教会は、あなたのためにある

【カトリック上野教会】

2018年1月7日 主の公現
・ 第1朗読:イザヤの預言(イザヤ60・1-6)
・ 第2朗読:使徒パウロのエフェソの教会への手紙(エフェソ3・2、3b、5-6)
・ 福音朗読:マタイによる福音(マタイ2・1-12)

【晴佐久神父様 説教】

 お正月は、いかがでしたでしょうか。私は、すごくいいお正月を過ごせたと思います。年賀状をくださった方々、ありがとうございました。
 ほら、いつだったか、ヒッチハイクの青年を泊めたっていう話、したじゃないですか(※1)。夜、私が食べるはずだった麻婆豆腐を半分食べた、あの彼からも年賀状が来ましたよ。またぜひお伺いしますって。やっぱり、うれしいですよね。「よし、いいよ、また泊めてやるよ」っていう気になるじゃないですか。信頼関係が増すっていうか。私、そういう偶然のような関わりをこそ、大事に生きてきたつもりですけれど、だんだん仲良くなっていく、だんだん親しくなっていく、しまいには、ホントにかけがえのない人にすらなっていく、そういうプロセスっていうのが、やっぱり好きですね。
 そういうのって、仲良くなってから、「ああそうだった、あのときね」って思い出すわけですけれども、逆にいうと、今日初めて会った人とだって、そうなるかもしれないわけでしょう。それは、誰にも分からない。だからやっぱり、「はじめまして」って言って会った人とだって、これは神さまが出会わせてくれた人なんだ、どんどん親しくなっていく仲間なんだっていう、そういう気持ち、私、とても大事にします。
 相手のことを、「たまたま偶然会いました、どうせ一期一会で、もう会わないでしょう」とは思わず、あるいは、「この人、どんな人だか分からない。そんなに親しくするのも、ちょっと心配だ」と、そんなふうにも思わず、「この出会いの向こうに何が始まるか、それは今は分らないけれど、神さまはご存じだし、ご存じだからこそ出会わせてるわけなんだから、きっといいことが始まるんだろうな」と、そう思って向かい合う。やっぱり、教会にはそういうセンスが必要なんじゃないですかね。今もこうして集まっていて、お互いに名前も知らない「はじめまして」もいるかもしれませんけど、実は、出会うべくして出会い、集まるべくして集まり、そして、結ばれるべくして結ばれている、そういう仲間なんですよ。神さまが、何か素晴らしいことをしておられるんです。
 ですから、皆さんはここにいるだけで意味があるし、出会うだけで、もうすでに神の喜びになっているんだから、お互い無条件に結ばれたらいいんです。私たちも、それぞれ、教会委員さんとか、司祭とか侍者とか、聖歌隊とか、いろいろな役割を持ってますけど、そういう意味では、「今日、初めて来ました」なんていう方でも、平等なんですね。この集まりの中では、私は新参者だとか、余計な者だとか、本来はいてもいなくても同じ者だとか、そんなことを思う必要は全然ない。全員、互いに出会うべき、主役。その感覚はね、とっても大切です。キリスト教らしい。

 お正月、私は駅伝ファンですから、ワクワクして見てましたけど、今年、すごく気がついたことがある。駅伝の魅力って、まさに、そこにあるってこと。つまり、「みんな主役で、平等だ」ってとこにあるんじゃないか。もちろん、それなりに有名な選手もいるけど、駅伝はリレーだし、とっても平等です。マラソンなんかだと個人競技ですから、やっぱりスター選手が目立ちますし、他のスポーツなんかだと、たとえば野球だったら、「私はジャイアンツファンです」とか、「カープファンです」って言うわけでしょ。カープが負けるとがっかりするとか、ジャイアンツが勝つと喜ぶとか。それに比べると、ほとんどの駅伝ファンは、「誰が勝ってうれしい」じゃないんですよ。これは、なかなかステキだなと思いますよ。みんなが走って、みんなががんばって、みんなが輝いてるのが、うれしい。みんなが協力し合ってるし、どのチームも精いっぱい走ってるっていう、その全員の純粋さに、見てる方もワクワクする。
 スーパーヒーローがいないっていうのがいいですね。もちろん、「山の神」とか、それなりに出てはきますけど(※2)、すぐ卒業しちゃいますからね。たぶん、見てる人は、走ってる人の名前はほとんど知らないんじゃないかな。それこそ、「内村航平君、がんばって!」とか、「錦織圭は素晴らしい」とか、「羽生結弦が金メダル」とか、そういうのとはまた全然違うじゃないですか。それがいいんだっていうのを、今年、すごく感じました。
 駅伝のスポンサーが、ちょうどそんなコマーシャルを流してたってのもあるんですけど(※3)、キャッチコピーが、とってもいいんですよ。
 「みんな、がんばれ」
 「脇役のいないドラマに」
 ・・・いいですね、「脇役のいないドラマ」。みんな主役ってことでしょ、逆に言えば。だから、沿道に大勢の人がいて旗を振ってますけど、あれは主催者の読売の旗を振ってるわけですね。でも、あれはあれでいいような気がする。全員おんなじ旗だってことで。あれが、自分の応援する大学の旗や、応援する個人名の旗ばっかりだったら、ちょっと雰囲気よくないんじゃないですかね。まあ、各大学ののぼりは立ってますけど、沿道で応援してるほとんどの人は、特定の大学のファンじゃないでしょ。それって、よくないですか。
 みんなの必死に走る姿を見てると、毎日、どれほどの努力をしてるんだろうとか、どれだけの試練を乗り越えてきたんだろうとかって思うし、そしてまた、走ってる一人の陰には、選ばれなかった大勢の仲間がいるんだろうなって思うし、走ってる全員に感動してしまう。
 優勝した青山学院の10区なんか、ホントは別の人が走るはずだったんですね。本来走るはずだったのは4年生ですけど(※4)、4年生だから、最後の駅伝じゃないですか。しかも10区ですから、最後にテープを切るところを任されたわけですよ。で、青山学院なんていったら優勝候補だから、自分がゴールに走りこんで、みんなの笑顔に迎え入れられるなんていうことを、どれほどイメージしたか想像つきますでしょ。だけど数日前に、自分で気づいたんですね。どうも調子が悪い、ベストの状態じゃないって。
 もちろん、それを隠して走ることもできたし、結果的には、彼が走っても優勝できたかもしれない。でも彼は、「自分は降ります。もっと適任のやつを選んでください」って、監督に申し出たんですよ。かっこいいねえ。もちろん、原監督も、彼の気持ちが分かるわけですから、もう何て言ってあげたらいいか分からなかったって言ってましたよ。と同時に、そういうふうに自分から言い出せるのが、うちの強みだとも言ってました。つまり、みんながひとつなんです。
 全員主役。脇役がいない。み~んな心が一致してるし、選ばれなかった人も、仲間として一緒に走っている。この一体感はとてもステキだし、実は、そういうのが、キリスト教の一番の特徴なんじゃないか。こうしてここに集まっている私たちだって、「私が主役だ」「あなたは脇役だ」なんていうことはあり得ない。

 今日は公現の主日(※5)ということで、博士たちが三人やって来ましたっていうことで、この祭壇前の馬小屋のセットにも、今日、三人並べました。「東方」って、さっき聖書にありましたけど(マタイ2:2,9) (※6)、各国から、博士たちがイエスさまのもとにやって来て、ひとつに結ばれてますっていう、まあ、そういう日ですね。
 「公現」っていうのは、公(おおやけ)に現れると書きますけど、その(おおやけ)っていうのは、これは、「脇役がいない」っていう意味でもあります。みんな主役ってことです。普遍的っていう意味ですから。誰かが特別に価値があって、誰かは劣って価値がないとか、そういうことがない。すべての国、すべての民族、すべての宗教を超えて、あるいは才能だとか、貧富の差だとか、そんなものをすべて超えて、健康な人も病気の人も、全員が、「イエスのもとにあっては主役である」と。
 イエスさまって、そのような方として、みんなの前に現れたんです。「公現」っていうのは、そういうことです。私たちは、普遍的に神から愛されているし、誰が上で誰が下ということがないという、そのような恵みのうちに集められている。そのことがはっきりと現されて、すべての人に公になったんです。公現の主日の喜びですね。この日、集まっている皆さんも、もうすでに、年齢、性別、学歴、何一つ関係なく、神さまから主役として選ばれてここに集まっているし、そこに一人ひとりの意味が現れている、そんな恵みの日。

 今週も一週間、いろんな集まりをやってまいりました。この一週間で、七日のうち六日、私、新年会やりましたよ。(笑) まあ、いいことですよ。みんな主役っていう集いばかりですから。いずれも福音家族ですけれども、私は今年、福音家族のテーマの一つである「平等」を特に強調したいなと思ってます。
 ちょうど、1月1日の夜の新年会で、その話題が出たんですね。その集いは、「3、40代で、社会で働いていながら、なかなか本音で話し合える場を持てずにいる男たちの飲み会」っていう集まりです。3、40代の男性って、教会ではすごく手薄でしょ。こうやって見ても、ほとんどいないじゃないですか。だから、そんな仲間で集まりましょうっていうことで、今年から、毎月第一月曜日の夜に、集まり始めました。その第一回が、ちょうど1月1日だったんです。
 で、飲みながら、どういう集まりにしようかっていう話をしてたときに、共通して出てきたのが、「平等」だったんです。っていうのは、そういうオヤジたち、社会でも飲み会をするわけですけど、「飲み会」っていえば、本来は「無礼講」ですよね。そこでは、成績とか才能とか、あるいは役職とか、そういうこと、いっさい関係ない。みんな平等に、家族同然に、好きなようにしゃべり合える。
 でも、よく言うじゃないですか。無礼講だっていうから、部長にタメ口で話したら翌日呼び出されて降格とか。(笑) だけど、本当は、飲み会っていうのは無礼講、つまり平等でなけりゃ意味がないんですよ。普段、職場では役職と責任で緊張してますし、自分を押し殺してストレス貯めまくってますから、そんな人たちが正直に語り合って、お互い平等で一緒に生きている仲間なんだという、そんな自由、安心を味わえなけりゃ、飲み会の意味がない。だから、ここだけは絶対に平等である、オヤジたちの聖域のような飲み会にしたい、と。それが彼らの希望でした。
 でもよくよく考えてみたら、それこそが、教会でしょう? そこでは、その人を、ある条件によって見ない。どれほど偉いか、偉くないか、そんなことが関係ない。どんな条件によっても、人を見ない。そこんところを本当に実現できる飲み会だったら、これはとっても教会的だし、もしかすると、それこそ、神の国のしるしになるんじゃないか。公現の飲み会。

 一昨日の金曜日は、「秋葉原家族」、やりましたよ。先月でしたか、ほら、自宅謹慎になって来られなかった高校生がいたっていう話、しましたよね(※7)。喫煙がバレて自宅謹慎になっちゃったっていう。アニメオタクとか、ゲームマニアとかが集まって、「一緒ごはんして、福音家族やりましょう」っていうその集まりに、どうしても来たかったのに、来られなかった。出て来たら退学ですから。でも、自宅謹慎が解けて、おとといの金曜日、来ましたよ。うれしそうにね。ちゃんと、褒めてあげましたよ。「謹慎中でも教会に行きたいって親とケンカするなんて、いい話だねえ」って。ねえ、今どき高校生が、親とケンカしても、「どうしても教会に行きたい!」なんてね。でも、それこそ、本物の教会でしょう。
 学校では「君はダメだ」と言われ、社会でやっていけるだろうかって不安に思い、・・・それは世の中ではそうかもしれないけれども、ここではみんな平等で、あなたがどれだけいい子か悪い子かなんて、まったく関係ない。あなたがどれほど学校で叱られようが、どれだけ社会から排除されようが、まったく関係ない。・・・「まったく」です。むしろ、「そんなあなたに会えてよかった」「そんな君がいてくれなきゃ困る」と言ってくれる。教会は、やっぱりそうでなくっちゃ。
 オヤジたちだろうが、秋葉原あたりをうろついてる子だろうが、「自分は教会とはあんまり関係ないな」って思っちゃうとしたら、それは、教会の方が悪い。誰であれ、そう思わせちゃうんだったら、もうそこは、「教会」じゃない。

 昨日の土曜の夜の新年会は、学生たちの新年会でした。これもいい集まりでしたよ。
 「福音カフェ」ですけど、昨日は少なくて、7人だったかな。これが、ふっと気づいたら、カトリック信者が一人もいないんですよ。ルーテル教会の学生が二人、聖公会の学生が一人、あと求道者が一人、求道なんかさらさら考えてないのが一人。(笑) などなどが集まって、一緒ごはん。カトリック教会で。・・・いいですよねえ。これ、「平等」っていうことですよね。
 しかも、そこには、「私、統合失調です」って言うのもいたし、「ぼくは双極性障害です」って言うのもいた。いわゆる躁うつですね。それから、「ADHDの障害を抱えてます」とか。みんな、普通に自己紹介で言い合ってるんですよ。・・・いいでしょう? 安心して心の病や障害を言える集まり。「私はどこどこ大学です」っていうのと一緒にね、「私は統合失調です」って普通に言える。・・・すごく大事なこと。誰であれ、価値が等しい。
 「それじゃあなたを受け入れられません」ってことが、ここではあり得ないって信頼してるからこそ、そう言うわけでしょ。私は、これがやっぱり「教会」だと思う。それが普通に言えて、それに対して「そんなあなたがそこにいてくれて、うれしいよ」っていう場所。
 そういう2018年の教会を、やっていきましょう。
 この公現のお人形を見たら分かりますでしょ。各国のね、いろんな民族、いろんな国の博士たちが、こうやって集まってきている。そこには、優も劣もない。
 イエスさまのもとでは、みんな平等。
 これがやっぱり気持ちがいいし、それを目指すべきだし、そんなこの一年、どんな仲間に出会って福音家族が広がっていくだろうと思うと、ワクワクしますね。

 つい数日前も、近くの病院の精神科から、外出許可をもらって出てきたっていう青年が教会を訪ねて来たんですけど、出会いっていいですね。つらい入院生活の中、何か心の支えがほしいってことで、近くの教会を訪ねて来たんです。で、「聖書を読んでみたいので、一冊分けてくれませんか」って言うんですね。もちろん、差し上げる聖書もあるんですけど、私、わざと、「それじゃ、お貸しします」って言いました。だって、差し上げちゃったら、もう二度と会えないかもしれないじゃないですか。それで、わざわざ上野教会のはんこの押してある聖書を、(笑) お渡しして、「これ、返してくださいよ。今度の日曜日にミサに来て、返してください」って申し上げました。
 その彼が、ちゃ~んと、今日、このミサに来てくれています。
  (会衆席にいるその方に) うれしいですよ。返しに来てくれて。君のために、祈ってましたよ。また会えると思ったら、わくわくしたし、君が今日、聖堂に入ってきたのが見えたとき、「ああ、よかった、また会えた!」って、ホントに神さまに感謝した。聖書はどうでした? とっても長いし、いろんなことが書いてあって、分かりにくいとこもあったでしょう。だから、その聖書が、君に語りかけている、一番大事なメッセージだけでも申し上げておきますね。
 「神さまは、あなたを愛しているよ」
 「あなたは今、病気でつらいかもしれないけれども、神さまが必ず元気にしてくれるよ」
 「私たち教会の仲間たちは、み~んな、あなたのことが大好きだよ」
 「教会は、あなたのためにあるんだよ」
 「イエスさまは、どんな人でも平等に、すべての人を受け入れてくださるんだよ」
 「神さまの愛を信じれば、2018年は、君にとって、ホントに素晴らしい一年になるよ」
 いうなれば、聖書には、そう書いてあるんです。よかったねえ、そんな本に出会えて。
 今度、二人でゆっくりと、聖書の話、しようね。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます)

※1:「いつだったか、ヒッチハイクの青年を泊めたっていう話、したじゃないですか」
(参考)
・ 「麻婆豆腐とチーズケーキ」(「福音の村」2017/10/29説教、最後の段落>この辺~)
・・・< 文中へ戻る

※2:「もちろん、『山の神』とか、それなりに出てはきますけど」(既出)
 第81回(2005年)、5区走行の順天堂大学、今井正人選手が、山登りで11人抜きを達成した際、「山の神が降臨しました」と実況されたのが始まり。
 その後、第85回(2009年)、同じく5区の柏原竜二選手が、区間新記録を更新し、「山の神を越える山の神童がここに誕生」と言われ、さらに第86回(2010年)で自己記録縮めて、「新・山の神」と呼ばれるようになった。
 第91回(2015年)からの新コースでは、青山学院の神野大地選手が、さらに記録更新。3代目「山の神」となった。
 毎年、駅伝前になると、ファンの間で、「今年の山の神は?」という予想や期待の話も聞かれる。
・・・< 文中へ戻る

※3:「駅伝のスポンサーが、ちょうどそんなコマーシャルを流してたってのもあるんですけど」
 スポンサーの、サッポロビール株式会社のコマーシャル。
 同社コマーシャルの案内には、以下のようなコメントが掲載されている。
===(サッポロビール TVCM紹介ページより 転載)===
 
肩入れしている特定のチームや、特定の選手に声援を送ること。多くのスポーツにおいて、「応援」とはそんなことを意味します。しかし、箱根駅伝には、観ているとなぜか、走る選手全員を応援したくなってしまう不思議な魅力があります。
 門脇麦さん演じる女性をはじめとして、多くの箱根駅伝を観る人がそんな風に全員を応援している様子を描くことで、箱根駅伝の持つ魅力を再認識してもらう。そんなCMを目指しました。

(参考)
・ 「第94回箱根駅伝『みんな、がんばれ』篇 予選会」(サッポロビール「箱根駅伝」応援サイト
・ 「第94回箱根駅伝『みんな、がんばれ』篇 60秒」(サッポロビール YouTube)
・・・< 文中へ戻る

※4:「本来走るはずだったのは4年生ですけど」
 青山学院大学で、当初、最終10区にエントリーされていた選手は、吉永竜聖(ヨシナガ リュウセイ)主将(4年)。陸上は大学までとし、今回は最初で最後の箱根駅伝となる予定だったが、右すね痛を抱える故障の影響で、前日2日の往路終了直後に、橋間貴弥(ハシマ・タカヤ)選手(3年)に変更。それでも腐らずサポート役に回り、橋間選手には、「ゴールで待ってるぞ! 気負わずに楽しんでこいよ」とメッセージを送り、橋間選手も、「大手町で会いましょう!」と返信。橋間選手は、それでようやく気持ちが落ち着いたという。
(参考)
・ 「箱根駅伝 青学『ハーモニー大作戦』お見事奏功(スポニチ)2018/1/4(毎日新聞)
・ 「青学大・橋間Vアンカー 初メンバー入り抜擢応えた2018/1/4(日刊スポーツ)
・・・< 文中へ戻る

※5:「公現の主日」 (既出)
◎「公現の主日」 (主の公現)
 この日は、キリストの人類への最初の顕現(出現)である、東方の三博士来訪の秘儀を祝う祭日になっている。
 「公現の主日」は「公現の祭日」ともいわれ、本来は1月6日だが、日本のようにキリスト教国でない国では、1月2日から8日までの間の日曜日に祝われている。     (文中へ戻る
===(もうちょっと詳しく)===
 「公現の主日」は、エジプトで冬至に当たる1月6日に祝われていた、太陽神の祭りやナイル川での祭りに起源があるとされているが、2〜3世紀からは、この日にキリストの降誕、洗礼、カナの婚礼などを記念するようになった。
 4世紀以降、西方教会と東方教会(正教会)との間の交流が進み、12月25日に主の降誕を祝う西方教会の習慣が定着すると、東方教会でもこれに従うようになった。
 西方教会では東方教会の影響を受けて、1月6日を、全世界に対するキリストの顕現を記念する日とし、東方三博士の来訪(マタイ2:1-12)を記念することが一般的となった。
(参考)
・ 「公現祭」(『岩波 キリスト教辞典』岩波書店、2008)
・ 「主の公現」(「教会カレンダー」ラウダーテ)
・ 「三人の博士(主の公現)」(「キリスト教豆知識」)
・ 「2018~26年度 移動主日・祝日表 [PDF] (カトリック中央協議会)
・・・< 文中へ戻る

※6:「『東方』って、さっき聖書にありましたけど(マタイ2:2,9)
この日、2018年1月7日(「主の公現」の祭日)の福音朗読箇所から。
 福音朗読:マタイによる福音(マタイによる福音書)2章1~12節
 〈小見出し:「占星術の学者たちが訪れる」〉
===(聖書参考個所)===
 
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 (マタイ2:1-2/赤字引用者)
・・・< 文中へ戻る

※7:「先月でしたか、ほら、自宅謹慎になって来られなかった高校生がいたっていう話、しましたよね」
(参考)
・ 「仲間になろうぜ」(「福音の村」2017/12/3説教後半、上から4段落目>この辺~)
・・・< 文中へ戻る

2018年1月7日(日) 録音/2018年2月14日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英