい。ぼくら凡人は、若いころはちょっと粋がっちゃってね、自分の力だけで頑張っちゃってるような気になって、たくさん失敗を重ねてっていいんだと思う。
 ただ、さすがに59歳にもなると、もう気づかないとね。「これはもう、アウトだ・・・」っていうような愚かな過ちや、絶望的状況を何度も体験してきたわけですし、でも、そのたびに、神が本当にこの私を愛している、導いている、救っているんだということを体験して、「ああ、・・・神は愛なんだ」っていうことを思い知らされてきた。人生って、つまりは、この神の愛に目覚めていくプロセスなんですね。

 さっき、「対照的な二人の人」、出てきましたでしょ、ファリサイ派と徴税人(※2)
 たとえ話ですから、それ以上は何も書いていませんけど、なんとな~く、ぼくのイメージでは、このファリサイ派の人は、まだ若く、血気盛んな青年ファリサイ派なんですよ。「俺は頑張ってるぞ。立派に生きてるぞ、ちゃんとやってるんだぞ!」みたいな自信家の若者ね。若き日のパウロみたいな。
 なんでそう思うかっていうと、言ってることが幼稚だからです。「幼稚」っていうのはつまり、まだ神の愛を知らないってこと。神に愛されているっていう実感がないので、どこか「頑張って愛されよう」としてるってこと。彼の言葉に、そんな必死な思いが感じられませんか?
 「わたしは奪い取っていませんよ。不正じゃありませんよ。・・・こんなにいい子なんですよ!」(cf.ルカ18:11)って、こう、必死にアピールしてる。自分の力で頑張って、認めてもらおうとしてる。結局、自信家って、ホントは自信がないから、虚勢を張ってるんですね。そこがこう、若気の至りっていう感じがしますよね。
 「この徴税人のような者でないことを感謝します」(ルカ18:11)とかね。自分は、決してこのような者にはならないって思い込んでいる。なっちゃいけないと、自分に言い聞かせてる。
 でも、年を取ってくると、「偉そうなことを言ってた自分も、実は徴税人同様の罪びとだった」とか、だんだん気づいてくじゃないですか。ですから、ずっと後ろの方で、顔を伏せて、胸を打ってるこの徴税人は(cf.ルカ18:13)、結構、年を取った人のような気がする。
 「こんなヤクザみたいな仕事しているのは自分でも嫌だ」って思いながらも、なかなかそこから抜け出せず、そうしてしか食っていくことができず、長年、人から嫌われたり、軽蔑されたりしながらも、だまし取ったり、ごまかしたりしている、「こんな自分は本当に情けない」と思っている徴税人。
 しかし、試練の時や絶望の日々を超えていくうちに、いつしか、「それでも神さまは、こんな自分を愛してくださってるんだ、こんな自分をゆるしてくださってるんだ、こんな自分だからこそ、生かしてくださってるんだ」と、そういう真理、すなわち神の愛に、人生の中で気づいていって、今はもう、ただただ、神のみもとで、祈る日々。そこには血気盛んな思い上がりはなく、とても安らかな、謙遜な平和があります。
 「神さま、憐れんでください。あなたの愛なしには、生きていけません。それだけがすべてです」
そんな思いで、胸を打っている。・・・それは、それなりに年を取って、神の愛を知るようになった徴税人であるはずです。
 若きファリサイ派は、「あんな者にはならないでよかった、これからもなりたくない」ってね、そうとしか思っていないけど、彼には、最も大事なことが見えていない。
 ・・・いや、でも、どうなんでしょうね。私たち、年を取って、なお、「この俺は立派だ。頑張ってる! あんな奴らとは違うぞ!」とか思っているようでは、まだちょっと幼稚かなっていうことになるんじゃないですかね。自分では胸打ってる徴税人のつもりでもね、逆にね、「私は、あのファリサイ派のように、人を見下す者でないことを感謝いたします」(笑)、とか言ってたら、同じ穴のむじなですよね。
 何かこう、私たちの人生の本質って、「自分の力では、まったくどうすることもできないときにこそ目覚める、神さまの愛」によって成り立ってるんじゃないですか。

 私も、若気の至りと言えば、あのころを思い出します。破たんする前のこと。やっぱり、なんかこう、自分はなんでもできそうな気がしてるんですよね。
 父親に、「美大に行きたい」って頼んだときのことを思い出します。ぼく、年末になってから、「美大に行きたい」って言い出したんですよ、高3の年末ですよ。そしたら、おやじが怒ってね~。
 「今頃になって、何言ってんだ! どうするつもりだ。絵描きで食ってけるのか!?」
 「ぼくは、子どもたちに福音を伝えるために、絵本を描きたいと思います」
 そう答えたら、怒ってね~。
 「人生、そんな甘いもんじゃない!」って。
 ・・・まあ、普通ね、そう言いますよね。
 どうですか? 皆さん。絵の勉強もしたことのない息子が高3の暮れにもなって、突然、「絵本を描きたいから、美大に行きたいと思います」って言い出したら。やっぱり、「何言いだすんだ、よく考えろ」って言うでしょう。父親の気持ちも、今になればよく分かる。
 まあ、でも、翌日の朝になったら、母親が、「お父さん、美大のこと、いいって言ってるわよ」って伝えてくれた。「『俺はあいつを信じる』って言ってたわよ」って。
 ・・・そのことは、後々、何度も思い出した。「信じてくれたんだから、頑張ろう」みたいにね。
 で、考えてみたら私、子どもたちのために絵本を出したりしてるんですよね、今。
 実は今日も販売しますけれども。(笑) 再販になった『あぶう ばぶう』っていう絵本ですけど(※3)、これなんか、絵本を読んでる子どもたちに向かって、イエスさまが手を広げて、「だいじょうぶう!」って言うっていう、不思議な絵本ですけれど、まさに子どもたちに福音を伝えているわけで、それこそ、「父さん、信じてくれてありがとう」って言わなきゃなりませんよね。
 だけど、こんな絵本ひとつだって、これ、若いころじゃ書けないんですよ。
 若いころは、粋がっても、頑張っちゃっても、いいんじゃないかと思うんですよ。ただ、そのあとで体験する破たんが大事です。悩んで、行き詰まって、壊れかけて、まさに神さまが、そんな私に直接、「だいじょうぶ!」ってね、宣言して救ってくれない限り、もう、どうすることもできないという破たんの体験が大事です。私は、体験しました。もはや、手も足も出ないっていう、そういう体験を重ねてきました。
 つらい思いの中で必死に救いを求めてる羊飼いや、追い詰められて逃げる道のない博士たちに、イエスさまが、一方的に、大いなる神の愛の力をもって、「だいじょうぶ!」って言ってくれる、さらには同じように弱さを抱えている私自身に向かって、まっすぐに、「だいじょうぶ!」って宣言するという絵本。不思議な絵本を作っちゃいましたけど、これ、やっぱり、若いころには書けなかったなって思います。

 今週は、一週間、講演会続きで、四つ講演会をやりました。火曜日、水曜日は都内でしたけど、おとといの金曜日は日帰りで博多、昨日の土曜日は鎌倉。
 どこに行っても、「だいじょうぶ! 神さまは必ず(・ ・)あなたを救う」って確信に満ちて宣言してきましたけど、あの、自分の力で頑張ってた20代では、言えなかったと思う。
 でも、自分が破たんしたあとも、「いや、破たんしたからこそ、神さまは、こんなぼくを愛してくれてる」という真理を知った今は、救われた者として、「だから、あなたもだいじょうぶだ!」って言える。それはもう、「罪を重ねてきて、よかったなあ・・・」みたいな、「破たんしてきて、よかったなあ・・・」みたいな、「年を取って、よかったなあ・・・」と、そういう気持ちになりますね。
 昨日の鎌倉の講演会は、精神障害や、病気を抱えている方たちの集いでの講演で、統合失調の方、うつの方、さまざまな試練を抱えている方たちですから、午前中に始めたときは、当然、皆さんの顔が、とっても暗かった。でも、「だいじょうぶだ!」「信じよう!」っていう話を続けていくと、だんだん顔が明るくなってくる。
 お昼になって、一人の方が、お弁当を食べたあと、私のところに来て、お話ししてくれました。自分が長いこと統合失調症で、どれだけ苦しんだかっていうお話。
 でも、その方が、午後の話を聞き終えてから、最後の質疑応答の時間に、みんなの前で証しをしてくれました。
 「今日、福音を聞いて、本当に励まされました。思えば私は、長いこと統合失調で苦しんできたけれども、そのおかげでイエスさまにも出会えたし、洗礼を受けることもできたし、今日もこうして、神さまの愛に触れることができました。病気になってよかったと思います」
 こういうことって、なかなか、若いころには言いにくいことです。
 けれど、だれであれ、試練によって神に出会い、神がどんな人も必ず救ってくださっていることに目覚めていくのです。そうして神の愛に全面的に信頼して、「こんな私を憐れんでください」と祈るとき、私たちの中に、本当の意味での信仰、希望、愛が生まれてくるんじゃないですか。

 若い方たちに申し上げたい、
 「大変なことはいっぱいあるけれども、それが、まさに恵みですよ」と。
 年配の方にも申し上げたい、
 「大変なことはいっぱいありましたけど、それが、まさに恵みでしたね」と。
 そうして、今日、共に、感謝の祭儀(※4)を捧げます。
 私たちは、ただただ胸を打って、「主よ、あわれみたまえ」と、そう祈ります。そのとき、神さまは、私たちを義としてくださる (cf.ルカ18:14)
 「それでいいんだよ。あとは俺に任せろ」と、神さまは、そう言ってくださる。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます。)

※1:「カズラ」(既出)
 司祭が祭儀(ミサ)のときに着用する祭服の種類のひとつで、盛衣。
 カズラは、ラテン語「カーザ(家)」に由来し、家の頭のしるし。
 ⇒ 司祭が「教会の頭であるキリストをまとって奉仕している」というしるしになっている。
 色は「赤」、「白」、「緑」、「紫」などで、典礼暦や、各祝日などの意味を視覚的に表現しており、それに従って変更される。衣には、彩色や刺繍が施されている。
【サンプル】
   
左から水色のカズラ、白のカズラ、紫色のカズラ。
この写真の水色のカズラは、2015年聖母被昇天の祭日、白のカズラは、2016年復活の主日、
紫のカズラは、2015年待降節第一主日に着用。
 各、色の意味とは、以下のとおり。
「白」:  (意味) 神の栄光、清らかさ、喜び。 
      (用いられる日)復活節と降誕節、受難の日以外の主の祭日。
              聖母、天使、殉教者以外の聖人の祝祭日
              諸聖人の祝日(11/1)、洗者ヨハネの誕生(6/24)の祭日
              聖ヨハネ使徒福音史家(12/27)、聖ペトロの使徒座(2/22)、
              聖パウロの回心の祝日(1/25)
「赤」:  (意味) 殉教、愛、炎
      (用いられる日)受難の主日、聖金曜日、聖霊降臨の主日、主の受難の諸祝日
              使徒、福音史家の帰天日、殉教者の祝日
「緑」:  (意味) 希望、平和、自然、充足、堅実など
      (用いられる日)年間の典礼
「紫」:  (意味) 償い、回心、節制、待望、つつしみなど
      (用いられる日) 待降節、四旬節、死者のための典礼
「黒」:  (意味) 死、悲しみ
      (用いられる日) 葬儀のときに使用されることもある
「バラ色」:(意味) 喜び
      (用いられる日) 待降節の第3主日(喜びの主日)、四旬節第4主日(バラの主日)
「金」:  (意味) 王位、尊厳など
      (用いられる日) 盛大に祝い事が行われる日には、上記の典礼色にかかわらず、
               より高貴な祭服として、金色を用いることができる。
「青」:  (意味) 天
      (用いられる日) 聖母マリアの信心のミサなどに用いることができる。
(参考)
[PDF]ローマ・ミサ典礼書の総則 (暫定版)」(2004年4月8日)
    - p.73 「Ⅳ 祭服」の「346[=308]」祭服の色について
祭服(ウィキペディア)
さまざまなカズラの画像(Google画像検索) など 
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※2:「さっき、『対照的な二人の人』、出てきましたでしょ、ファリサイ派と徴税人」
この日、2016年10月23日(年間第30主日)に読まれた福音朗読の中に出てきた「二人」。
この日の福音朗読の箇所は、
ルカによる福音書18章9~14節
〈小見出し:「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ〉
===(聖書該当箇所)===
自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
――
ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
――
ところが、
徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。
神様、罪人のわたしを憐れんでください。
――
言っておくが、
義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ18:9~14/段落分け・強調引用者)

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※3:「再販になった『あぶう ばぶう』っていう絵本」前掲
◎ 『あぶう ばぶう』 (文/晴佐久昌英・絵/かにえこうじ)
天国のパレードを目指して」(「福音の村」2016/10/9)のお説教中(>この辺~)、及び「参照※5」でも、ご案内しています。
以前の大きな本から、絵本サイズのA5版になりました。絵にインパクトがあるので、ちっちゃな子どもさんにも、より親しみやすくなっています。

出版社: ドン・ボスコ社
対象:幼児~
A5版上製、31ページ
発売日:2016/09
販売価格: 810円(税込)
(販売先)
・ 「あぶう ばぶう」(ドン・ボスコ社)
・ 「あぶう ばぶう」(Amazon)
・ 「あぶう ばぶう」(PAULS SHOP) 他
(参考)
・ 「神さまの後始末」(「福音の村」2013/10/13説教>この辺~)
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※4:「感謝の祭儀」
 ミサのこと。
 「ミサ」とは、聖体(イエスの肉と血に聖化されたパンとぶどう酒)を頂く祭儀のことをいう。
 この祭儀は、イエスが最後の晩餐のとき、パンとぶどう酒を取って行った一連の動作や言葉を起源とし、「わたしの記念としてこのように行いなさい」と使徒たちに命じたことから(一コリ11:23-26)継続し、発展してきた。
 「聖体」を頂くということは、イエスの肉と血に与り、イエスと一体化するという意味を持つため、これに与る者は、神に感謝する。そこで、「ミサ」というラテン語の言葉が使われる以前には、この儀式は「エウカリスティア(ギリシア語で『感謝』→
感謝の祭儀)」、「主の晩餐」(一コリ11:20)、「パンを割くこと」(使2:42)などと呼ばれていた。
(参考)
・ 「ミサ」(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008年)
・ 「6.『ミサ』と『聖体礼儀』」(「13.キリスト教の祭りと行事」<「神々の故郷とその神話・伝承を求めて」)
・ 「第81回 教会のいのちの源泉、頂点であるエウカリスティア」(「カテキズムを読もう」<ラウダーテ
・ 「エウカリスティア (2010年6月6日 キリストの聖体C年) J.E.Perez Valera S.J. 」(「バーナード・ロナーガンの哲学、神学の紹介の試み」) ほか
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2016年10月23日(日) 録音/2016年11月9日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英