楽園は、いま、ここに

【カトリック浅草教会】

2016年11月20日 王であるキリスト
・ 第1朗読:サムエル記:(サムエル下5・1-3)
・ 第2朗読:使徒パウロのコロサイの教会への手紙(コロサイ1・12-20)
・ 福音朗読:ルカによる福音(ルカ23・35-43)

【晴佐久神父様 説教】

 早いものでと申しましょうか、「いつくしみの特別聖年(※1)」、今日をもって終わりです。
 お気づきでしたかどうか、この一年、説教では徹底して「いつくしみ」の話をしてきました。
 「神は『いつくしみ』そのものだ。そのいつくしみは、もう、ここに、及んでいる。今、この私を満たしている。私たちは、永遠なる神のいつくしみの中を生きている。その真実にこそ、目覚めよう」と、そういうお話を重ねてまいりました。もちろん、これからも、そういう福音を語ってまいりますが、とりあえず、「いつくしみの特別聖年」は、今日で終わり。ある意味、この一年間、私たちは、神のいつくしみについて学び、だれかをいつくしむチャレンジを繰り返してまいりましたから、今日が「いつくしみ学校」の卒業式みたいなものです。

 どうですか、卒業生の皆さん。神のいつくしみについて、この一年、ちゃんと目覚められたでしょうか。「少しでもいつくしみ深いものになりたい」という思いを、持てたでしょうか。そこが一番大事なところですから。・・・「いつくしみ」。特別聖年は終わりますけれども、いつくしみに目覚めた者として、ホントに心に安心、平和をもった者として、卒業生として、誇りをもって出発いたしましょう。
 いつくしみの検定試験はやりませんでしたけれどもね、・・・なんなら、やりましょうか? (笑) 合格できそうですか? 合格したかったら、筆記試験なら、「私は、今、ここで、神のいつくしみのうちに生きている」と、そのことを書けば、もうそれで合格です。そうして、だれかに、そのいつくしみを示すならば、立派な卒業生です。
 肝心なことは、たとえ、どれほどいつくしみについて学んで、知ったとしても、それが今ここでの自分の現実だと信じなければ、意味がないということです。
 「神のいつくしみが、今、この私を、生かしている」
 「今、この悩んでいる状況、この恐れている現実の中にあっても、神のいつくしみが、この私を包んでいる。守っている。導いている」
 「どんなときでも、まさに今、神のいつくしみは、ここにある」
 ・・・もう、それが一番肝心なところ。
 神のいつくしみと、私たちの現実を、信仰によって結ぶのが、私たちの「救いの体験」です。どれほど神がいつくしみ深くったって、そのいつくしみに、今、この私が気づかなかったら、私のうちには不安があり、恐れがあり、いら立ちがあり、不満があり・・・と、そういうことになる。
 「神のいつくしみは、今、ここに」っていうね、その真実にちゃんと目覚めて、いつくしみの特別学校を卒業した卒業生として、「これから先は、『何があっても、天の父のいつくしみのうちにある』という真実から離れない」、そんな決心をもって、出発いたしましょう。

 第2朗読(※2)のパウロの言葉の中に、そんないつくしみのみ(わざ)が、過去形というか、もうそれが当然の現実だ、というニュアンスで出てくるんですね。これが、ありがたい。たとえば13節。
 「御父(おんちち)は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・) (コロサイ1:13/強調引用者) 。・・・すでに、完了しているんです。
 「わたしたちは、この御子(みこ)によって、(あがな)い、すなわち罪の赦しを得ているのです(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・) (コロサイ1:14/同) 。・・・すでに、完了しているんです。
 もう、御父は、私たちを闇の力から「救い出してくださった」し、イエスさまによって、私たちは「罪の赦しを得ている」んです。これはもう、事実ですから、消えない。その事実に、あとは、われわれが、ちゃんと気づいて、それを信じられるかどうか。一点、そこにかかっている。これから神さまに、「救ってくれ」だの、「赦してくれ」だのっていうのは、もう筋が通らない。神さまとしては、もう、そうしているんだから。だから、「気づいてくれよ」っていう話なんですよね、あとは。
 パウロは、最後にこんなふうに言っております。
 「神は、御心(みこころ)のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせた。そして、そのイエスさまの十字架の血によって平和、・・・何一つ欠けたところのない恵みの状態ですね、その平和を打ち立てて、万物をただ御子によって、御自分と和解させられた」 (cf.コロサイ1:19-20)
 神と私たちは、もうこの「十字架の血」によって結ばれ()んです。完了しているんですね。もう、そう「なった」んです。「よかったねえ、皆さん」っていう話なんですよ。罪深い私たちですけれども、安心して、信頼して、ただただ神のいつくしみに心を開きます。

 この「十字架の血」 (コロサイ1:19-20) っていうところを読むと、昨日、面談した(かた)とのお話を思い出します。ご本人、いらしてますか? ・・・ああ、いらしてますね。長いこと、魂の闇を経験して苦しんだ方です。けれども、福音を聴き続けることによって、神のいつくしみに目覚めることができました。「ホントによかったね」っていう話ですけども、その目覚めることのできた一つのきっかけに、トマス・アクィナス(※3)の祈りの詩があるということでした(※4)特に、その中に、「イエスさまの流した一滴の血によって、すべての人が救われた」っていうような、トマスの信仰を表す一節があって、それを大切にしている、と。
 ・・・「一滴の血」ですよ。ポトッ・・・と落ちた、その一滴の血で、「すべての人」、その時代の人も、その(のち)のすべての人も、みんな、もう救われた。神におできにならないことはない (cf.マタイ19:26、マルコ10:27) (※5)。イエスの十字架は、神がどれほど私たちを愛しているかという「いつくしみのしるし」であって、そこから流れ出た、その一滴の血、したたり落ちた、その一滴の血、それが、たとえば、この地上にポトッと落ちた瞬間、この地球はもう聖別されて、すべての人の罪はゆるされて、われわれは、神の子として新たにされたのです。
 「もう、恐れるな。あなたがたは、永遠なる存在だ」、キリスト教は、そう宣言いたします。そしてそれを、私たちは、この「いつくしみの特別聖年」に繰り返し、繰り返し思い起こして、「今、神の恵みによる救いのうちにある」という信仰を大切にいたします。
 昨日お話しした方も、魂の闇がどれほど苦しかったかについて、「地獄を見た」という言い方をしておられましたけれども、そういう地獄をくぐり抜けたからこそ、真の平和に目覚めたわけですし、逆にいえば、皆さん、どれほどこの世で地獄の苦しみがあろうとも、神のいつくしみは、それ以上なんです。恐れてはいけない。・・・神のいつくしみは、常に、それ以上です。
 その方が、癒やされて、救われて、今は心に平和が戻ってきているという、そのことはまさに、「いつくしみの特別聖年」の特別なしるしとして、私の思いに刻まれました。

 イエスさまの、この「はっきり言っておく」という宣言 (ルカ23:43) 、これを、先ほど皆さん、聞きましたけれども(※6)、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と、犯罪人の一人は、そう言っていただきました。素晴らしいお言葉です。
 二人の犯罪人が両側にいるわけですけども、これ、どこが違うかというと、片方の犯罪人はこう言った。
 「お前はメシアではないか、(つまり、救い主ではないか)。自分自身とわれわれを救ってみろ」 (cf.ルカ23:37)
 まあ、救い主といっても、ここで言ってるのは、この世の救い主ですね。ちなみに、議員と、兵士と、犯罪人が、3人そろっておんなじことを言っております。
 「自分を救うがよい」 (ルカ23:35)
 自分で、自分を救おうとする。これ、ついやっちゃうことですね、この世を生きてる私たちは。困ったとき、苦しんだとき、なんとか救われようとして、まあ、バタバタするわけです。でも、自分で自分を救うことは、最終的には、本当の意味では、人にはできない。自分で自分を救えるなんて、それはもはや神であって、われわれ人間にはできません。
 われわれにできることは、もう完全に無力なときにも、「そんな私を救うことができる、そのお(かた)を信じる」。・・・これです。
 「自分自身を救って見ろ」なんて、議員も言い、兵士も言い、この犯罪人も言いますけれども、もし、仮に自分で自分を救えたとしても、実は、それは救いじゃない。これは、この世の救いの話ですね。この世の王国の話です。
 今日、「王たるキリスト」の主日(※7)ですけれども、イエスさまは、「この世の王」ではありません。「永遠の王」「すべての人の王」「神さまの御国の王」です。
 そのような、御国での救いを、もう一人の犯罪人は求めたわけですね。・・・「わたしを思い出してください」 (ルカ23:42) 、と。

 ここ、肝心なんですけれど、「わたしを思い出してください」って言ったときに、イエスさまが、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」って答えましたでしょ (ルカ23:43) 。この「今日」って、いつのことだと思います?
 この後、イエスさまは、聖書によると午後3時ごろ亡くなるわけですけど (ルカ23:44) 、なんとなく読んでいると、「あなたは、これから死ぬけれども、この後、ほどなく私も死んだら、そのとき楽園に連れてってあげるよ」と、そのように読んだりします。でも、私が思うに、「あなたは今日(・ ・)」、この「今日」っていうのは、もう、「今」なんですよ。・・・「今」なんです。
 この前のザアカイのときも(※8)、「今日、救いがこの家を訪れた」 (ルカ19:9) って言ってますでしょ。「今、ここに」っていう意味なんですよね、ルカの「今日」は。ですから、イエスさまは、犯罪人に、「あなたがこの私を信じた、その今、この十字架上が、すでに楽園だ」って言ってるんですよ。
 「楽園は、今、ここに、始まっている」
 その宣言は、われわれ、この世で苦しむ者にとっては、大変ありがたい。
 「神のいつくしみの王国を信じたその瞬間、あなたはもう今、そのあなたの信仰において、楽園にいることを知る」
 この犯罪人も、たぶん悪い環境の中で生まれ育ち、社会からは見捨てられ、さまざまな不運の中で犯罪を犯して、捕まった。死刑になるっていうくらいだから、よほどのことをしたんでしょ? 大変な犯罪人なんですよ。当然、「こんな自分は救われっこない」と、そんな闇の底にいるわけですね。ところが、その闇の生涯における、最期の瞬間に、なんと、最も幸せな瞬間が訪れるんですね。それまで真っ暗な闇の中を生きてきて、今やもう、ただ殺されて終わり、みたいな最期の瞬間、ふと横を見るとイエスさまがいて、「一滴の血によって、すべての人が救われる」という恵みの瞬間が、そこに始まっている。
 そんなイエスさまに、いつくしみの王国を信じ、いつくしみの主を信じて、「この私を思い出してください」 (cf.ルカ23:42) と言った瞬間、そこに救いが実現した。そこに真の平和が訪れて、もはや恐れも怒りもなく、この犯罪人は、楽園を生き始めてるんです。もちろんその後、この世での命は終わったでしょう。でも、われわれ、この世を何のために生きているかというと、生きてる間にいつくしみを信じて、いつくしみの楽園を先取りして、平和を味わうためです。
 いつくしみに目覚めて救われた方は、「いつくしみの特別聖年」の間に、ようやく心の平和を取り戻すことができましたけれども、これから、われわれ、どのような試練があろうとも、この徹底したいつくしみから離れてはいけない。
 ですから、今日のこのミサは、閉年のミサですけれども、出発のミサでもあります。
 「神の恵みは、もうすでに、ここにある」ということを、イエスさまは、「ご自分」といういつくしみのしるしで、見せてくださいました。今日頂くご聖体だってそうですよ。

 先週、加計呂麻島(かけろまじま)(※9)に行って、スーパームーン(※10)を見てまいりました。「スーパームーン」、ご存じですか? 地球と月がとても近くなったときにちょうど満月だと、大きな月になるんですよね。で、先週のは、68年ぶりに起きたんだとか。直径で15パーセント大きく見える。30パーセント明るく見える。
 私、それをどうしても見たかったんですけど、加計呂麻島で見ることができました。東京では雨だったとか。・・・すいません。(笑) いやあ、きれいだったですよ。海の向こうの島の上に、満月が上がったんですけれども、いや、ホントにデカかった。びっくりしました。なんといってもすごかったのは、海の上に、月の反射光で、光の道がサーッとできるんですよね。それはとても美しかった。
 ああいうのを見た瞬間、ホントにこれはしるし(・ ・ ・)だなっていうことを、つくづく感じました。ただの天体ショーじゃないんですよ。天からのしるしなんですよね、信じる者にとっては。地球、月、光の輝き、それを受け止めて、そこに生かされている私・・・。もはやこれは、神のいつくしみの目に見えるしるしとしか受け止められない。
 あまりに美しくて、お月さまに引き寄せられるように、お月さまに向かって進み出て、海に入っちゃいました。「ああ、主よ、今、そこに参ります!」みたいな思いでね、光の道を、チャパチャパと。まあ、もちろん、そのまま行っちゃいませんでしたけど、・・・本当にきれいだった。
 でもね、実は、それ以上なんですよ。これから皆さんに示すご聖体は。
 輝いています。「スーパームーン」ならぬ、「スーパーご聖体」なんですよ。信じる者にとって、これはもう、皆さんの目にちゃんと見える、神のいつくしみの、しるしなんです。信じたときに、楽園が始まるんです。手に乗せていただいた時には、皆さんはもう、楽園の住人なんです。
 ぶどう酒も、最近は赤いぶどう酒に変えていただきましたけど、皆さんに見えるように注いでますでしょう? それこそ、「一滴の血がすべての人を救った」っていう、いつくしみのしるしなんです。
 このパンとぶどう酒、今日は幼児洗礼ですから、ご両親と代父母の方には、パンとぶどう酒、両方、差し上げます。それは、この困難な世の中にあって、「あなたは今日、今、わたしと一緒に楽園にいる」という宣言によって生かされているという、そのことのしるしです。
 安心して、この「いつくしみの特別聖年」を終わりましょう。
 希望を持って、ここから出発いたしましょう。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます。)

※1:「いつくしみの特別聖年」(既出)
 教皇フランシスコは、2015年3月13日、バチカンで行われた共同回心式の際、「いつくしみの特別聖年」の開催を宣言した。
 教皇は、今までも繰り返し、神のいつくしみに気づくことがいかに大切であるか、また、神のいつくしみが、今、世界中で、いかに必要とされているかを話し続けてこられたが、特に、この特別聖年を通し、「誰も神のいつくしみから排除されることはない」と呼びかけ、いつくしみ深い神を知り、皆が神のもとへ帰るように、また、神との出会いによって、その豊かないつくしみに目覚めるようにと願われた。
 この特別聖年は、2015年12月8日、無原罪の聖母の大祝日に始まり、翌2016年11月20日、王であるキリストの大祝日に終了した。(「特別聖年」については、「既出」をご覧ください)
(参考)
・ 「いつくしみの特別聖年」(カトリック中央協議会)
・ 「教皇、特別聖年を宣言/大勅書を発表し、特別聖年を公式に宣言(2015/4/17)」(カトリック中央協議会)
・ 「教皇フランシスコ、いつくしみの特別聖年公布の大勅書「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」(カトリック中央協議会)
・ 「いつくしみの特別聖年」<関連記事>(バチカン放送局)
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※2:「第2朗読」
この日、2016年11月20日(「王であるキリスト」)の第2朗読の箇所は、以下のとおり。
 使徒パウロのコロサイの教会への手紙 1章12~20節
  小見出し:「御子キリストによる創造と和解」1章9~23節から抜粋〉
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※3:「トマス・アクィナス」
◎「トマス・アクィナス」
 トマス・アクィナス(Thomas Aquinas)1225頃〜1274
 イタリアの盛期スコラ学最大の哲学者、神学者。ドミニコ会士、教会博士。「天使的博士(Doctor Angelicus)」と呼ばれる。カトリック教会と聖公会では聖人。カトリック教会では、33人の教会博士のうちのひとり。
 その思想の歴史的意義のひとつは、信と知を明確に区別し、同時に両者の有機的な関係を基礎づけ、学としての神学を樹立したこととされている。「恩恵は自然を完成する」という洞察は、彼の哲学、神学を貫いている。「神が人となった」という新約のメッセージのうちに、汲み尽せぬ知恵を見出した。『神学大全』『対異教徒大全』が主要著作。
 以上のように説明すると、頭の固い神学者のように感じられるが、実は詩人でもあった。ときの教皇に聖体についての神学、そして聖体についての典礼や歌を作るよう依頼され、数々の詩が残っている。カトリック教会の、ラテン語の優れた聖体賛歌のほとんどが、このトマス・アクィナスによって作られている。
 また、聖母にも、特別に心を寄せる信心があった。「罪の告白は5歳の子どものようであった」ともいわれている。知性は群を抜いて高く優れていたが、心は子どものように、単純で純粋であったということだろう。
(参考)
・ 「トマス・アクィナス」(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008年)
・ 「トマス・アクィナス」(ウィキペディア)
・ 「聖トマス・アクィナス雑感 2012/5/30」「聖トマス・アクィナス雑感 その2 2012/5/31」(「神父の放言」/個人ブログ) 他
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※4:「トマス・アクィナスの祈りの詩があるということでした」
 以下に、トマス・アクィナスの祈りの詩をご紹介します。
◎聖体の賛歌-アドロ・デ・デボーテ(Adoro Te devote)
 
パンとぶどう酒の形のもとに、隠れておられる神よ、つつしんであなたを礼拝します。あなたを見つめながらも、全く見通す力のないわたしは、心のすべてをあなたに委ねます。
 今ここに、見るところ、触れるところ、味わうところでは、あなたを認めることができません。ただ、聞くところによってのみ確信します。神の御子の言われたことは、何ごとであれ信じます。この真理のことばにまさることは、世にはないからです。
 十字架上では神の本性だけが隠されていましたが、ここではその人性も隠されています。主にあるふたつの本性を信じ、それを宣言し、悔い改めた盗賊の乞い願ったことをわたしも願います。
 わたしはトマス(使徒聖トマスのこと)のように御傷を見なくとも、あなたがわたしの主であることを宣言します。わたしがあなたをますます深く信じ、あなたに希望し、あなたを愛させてください。
 主のご死去の記念として、人に命を与える生きたパン、わたしの心をあなたによって生かし、甘美なあなたを常に味わわせてください。
 
御血のひとしずくだけで、世のすべての罪を償うことのできる主イエス、願わくは汚れたわたしを、御血をもって清めてください。
 今、隠れていますイエス、渇き望むものを与えてください。覆いを取られた、あなたの顔を見出し、あなたの栄光を見る幸いな者となりますように。アーメン。
  (カトリック祈祷書『祈りの友』 カルメル修道会編2000/3/25版 p.290-292 / カッコ内及び赤字引用者

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※5:「神におできにならないことはない(cf.マタイ19:26、マルコ10:27)」
===(聖書参考箇所)===
・ イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。 (マタイ19:26/赤字引用者)
・ イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。
神は何でもできるからだ。」(マルコ10:27/赤字引用者)
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※6:「この『はっきり言っておく』という宣言、これを、先ほど皆さん、聞きましたけれども」
この日、2016年11月20日(「王であるキリスト」)の福音朗読の箇所は、以下のとおり。
 ルカによる福音書 23章35~43節
  〈小見出し:「十字架につけられる」23章26~43節から抜粋〉
===(聖書参考箇所)===
・ するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。 (ルカ23:43/赤字引用者)
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※7:「『王たるキリスト』の主日」
 主イエス・キリストの王としての主権をたたえる祭日。キリスト教では、復活の後、天に上げられ神の右の座にいる主キリストは (マルコ16:19) 、あらゆる破壊的な力にまさる主権者、王であると理解されてきた。
 教皇ピオ11世(在位:1922/2/6-1939/2/10)は、20世紀の時代状況を前に、王であるキリストをたたえることを特に呼びかけ、そのための祭日を定めた (1925) 。現在のローマ典礼暦では、1年の最後の主日(待降節が始まる前の主日)に祝う。
(参考)
・ 「王であるキリスト」(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008年)
・ 「年間第34主日 王であるキリスト」〈A年〉〈B年〉〈C年〉(教会カレンダーラウダーテ
・ 「王であるキリスト」(澤田豊成神父 そよかぜカレンダー聖パウロ修道会
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※8:「この前のザアカイのときも」
 2016年10月30日(年間第31主日)の福音朗読は「ルカによる福音書19章1~10節」で、徴税人ザアカイの話が読まれた。
 その時のお説教は、>「神の国ファイターズ」(「福音の村」2016/10/30説教)のこの辺から。 簡単なストーリは、>こちらでもご紹介しています。
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※9:「加計呂麻島(かけろまじま)」
 晴佐久神父が毎夏行っているキャンプの場所。鹿児島市の南西にある奄美群島の有人8島のうちのひとつ。
(参考)
・ 「蚊帳の中」(「福音の村」2016/5/15説教)の参照「※3※4」「※5」などをご覧ください。
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※10:「スーパームーン」
 スーパームーンとは、月が地球に最接近している時に、満月や新月になっている時の月のことで、地球から見た月が最大に見える。
 2016年11月14日(月)の満月が、今年の満月のうちで最大の「スーパームーン」だった。特に今年のスーパームーンは、68年ぶりに最接近するもので、「ウルトラムーン」とも呼ばれるものだったが、残念ながら、日本では雨模様の場所が多かったようだ。
 2017年にはなく、次は、2018年1月2日とのこと。

※スライドショーになっています。画像にカーソルを合わせると、矢印が表示されますので、ご利用ください。撮影場所は順に、インド→イタリア→ギリシャ→アメリカ(ロサンゼルス)→ドイツ(ベルリン)です。
こちら をクリックすると、さらに多くの関連画像をご覧いただくことができます。
(参考)
・ 「スーパームーン2016年は11月14日!時間と方角と撮り方は?」(「40’s Exchange Hack」)
・ 「2016年11月14日 スーパームーン」(AstroArts) ほか
・ 「スーパームーン2016」(google画像)
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2016年11月20日(日) 録音/2016年12月7日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英