一人ひとりに目をとめて

【カトリック浅草教会】

2017年3月26日 四旬節第4主日
・ 第1朗読:サムエル記:(サムエル上16・1b、6-7、10-13a)
・ 第2朗読:使徒パウロのエフェソの教会への手紙(エフェソ5・8-14)
・ 福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ9・1、6-9、13-17、34-38)

【晴佐久神父様 説教】

 ご覧のとおり、今日から、助祭さんが来てくれることになりました。グエン・タン・ニャーさんです(※1)。イエズス会士で、ベトナム人。「ニャーさん」って呼んでください。猫のニャーです。(笑) 覚えやすいでしょ? 本名ですよ。研修のために、これから半年間、お手伝いしてくださいます。今日が浅草教会デビューですけど、仲良くしてくださいね。今年の9月23日、秋分の日に、麹町教会で司祭に叙階されます。みんなで行きましょうね。
 さっき、ニャー助祭を教会委員長さんに紹介したら、委員長が、なんだかうれしそうに、「神父向きの顔をしてますね」(笑) と言ってました。どういう意味ですかね。・・・私にはそんなこと言ってくれたことないんですけど。(笑) たぶん、信頼できそうな顔、優しそうな顔・・・という意味でしょうか。まあ、人々に奉仕する者として、そうありたいものですね。ニャーさん、ご覧のとおり、ホントに信頼できる、優しい助祭さんですから、これから、よろしくお願いします。

 叙階式といえば、先日、東京教区としては、4年ぶりの司祭叙階式がありました(※2)。皆さん、行かれました? 今回、二人の司祭が誕生しました。久しぶりの叙階式ということもあって、カテドラルに入りきらないほど信者さんが集まってましたよ。みんな、本当に喜んでましたけど、カトリック教会にとって、司祭の存在っていうのは、やっぱり大きいですね。それだけに、みんなの期待も大きいわけです。
 叙階式の最後のごあいさつで、司教様が、「信者の皆さん、新司祭を、厳しく、優しく育ててください」とおっしゃってましたけど、さて、ひと言で「育てる」といっても、「厳しく、優しく」、どのような司祭に育てたらいいんでしょうか。
 ・・・司祭ってなんでしょう? 何をしているんでしょう? 何を一番大切にしたらいいんでしょうか。もちろん、ミサを執り行ったり、信者のお世話をしたりするわけですけど、そうするにあたって、最も大切なことって、なんでしょう。
 私は、それはやはり、神のはたらきへの、全面的信頼にあると思う。
 私が働くんじゃない、神がはたらく。だから、私は自分の考えや自分の評価をかなぐり捨てて、ひたすら、神のみわざに信頼する。
 新司祭たち、さすがに緊張しながらも、顔を輝かせてユーモアたっぷりに挨拶していましたが、ぼくは心の中で語りかけていました。
 「がんばれよ。でも、な~かなか、大変ですよ~」(笑)
 ・・・そう、大変です。すごく大変なんだけど、でも、何の問題もない!
 なぜなら、神がはたらいているから。
 私も、司祭生活30年、本当に大変なことをたくさん体験してきましたけど、今は、確信を持って言えます。振り返れば、すべて御手(みて)のうちにあって、ちゃんと守られてたな、と。結局すべて、神さまがいいようにしてくださったし、結局すべて、自分が大変だと思い込み、自分がもう無理だと恐れただけであって、神がはたらけば、すべてはみ心のままに実現していくんだな、と。
 司祭は、自分のなかの恐れと常に向かい合い、そんな私に神がはたらいているという信頼を、常に新たにし続けるものでなければ、務まりません。そのような信頼があってこそ、ようやく、司祭は一人ひとりの神の子たちと向かい合うことができるのです。
 でもそれは、司祭はもちろんですが、キリスト者はみんな、そうでなければならないんじゃないですか。

 昨日、山谷の「神の愛の宣教者会(※3)」をお訪ねしてきました。3月25日は、神の愛の宣教者会の、ブラザーたちの会の創立記念日なんですね。ボランティアの人たちも大勢集まっていて、記念日のミサを捧げてきました。
 ご存じのとおり、最も貧しい人たちのお世話をする会ですから、ホームレスの方たちも来ていました。あのブラザーたちのしていることは、シンプルで、分かりやすくて、いいですね。何を目指しているか、何をしているか、見れば一目で分かる。今、現実に、目の前で困っている人に接して、必要としている援助をするわけです。
 住むところがないなら住むところを探し、食べるものがないなら食べるものを出し、友達がいないなら友達になって話を聞く。・・・複雑な話じゃない。わかりやすいです。犯罪者であれ、中毒患者であれ、それでも「あなたは愛されている」「あなたは大切な神の子だ」と伝えて、言葉としるし、目に見える愛情をもって、一人ひとりを大切にしている。まさに、第3千年紀を迎えたキリスト教会にあって、教会かくあるべしという模範を示す、もっともシンボリックな修道会です。
 私もそこで、「一人ひとりがつながって、ここに集う私たちは、本当に家族です」というお話をしましたけれど、まさに、この、「一人ひとり」っていうところが、この会の本質なんですね。でもそれこそは、教会の本質ですし、キリストの本質でしょう。
 ミサの後で、一人の方が近づいてきて思い出話をしてくれました、「神父さん、あの時、わざわざ声をかけてくれて、ありがとう。あの一言で自分はどれだけ救われたか」。他の方が近づいてきて言いました、「神父さん、ぜひお話しする機会をつくってください。信者にとっては、司祭と話すことが、大きな出来事なんです」。
 司祭とは、一人ひとりと話す人。忙しくバタバタ動きまわってちゃ、だめですね。一人ひとりと交わる機会がなくなっちゃう。仕事に追われて、一人の人間と向かい合う時間がなくなるようじゃ、それを果たして、司祭と呼べるかどうか。司祭の側も、「話を聞いてあげる」ではなくて、この人に触れることで、何かとても素晴らしいことがあるはずだという信頼、希望、喜びをもって、向かい合う。

 昨日、「ゆるしの秘跡(※4)」がありましたけど、心洗われるひとときでした。
 長い間、人生の中で、抱えきれないほどの重いものを担ってきた方が、司祭の語る福音で神の愛に目覚め、司祭の優しい一言ひと言で罪のゆるしを実感し、ポロポロと涙を流され、生まれ変わったようなさわやかな顔で、何度も何度もお辞儀をして部屋を出ていくとき、ああ、司祭をやっていて本当によかったと、心からそう思えます。
 結局、一人ひとりなんですよ。家族がそうであるように、基本は一対一なんです。親子関係でも、兄弟関係でも、まずは一人対一人であり、それがあって、家族ができていく。家族って、「人々の集い」じゃないでしょ。「一人ひとりが集まっている集い」であるはず。

 40年ほど前、もう亡くなりましたけど、ある神父さんがこう言ったのをよく覚えています。
 「もう、一本釣りの時代は終わったね。これからは、パアッと網をかけないと」
 私は、まだ学生でしたけど、それを聞いて「あれっ?」と思った。そうなんだろうか? 教会って、そういうことなんだろうか? 「これからは、網をパアッと広げて」って・・・。まあ、時代の流れもあったんでしょうけど、それは、結局は、「手間をかけずに効率的に」ってことでしょうし、その後、世の中はまさしく、「一人ひとり」よりも発展や経済を重視する世の中になってきました。
 でも、どんなに大きな網だって、最終的には、一匹一匹手作業で、傷つけないように、大切に網から外してかなければならない。教会が世の中とおんなじじゃあ、存在する意味がありません。まして司祭が世の中とおんなじじゃあ、そこにいる意味がありません。
 私も、毎日のように面談してますけど、もっと一人ひとりとゆっくりお話ししないといけないなと、改めて思ってます。皆さんも、「お忙しいでしょうから」と遠慮せず、司祭に相談に来てください。面談していなければ、司祭は司祭でなくなってしまいますから。忙しそうにしてる神父ほど、実は結構ヒマですよ。(笑)それを知られたくなくて、忙しいフリしてるだけ。

 イエスさまが、通りすがりに、一人の人を見かけます(※5)
 そこに、生まれつき目の見えない人が、坐っている。イエスはその人に、目をとめます。
 多くの人が、その人を見ていたはずです。目には入っていたはず。でも、「目に入る」と、「目をとめる」は違う。イエスは、近づいて、声をかけ、ご自分の聖なる唾で泥をこねてその目に塗り、「遣わされた者」(シロアム)という名の池(※6)に行って洗うように言います (ヨハネ9:7)
 まさに、イエスは、「遣わされた者」。神から、一人ひとりの神の子に遣わされた者。一人ひとりの神の子の闇に光をもたらす者。私たちは皆、このイエスに目をとめていただいた者なんです。
 先週、洗礼志願式をいたしました。志願者はみんな、かつて、何も見えなかった。・・・そうでしょう? 目は開いていたけれど、最も大切なものを見ていなかった。そこへ、一人ひとりをわが子として愛する神から遣わされた者が、近づいて、声をかけ、あなたの目を開いてくださったのです。それは、新たなる創造のみわざです。目が開いたら、何が見えるんですか? 神のおつくりになった美しい世界、神が生んでくださった仲間たち、何よりも、「神からこの私に遣わされた者」が見える。そう、目が開いたら、神が見えるんです。
 「闇から光へ」って、そういうこと。
 この世にはいろいろ目を引くものがありますけど、どれほどいろんなものを見ていようとも、神から遣わされた者を見ていないのであれば、何も見ていないのと同じなんです。何でも見えると思ってる人ほど、実は最も見るべきものを見ていない。今日は読まれませんでしたけど、今日の箇所に続いて、イエスはこう言っているんですよ。
 「こうして、見えない者は見えるようになり、見える者はみえないようになる」 (ヨハネ9:39)

 洗礼志願者の方々、洗礼式のときに、水をおかけしますよ。それは、シロアムの池の水よりも澄んだ、新しい創造の水です。その水で洗われたとき、ほんとうに主が見えるようになる。その主に、「信じます」と言いましょう。
 この、生まれつき見えなかった人と同じように、皆さんもかつて、自分に遣わされた者のことを、分かっていませんでした。でも、主の方から会いに来られて、声をかけてくださって、皆さんに、「その方を信じたいのですが」と言う気持ちにさせてくださったのです。イエスは宣言します。
 「あなたと話しているのが、その人だ」 (ヨハネ9:37)
 見えなかった人は、ひざまずいて、言う。
 「主よ、信じます」 (ヨハネ9:38)
 ・・・皆さんも、「主よ、信じます」と言ってください。
 洗礼式のとき、私は皆さんに、おたずねします。
 「天地の創造主、全能の神である父を信じますか」
 「父のひとり子、イエス・キリストを信じますか」
 「聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、体の復活、永遠の命を信じますか」
 ・・・「信じます!」と答えてください。そう言えることは、どれほど素晴らしいことでしょうか。
 あなたに目をとめ、あなたの目を開き、あなたの目の前におられるお方に、「信じます!」と言えること。洗礼式のとき、主は皆さんの目の前におられます。
 そのような主のおはたらきをお手伝いするのは、私たちキリスト者の使命です。一人ひとりが、「信じます!」と言えるようになるために、一人ひとりに目をとめ、声をかけ、その目を開くお手伝いをすることができるのは、私たちキリスト者を置いて、ほかにいません。
 それこそが、司祭の使命であり、キリスト者の使命です。

 先月説教でお話しした(※7)、整体院をやっている青年、今月も教会に泊まりに来ています。
 先月の話、覚えてます? 私の講演会で、みんなのお弁当を運ぶ手伝いをしてた青年に声をかけたら、本業は整体師だということで、信者じゃないと聞いて、早速施術を頼み、施術中におしゃべりしながら、巧妙に入門講座している(笑)って話。覚えてるでしょ? ほら、あの、筋膜の神経を緩めて、体に、本来の自分の体を「思い出させる」っていうやつですね(※8)。実は彼、今日、この教会のミサに初めて参加してくれています。あそこに座っている彼です。ようこそ、ようこそ。
 昨日も、彼にやってもらったんですけど、これが、実によく効く。体が生き返ったようで、その晩は熟睡できるし、ホントにありがたい。・・・あっ、宣伝料いりませんから。(笑)
 彼をこうして信仰の世界に導いてるのって、これ、キリスト者として、当たり前のことをしてるまでですね。私が、彼に目をとめて、近づいて、声をかけ、そして彼の目を開くお手伝いをしているのは、イエスさまがそうしているからです。イエスさまが、彼に目をとめられたからです。彼もまた、救いを求めているわけですから。
 実際、彼は一つの大きな問題を抱えているんですね。それは、一日に何人も真剣に施術していると、とても疲れてしまい、最近は心身が結構限界にきていると。彼、とても誠実でいいやつなんで、相手の邪気みたいなものを、もろに受け止めちゃってたんですね。
 そもそも、司祭はもちろん、施術師とか、カウンセラーとかのところには、元気な人は来ないわけで、会う人は皆、何か悪いものを抱えていて、それを全部持ち込んでくるわけです。当然、それを癒やす側はその悪いものと向かい合うことになるんで、下手すると、癒やすどころか、こっちに悪いものが移ってきちゃうってことだってあり得る。
 もしかすると、さっきお話しした、あの「一本釣りの時代は、もう終わったね」と言った神父も、実は、誠実に一人ひとりと向かい合ってるうちに、疲れ果て、すり減ってきて、「こんなのもう無理だ!」と限界を感じて、思わずそう口走っていたのかもしれないですね。
 彼のそんな悩みを聞いて、私、先月、彼に自分のことなどをお話ししました。施術してもらいながらの「逆入門講座」で。ほら、ひと月前の説教で、「今晩施術してもらう」って言ってましたでしょ(※9)。まさに、あの日の夜です。
 そこで私は、「それは、実は、司祭も同じだよ」と、お話ししました。
 「精神的に苦しんでいる人や、つらい現実を抱えた人と、毎日のように接していると、無力感に打ちひしがれるし、逆にこっちまで暗い気持ちになってくる。だけど、ぼくが今もこうして司祭をやっていられるのは、ひとつの大切な信仰があるから。それは、自分が働いてるんじゃない、神さまがはたらいているっていう信仰。
 自分が働いてると思ったら責任の重さに苦しくなるし、結果を出さなければという思いで緊張もする。しかし、ぼくは、今、相手の魂に触れているのは自分だとは思っていない。イエスさまが触れてくださってるんだと信じて、触れる。今、その心の痛みを聞いているのは、ぼくではなく、イエスだ。今、その魂に福音を語っているのは、ぼくではなく、イエスだ。どんな相手とも、そう信じて向かい合う。
 本当は、イエスさまがその人に直接お会いしてくれたら何よりなんだろうけど、イエスは物理的には存在していないので、今その人の目の前にいるこの私が、聞き、語り、救う。だから、その人に会いに行くときも、自分が行くというよりは、イエスさまをお連れするっていう感覚だし、その人が会いに来たら、『ようこそ、イエスさまのところへ!』っていう気持ちで会う。
 そう信じていれば、責任はイエスさまがとってくださるわけで、だから、とっても気楽だし、自然体でいられるし、不思議な力もたくさんはたらいて、恐れがない。さあ、だれでもどうぞって感じ。これ、すべて自分がやってるなんて思ったら、とてもじゃないけど、もたないよ。君も、そんな神のはたらきを信じて触れたら、きっと楽になれるよ」
 それを聞いた彼、表情が変わったし、それから今日までの1カ月間、彼はそれを信じて、その思いで施術してみたんですね。すると、驚くほど効果があって、自分も楽だし、相手の効き目も一層増したんですって。
 昨日の夜、そんなこの一カ月の体験のことを話してくれて、最後に彼は言いました。
 「神父さん、洗礼受けたいです」
 (本人に向かって)許可します。(笑) これから、本格的な入門講座を始めましょう。
 イエスはあなたに目をとめ、近づいてこられ、直接触れて、あなたの心の窓を開け、そこにサーッと光が入ってきました。
 一人ひとりに目をとめて、洗礼にまで導いてくださるイエスさまは、今日もはたらいておられます。キリスト者のお手伝いによって。あの日、私があなたに目をとめたとき、それは、イエスさまがあなたに目をとめた瞬間だったのです。キリスト者って、なんと尊い奉仕をしていることでしょうか。神と人との間に入って、主と共に偉大なわざを実現しているのです。

 「洗礼を受けたい」って、昨日聞いたばかりなので、本人の気が変わらないうちに、こうして皆さんの前で報告して、後には引けなくして。(笑)
 また、来月も施術よろしくね。入門講座を続けましょう。
 いろいろ大変だけど、司祭やっていてよかったって思うことがたくさんあって、だから神父はやめられない。(笑)
 私はこんな顔ですが、この顔の向こうに、イエスさまのお顔がチラリと見えるような司祭でありたい。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます。)

※1:「グエン・タン・ニャーさんです」
◎ヨセフ・グエン・タン・ニャー(Joseph Nguen Thanh Nha)助祭
 ベトナム出身。イエズス会
 2017年3月4日に、東京の麹町教会(イグナチオ教会)で助祭に叙階。
 同年9月23日に、司祭に叙階される予定。
(参照)
・ 「イエズス会助祭叙階式 2017/3/4」(岡田大司教説教/カトリック東京大司教区)
*****
 上野教会では、3月12日(四旬節第2主日)にデビュー。
(参照)
・ 「天の鼓動の最初の一打ち」(「福音の村」2017/3/12説教 最初の段落>この辺~)
・ 上記説教「参照※1」(「助祭」についても若干の説明あり)
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※2:「叙階式といえば、先日、東京教区としては、4年ぶりの司祭叙階式がありました」
 2017年3月20日、東京カテドラル聖マリア大聖堂において司祭叙階式が行なわれた。東京教区にとっては4年ぶりの叙階式。2名の新司祭が誕生した。
 新司祭、「ミカエル 泉雄生神父」は、千葉寺教会・西千葉教会の助任司祭として派遣され、
 「パウロ 野口邦大神父」は、八王子教会の助任司祭として派遣として派遣された。
(参照)
・ 「カテドラルで4年ぶりの司祭叙階式」(「東京教区ニュース」第341号)
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※3:「神の愛の宣教者会」
◎「神の愛の宣教者会」(Missionaries of Charity)
 マザー・テレサが創立したカトリックの修道会。(1950年10月7日ローマ教皇庁認可)
 「もっとも貧しい人々のために働くこと」を使命とする。
 もとは、女子修道会だったが、1963年には、男子修道会である「神の愛の宣教者兄弟会」も創立。世界各国で、多くの司祭、修道者が活動している。
(参考)
・ 「神の愛の宣教者会」(ウィキペディア)
・ 「神の愛の宣教者会」(公式サイト:英語)
・ 「特別企画 マザー・テレサ」〔マザー・テレサの略歴、召命についてなど〕(ラウダーテ) 他
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※4:「ゆるしの秘跡」 (既出)
 カトリック教会で、七つの秘跡(洗礼、堅信、聖体、ゆるし、病者の塗油、叙階、婚姻)のうちの一つ。
 洗礼以後に犯した罪を、教会の司祭を通してゆるし、罪びとを神に和解させる秘跡。
 現代の「ゆるしの秘跡」には、個別の「ゆるしの秘跡」と、「共同回心式」がある。
 ただ、これだけが罪のゆるしを得られる道ではない。祈り、善行、愛のわざ、また、聖体や病者の塗油の秘跡を受けることなどによっても、神のゆるしを受けることができると、教会は教えている。福音は、神の無条件のゆるしを説いているのであり、人が神への回心を何らかのかたちで示すとき、ゆるしが実現する。
(備考)
 「秘跡」とは、イエス・キリストの制定によるものであって、神の恩恵を示し、キリストのはたらきによってそれを与えるしるしのこと。(『カトリック要理 改訂版』p.167~169中央出版社、1979年)
(参考)
・ 「ゆるしの秘跡」(「キリスト教豆知識」<ラウダーテ)
・ 「ゆるしの秘跡」(ウィキペディア)
・ 「ゆるしの秘跡」
   『カトリック要理(改訂版)』(中央出版社、1979年)
     第3部「秘跡と祈り」-第35課「ゆるしの秘跡」p.190~198
・ 「ゆるしと和解の秘跡」
   『カトリック教会のカテキズム』(カトリック中央協議会、2002年)
    「ゆるしと和解の秘跡」1422番~1498番
・ 「ゆるし」-【秘跡】(『岩波キリスト教辞典』 岩波書店、2008年)
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※5:「イエスさまが、通りすがりに、一人の人を見かけます」
この日、2017年3月26日(四旬節第4主日)の福音朗読から。
 福音朗読箇所は、以下のとおり。
  ヨハネによる福音9章1節、6~9節、13~17節、34~38節
〈小見出し:「生まれつきの盲人をいやす」9章1~12節、「ファリサイ派の人々、事情を調べる」9章13~34節、「ファリサイ派の人々の罪」9章35~41節から抜粋〉
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※6:「『遣わされた者』(シロアム)という名の池」
 参考までに、この日に会衆に配られた『聖書と典礼』には、福音朗読箇所の欄外に、以下のような注釈があった。
===(『聖書と典礼』欄外)===
9:7「シロアムの池」
 
エルサレムに引いた用水を溜めていた池。ここでは「シロアム」が「遣わされた者」と解されているが、語源的にははっきりしない。しかし、イエスが神から遣わされた者であること、あるいはこの盲人が遣わされた者になっていくことが象徴的に表されている。(『聖書と典礼』〈四旬節第4主日A年 2017.3.26〉オリエンス宗教研究所)
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※7:「先月説教でお話しした」
(参考)
・ 「明日は絶対、いいことありますよ!」(「福音の村」2017/2/26説教 中盤=8段目落>この辺~)
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※8:「体に、本来の自分の体を「思い出させる」っていうやつですね」
(参考)
・ 上記説教(中盤=8段落目の>この辺~)
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※9:「ひと月前の説教で、『今晩施術してもらう』って言ってましたでしょ」
(参考)
・上記説教(終盤=9段落目の>この辺~)
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2017年3月26日(日) 録音/2017年4月8日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英