こんな私を愛する神

【カトリック浅草教会】

2017年12月25日 主の降誕(日中のミサ)
・ 第1朗読: イザヤの預言(イザヤ52・7-10)
・ 第2朗読: ヘブライ人への手紙(ヘブライ1・1-6)
・ 福音朗読: ヨハネによる福音(ヨハネ1・1-18、または1・1‐5、9-14)

【晴佐久神父様 説教】

 クリスマス、おめでとうございます。
 私たちがどれほど大きな恵みを頂いているかを、改めて、今日、2017年のクリスマスに思い起こしましょう。生まれてから、クリスマスはもう何度目かっていう話かもしれませんけれど、今日、私たちは、まったく新しい気持ちで、今までになかったほど新鮮に、「神の愛が生まれたんだ。神の恵みを、今、ここで頂いているんだ」ってことに気づきましょうよ。そのことに、ほんのちょっとでも気づくなら、今抱えている心の闇とか恐れとかが吹き飛ぶんだという真理、その福音に、心を開いてほしい。
 私はその福音をどうしても伝えたくて、あれこれ工夫しているわけですけれども、これが、なかなか伝わらない。伝えたい人ほど、心を閉ざしてしまう。「こんな私は・・・」と言うし、「こんな世の中は・・・」と言うし、「あんなやつは・・・」と言うし。でもそれは、「今、神の愛がこの私のうちに生まれている」っていうことに目覚められたらどれほど素晴らしいことかってことを、知らないだけなんです。だから私、それこそ、ほら、・・・相撲で立ち合いの瞬間に、相手の目の前でパンと手をたたく、・・・「猫だまし」(※1)? あれみたいに、皆さんの目の前でね、パンッ!って手をたたきたくなるんですよ。「ほら、目を覚まして! 神の愛に気づいてくださいよ!」って。
 私、皆さんが、ホントに神の愛に満ち満ちているのが見えるんです。もしかしたら、私には、人に見えないものが見えているのかもしれないって思うくらい。私のところに相談に来る人、いっぱいいますけど、当然みんな、暗~い顔して、つら~い気持ちで来る。それは分かるんだけれども、神の愛がその人のうちに満ち満ちているのが見えるので、もちろん、目で直接見えるわけじゃないですけど、どうしてそれを見ようとしないのか、感じ取れないのか、不思議な気さえしてくる。
 もう救われてるのに、本人が、それに気づかない。気づこうとしない。こればっかりはね、本人が目を覚まさない限り、どうしようもない。だから、それこそ、ホントに、その人の目の前で、パンッ!って手をたたきたくなるっていう、その気持ち、・・・分かりますでしょうか。

 昨日の上野教会のクリスマス夜半のミサ、ホントに聖霊に満ち満ちたね、素晴らしいミサでした。あそこは何といってもね、子どもたちが多いんですよ。あれはいいですね。・・・何ていうんでしょう、ちょうどクリスマスは赤ちゃんが生まれたお祝いですから、小さな子どもたちがいっぱいいると、特別に希望がありますよね。・・・あ、ここにはないって言ってるんじゃないですよ。(笑) ただ、上野教会は中国センターがありますから(※2)、どうしても、子どもたちが多いんです。泣き声は聞こえるし、走り回ってる子はいるし、ちっちゃい子たちがワイワイと騒いでる様子っていうのは、いいもんですよねえ。
 だから私、子どもたちにね、ちょうどそのミサが始まる直前に見た、テレビのニュースの話をしたんです。ニュースで、サンタクロースの出発式(※3)みたいなのを報道してたんですね。北欧に「サンタの家」っていうのがあって、その家のドアから、サンタが出て来るんです。いよいよ、これから子どもたちにプレゼントを配るっていうんで、大荷物を抱えて出てくるんですよ。白くて長~いひげのね、太ったサンタさんが、それらしい顔して、ユッサ、ユッサと出てくる。
 で、まあ、それはいいんですけれども、そのサンタが、出発前にこう言ったんです。
 「さあ、これから、今年一年間、いい子にしてた子のところに行くからね~!」って。
 これはね、私、まずいと思うんですよ。昨日も大勢の子どもたちが聞いてましたから、ちゃんと教えておきました。「このサンタは、ニセモノです」と。(笑)
 だって、「いい子のところにだけ行くサンタ」なんて、これ、もうサンタじゃないですよ。そんな条件付きじゃあ、「取引」になっちゃいますから。もしそうなら、「プレゼントが欲しいから、いい子にしよう」って話になるじゃないですか。もっと悲しいのは、プレゼントをもらえない子が、「ああ、自分はいい子じゃなかったんだ・・・」って思っちゃうこと。これは、やっぱりまずいと思う。
 サンタなんて、要するに神の愛のシンボルでしょ、純粋贈与のね。神さまは、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)っていう、それが出発点ですから、「どんなに悪い子のところにも、今晩は行くからね」って言ってくれないと、福音にならないんですよ。
 だから、親がね、「いい子にしてないと、サンタさんが来てくれませんよ」みたいに、親の思いを押し付けるためにサンタを利用するっていう、これもやっぱり、よろしくないと思います。むしろ、「どんなに悪い子のところにも、サンタさんは来てくれるのよ」って教えないと、神の愛を理解させる、せっかくのチャンスを台無しにしちゃうんじゃないですか。どんなにダメな自分でも、神さまは、プレゼントをくださるし、そのプレゼントの極みは、イエスさまそのもの。むしろ、ダメな子を救うためにイエスさまはやって来られたんでしょう?・・・すべての「悪い子」のところにね。
 昨日の説教でも、「そもそも、ホントにいい子なんて、いないでしょ」ってお話ししたんです。「じゃあ、一年間、ずっといい子でした、悪いことは一つもしませんでしたっていう子いますか? いたら、手を挙げてくださ~い!」ってやったんですけど、誰も手を挙げないと思ったら、「は~い!」って手を挙げた人がいた。(笑) しかも、大人。私、すかさず言い返しました、「残念、今、あなたは、『うそをつく』という悪いことをしました」。(笑)
 一年間、悪いことをしない人、それはあり得ないでしょう。あり得ないし、そんなことは、神さまは先刻ご承知で人間を生んだし、育てている。ぼくらは、「悪い子でありながらも、愛されている」っていう恵みの中で、今日までなんとか生き延びたんです。
 そう、先週もお話ししたけど、たとえば、皆さんがこうやって、ここに「いる」っていうだけでもね、それは、誰からも「出てけ」って言われなかったってことですよ。・・・そういうことですもんね。やっぱり、みんなに受け入れられて、今、ここにいるし、その大もとは、天の父が、私たちの存在をゆるして、すべての(あやま)ちをゆるして、今も、ご自分の親心を注いでいる。だから、「さあ、目を覚ませ!」と、パンッ!ってね、手をたたきたくなるってことですよ。「自分の中に純粋な神の愛があるのに、気づいていない」っていう、これが一番もったいないことでしょ。気づこうと気づくまいと、とにかく、もうあるんですもん、だって。

 昨日の委員会でね、会議室のピアノの椅子がないっていう話が出た。高さを調節できるやつね、あれがないとうまく弾けないでしょ。しょうがない、椅子を買わなきゃならないとか、そんな話になった。でも私、そのときに、ふっと思い出した。どっかでピアノの椅子、見たことがあるような・・・。どこだったか・・・。で、委員会の後で、ウロウロ捜して、そこの告解の部屋に入ったら、隅に、その椅子があったんですよ。「見つけたよ、見つけたよ」ってことでね、買わずにすんだ。
 ・・・あるんですよ。ちゃんとそこに。あるのに、ぼくらは、ない、ないって言って困ってる。皆さんの心のうちには、限りない神の愛、・・・永遠の愛ですよ、不滅の、全能の、完全なる、天の父の愛がもうあります。あるからこそ、私たちは生きてるんだから。

 今日の福音書はね(※4)、ちょっと神秘的で、難しい言葉が並んでるように見えるけれど、この「(ことば)」っていうのがキーワードでしょ。
 「初めに(ことば)があった」(ヨハネ1:1)
 で、「ことば」っていったって、普通のことばのことじゃないですよ。神のことばのことですから、もちろん、愛のことばです。「お前を愛してるよ」「お前がいてくれて、うれしいよ」「お前を、必ず幸せにするよ」っていう、親の言葉のような。さらに言えば、「お前を愛してるよ」っていう言葉っていうのは、その愛の表れとして、「愛」そのものでもあるんです。
 だからもう、「初めに(ことば)があった」って読むときに、「(ことば)」を「愛」に変えて読むといいですよ。「初めに愛があった」って変えてみると、少~しね、分かりやすくなるんです。うれしくなるんですよ。
 「初めに愛があった。愛は神と共にあった。愛は神であった。この愛は、初めに神と共にあった。 万物は愛によって成った。成ったもので、愛によらずに成ったものは何一つなかった。愛の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」 (cf.ヨハネ1:1~5/「言」→「愛」)
 「愛の内に命があって、命は光だ」って言ってるんだから、「光を暗闇が理解しない」っていうのは、「愛」を理解しないっていうことですよね。ここに、もうすでに「愛」があるのに、「ない、ない」って言ってるような。そのことを言ってるんですよ。われわれの内には暗闇がありますけども、その暗闇は、愛を理解してないから暗闇なんです。
 「その愛は、まことの愛で、世に来てすべての人を照らすのである。愛は世にあった。世は愛によって成ったが、世は愛を認めなかった」(cf.ヨハネ1:9~10/「光」「言」→「愛」)
 われわれのことですね、「世は愛を認めなかった」。
 「愛は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(cf.ヨハネ1:11/「言」→「愛」)
 これも、われわれのこと。神の愛は来ているのに、気づかずに、自分を責め、他人を責め、この世を責め、まあ、もちろん、悪いことはいっぱいあるけれども、本質は愛。
 「愛は、自分を受け入れた人、その愛を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(cf.ヨハネ1:12/「言」「名」→「愛」)
 そうねえ、ぼくらも、最初から神の子なんだけれど、「自分は神に愛されている」と気づいたときに、本当の意味で、神の子になれる。そういうことを言ってるわけですね。(※5)

 「自分を好きになる人なんか、好きになれない」って言った人がいるんです。恋愛の話ですけどね。「こんなダメな自分を好きになる人なんか、好きになれない」っていうことです。分からないでもないですね。自分のことをダメだと思ってるから、自分はかわいくない、自分は性格悪い、自分なんか魅力がないと思ってるから、こんな魅力のない者を好きだって言う、そんなセンスの悪い、そんな人を好きになれない。・・・そういうことですよね。でも、それじゃあ、恋愛、成立しませんよ。
 誰かが好きだって言ってくれるからこそ、「こんな私も、自分では気づかないけど、魅力があるんだ」、そう気づけるわけで、それで、恋とか、愛とか、成立するわけですよね。「こんな私だけれど、『好きだ』と言ってくれる。なんてうれしいことか!」って。自分を受け入れることなしに、他者を好きになることなんてできっこない。
 まあ、恋愛ならまだしも、これ、相手が神さまだったら、やばい話なんですよ。だって、「こんな私を愛する神は、愛せない」ってことになるわけですからね。あるいは、「こんな私を愛する神なんて、いるわけない」とかね。でも、最初から、神の愛は、自分の内に、もう、あるんです。ないと思っていても、「椅子」はそこにあるんです。誰が何と言おうと、あるものは、あるんです。人がそれを見つけていないだけの話。
 「神に愛されている」っていうこの恵みを、何とか教えたくて、知らせたくて、味わわせたくて、イエスさまが来られて、とことん愛を語り、とことん愛してみせてくれた。その始まりがクリスマスっていうことですから、これから探しに行くんじゃなくって、今日は、ちょっと思い出してみたらどうですか? 今までのこの人生で、どれだけ愛されてきたか、もう、その一日一日、一分一分、一秒一秒、ぜ~んぶ神さまの愛の内にあったっていうことを、思い出してみたらいいと思うんですよ。

 先月、上野教会の青年とテレビを見てたら、文京区の六義園(りくぎえん)(※6)っていう庭園の紅葉のニュースをやってて、「うわ~! きれいだね! すぐそこだし、見に行こう」って話になって、ぼくも、ちょっとこう、中性脂肪のことがあったんで、「じゃあ、庭園をガシガシ歩くか!」ってことになり、六義園に行ってきました。ご存じでしょ、柳沢吉保(やなぎさわよしやす)の庭園です。で、ガシガシ歩き回ったんですけれど、紅葉、きれいでしたよ。とっても気持ちよかったです。
 実は私、その六義園のすぐ隣で生まれ育ってるんですね。自分のふるさとみたいなもんです。もう、あの中は、目をつぶってても歩けるくらい、よく知ってる庭園なんですよ。子どものころは、いっつも遊んでた(※7)
 庭園に入る前に、入り口のすぐ近くが実家だったんで、「ここに、ぼくが住んでた家があったんだよ」って、立ち寄ってみたんですね。今はマンションになってて、何の面影もない。・・・と思ったら、マンションの奥の(へい)が、50年前と変わってないのを発見したんですよ。(こけ)むしてるっていうか、昔よくあった、コンクリートの板塀ってやつ? 「うわあ、これだけ、変わってない~」って、感動しちゃいました。
 で、そのとたん、いろんなことを思い出した。記憶って面白いですね。「そうだ、この塀の前に、父が、ブランコとシーソーを作ってくれた」とか。狭~い裏庭みたいなとこだったんだけど、手作りでブランコとシーソーを作る父親って、なかなかいないでしょ。大工仕事が得意だったんで、丸太を組んで、自分で作ってくれたんですよ。そのことを急に思い出して、「そうだ、ここにブランコとシーソーがあった。そこで遊んだなあ・・・」って。
 それから六義園に行って、芝生(しばふ)を見た途端、また思い出した。私たち一家ね、新聞に載ったことがあるんですよ。春まだ浅いころ、ぽかぽか暖かい日があったんですね。で、母が、私たち兄弟三人連れて、六義園の芝生で日向ぼっこして過ごしてたんです。そこに、新聞記者が、「もう春が来たぞ~」みたいな記事を書こうとして取材に来たら、ちょうどお母さんと子ども三人が芝生に座ってる。これは絵になると思たんでしょう、写真に撮って、「もう春が来た」みたいな記事にしたんです。
 写真に撮られたときのことは覚えてませんけど、その写真は、わが家にあったんで、覚えてます。母が編み物をしていて、姉が絵本か何か読んでいて、ぼくがお絵かきをしていて、弟がウロチョロしているみたいな写真。たぶん、6歳、4歳、2歳くらいじゃないですかね。確かにいい絵ですよね、日の当たる芝生で、お母さんが編み物をして、子どもたちが絵本を読んだり、お絵かきしている姿。
 その一瞬って、これ、写真に撮ったから、記憶に残っているわけですね。もし写真に撮らなかったら、誰も思い出さないかもしれない。写真にパチッって撮ったのは、ほんの0.1秒かもしれない。でも、その幸せな瞬間っていうのは、確かにこの世界に存在した瞬間だし、それはもとはといえば神のみわざなんだから、永遠に消えることのない出来事であるはずなんですよ。
 みんな、忘れてるかもしれないけど、無数の幸いな0.1秒が自分の人生にあったはずだし、その一瞬、自分は確かに幸せで、憂いなく、愛に包まれて、日の光のもと、平和、安心、喜び、それを純粋に味わっていたはず。それはもう、残っていないようでいて、決して消えることなく、今のこの私をつくっているし、もうすでに、私の内に、永遠なる神の愛として宿ってるんです。
 神さまは、2千年前に、ちょいとイエスさまを送って、「それでよし」なんていうことじゃなくって、もう、日々、私たちに救い主を送り続けているし、イエスさまは、すべての0.1秒に宿ってます。・・・神の愛が。
 思い出してくださいね、この一年のこと。
 神の愛の宿った瞬間。

 安心して、また新しい一年をやっていきましょう。神さまの愛は、もうすでに、私たちの内に来ております。
 「こんな私を愛する神、そんな神以外に信じられない」、
 そう言うべきです。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます)

※1:「猫だまし」
 相撲の戦法の一種。
 立合いと同時に、相手力士の目の前で掌を合わせてたたき、相手をかく乱させるための奇襲戦法。「腰砕け」や「つきひざ」を呼び込むために用いられる。普通は、「小兵が奇襲でやる」とされる。
(参考)
・ 「猫騙し」(「相撲用語一覧」/ウィキペディア)
・ 「白鵬『猫だまし』に理事長『ありえない…前代未聞』〔画像あり〕2015/11/17(日刊スポーツ)
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※2:「上野教会は中国センターがありますから」 (既出)
 カトリック上野教会には、「イエズス会中国センター」というセンターがあり、井上潔神父さまを所長として、ロバート・ディーターズ神父さま、山岡三治神父さま(お三方ともイエズス会)が協力されている。
 中国語のミサは、日曜日、13時半から捧げられている。(春節祝い、復活祭、聖霊降臨祭は12時から)
(参考)
・ 「イエズス会中国センター」(オフィシャルサイト)
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※3:「サンタクロースの出発式」
 毎年、サンタクロースは、トナカイの引くソリに乗って、フィンランド北部の故郷、ロヴァニエミ(Rovaniemi)にある「サンタの家」を出発し、世界中の子どもたちにプレゼントを配る旅に出る。毎年12月23日には、その出発式があり、世界中に中継されている。(下の画像は、出発するそのサンタさん)
Embed from Getty Images
(参考)
・ 「サンタさん、プレゼント配りにフィンランドを出発!2012/12/24(AFP)
・ 「フィンランドからサンタ出発、世界中にプレゼント(17/12/24)〔YouTube〕(new japanese)
・ 「フィンランドからサンタ出発 米軍が人工衛星で追跡(17/12/25)〔YouTube〕(ANNnewsCH)
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※4:「今日の福音書はね」
この日、2017年12月25日(主の降誕・日中のミサ)の福音朗読箇所は以下のとおり。
 ヨハネによる福音(ヨハネによる福音書)1章1~18節、または1章1~5節、9~14節
 〈小見出し:「言(ことば)が肉となった」〉
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※5:本日の福音朗読の参考個所と、理解のために。
この日の福音朗読個所は、上記(参照※4)のとおり、
 ヨハネによる福音(ヨハネによる福音書)1章1~18節、または1章1~5節、9~14節
 〈小見出し:「言(ことば)が肉となった」〉
===(聖書参考個所①/(カッコ)内にはお説教に従って「
」を入れてみた)===
 
初めに(ことば)(愛)があった。(愛)は神と共にあった。(愛)は神であった。この(愛)は、初めに神と共にあった。万物は(愛)によって成った。成ったもので、(愛)によらずに成ったものは何一つなかった。(愛)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。 (ヨハネ1:1~5)

===(聖書参考個所②/(カッコ)内にはお説教に従って「」を入れてみた)===
 
その(愛)は、まことの(愛)で、世に来てすべての人を照らすのである。(ことば)(愛)は世にあった。世は(愛)によって成ったが、世は(愛)を認めなかった。(愛)は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 しかし、(愛)は、自分を受け入れた人、その(愛)を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 (ヨハネ1:9~12)
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※6:「六義園」 (既出)
◎六義園 (りくぎえん)
 東京都文京区本駒込にある都立庭園。
 徳川五代将軍、徳川綱吉の側用人(そばようにん)だった柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)が、1695年(元禄8年)に加賀藩の旧下屋敷跡地を綱吉から拝領し、7年かけて造り上げた。
 ツツジや紅葉が特に美しく、また、しだれ桜、椿、アジサイ、萩など、季節ごとにさまざまな花が咲き誇る。芸術上、観賞上、価値が高いとされる庭園として、特別名勝に指定されている。
(参考)
・ 「六義園」(オフィシャルサイト)
・ 「六義園」(ウィキペディア)
・ 「人を安心させること」(「福音の村」2017/7/16説教、「参照※1」)
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※7:「子どものころは、いっつも遊んでた」
 以前の説教でもご紹介しているので、ご興味のある方は、以下をお読みください。
  >「人を安心させること」(「福音の村」2017/7/16説教、上から2段落目>この辺~)
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2017年12月25日(日) 録音/2018年1月19日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英