天の鼓動の最初の一打ち

【カトリック上野教会】

2017年3月12日 四旬節第2主日
・ 第1朗読:創世記:(創世記12・1-4a)
・ 第2朗読:使徒パウロのテモテへの手紙(二テモテ1・8b-10)
・ マタイによる福音(マタイ17・1-9)

【晴佐久神父様 説教】

 ニャー助祭(※1)に、福音朗読をしていただきました。そのうちに、ニャー助祭に説教してもらう日をつくりましょうね。よろしくお願いします。
 ニャー助祭も、半年後には叙階してミサを司式する日が来るわけですけれど、ミサを捧げる司祭の気持ちっていうのを、ちょっと、今日、ニャー助祭とも分かちあいたい思いです。

 というのは、実は昨日、生まれて初めての体験をしたんです、毎朝捧げているミサで。・・・何だと思います?
 ・・・香部屋を出て、お御堂(みどう)に入ったら、だれもいなかったんです。
 最初に、「あれ? 時間、間違えたかな?」って思った。・・・でも、時間は合ってる。
 次に、「日にち、間違えたかな?」ってカレンダーを見た。・・・いや、日にちも合ってる。
 で、三番目に思ったのは、
 「もしかして、ボイコット?😰・・・あんな神父のミサ、出られるか!」って。(笑) ・・・いや、皆さん笑いますけど、神父なんて、信者あっての神父なんで、ミサにだれも来ないっていうのは、やっぱりショックなんですよ。神父じゃないと分かんないだろうな、この気持ち。
 で、落ち着いて考えてみると、予兆は、その前日のミサからあったんです。いつもより参加者が少なくて、聞けば、教会内でインフルエンザがはやってて、いつも来る人が、みんな寝込んでいるとのこと。・・・原因は、風邪だったわけですけど、でもね、「ミサで信者ゼロ」って人生初だったんで、ホントにショックでしたよ。さあ始めようと聖堂に出ていったら、だれもいない・・・。
 ということで、・・・本日、皆さま、来てくださってありがとうございます! (笑)
 み~んながいてくれなきゃ、ミサにならないんですよ。知ってますか? ミサってね、一人で捧げちゃいけないんです(※2)。神父一人で、ミサを司式しちゃいけない。もう一人のだれかがいてくれて、初めて、ミサがミサになる。まあ、それはそうですよね。主が集めてくださった信仰の家族で、共に食卓を囲んで、主と一つになるのがミサなんであって、一人じゃ囲めませんから。・・・みんながこうして集まって、共にミサを捧げている、いま、このひとときは、ホントに恵みのときです。

 まさに、ミサってね、「何かのためにしている」というよりは、「こういうひとときのために、私たちが存在する」って言っていいような、恵みのときなんですよ。
 人生いろいろありますけど、「いろいろある人生が中心で、その中に時々ミサがある」っていう感覚は、間違いです。ここが、中心なんです。ここが神さまと共にある神の家であり、ここでしていることが、われわれが生まれてきて最もするべきことであり、これをするために、われわれは生まれてきたんだという、そういう、もう最高の恵みのひとときを、こうして共に過ごしているのです。ここに真の安心があり、ここに真の希望があり、ここにいることが、私たちにとっての何よりの喜びだという集いです。そんなミサの中に、人生があると言っていい。
 「いや、映画を観に行くのも楽しいです」「あそこでメシ食うのもおいしいよ」って、それは確かに楽しくておいしいでしょうけど、こうして、ここで神さまを共に仰ぎ見る喜び、ここで神の愛を共に食べるおいしさ、それにかなうものはこの世にないと気づいてほしい。このひとときを持つことこそが、人として最もあるべき姿だと思うし、そのような恵みの機会を得ている私たちはホントに幸いだなと、感謝しましょう。ミサの時間以外の、6日と23時間の間に何があろうとも、私たちはここに戻ってきて、共に感謝の祭儀を捧げます。そうして次のミサまでの、6日と23時間の力をぜんぶもらって、新しく出発します。
 さっき、第1朗読で(※3)、アブラハムが「75歳」とかって説明がありましたけど(※4)、高齢にもかかわらず、新しい土地に向かって出発するわけですよね。・・・新しい一歩。だれもがその一歩を踏み出すように招かれておりますし、神さまの栄光の世界に向かう、その恵みの一歩を踏み出す力は、まさに、この、神の栄光を仰ぎ見て、神の愛を食べ、神と共にあるミサの中に秘められてます。
 普段、ミサを当たり前のように受けていると、日常の儀式のようになってしまって、その新鮮さとか、ありがたみっていうのを忘れがちなので、四旬節ですし、「あって当たり前」じゃないんだっていうこと、これは、神さまから大~きな恵みとして与えられているものだっていうことに目覚めて、今ここに選ばれて座っていることの誇り、そのような者である自分への信頼を、新たにしていただきたいのです。

 「あって当たり前」じゃないといえば、最近、私、心臓が、ドキン!っていうんですよ。驚いてもないのにドキン!って。・・・思春期のころ、ステキな方を拝見したときに心臓がキュンとする、あんな感じが、一日中、何度も起きるんです。気になってネットで調べてみたら、どうやら不整脈で、期外収縮(※5)っていうやつらしい。時々、一拍早く脈が打っちゃって、直後、心臓がドキンとする。
 そのことをちょっとつぶやいたら、周りの人がみんな、「病院に行け、病院に行け!」の大合唱で、私もだんだん不安になってきて、先週、三日間病院に通いました。24時間の心電図を付けて、検査したんです。胸に検査機器を付けられて、医者からは、「いつもどおりに、階段上り下りするとか、お酒を飲むとか、なるべくいろんなことをしてください」って言われました。お医者さまに「お酒飲め」って言われたのは初めてですから、その晩は堂々とワインを。(笑)
 二日間にわたってそれをやって、三日目にそれを解析するんですね。その結果を聞く診察の前は、やっぱり、ちょっとドキドキするわけですよ。「なんて言われるのかな・・・」と。「これはもう、心臓移植しかありませんね、なんて言われたらどうしよう・・・」とか。(笑) お医者さまはさすがに、それが分かっているんでしょう。顔を見るなり、「大丈夫ですよ😉」って言ってくれて、ホッとしました。
 「これは問題ない不整脈で、治療の対象ではありません。付き合っていくしかありません。特に何か薬を飲む必要もありません。ただ、とても不安なようでしたら、不安を和らげるお薬を出しますよ」って言われてね、「いやいや、それは結構です」と。さすがにね、「明日を思い悩むな!」って説教をしながら、不安のお薬を飲んでたら、(笑) ちょっとどうなのかなって。でもね、お薬があるって聞くだけで、なんだか安心するもんですね。いい体験になりました。
 で、その時に見せてもらったわけですけど、自分の心臓が、24時間打っている、そのグラフがあるわけですね。数字が解析された一覧表もあって、それを見てね、ホントにもう、なんていうんでしょう、・・・つくづくと、「心臓が動いているのって、当たり前じゃないんだな~」っていうことを思い知りました。やっぱり、それこそ神の恵みの内にある、ひと打ち、ひと打ちなんですよね。
 ・・・ちなみに、私はちょっと人より脈が速いんだそうで、24時間の間に、12万何千回だか打ってました。一日の間に12万回打ってるんですね、心臓って(※6)。で、その間に、この期外収縮っていうのが六十何回だかありました。・・・その日はね。
 で、「晴佐久さんは、寝てるときと、動き回ってるときは起こっていない。パソコンに向かっているときのように、座ってじっとしているときに起こりやすいようです」と。で、「ちょうどエンジンがアイドリング状態で、回転数が落ちたときに、エンジンが、トトンッ・・・トトンッ・・・ってなるじゃないですか。あんなような感じですね」って言うんですよ。
 だから私、「えっ? でも、それじゃ、下手すると、トトンッ・・・トトンッ・・・プシュ・・・って(笑) エンストしちゃうんじゃないですか?」って聞いたら、逆に、「晴佐久さん、今まで、心臓が止まったことがありますか?」って聞かれました。「・・・いや、ないです」って言ったら、「でしょう? これからも止まりませんよ」って。まあ、もちろん、お医者さんも私も、口には出しませんでしたが、心の中では、「いつかは止まるけどね」って、(笑) 思ったわけですけど。
 ・・・一日12万回。一年だと何回になるんだろう。
 神の恵みのうちに、私の心臓は、母の胎に宿ったときに、最初のひと打ちをいたしました。・・・あったんですよ、晴佐久昌英の心臓がね、最初にピクリと動いた時が。以来、一日12万回、ず~っと神の恵みが絶えることなく、「お前をこの世界に生かしているよ」と。そして、やがて、神さまがみもとにお召しになるとき、最後のひと打ちがある。でもそれは、実は神の世界での、新しいいのちの始まりなんですよね。それまでの間、この世界での準備期間中の一日一日、恩寵のひと打ちひと打ちを、私たちは、ず~っと繰り返している。
 自分の心臓の拍動のグラフを見ながら、改めて、感謝というか、感動というか、「すべては神の御手(みて)のうちにある」という当たり前のことを思い起こさせられた。
 ・・・この一瞬は、神の御手のうちにある。

 イエスさまが弟子たちを山に連れて行きますね(※7)。そして、イエスさまは山の上で光り輝く。それは、この世側から見ると、特殊な出来事に思うかもしれない。しかし、実は、光の世界の方がホントの世界なんですね。私たちは、山の下での自分たちの思い込みとか、自分たちだけの世界観とかにとらわれて、ホントの世界の輝きが見えなくなってる。・・・そういうことなんですよ。
 イエスさまは、その、本物の世界、神の愛によってのみ存在する光の世界、地上のすべての恵みの大本(おおもと)である天上の世界との接点にまで、弟子たちを連れて行きます。当然、そこで光り輝く。そこで、純粋な神の愛に触れさせ、天上の世界を生きている旧約の預言者と出会わせ、神さまの声まで聴かせて(※8)、真の希望を私たちに見せてくれる。・・・これ、イエスさまの教育ですね。
 神さまの世界って、どこか見知らぬ遠い所にあって、頑張ってそこまで行けばようやく触れられるっていう、そういうもんじゃない。「天」は「地」を包んでいるんだから、そうと気づけば、どこだって触れられるんです。今ここで、目を上げて天を仰ぎ、地を離れて主と共に山に登れば、もう、すぐそこは神さまの世界。でも、ぼくらは足もとばっかり見つめていて、この、「神を仰ぐ」ということを忘れている。天が遠いんじゃない。われわれが、目を伏せているだけなんですね。だから、時々山に登るっていうのは大事ですね。・・・神に目覚め、神に近づく。
 普段は神の恵みなんかなくて、私たちが祈ると、神の恵みがやってくる。・・・そんな訳はない。心臓が一日に12万回打っているように、神さまの愛は絶えることなく私たちを生かし、私たちは神の恵みのうちにある。ただ、私たちはそれに気づいていない。「罪」というのは、そのように、神の恵みに目が閉ざされている状態。目を開きましょう。神の栄光の世界を仰ぎ見ましょう。

 昨日、この聖堂で追悼ミサをしました。ある方のご長男の追悼のミサをして、それから墓地に行って納骨をいたしました。
 ご葬儀は別な所でなさったので、この教会は初めてっていう方も、ご親戚に多かったでしょうから、ミサの説教で、ここのステンドグラスの話をしたんですよ。この聖堂のステンドグラス、私、大好きですから。黄金色(こがねいろ)でしょ。天の栄光を表す色なんですよね、黄金の色。
 見てのとおり、外が輝いていて、そこから中に光が注いで、私たちは今、その光に包まれている。「そんなこの聖堂内が、地上の世界ですよ」とお話しした。ステンドグラスっていうのは、天と地の境目を表しているんですね。つまり、このステンドグラスの向こうは、上野の街が広がってるんじゃない。ステンドグラスの向こうは、「天」なんです。天から地に、光が差し込んでいる。地は天に包まれていることを、このような仕組みで表して、「われわれは、天の光に包まれているんだ」という希望を、深く味わう。・・・聖堂っていう所は、そういう所ですね。
 でもそれは、実は聖堂だけじゃない。一日24時間、12万回心臓が売っている間、いつも、私たちは、この光に包まれているんです。・・・いつも。その光に目覚めることが、私たちの信仰でしょ?
 第2朗読(※9)で、使徒パウロがこう言っておりました。
 「この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです」 (二テモテ1:9b-10a)
 イエスさまが現れて、私たちみんなのうちに、天の光がピカ―ッと注がれて、もはやだれも、もう、闇の中にいることはあり得ない。もしも闇の中にいると思うなら、それは、目をつむっているにすぎない。
 「キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました」 (二テモテ1: 10b)
 ・・・「不滅の命」です。
 追悼ミサをした方は、54歳でお亡くなりになりました。まだ若い歳ではありますが、み心によって「不滅の命」に生まれ出ていったわけです。そうして、その黄金の光の中に生まれ出ていった今、彼はその輝きを目の当たりにしています。
 残されたわれわれは、まだステンドグラス越しにしか見ることができませんが、その光の世界の輝きを直接見ている、あの方、この方のことを思います。
 その息子さんを亡くされたご両親が、今ここにおられますけれども、お二人がこの試練の時を、どういう思いで乗り越えてきたか、おおよそ、想像はいたします。私の父も50歳で亡くなりましたが、その時に、同居していた父の母である祖母が、どのように悲しみ、どのようにその悲しみに耐えていたか、私はよく覚えております。
 この世界においては、確かに、心臓の最後の一打ちがあります。しかし、「不滅の命」への信仰、それは、神さまの世界に生まれ出ていった、愛するあの人この人のうちに、今、栄光の世界における新しい命の拍動が始まっているという信仰です。地上の人生において、最初に心臓が打った時と同じように、神さまの恵みによる、天の鼓動の最初の一打ちが始まるんだという、その真実を、イエスさまは、ご自分の死と復活によって表してくださいました。弟子たちが山の上で垣間見たのは、そのような不滅の命の世界です。

 生きていれば、怖いこともいっぱいありますけれども、皆さん、恐れないでください。
 イエスさまは、もう、私たちのうちに、すでに来られました。そうして、「恐れるな」と言ってくださいました (cf.マタイ17:7)
 山の上で、あまりにも聖なる世界に触れて、恐れた弟子たち。栄光の世界の神秘、不滅の命の真理が分からずに、恐れた弟子たちに、なんと、イエスは、・・・読んでください、7節(※10)。近づいてきて、「手を触れて」、言ってくださいました。
 「起きなさい。恐れることはない」 (マタイ17:7)
 ・・・お優しいですねえ。
 非常に恐れている私たちに、イエスは、向こうから近づいてきて、直接、私たちに手を触れてくださって、「起きなさい」と言ってくださる。
 弟子たちが顔を上げると、そこには、イエスさまがおられる。
 ・・・「イエスのほかにはだれもいなかった」とあります (マタイ17:8)
 私たちも、顔を上げて、イエスさまだけを見つめます。

 今日、ニャー助祭と私、二人で並んでね、ご聖体を皆さんに差し上げますよ。皆さんに伸ばすその手は、実は、司祭の手でも、助祭の手でもない。皆さんに近づいてきて、触れてくださる救い主、主イエス・キリストの手です。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます。)

※1:「ニャー助祭」
◎ヨセフ・グエン・タン・ニャー(Joseph Nguyen Thanh Nha)助祭
 ベトナム出身。イエズス会
 2017年3月4日に、東京の麹町教会(イグナチオ教会)で助祭に叙階。
 半年間、浅草、上野の両教会に奉仕することになった。両教会の主任司祭である晴佐久神父からは、この日のミサの冒頭で、家族同然に受け入れるようにとのお話があり、信徒たちに拍手で迎えられた。
 9月23日に、司祭に叙階される予定。
 ✝ 読者の皆さま、ニャー助祭のためにお祈りください ✝ (文中へ戻る
===(もうちょっと詳しく)===
(備考)
◎「助祭」
◆歴 史◆
 古代教会で成立、発展した教会の職務の一つ。新約聖書に萌芽的に見られる監督、長老、執事などの奉仕職は、時代を経て発展し、次第に統合されて、2世紀以降には、司教、司祭、助祭という位階制の職制を形成した。正教会や聖公会、プロテスタント諸教会では、日本における訳語は異なり、役割も歴史の中で多様に変遷し、一律ではない。
 助祭の原語「diakonos」は、奉仕する者、特に食事の給仕をする者の意味で、古代教会では特に、聖餐式で司教の補佐をし、さらに教会共同体の物質面の管理、貧者や病者の世話などに従事した。使徒言行録6章1~7節に見られる、ステファノをはじめとする7人が最初の助祭であると考えられている。司祭と同様、司教の按手によって叙階される。
◆助祭、終身助祭◆
 カトリック教会では、中世以降、男性に限られ、司祭になる前(通常1年ほど)の過渡的身分であったが、さらに、第二バチカン公会議で終身助祭制度が復興し、典礼、司牧、社会福祉を通じ、生涯人々への奉仕の召命を果たす道が開かれた。なお、終身助祭は結婚が認められているが、その他の職務に就く者は、生涯独身であることを誓約する。
◆役 割◆
 助祭は、「司祭職のためではなく、奉仕のために」按手を受ける。
 「荘厳に洗礼式を執行し、聖体を保管し、分け与え、教会の名において結婚に立ち会い、祝福し、死の近くにある者に聖体を運び、信者たちのために聖書を朗読し、人々に教え勧告し、信徒の祭礼と祈りを司会し、準秘跡を授け、葬儀と埋葬を司式する」 (教会憲章 29) などのことを執行することができる。
*******
 カトリック教会の秘跡(洗礼、堅信、聖体、ゆるし、病者の塗油、叙階、結婚)を授けるのは、基本的には司教(「結婚」を除くすべての秘跡)と司祭(「結婚」「叙階」を除くすべての秘跡)。助祭は「洗礼」のみで、「聖体」の秘跡でも聖変化はできないが、聖体を信者に与えることはできる。
 「結婚」の秘跡を授けるのは、司教や司祭、助祭ではなく、信者である夫婦同士であり、結婚式での司教、司祭、助祭の役割は、夫婦が互いに秘跡を授け合う場の「立会人」となる。
(参照)
・ 「イエズス会助祭叙階式 2017/3/4」(岡田大司教説教/カトリック東京大司教区)
・ 「司教・司祭・助祭」(カトリック教会とは/カトリック東京大司教区)
・ 「叙階の秘跡」「第109回 司教の協力者である司祭の叙階」(ラウダーテ)
・ 「叙階の秘跡〔pdfファイル〕(「キリストの光を全ての人々に」/ボグスワフ・ノヴァク 神言会司祭
・ 「教会の七つの秘跡」(『カトリック教会のカテキズム』カトリック中央協議会、2002)
・ 「助祭」(『岩波キリスト教辞典』 岩波書店、2008)
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※2:「ミサってね、一人で捧げちゃいけないんです」
・ 「正当かつ合理的理由がない限り司祭は、少なくとも一人の信者の参加も得られない場合はミサを挙行してはならない」(教会法906)
・ 「ミサは司祭の個人的信心行ではありえません。共同体を代表する少なくとも一人の信徒がいなければ、司祭はミサをささげることはできないことになっています。(中略)ミサをささげるのは神の民全体です。キリストは、ことばと聖体の秘跡の中に現存する前に、まずは集められた会衆の中に現存することを忘れてはなりません」(「会衆の席」/「祈りをささげる」カトリック横浜市教区)
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※3:「さっき第1朗読で」
この日、2017年3月12日(四旬節第2主日)の第1朗読。
 該当箇所は、以下のとおり。
  創世記 12章1~4a節
   〈小見出し:「アブラハムの召命と移住」12章1節~20節から抜粋〉
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※4:「アブラハムが『75歳』とかって説明がありましたけど」
 この日に会衆に配られた『聖書と典礼』には、第1朗読箇所の欄外に、以下のような注釈があった。
===(『聖書と典礼』欄外)===
 
「四旬節主日のミサの第1朗読」は旧約の救いの歴史を回顧していくが、第2主日には毎年、アブラハムの出来事が読まれる。今年の箇所はアブラハムの選びを述べる。この時、アブラハムは75歳であった(『聖書と典礼』〈四旬節第2主日A年 2017.3.12〉オリエンス宗教研究所)
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※5:「期外収縮」
 以下は、『六訂版 家庭医学大前科』(発行:法研)をデータベースしたものから、「期外収縮」についての引用(抜粋)です。
*******
 「期外収縮は、もともとの調律(タイミング)で心拍が生じると予想される時期より早期に生じる電気的な興奮のことを指します。そのため、余分な心拍が現れます。
 期外収縮自体は放っておいてもよい不整脈ですが、期外収縮が引き金になって頻拍(ひんぱく)が起こる場合や、期外収縮による自覚症状が強い場合には治療の対象になります。
 自律神経の異常によって起こることが多いようですが、原因がはっきりしないこともあります。病的な心臓だけでなく健常な人にも生じます。他の不整脈と同様に、お酒の飲みすぎ、睡眠不足、疲労、ストレスなどが誘因になります。
 単発の期外収縮自体を治療する必要はありませんが、症状が強い時にはまず抗不安薬を投与します。それでも症状がある場合には抗不整脈薬を使うことになります。
 期外収縮自体は良性の不整脈であり、誰にでも起こります。ですから期外収縮を指摘されただけならば、日常生活に制限はありません。ただし症状が強かったり、頻拍の引き金になる場合には治療が必要なので、循環器内科を受診してください。」
*******
(参考)
・ 「期外収縮の症状や原因・診断・治療方法と関連Q&A」(「家庭の医学」/goo ヘルスケア)
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※6:「一日の間に12万回打ってるんですね、心臓って」
 一般的に、脈拍の正常値は、一般成人で1分間に60~100回(一日に約8万6千回~14万4千回)を正常値の範囲としている。(平均は約10万回)
 100回を超えると「頻脈」、60回未満の場合は「徐脈」と呼び、不整脈と診断される。
(参考)
・ 「脈拍」(「2017 血圧 正常値」) ほか
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※7:「イエスさまが弟子たちを山に連れて行きますね」
この日、2017年3月12日(四旬節第2主日)の福音朗読から。
 該当箇所は、以下のとおり。
  マタイによる福音17章1~9節
   〈小見出し:「イエスの姿が変わる」17章1節~13節から抜粋〉
===(聖書該当箇所)〔朗読用から〕===
henyou-St
〔そのとき、〕イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。 (マタイ17:1-3/赤字引用者)
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※8:「神さまの声まで聴かせて」
===(聖書該当箇所)===
ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。 (マタイ17:5-6/赤字引用者)
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※9:「第2朗読」
この日、2017年3月12日(四旬節第2主日)の第2朗読から。
 該当箇所は、以下のとおり。
  テモテへの手紙二 1章8b~10節
   〈小見出し:「ゆだねられているものを守る」1章3節~18節から抜粋〉
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※10: 「読んでください、7節」
この日の福音朗読箇所、マタイによる福音の17章7節のこと。
 以下は、続くお説教中にある、〔弟子たちが顔を上げると、そこには、イエスさまがおられる。・・・「イエスのほかにはだれもいなかった」とあります (マタイ17:8) 〕までの聖書参考箇所。
===(聖書参考箇所)〔17章5節途中~〕/小さい数字は「節」===
5「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。6 弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。7 イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」8 彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。(マタイ17:5b-8/強調引用者)
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2017年3月12日(日) 録音/2017年3月23日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英