なんと幸いな信仰!

【カトリック浅草教会】

2018年3月31日 復活の聖なる徹夜祭
・ 第1朗読:創世記(創世記1・1、26-31a 短い形)
・ 第2朗読:創世記(創世記22・1-2、9a、10-13、15-18)
・ 第3朗読:出エジプト記(出エジプト14・15~15・1a)
・ 使徒書の朗読:使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ6・3-11)
・ 福音朗読:マルコによる福音(マルコ16・1-7)

【晴佐久神父様 説教】

 いよいよ洗礼式ということで、今日は、洗礼志願者の呼び出しに、一人ひとり、「はい、ここにおります」ってね、返事をしていただきます。先週、ふと思い付いて、そんな説教をしました(※1)。それを、今日、実際にやりましょう。
 日本の今の典礼文では、ただひと言、「はい」って答えるだけになってますけれども、本来の典礼文では、預言者イザヤが神に呼ばれたときの返事のように(※2)、「わたしは、ここにおります」って答えるんですね。実際に、世界中、そう答えてます。フランス語でも、韓国語でも。日本の典礼も、ぜひそうしたらいいと思うんですけれども、まあ、試しに今日は、その本来の返事で答えることにしたいと思います。ただ、「わたしは」っていう一人称の主語は、ない方が日本語では自然なので、ここでは、「はい、ここにおります」という返事にいたしましょう。
 「はい、ここにおります」って、現実にはなかなか口にする言葉ではありませんが、生涯に一度の、とても尊い、聖なる、大切なお答えとして、答えていただきます。神にまっすぐに呼び掛けられて、まっすぐな気持ちで、「はい、ここにおります」と答える。それは、受洗者だけではなく、ここに集められた皆さん全員、そのようにまっすぐにお答えする気持ちで、このミサに(あずか)ります。
 「はい、ここにおります」
 ・・・すごいねえ。返事ができるって。存在しているからですよ。神が世界をつくり、神が私を生み、そして、私たちは、自らの存在に驚きと感動を持って、「はい、ここにおります」と答えることができる。存在しない者は答えることができない。
 今日のこの復活徹夜祭のシンボルは、光であり、聖書であり、水であり、パンでありますけれども、それらはみな、この世界の本質をそのまんま表している。ただの象徴じゃない。本当に尊い、神の命が人間に直接触れるという秘跡なんです。この復活の光、この洗礼の水。それもこれも、すべて、それを受ける「私」がここに、確かに存在するからこそ、それに与ることができる。存在していて、秘跡に触れる皆さんに、ホントに、心から「おめでとう」と、そう申し上げたい。

 創世記が読まれました。神さまが、まず、「光あれ!」と言ったら、光があった(cf.創1:3)(※3)。 ・・・なるほど。でも、じゃあ、その前は何だったんだろう。真っ暗闇? 無の世界? その神秘については、確かなことは、だれも分からない。分かっていることはただ一つ、私は確かにここに存在しているということ。神は、永遠なるお方として存在しているし、その存在を分け与える愛によって、この宇宙を生み出してくださった。だからこそ、今日、私たちは、その愛を受け止めるために、ここに存在している。
 ということは、その私は、神の望みによって存在しているということです。もしそうなら、この私は、初めから存在していたということです。この世に生まれてくる前、私たちはどこにいたのかというならば、それは無の世界なんかじゃないってことです。神さまは、すでに天地創造の初めから、この私を望んでおられたし、準備してこられた。そして、ある時、私たちを呼び出され、私たちは、「おぎゃあ!」と、「はい、ここにおります!」と、生まれ出てきた。・・・すべては、神さまがなさっておられること。それでここにいる以上、もはや何の心配もない。
 洗礼を受ける皆さん。今までの人生で、ずいぶん、おびえたり、悩んだり、争ったり、もうダメだと思ったりしてこられたかもしれませんが、すべて、皆さんが存在しているからこそです。そして、神がその存在を望んだのですから、そこで起こることは、すべて尊い出来事です。今までの人生のどんな悪い出来事でも、存在の神秘からすれば、大したことじゃない。あなたが、それを悪いと思い込んでいるだけ。洗礼を受ける今日この日まで、何か悪い夢を見ていたとでも思っていただきたい。・・・すべての出来事の真実は、神さまだけが知っておられ、それを完成させることができるのは、神さまだけです。これからは、この世に確かに存在するキリスト者として、信仰を持って、目を覚まして生きていきます。
 目を開いて、目の前のこの光を見てください。この復活のろうそくの光は、宇宙の初めに神が「光あれ!」って宣言して輝いた、その光、そのものです。・・・見えますでしょう? 実際に、光ってるじゃないですか。神さまが、全宇宙の光を、今ここにギューッと集めて光らせているんです。それを見て、信じる、あなたのために。もうすぐ受洗者にかけられる水も同じように、まことのいのちの水そのものです。この宇宙万物を生かす尊い水。いのちそのもの。・・・すべては、神さまがなさっておられること。
 だから、受洗者は、今日はもう大船に乗った気持ちで、安心して洗礼を受けていただきたい。そうして新たに神の子として生まれたならば、もう悪い夢に戻ることはあり得ない。もちろん、現実的には、これからもいろいろ悩んだり、また、おびえたりすることもあるかもしれないけど、今日、この光に包まれて、神のいのちの水をかけられたなら、もうあとは、何の心配もない。今後、いつでもどこでも何があろうとも、「私は、洗礼を受けたキリスト者だ」っていう、誇りというか、自信というか、その喜びだけは絶対に手放さないでください。真実なる神さまのもとに生まれ出ていくときまで、この洗礼の恵みを、絶対に忘れないでください。
 もっとも、さらに言えば、そんな天地創造の光も、今日かけられるいのちの水も、すべては、やがて来る神の国の、その完成の日の光、完成の日の水の、先取りにすぎないんです。・・・すごいですね、やがて、今までの現実とはまったく違う、とてつもなく偉大なできごとが起こるんですよ。それがどういうことなのか、ほ~んとに楽しみにいたしましょう。
 世の人々はみんな、幸せになりたい、長生きしたいって、健康食品とか、サプリメントとか、いろいろがんばってますけども、あれ、無駄ですよ。(笑) 「無駄ですよ」は、ちょっと言い過ぎか。でもね、まことの幸せ、永遠の命の恵みのためには、そんなもの、何の役にも立たないんです。やがて「恵みの日」が来るんだし、その恵みの日をこそ、何よりも待ち望んで、もう、あまり無駄なことに時間や労力を使わず、ただただ、最終的に神さまが与えてくださる誕生のときを、安心して待ち望みつつ、信仰と愛と希望に生きる。
 もはや死はないんだから(cf.黙21:4)(※4)。さっき、パウロの手紙でも読まれましたでしょ、「死は、もはやキリストを支配しない。そのキリストと一体になれば、その復活にもあやかれるでしょう」(cf.ロマ6:5、9) って(※5)。キリストと共に生きていくんです、永遠なる、そのいのちを。・・・恐れることはない。

 今日は、さきほどから、次々と電話が来るんです。・・・ひとつは、最近、時々教会に来ている、信者ではない学生からでしたけど、つい今しがた、付き合っている彼女の手首を見たら傷跡がいっぱいあったんで、「どうしたの?」って尋ねたら、リストカットした跡だっていう。それで、びっくりして、恐くなって部屋を飛び出してきちゃったって。で、部屋を飛び出して、道を歩きながら、「どうしよう・・・」って、神父に電話してくるんですよ。「どうしよう」って言ったって、ほっとくわけにいかないじゃないですか。だから、申し上げました。「どうしようも、こうしようもない。すぐに帰って、『だいじょうぶだよ、ぼくがいるよ』って抱きしめてあげなさい」って。・・・ねえ、いい神父でしょう? (笑)
 「君はそういう人に初めて会って、びっくりしちゃったかもしれないけど、そういう人はたくさんいるし、決しておかしな人じゃない。生きていくのがつらくて、耐えられないときに、自分を傷つけることで何とか生きのびている、そういう人なんだ。そんな彼女を救うために、神さまがあなたと出会わせたんだから、そばにいてあげないと。そういう子は、自分は人から拒否される、受け入れられない、こんな自分はダメだ、そう思い込んで生きてるんだよ。だから、それを知った彼氏が驚いて飛び出していっちゃったら、どれだけつらいか。今、彼女は、とっても怖い思いをしてるよ。ああ、これで彼にも嫌われるかもしれない、捨てられるかもしれないって、それがどんな恐怖か、分かるでしょう? すぐに戻って、『だいじょうぶ、ぼくがいるよ』って抱きしめてあげなさい。『どんな君でも、ずっと一緒だよ』って。分かった?」って言ったら、「はい、部屋に戻ります」って、だいぶ落ち着いた様子でしたけど。
 人は、いっつもおびえています。人生、もうホントに怖いことばかり。彼女もドキドキ怖いし、彼氏もそんなの見たことないから、びっくりしちゃうし。この世では、みんなおびえて、不安に駆られて、見捨てられることを恐れて、闇の中をさまよってます。だから、だからこそ、永遠の光が必要なんです。まことのいのちの水がなければならないんです。・・・この彼に、いつかぜったい洗礼授けようと思ってるんですけど。(笑) だって、そんな彼にとって、信仰は絶対必要でしょう。そして、その彼に連れられて、彼女も来るでしょうけど、その彼女にも信仰は必要。永遠なる光、まことのいのちの水、これ以外に、何が人を救うんですか? 医者ですか、健康食品ですか、お金ですか、恋人ですか? それは、違う。「光あれ」と言った(かた)が、救うんです。いのちの水を与えてくださる方が、死を滅ぼして、私たちを今日も生かしてくださっている方が、救うんです。その方に、今日、この洗礼式で、全面的に信頼して、身を委ねて、「はい、ここにおります!」って返事して、一歩前に出て来てくださいよ。

 その電話に続いて、「今日、洗礼を受けられないんです」っていう人からの電話も来ました。すごく体調が悪くって、車いすに乗らなければ教会に行けない。で、周囲に止められて、「今晩の洗礼式に行けなくなって、とてもつらいから祈ってください」と。別の教会の方ですけど、私のところに電話が来たんですね。
 その方が言うには、「今日受けられないのはとてもつらいし、なんだか、神に見放されたような気持だ」って言うんです。分からないでもないけど、私、お答えしました。「いいえ、あなたを見放す神なんて、そもそも神ではありません。今日のこの出来事もまた、愛である神さまがなさっておられるわざ(・ ・)なんだから、今日受けるよりも、むしろ、いっそう素晴らしい恵みの日が、あなたを待ってるんです。洗礼を受けようって言うんだから、もはや、自分の考え、この世の基準、そういうものを手放さなくてはなりません。今晩は、恵みの夜です。この試練を恵みとして、神さまのみわざに、全面的に信頼しましょう。だって、そうじゃなければ、洗礼を受けたって意味がないでしょう?」と。
 洗礼志願者の皆さん、皆さんはそもそも、なんで洗礼、受けるんですか。もう、自分の考えではなく、神さまのお考えにぜんぶ任せるっていうことでしょ。
 先ほど朗読したとおり、アブラハムなんか、わが子を殺そうとしたんですよ(cf.創22:10)(※6)。そんなことあり得ないって思うかもしれないけど、ともかく、神さまがおっしゃるんだから、すべて、「はい」とお答えして、「捧げます」と。で、もうだめかと思いきや、ハッタと止められた。そのアブラハムから、ユダヤの民が起こり、キリストが誕生し、神さまのみわざが、こうして広がってるじゃないですか。すべて、「はい」って信じたからなんですよ。
 次に読まれた箇所でも、イスラエルの民はエジプト軍に襲われて、もうだめだって思ってたんですよ(※7)。海にまで追い詰められて、もはや皆殺しかっていうその段階で、水が割れて、救われる。あの出来事が示しているのは、もう絶対無理っていうときでも、全面的に信頼してれば、必ず神さまが、そこから救いを始めてくださるってことなんですよ。そのエジプトから出てきた民の中に、キリストが生まれ、そして、私たちも今、ここで、「信じます」って言ってるじゃないですか。ぜんぶ神さまがなさっておられるんです。
 「もう私の考えでは無理だ」と、そう思ったそのときこそ、まさに、洗礼の恵みのとき。
 ・・・なんと幸いな信仰!

 先輩の信者さんがたも、新たに、今、生まれようとしているこの受洗者たちに、まごころ込めて、祈りを捧げてくださいね。無事に、「おぎゃあ!」ってね、生まれてくるように。そう、一人ひとりの「はい、ここにおります!」が、「おぎゃあ!」なんですよね。そうして、産湯をかけられて、新たないのちが始まります。
 世の中には、怖いこと、嫌なこと、いっぱいありますけれど、私たちは、今日のこの光を信じます。これからかけられる水を信じます。「はい、信じます!」という思いで、神のみ前に進み出ていただきます。水をかけられたら、もう、そこから先は、神さまのみわざです。
 皆さんのお名前をお呼びいたしますので、呼ばれた方は、「はい、ここにおります!」と返事をしてください。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます)

※1:「先週、ふと思い付いて、そんな説教をしました」
(参考)
・ 「はい、ここにおります」(「福音の村」2017/3/25説教 最後の段落>この辺~)
・・・< 文中へ戻る

※2:「預言者イザヤが神に呼ばれたときの返事のように」
・ 「預言者イザヤが神に呼ばれたとき」は、イザヤ書6章1~13節に記されている。
===(聖書参考個所)===
 
そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。
 主は言われた。「
行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな」と。(イザヤ6:8-9/赤字引用者)
・・・< 文中へ戻る

※3:「創世記が読まれました。神さまが、まず、『光あれ!』と言ったら、光があった (cf.創1:3)
この日、2018年3月31日(復活の主日・復活の聖なる徹夜祭)の第1朗読箇所より。
 この日の第1朗読は、長い形と短い形が準備されている。(ミサでは短い形が用いられた)
  短い形:創世記1章1節、26~31a節、または、長い形:創世記1章1節~2章2節
  〈小見出し:「天地の創造」から抜粋〉
===(聖書参考個所)===
 
初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。(創1: 1~3/赤字引用者)
・・・< 文中へ戻る

※4:「もはや死はないんだから (cf.黙21:4)
===(聖書参考個所)===
 
神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。(黙21:3末~4/赤字引用者)
・・・< 文中へ戻る

※5:「さっき、パウロの手紙でも読まれましたでしょ、『死は、もはやキリストを支配しない。そのキリストと一体になれば、その復活にもあやかれるでしょう』(cf.ロマ6:5、9) って」
この日、2018年3月31日(復活の主日・復活の聖なる徹夜祭)の使徒書の朗読より。
 使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマの信徒への手紙)6章3~11節
 〈小見出し:「罪に死に、キリストに生きる」から抜粋〉
===(聖書参考個所)===
 
もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。(中略)わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。 (ロマ6: 5、8-9/赤字引用者)
・・・< 文中へ戻る

※6:「アブラハムなんか、わが子を殺そうとしたんですよ(cf.創22:10)」
この日、2018年3月31日(復活の主日・復活の聖なる徹夜祭)の第2朗読箇所より。
 創世記22章1~2節、9a節、10~13節、15~18節
 〈小見出し:「アブラハム、イサクをささげる」から抜粋〉
===(あらすじ)===
 神はアブラハムを試された。それは、「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」というもので、神は、アブラハムにとって、イサクがどんなにかけがえのない存在かを承知の上で命じられたのだった。アブラハムは、その命令に従うため、定められた山に向かう。
===(聖書参考個所)===
 
神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」 (創22: 9~12/赤字引用者)
・・・< 文中へ戻る

※7:「イスラエルの民は、エジプト軍に襲われて、もうだめだって思ってたんですよ」
この日、2018年3月31日(復活の主日・復活の聖なる徹夜祭)の第3朗読箇所より。
 出エジプト記14章15節~15章1a節)
 〈小見出し:「葦の海の奇跡」から抜粋〉
===(あらすじ)===
Moses モーセは、神から使命を受けてエジプトのファラオ(王)のもとへ行き、イスラエル人の解放を訴えた。奴隷の解放など、むろん許されるはずもない。そこで神自らが、ファラオの心を動かすために、エジプトに次々と厄災をもたらす。ファラオは屈服し、いったんはイスラエルの解放を認めたものの、いざ立ち去ってしまうと後悔し、軍勢を率いて彼らの後を追った。そして、後ろからはファラオの戦車部隊が迫り、前には海で、まさに袋のねずみ状態になったその時、奇跡は起きた。
 モーセが手を海に向かって差し伸べると、水は彼らの右と左に壁のように分かれ、彼らはその間を進み、向こう側へと渡って行くことができたのだ。後を追ってきたファラオの軍勢は海に放り込まれて全滅し、一人も残らなかった。神はこうして、エジプト人の手からイスラエルの民を救われた。
*****
 (あの、セシル・B・デミル監督の映画『十戒』(1956年公開)で、チャールストン・ヘストン演じるモーセはじめ、エジプトを脱するイスラエルの民が、海の中を進むクライマックスシーンはあまりに有名)
・・・< 文中へ戻る

2018年3月31日(日) 録音/2018年5月24日掲載
(C)2018 晴佐久昌英