晴佐久神父のとこに行け

【カトリック浅草教会】

2017年3月19日 四旬節第3主日
・ 第1朗読:出エジプト記:(出エジプト17・3-7)
・ 第2朗読:使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ5・1-2、5-8)
・ 福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ4・5-15、19b-26、39a、40-42)

【晴佐久神父様 説教】

 ミサを捧げるときに、こうして、信じる仲間たちが共にいるというのが、どれほど素晴らしいことかと、実は、先週のある体験によって、つくづくと思っているところです。皆さんに、「ようこそミサに来てくださいました!」と、今、心からそう思える。
 それは、なぜかというと、先週も上野のお説教でお話ししたんですけど(※1)、一週間前の土曜の朝のミサで、香部屋から出てきたら、だれもいなかったんです。・・・人生、初の体験です。皆さん、インフルエンザでお休みしたりして、だれも来なかったっていう日があって。
 私、一瞬、「ボイコットされたかな・・・」(笑)とか変なこと考えましたけど、だれもいないんじゃしょうがない、一人でボ~ッと司祭席に座ってました。・・・一人でミサしちゃいけないんですよ、神父って。そういうルールがあるんです(※2)。共に祭壇を囲む仲間たちが集まると、始められる。
 私、先週の3月15日で、司祭叙階30周年だったんですけど、ミサを30年捧げ続けてきて、出てきたらだれもいなかったっていうのは初めてだし、ホントにさみしかった。30分間、司祭席でボ~ッと、「だれか来ないかな~」って待ってました。
 ということで、今日は皆さん、来てくださって、本当にありがとうございます! (笑) もう、心より御礼申し上げます。・・・皆さんがいてくれないと、ミサにならない。
 でも、これ、考えてみたら、今この瞬間だって、お互いに「ありがとう」なんですね。だれかが共にいてくれるから、こうして、みんなでミサが捧げられる。だれもいなかったミサの翌週、火曜日のミサのときは、ようやく体調回復した方が、一人、出てきてくれたんで、一対一のミサをやりました。でも、ホントにありがたかったです。当たり前だと思わずに、やっぱり、お互いに感謝しないといけないですよ。「来てくれてありがとう」「一緒にミサに(あずか)ってくれてありがとう」ってね。
 それでいうんならですね、今日、洗礼志願式(※3)を受ける方々が、こうして最前列に並んでおられますけど、この方々に、「来てくれてありがとう」「洗礼を受けてくれて、ありがとう」ってね、そんな気持ちで、お祈りしてくださいね。ちょうど、赤ちゃんが生まれたときに、「生まれてきてくれて、ありがとう」みたいな気持ちになるじゃないですか。家族が増えることで、その一番弱い家族を守ることで、家族がいっそう家族になる。・・・そんな思いでね、「来てくれて、ありがとう!」って。
 まさしく、私も、司祭生活30年、洗礼志願式をやらなかった年はなかったわけですから、皆さんに、「ありがとう! 皆さんが来てくれなかったら、浅草教会、今年は洗礼志願式がなかったんですから」って言わなきゃならない。・・・現に、受洗者のいない教会があるんですよ、今。ホントに、「来てくれてありがとう」って、そんな気持ちです。

 洗礼志願者のお顔を、こうして一人ひとり見ていると、初めて来たときのことを思い出して、しみじみといたします。
 ・・・一番端のあなたは、いろいろな問題を抱えている現実から、洗礼によって新たな一歩を踏み出そうっていうことで、結婚式を司式してくださった神父様の紹介で来られたんでした。
 その隣の方は、お父様を亡くしてから、がらりと事情が変わって、つらい思いの中で救いを求めて来られました。そのお隣は、なんだかアヤしい、スピリチュアル系の団体にはまって恐れにとらわれ、ずいぶん振り回されたけれど、遠回りしたおかげで、本物の福音に出会えた方ですね。「心の病で苦しんで、大変な人生でした。でも、今はもう、キリストなしの人生は考えられない」って言った方もおられますね。・・・一人ひとり、大変な思いをして、今、ここにいる。・・・「ようこそ!」です。
 ああ、上野か浅草か、受洗教会を迷っていた時に、「浅草教会にいらっしゃい!」ってね、信者さんから腕を引っ張られた方もおられますね(※4)。(笑) 最初は暗い顔だったあなたは、教会に来たおかげで、光の体験をしたんでした。・・・パーッと後ろから光が当たってるような、至福の体験。そのとき、「本当は、自分はず~っと光の中にいたのに、闇を見つめていたにすぎなかった」ってね、そう気づいた。・・・よかったね、今日、こうしてここにいられること。・・・なんか、もう、洗礼式みたいになっちゃったね。(笑) でもまあ、洗礼志願式は、もう、洗礼受けたも同然ってことですから。
 そう、そのお隣の方は、悩んで悩んで、最後に洗礼志願書を送ってきたんでした。迷って迷ってね。でも、今までの流れを振り返るなら、まさに、「私のいるべき場所はここしかない」と、そういうことじゃないですか?
 ・・・そのお隣、二人そろって洗礼を受けるご夫婦です、いいですねえ。ご主人は、巡礼の道を歩んだのが大きなきっかけになったとか。帰ってきてから、いろいろな教会で、いろいろな体験をなさったようですけど、そのおかげで、「信じて共に生きる仲間たちが必要だ」「教会こそが私のいるべき所だ」と、そう感じられた。・・・今日は、洗礼志願者となって、みんなのお祈りの中で、本当の「家族」っていうものを体験してください。
 「家族」ってことでいうなら、ちっちゃいころにお父様がいなくなっちゃって、それからず~っとさみしい思いをした方もいますね。でも、ようやく、この教会で本物の家族に出会い、本物の家族体験ができて、この一年間、入門講座で、素晴らしい仲間たちと素晴らしい福音に囲まれて、洗礼を決心いたしました。忘れないでください、教会は、あなたのために存在しているんです。
 ・・・洗礼志願式を迎えた皆さん一人ひとりのうちに、神さまが働いておられます。教会は、皆さんのために存在しています。ですから、皆さんに申し上げたい。
 「この教会から、離れないでください」
 いろいろあって、仮に教会から離れちゃったとしても、いざというときは、「あそこに帰れば、なんとかなる」と、教会という実家を思い出してください。生涯、「いるべき自分の家はここだ!」っていう思いを持ち続けていただきたい。もちろん、引っ越したりで、別の教会のミサに行くようになったりすることはありますけれど、教会は一つです。みんな一緒です。どこも、わが家です。ともかく、「教会から離れるな!」と、そう申し上げておきたいのです。

 先週、そういう意味でも、すごく印象的なことがありました。おととし、私が洗礼を授けた、一人の学生と再会できたんです。
 その学生は、小学生のときいじめに遭い、自分に自信が持てずに、人と交わるのが苦手になり、中学のときにパニック障害を発症し、高校のときには父親を亡くして心の病が悪化し、大学生のときに自殺未遂。・・・大変な思いをしてきました。彼はそのつらい思いを、大学の教授に打ち明けたんですね。有名な社会学者なんですけれど、その方は私と対談したこともあって、私と面識があったもんですから、「そういうことなら、晴佐久神父のとこに行け!」と言ってくれたそうです。
 そのおかげで、彼は、私のところに来ました。私は福音を語り、「洗礼の恵みを受けて、安心しましょう、元気になりましょう!」と励まし、彼は、洗礼の準備をはじめて、2年前の復活祭に受洗いたしました。
 でも、そのあと、またすぐに症状が悪化して、結局、1年半近く、病院に入ってたんですよ。だから、洗礼を受けても、ほとんど教会生活ができないまんま。しかもですよ、その病院生活の間に、電気ショック療法っていうのを医者から勧められて、こう言われたんですって。
 「これは、とても効き目がある。ただ、この療法を受けてからのち、半年間は記憶がなくなりますけど、いいですか?」
 ・・・SF的ですよね、こうなると。皆さんだったら、どうします?
 彼はよくなりたい一心で、「受けます!」と言って、受けました。実際に、電気ショック治療を受けてからの半年近く、ホントに記憶がないんですよ。もちろん、その間も普通に生活はしてたんですけど、その間の記憶がない。
 ところがですね、そんな中、病院の中で、ある宗教の人から非常に強く勧誘されて、退院したら、その宗教の集会に出る約束をしてしまった。でも、自分が洗礼を受けたっていうことは、もちろん覚えているし、そのことで悩んでいたんですね。とても熱心に誘われるし、「祈れば、病気も必ず治るから!」って言われ、彼はとっても優しくて、いいやつなんで、断り切れず、「・・・とりあえず一度は集会に行ってみようかな」っていう気持ちになっちゃった。
 そんな時に、病院の中にいる友人が、こう言ったんですって。「そんなとこに行くよりも、そういうことなら、まずは、晴佐久神父のとこに行け!」(笑) それで、ハタと、「ああ、そうだ。晴佐久神父に会いに行こう」と、改めて思い至った。で、先週、「やっと退院できました」って電話が来たんで、「すぐに会いたい」って言ったら、翌日、上野教会に来てくれました。
 それで、彼が、「ある宗教から強く誘われてるんだけれど、どうしたらいいでしょうか」って。・・・・「どうしたらいいでしょうか」って、「どうぞ」って言うわけないじゃないですか。(笑) 「とんでもない!」と申し上げました。「あなたのいるべき所は、ここなんだから、ちゃんと、もう一度、教会家族として、やってこうじゃないか」と。そして、改めて、きちんと福音を宣言いたしました。
 さらに、「心の癒やしを求める青年の集い」に誘ったら、ぜひ参加したいということで、次回、来ることになりました。・・・うれしかったです。「こうしてまた会えたんだし、ちゃんとまた福音を聞いたんだから、もうだいじょうぶだよ」って言ったら、彼、「ホッとした」って言いましたよ。「こんなにホッとしたのは、ホントに久しぶりだ」と。「やっぱり、教会はいいな」と。

 さっき読まれた福音書の、イエスさまのこの出来事をよく見てみると(※5)、「サマリアの女」って、別に救われたいと思って井戸に来たわけじゃないですよね。水を()みに来ただけです。ただ、その心の奥では、救いを求めてた。・・・それこそ、命の水を求めてた。いろいろ大変な人生を歩んできた女性なんですね。今日の朗読では割愛されているところを読めばわかりますけれども、つらい人生を歩んできた女性なんです(※6)
 その女性、別に、「ここで、今日、救われたい!」なんて、ぜんぜん思ってなかったんだけど、ふらりと井戸に来ると、救い主から声を掛けられるわけですよ。
 「お水を飲ませてください」 (cf.ヨハネ4:10)
 イエスさまのほうから近寄ってきて、声を掛けて、で、会話を始めた(ヨハネ4:7)。そして、ものの5分もたたないうちに、「その水をください」 (ヨハネ4:15) っていう心からの願いが、イエスによって引き出され、やがて、「救い主に出会った!」 (cf.ヨハネ4:29) という信仰が生まれる(※7)
 ・・・ねえ、洗礼志願者の皆さんも、教会に来るまでは、本当の願いを自分では分かっていなかったはず。なんとなく「救われたい」とは思ってたでしょうけれど、「これで救われる」っていうような、具体的なイメージは、見えていなかったはず。何年か前に、今日、こうして洗礼を志願してここに座っていることをイメージした人、いますか? ・・・いないはずです。「いったい、自分の人生はどうなるんだろう・・・」「何が本当に大切なことか、何をなすべきか、真の喜びにつながる道はどこか」って、ずっと求めていたはず。でも、イエスさまのほうから、声を掛けられました。
 入院していたその彼も、大学の先生から、「晴佐久神父のとこに行け!」と言われ、入院して混乱しているときにも、「晴佐久神父のとこに行け!」と言われましたけれど、それは、イエスさまが語り掛けたんです。イエスさまが、声をかけてくださったんです。
 今日の福音書の箇所でも、最後のところでは、町の人たちがみんな、このサマリアの女をきっかけにして、イエスさまの所に集まってきて、大勢の人たちがイエスを信じたわけですけど、「私たちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かった」と言ってますね (cf.ヨハネ4:42)
 きっかけを作ったのは、ある神父のひと言だったり、先生の紹介だったり、友人の勧めだったり、いろいろでしょうけれども、そのとき、皆さんに声を掛けたのは、間違いなく(・ ・ ・ ・ ・)イエスさまです。・・・あなたを現実に救おうとしておられる、救い主です。
 ・・・「福音を聞いたなら、もうだいじょうぶ!」っていうことです。
 ご自分が声を掛けた者を、自ら見捨てるなんてことを、イエスさまは決してなさらない。安心して、信頼して、この救いの道を歩んでいただきたい。洗礼式までの間、全世界の教会が、あなたたちのためにお祈りしております。教会から離れてはいけません。大船に乗った気持ちで、新しい一歩を踏み出します。
 さあ、それでは、洗礼志願式をいたしましょう。お名前を呼ばれた方は、返事をして、祭壇の前にお進みください。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます。)

※1:「先週も上野のお説教でお話ししたんですけど」
(参考)
・ 「天の鼓動の最初の一打ち」(「福音の村」2017/3/12説教:2段落目>この辺~)
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※2:「一人でミサしちゃいけないんですよ、神父って。そういうルールがあるんです」(以下再掲)
・ 「正当かつ合理的理由がない限り司祭は、少なくとも一人の信者の参加も得られない場合はミサを挙行してはならない」(教会法906)
・ 「ミサは司祭の個人的信心行ではありえません。共同体を代表する少なくとも一人の信徒がいなければ、司祭はミサをささげることはできないことになっています。(中略)ミサをささげるのは神の民全体です。キリストは、ことばと聖体の秘跡の中に現存する前に、まずは集められた会衆の中に現存することを忘れてはなりません」(「会衆の席」/「祈りをささげる」カトリック横浜市教区)
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※3:「洗礼志願式」
 洗礼を望む人が、教えを学ぶ求道者の段階から、正式に洗礼を受ける意思を表明し、そのものとして教会に迎え入れられる儀式のこと。この儀式を経ると、求道者は「洗礼志願者」と呼ばれる。
 古来教会では、「恩恵に照らされた者」「資格ある者」「選ばれた者」などと呼ばれた。
 元来、四旬節が洗礼志願者の受洗準備期間として形成されたことから、洗礼志願式は四旬節の初めに行われるのが本来とされる。
 四旬節の間は、ミサの典礼と結ばれて、志願者への力づけ、清め、照らしを願う祈りが行われる。
(参考)
・ 「入信のプロセスとは」(カトリック京都司教区
・ 「だれが洗礼を受けることができるか」(カテキズムを読もう<ラウダーテ)
・ 『岩波キリスト教辞典』(岩波書店、2008)
・ 『成人のキリスト教入信式』(カトリック中央協議会、1976)
・ 『カトリック教会のカテキズム』(カトリック中央協議会、2002) ほか
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※4:「『浅草教会にいらっしゃい!』ってね、信者さんから腕を引っ張られた方もおられますね」
この方についてのお話と証しは、以前の説教で触れられたことがある。
(参考)
・ 「振り向けば、光」(「福音の村」2017/12/18説教:最後の段落>この辺~)
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※5:「さっき読まれた福音書の、イエスさまのこの出来事をよく見てみると」
この日、2017年3月19日(四旬節第3主日)の福音朗読から。
 福音朗読箇所は、以下のとおり。
  ヨハネによる福音4章5~15節、19b~26節、39a節、40~42節
   〈小見出し:「イエスとサマリアの女」4章1~42節から抜粋〉
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※6:「つらい人生を歩んできた女性なんです」
===(聖書参考箇所 ①)===
そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。 (ヨハネ4:6-7/赤字引用者)
 ⇒ 当時、水汲みは女性の仕事だったが、灼熱の中東では、水汲みなどしない。女たちは、朝や夕方に水を汲みに集まり、そこでさまざまな情報交換(文字どおり、井戸端会議)をしていた。
 しかし、この「サマリアの女」が、その時間を避けるように、正午ごろ、水を汲みに来る。それには、それなりの事情があったと考えられる。
(参考)
・ 「福音のヒント2017/3/19」(幸田和生補佐司教)
・ 「日曜日のおはなし 2014/3/22」(カトリック上神崎教会 橋本勲神父)

===(聖書参考箇所 ②)===
イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」 (ヨハネ4:16-18/赤字引用者)
⇒ 「罪びとというよりも、男運に恵まれず、つらい思いを繰り返し、心が深く傷ついている女性と見るべきでしょうか。この町での彼女の評判は決して良くなかったでしょう」
(参考:引用)
・ 「福音のヒント2017/3/19」(幸田和生補佐司教)

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※7:「イエスさまのほうから近寄ってきて、~『救い主に出会った!』 (cf.ヨハネ4:29) という信仰が生まれる」
① 「イエスさまのほうから近寄ってきて、声を掛けて、で、会話を始めた」
===(聖書参考箇所)===
イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。 (ヨハネ4:6b-7/赤字引用者)

② 「そして、ものの5分もたたないうちに、「その水をください」(ヨハネ4:15)っていう心からの願いが、イエスによって引き出され、」
===(聖書参考箇所)===
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。 (ヨハネ4:13-15/赤字引用者)

③ 「やがて、『救い主に出会った!』 (cf.ヨハネ4:29) という信仰が生まれる」
===(聖書参考箇所)===
女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。 (ヨハネ4:28-29/赤字引用者)
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2017年3月19日(日) 録音/2017年3月31日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英