ラスコーの壁画とサグラダ・ファミリア

【カトリック浅草教会】

2017年2月19日 年間第7主日
・ 第1朗読:レビ記:(レビ19・1-2、17-18)
・ 第2朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント3・16-23)
・ 福音朗読:マタイによる福音(マタイ5・38-48)

【晴佐久神父様 説教】

 「完全な者となりなさい」 (マタイ5:48) なんて言われると(※1)、「いやいや、それは無理です」って、ふつうは思っちゃうんでしょうけど、・・・なれます。
 「なれます」というか、私たちはそもそも、「完全な者」になるように造られてるんです、最終的には。そのような、完全に至る「種」っていうんでしょうか、「遺伝子」っていうんでしょうか、それは、すべての人類に与えられています。
 ですから、それが芽生えていく、それを育てていく、そして、やがて天のみ国に生まれ出ていったときに「完全な者」になる、そのプロセスを、ぼくらは生きているんです。そういう資格を与えられている。「だれでも」です。善人でも悪人でも、最終的には「完全な者」にしてもらえる。そのような希望を持って歩んでいくのが、人生です。
 「人生、巡礼の旅」っていう、そのイメージ、大事にしましょう。
 だれでも、必ず、「完全な者」になれます。で、なれるんだから、それを信じて、「一日、一日、少しずつでも、そこに近づこう」みたいな思いを持って生きる。まさに、「人生、巡礼の旅」。

 先日、巡礼の旅に、行ってまいりました(※2)
 上野の説教ではお話ししたんですけど、十日ほどスペインを回って、先週帰ってきました。巡礼の目的地は、今回はバルセロナの、サグラダ・ファミリアっていう、美しい聖堂です。ですから、そこに向かって(・ ・ ・ ・)、巡礼していく。・・・十日間、目的地に向かって歩んでくわけです。マドリードから始めて、各地の聖堂を回りながら。
 出発の時点で、空港でまず、ミサをするんです、特別室を借りてね。そのミサで、この「巡礼の心」を最初にお話しするわけです。「人生、巡礼の旅ですよ」と。
 「私たちの人生は、最後には、聖なる地に、必ず(・ ・)着きます。それを信じて、そこに向かって、歩んでまいりましょう。もちろん、巡礼ですから、道中は決して楽しいだけじゃない。転ぶこともある。大切なものをなくすこともある。泣きたくなるような思いもするかもしれない。しかし、最後には、聖なる地、恵みのときが待っているんだから、そこに必ず着くという信仰をしっかりと持って、つらいことがあっても、すべて巡礼の道半ばだと受け止めましょう。これから出発する巡礼旅行は、そのような人生巡礼の縮図です。十日間それができるなら、人生でも、そうできるはず」と。
 で、合言葉を決めたんです。「何があろうとも、巡礼、巡礼」と言いましょう、と。自分に言い聞かせるように、「巡礼、巡礼」と二度繰り返す。これを合言葉にしましょう、って。
 この、「じゅんれい、じゅんれいっ!」って、二度繰り返すのがコツなんですね。言い方を決めとかないと、すぐ忘れちゃうから。実は、この言い方のモデルは、温泉に入ったときの、あれです。トポンと浸かって、「極楽、極楽っ・・・😌♨」って言うじゃないですか。(笑) あの言い方で、「巡礼、巡礼っ・・・😊」。何があっても、そうひと言つぶやいて、受け入れる。
 だから、添乗員さんにも最初に言ったんですよ、「この旅行、添乗員さん、楽ですよ」と。「何があっても、みんな、『巡礼、巡礼っ・・・😊』って受け止めてくれますから」と。(笑)

 現に、今回も、停電があったんですよ。結構立派なホテルだったのに。ホテルの部屋って、停電すると、もう、どうしょうもないですね。非常灯みたいなのが、部屋の入り口の所にはぽつんとともるんですけど、あとは暗くて何にも見えない。私も、真っ暗な中でお風呂に入りましたけど、手探りでシャンプーを捜したりして、大変でしたよ。
 で、普通だったらですよ、こんなに高い金出して、こんなにいいホテルなのに、停電だなんて、「金返せ!」っていう話になるじゃないですか。一般の観光旅行だったら、そんなクレームも当然なわけですけど、今回は添乗員さん、ホッとしてました。(笑) 次の朝、誰一人文句も言わずに、お互いに、「巡礼、巡礼っ・・・😊」。(笑)
 だけどこれ、考えてみたら、同じ停電体験でも、受け止め方で全く違ってくるんですよね。怒り心頭で、「せっかくの旅行が台無しだ!」とかね、「こんだけ払ったのにどうしてくれる!」とかね、いろんなこと言う人もいる一方で、まったくおんなじ体験をしていながら、顔を見合わせて、ほほ笑み合って、「巡礼、巡礼っ・・・😊」と言い合う人たちもいる。これ、どっちが得か。
 ・・・気づかされませんか? 「人生って、そういうことなんだよね」って。
 事実としては、おんなじことなんですよ。おんなじつらい体験をしてるんです。「停電で苦労した」と。でも、片や、怒る。片や、ニッコリ笑って、「これも恵みのうち」と。
 それどころか、私もよく体験するんですけど、そんな体験した方が、むしろ良かったってことにもなる。私、よく旅行に行くんだけど、記憶力が弱いんで、「あれは、どこだったっけ?」とか、「あそこは、どんなとこだった?」とかって、よく覚えちゃいないんですよ。でも、たとえば、「あのホテルで停電したよね~」とか、大変な思いをしたときのことって、よく覚えてるんですよね。・・・旅の大切な思い出、苦労を分かち合った仲間、自分の人生を彩るささやかな試練、共にそれを超えていく喜び・・・。
 いつだったか、巡礼旅行でルルドに行ったとき、パリからルルドまでの飛行機が、ストで飛ばなかったんです。仕方なく、急きょバスを仕立てて、一晩かけて移動しました。これが窮屈なバスでね、深夜ず~っと走ったんだけど、あれは、つらかった。運転手さんも、何時間おきかに休まなきゃならないでしょ。トイレに行きたい人もいるし、しょっちゅう休憩があって、うとうとしても、すぐ起こされてね。一晩、ホントにつらかったけど、夜が明けるころ、バスがようやくルルドに近づくと、あの聖母の出現した岩屋に、早朝から、ろうそくがいっぱいともってるんですよ。遠くにその(あか)りが見えたときの、あの感動ったらなかったですね。
 「ああ、着いた~! つらかったなあ。でも、みんなで乗り越えたぞ。・・・さあ、ここでミサだ!」
 あれ、忘れないですねえ。ルルドに行ったこと、何度もあるんですけど、あのときが一番です。
 考えてみてください。何にも事件がなかったら、この「人生巡礼の旅」、天国に行ってから、何を思い出すんですかね。つらかったこと、それをみんなで一緒に乗り越えたこと、そういう思い出こそがかけがえない。だから、「巡礼、巡礼っ・・・😊」ってね。
 ぼくらの中に、神さまに向かう力、試練を喜びに変えていく恵みの力が、ちゃんと与えられてるんですよ。・・・これが肝心。他の動物とは違う。私たち人類は、神さまに目覚めるようにと、神さまから特別に祝福された存在です。
 「完全な者となりなさい」って、イエスさま、おっしゃいました。「あなた方は、そうなれるんだ」っていうことです。なれないのに「なれ」って言うのは、ひどいですよね。神さまがそんなことを言うはずがない。・・・なれるんですよ。もちろん、「天国に生まれていってから」ですよ、究極的には。でも、この世で、それを少~し先取りして、「与えられたこの恵みを、もうちょっとだけでも花開かせよう」っていう、そういう気づきは大事ですね。そして、試練こそが、その気づきを与えてくれるんです。

 今日のミサで、何人かの方の追悼をいたします。お写真も飾ってありますように、一人は若い方です。そのご遺族の方も来ておられます。きっと、つらい思いをなさったことでしょう。
 しかし、天に召されたこの方たちは、試練をくぐり抜けて、いまや、「完全な者」になってるんですね、神さまの恵みによって。そして、いまなお不完全な私たちを天から励ましてくれてるんです。・・・「不完全」っていう言い方はちょっと足りないかな。本当は完全であるはずなのに、ぼくらが、その完全さを分からないで、完全さを眠らせている状態ですから。完全と不完全という二元論じゃなくて、完全なんだけど、完全になっていない状態。「未完全」とでも言ったらいいのかも。(いま)だ、完全ならず、です。未完全だけれど、完全が始まっている。完全に向かっている。だからこそ、今日というプロセスに意味が生まれる。このイヤな現実にも価値がある。絶望的なつらい出来事があっても、完全に向かって、「巡礼、巡礼っ・・・😊」と言いながら歩いていくと、やがて「ほんとうに着いた!」っていう日が来る。そこには、先に着いたみんなが、すでに完全なものとされて、待っている。

 藤井神父さま(※3)の追悼もいたしますけど、私、藤井神父さんにはお世話になった。特に中高生のころ、学生のころ。多摩地区の青年たちの活動を応援してくれました。
 わが家をよく訪ねてくれました。しょっちゅう、わが家でマージャンをしていた。(笑) 思い出しますよ、左手にウィスキー、右手に羊かん。(笑) その羊かんも、切って食べるんじゃないんです。バナナみたいにむいて、(笑) もぐもぐ食べてく。と~っても楽しそうでね。・・・懐かしいねえ。
 あの豪快な笑い声とか、今でも聞こえるようですけれど、・・・何ていうんだろう、不思議な気がする。また会えるんですよねえ、完全な世界で・・・。男気のある方で、被災地支援のために仙台教区の教会を手伝いに行って、亡くなりましたけど・・・。
 「また会える」っていうそのとき、われわれが味わう「完全さ」っていうのは、どんなんだろう。やっぱり人類が、そのような旅路を特別に与えられてるってことに気づかないと、もったいない

 ラスコーの洞窟(※4)ってご存じですか?
 中学の教科書に載ってましたでしょ。牛や馬の洞窟壁画です。今、上野で「ラスコー展(※5)」っていうのをやっていて、私、こういうの大好きだから、先週、見てきたんです。ちなみに、先に言い添えておくと、この展覧会、今日までです。(笑) ミサの後に行かれたらいいと思いますよ。
 2万年前、洞窟の壁にクロマニョン人が絵を描きました。これは世界のあらゆる洞窟の絵の中でもトップクラスの美しい絵なんですけれど、・・・まさに、芸術です。
 これ、実は、最近なんですよ、見つかったの。1940年に、地元の子どもが発見したんですね。洞窟の中に潜り込んだら、壁一面に絵があったと。それで、大勢の人が見物に来るようになって、絵が傷み始めたんで、今はもう入れません。閉鎖されています。でも、最新の技術、レーザースキャンとか3Dプリンターとかで、正確に再現できるようになったので、実物大に再現した洞窟の一部が、展覧会として、世界を回ってるんですね。
 クロマニョン人って、現生人類と一緒なんですね。原人の一種かと思ってたら、われわれと遺伝子一緒です。・・・ホモ・サピエンス。東アフリカで、20万年ほど前に誕生した。神さまが、原人から進化させたわけですけども、20万年前のある時、ホントに特別に聖なる霊を送って、特別な(しゅ)というか、「人類」を生み出したんですよね。その「特別さ」っていうのは、ひと言でいうと、「神を知る力」を与えられたってことなんです。目には見えないけれど、すべてを生み出し、すべてに働く、命の源であり、愛そのものであるようなお方を知る存在となったってことです。それこそ、巡礼の先に完成する、「完全なる者となる」ということを知って、信じて、生きる者たち。
 これ、牛や馬は、そうじゃないですね。ただ生きているだけ。神さまは、人類にだけ、そういう力を与えたんです。特に、7万年位前から、見えないものをイメージして語る言語とか、美しいものを表現する芸術とか、信頼関係によって生み出される平和な生活とか、そのようなものを生み出す力、クリエイティブな力というものを、神さまがお与えになった。・・・人類全員にですよ。われわれは、みんな、その遺伝子を持っている。
 現生人類は、そのような力を与えられて、そのころから一斉に、アフリカから全世界に出発していったわけですよね。なぜかは分からない。全世界に広まっていきました。いわゆる「グレートジャーニー」です。4万年前にヨーロッパに来たのが、クロマニョン人で、3万8千年くらい前に日本に来た人たち、これがわれわれの先祖です。1万5千年くらい前には、アメリカに到達しています。みんな同じ(しゅ)ですよ。神さまが祝福を与えた、ホモ・サピエンス。
 ですから、ぼくら人類の中には、もうすでに、神に祝福された「神の子」として、「完全なる神を知り、神に向かう性質」っていうのが、全員の中にあるんです。「こんな自分イヤだ」とか、「こんな家に生まれて・・・」とか、自分のことを本来的に不完全だと思うこと自体が、もう、われわれの思い込みなんですよね。ぼくらは、すでに、「完全さ」という(たね)を持っていて、それを発揮するように召されているんです。人生って、不完全なものを嘆いたり隠したりするためにあるんじゃなくて、自らの中に完全さが秘められていることに気づくプロセスなんです。
 「この私は、本当に神に祝福されて、完全なる世界に向かっている。恵みの巡礼の旅を歩んでいる。素晴らしい仲間たちと共にある。・・・なんと幸いな人生を生きているんだろう!」と、そういう思いを持たずして、生まれてきたかいがないってことなんですよ。さらには、「死んで終わり」ってわけじゃない。人生巡礼の旅は、やがて本当に、完全なる聖堂にたどり着く。
 福音書にある通り、神さまは、えこひいきしません。「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」 (マタイ5:45) 。全員神の子で、みんな完全さに向かっているというイエスさまの、その「気づき」ですね、これを私たちも共有します。確かに、いいやつ、悪いやつ、違うように見えるけれども、み~んな似たようなもんでしょう? 神さまの目から見たら、ご自分の愛と祝福を与えて、お育てになっている、かわい~いわが子たち。そのわが子たちは、いっそう、この巡礼の旅に目覚めて、神さまを目指すべきですよ。
 あのラスコーの洞窟の美しい絵、あれ、神さまを賛美してるんじゃないですか? 堂々たる牛の絵とかありますけど、もう、牛なんて、彼らにとっては「神」同然ですからね。動物の命に生かされて生きてるわけですから。何万年もの間、その純粋に与えられる恵みに感謝しながら、その恵みを賛美しながら、神々しい獣たちの絵を描いていたんでしょう。まるで聖堂のような洞窟の中で、生きとし生けるものに感謝と賛美を捧げて描き続けた、祈りの絵。・・・でしょう? だって、どの洞窟も、みんな牛の絵、馬の絵ですもんね。やっぱり、獣たちは、彼らにとって命と恵みの神であり、壁画は、そんな思いの表現なんですね。
 やがて、2千年前からは、神の絵は、目に見える神であるイエスの絵となり、あらゆる宗教画を通して、人類はいっそう神に感謝と賛美を捧げているというわけです。

 巡礼は、サグラダ・ファミリアが最終地点でしたけど、あ~んな美しい聖堂ないですね。ロマネスクとか、ゴシックとか、ネオクラシックとか、教会堂っていうのは、歴史と共にいろんな形式を踏まえてやってきたわけですけど、ガウディの聖堂は、過去の伝統を尊重しながらも、その本質は未来に向かってますもんね、あれ。ユニバーサルなんですよ。普遍主義なんです。キリスト教のいろんなシンボルも使ってはいるけれど、すべての人に開かれたデザインだと思う。
 命の喜びにあふれていて、まるで森の中にいるようなあの聖堂をデザインしたガウディは、ラスコーの絵を描いた人々と、一直線につながってます。だれもが共感する形と色で、だれもが信じる「透明な」神に感謝と賛美を捧げるという、普遍主義的センスによって。それはもう、何教、何宗を超えた、まことの神との出会いの場です。神さまは人類に、ご自分に気づく(・ ・ ・ )力を与えてくださったわけですけど、その力を発揮して、本当に神さまに気づいた(・ ・ ・ ・)者がつくり出すかたちって、これほどに人を感動させるものなのかと、私、サグラダ・ファミリアのど真ん中で、まるで別の惑星にいるかのような美しい天井を仰いで、思わず涙しました。
 そのとき、本当に、「人類、恐るべし!」と思ったし、「われわれも、いっそう素晴らしい何かを生み出そう」と、そう思ったわけですけれど、考えてみたら、どんな素晴らしい聖堂よりも、それに気づく(・ ・ ・ )「私」こそが美しいわけですよね。
 ガウディだって、彼はすごくあついカトリック信仰を持ってたわけですけれど、自分の中にある、大自然を通して神さまがわれわれを生かしているという喜びとか、そういうものを、なんとか表現しようと思って設計した。でも、自分が本当にしたいことの、それも一部だったでしょう。それを思っている、その人の思いこそが、私はホントに美しいと思う。・・・皆さんのことですよ。皆さんの心は、あの美しいサグラダ・ファミリアの何十倍、何百倍も美しい。
 さっき、パウロが言っておりました(※6)
 「あなたがたは知らないのですか。あなたがたは聖霊の宿る神殿なんです」 (cf.一コリント3:16) と。
 皆さんの中に、神の霊が宿っています。・・・聖なる霊が。私たちは、神に与えられた恵みの人生を生きている、聖なる神殿なんですよ。この神殿を大切にいたしましょう。その神殿で、聖なる祈りを捧げましょう。やがて、天上の神殿に、私たちは生まれ出ていくわけですけれど、その先取りとしての完全さを、私たちは信じます。
 なおも、いろいろ嫌なことが続きますけれども、「巡礼、巡礼っ・・・😊」と言ってね、永遠の聖堂を目指します。
 ・・・まあでも、この浅草の教会で、こうして、この仲間たちで、聖なるミサを捧げてるなんて、もうほとんど、着いたも同然なんですけどね。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます。)

※1:「『完全な者となりなさい』 (マタイ5:48) なんて言われると」
この日、2017年2月19日(年間第7主日)の福音朗読から。
 福音朗読箇所は、以下のとおり。
  マタイによる福音5章38~48節
 〈小見出し:「復讐してはならない」5章38~41節、「敵を愛しなさい」43~48節〉
===(聖書参考箇所)===
「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。 (マタイ5:46-48/赤字引用者)
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※2:「先日、巡礼の旅に、行ってまいりました」
 今年(2017年)2月1日から11日まで、阪急交通社の主催で行われていたスペイン巡礼のこと。
 晴佐久神父と30名ほどの参加者が、サグラダ・ファミリアをはじめ、トレド大聖堂、アヴィラの聖テレサ修道院、モンセラート修道院などを、ミサを捧げながら回られました。
(参考)
・ 「スペイン巡礼のお誘い(’17/1/6受付終了)(「福音の村」’16/12/3~’17/1/6掲載)
・ 「聖家族巡礼旅行」(「福音の村」2017年2月12日説教)
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※3:「藤井神父さま」
◎パウロ 藤井泰定(ふじい・やすさだ)神父さま
 カトリック東京司教区司祭。
 2012年4月から仙台教区出向され、2013年2月21日(木)、非閉塞性腸管梗塞のため帰天。享年75歳。
 1937年に広島県福島市で生まれ、1970年7月4日司祭叙階。カトリック浅草教会には、1983年から1988年まで、主任司祭として務められた。
(参考)
・ 「【訃報】 パウロ藤井泰定神父」 (東京教区からのお知らせ 2013/2/22
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※4:「ラスコーの洞窟」
 「ラスコーの洞窟」は、フランス南西部のモンティニャックにある。1940年に、愛犬を探していた4人の少年が偶然に発見。中には、先史時代の壁画が完璧に残っていた。数百の馬、山羊、羊、牛や鹿などの動物を始め、人間や幾何学模様などが見事に描かれていた。これらは1万5千年前のクロマニョン人が残した旧石器美術の最高傑作と呼ばれている。この遺跡群は、「ヴェゼール渓谷の先史的景観と装飾洞窟群」として1979年に世界遺産に登録された。
 観客の吐く二酸化炭素により壁画が急速に劣化。1963年から非公開となり、修復作業が進んでいるが、1983年、隣接地にレプリカの複製洞窟「ラスコー2」を開業。こちらは一般の見学が可能となっている。
また、2012年には遠隔地での展示が可能な「ラスコー3」が作られ、2016年12月には、ラスコー洞窟近くに、実物を忠実に再現した洞窟壁画国際センター「ラスコー4」が完成。「ラスコー2」では洞窟の半分程度しか見られなかったのに対し、6600万ユーロ(約80億円)を投じて全長約150メートルの全体像を再現した。
(参考)

☆5枚の画像がスライドショーになっています。画像にカーソルを合わせると、矢印が表示されますので、ご利用ください。
・ 「ラスコー洞窟」(ウィキペディア)
・ 「世界遺産:ラスコーの壁画」(フランス観光開発機構)
・ 「モンティニャック=ラスコー国際洞窟壁画芸術センターがオープン 2016/ 5/23」(同上)
・ 「ラスコー洞窟を完全再現=新展示施設、15日オープン-仏 2016/ 12/12」(時事通信社)
・ 「ラスコー洞窟を忠実に再現、『ラスコー4』がオープン フランス 2016/ 12/16(AFP)他
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※5:「ラスコー展」
 フランスの世界遺産であるラスコーの洞窟壁画を再現した「ラスコー展」は、2012年にスタートし、各国を巡回している。2015年に、2016年から17年にかけて、東京、宮城、福岡を巡回することが決まった。主催は毎日新聞社。
 この展覧会では、ラスコー洞窟の全貌を紹介。また、高精度に再現した洞窟壁画の展示によって、洞窟内部の世界を体験できるようになっている。さらに、2万年前のクロマニョン人が残した彫刻や道具を紹介。創造性や芸術のはじまりを知ることができる。
 東京、上野の国立科学博物館で、昨年(2016年)11月1日から2017年2月19日(日)まで開催されていた。今年(2017年)、3月25日(土)から5月28日(日)には、宮城県の東北歴史博物館に、7月11日(火)から9月3日(日)には、福岡県の九州国立博物館に巡回する。
(参考)
・ 特別展「世界遺産 ラスコー展 クロマニョン人が残した洞窟壁画」(国立科学博物館)
・ 「世界遺産ラスコー展」(東北歴史博物館)
・ 「特別展の年間予定」(九州国立博物館)
・ 「『ラスコー洞窟壁画展』2016〜17年に日本巡回 2015/5/20」(博物月報)
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※6:「さっき、パウロが言っておりました」
この日、2017年2月19日(年間第7主日)の第2朗読から。
 第2朗読箇所は、以下のとおり。
  使徒パウロのコリントの教会への手紙一 3章16~23節
   〈小見出し:「神のために力を合わせて働く」3章1~23節から抜粋〉
===(聖書参考箇所)===
あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。 神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。 (一コリント3:16-18/赤字引用者)
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2017年2月19日(日) 録音/2017年2月27日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英