与太者への憐れみ

2013年1月13日 主の洗礼
・第1朗読:イザヤの預言(イザヤ40・1-5,9-11)
・第2朗読:使徒パウロのテトスへの手紙(テトス2・11-14,3・4-7)
・福音朗読:ルカによる福音(ルカ3・15-16,21-22)

【晴佐久神父様 説教】

 今日はまた、ずいぶん大勢の方が集まりました。エントランスまでいっぱいじゃないですか。やっぱり・・・そろそろ建て直しの時期ですかねえ。(笑)
 こ〜んなに信仰の仲間が集まってくれると、なんかうれしいですね。ちょうど今は、受洗を希望なさってる方にとって、洗礼に向けての大切な祈りのときで、「特にこの時期はミサを大切にしましょう」ということで皆さん集まってます。ミサ後のコンサートで歌ってくださるシスター方も来られてますし、地方からわざわざ来られた方もいて、私たちのミサは仲間でいっぱいです。
 この多摩教会、毎年毎年、信者が増え、教会家族が増えていきます。それは、神さまが本当に私たちを愛しておられるということの、目に見えるしるしです。そのしるしが、いま、確かにここにある。そう思っていただきたい。

 そう、今朝ですね、教皇さまがこの聖堂をご訪問される夢を見たんですよ。ちょっと感動しました。それが、突然なんです。何で来られたんだろうって思ったときに、以前、高円寺教会で、バチカンの教皇大使がね、信者の増えている元気な教会を視察したいって来られたことがあったんで、今度は教皇さまが見に来た〜!って思って。だけど、ちょうどそのときに私、『ONE PIECE』(ワンピース)のルフィのTシャツを来てて、こりゃ、まずいっ!と、部屋にローマンカラーのシャツに着換えに戻ったら、教皇さま、その間にお帰りになっちゃった。(笑)・・・そんな情けない夢でしたけど。
 まさか、多摩教会にねえ・・・でも、わかんないですよ。教皇さま、いつかお訪ねになるかもしれない。「ここに希望がある!」ってね。まあ、教皇さまとまでは言わない、ともかくみんながこの教会に注目して、訪ねてくれたらいいなあって、心からそう思います。そうして信じる仲間があふれて、どんどんみんなが元気になっていく。私たちの教会は、そのような使命を神さまから与えられているんです。皆さんの努力のおかげで、皆さんが実際にいろいろな人々を招いて、呼び集めてくださったおかげで、今年も大勢の洗礼を受ける方が、今、準備しています。

 昨日も、面接した洗礼志願の方が二人いましたけども、その二人ともに、私は、洗礼の許可を出して、洗礼許可証にサインをしたところです。向こうもドキドキしながらね、果たして許可していただけるんだろうかっていう緊張した顔で、面接してるんです。私が「それでは、カトリック教会としてお迎えいたします」と宣言してサインをすると、ホッとなさる方、中には涙こぼされる方もいて、私も感動いたします。
 それぞれの人生の、さまざまな暗い現実を生きてきた末に、今、天の門が開かれて、「もうここまで来たら安心」っていう洗礼に導かれるっていう、このプロセスは、ホントに一人ひとりのお話を聞いて受け入れる身としては、いつも感動させられる。
 そういえば、もうすでに中学生の頃から、そんな洗礼式の予兆のビジョンを見てたっていう方もいましたねえ。三日前に面接した方が話してくださいました。これも夢の話ですけど、目の前に道が一本伸びていて、その先がカーブして見えなくなっている。その道の手前、門のところに、白い服を着たイエスさまと思しき人が立っていて、その人に、「この道を歩んで、この先に行きたいですか?」って、そう聞かれた。そのとき、その彼女は、何だか臆する気持ちになって、「いいえ、結構です」って断っちゃった。するとイエスさまが、「それでは、自分の道にお戻りなさい」って言ったんですって。
 そんな夢なんですけど、彼女はその後もその夢が気になっていて、やっぱり、「はい、行きます」って答えればよかったのかなぁっていう思いをず〜っと抱えてこられた。やがて大人になっていろいろつらい思いをした末に、いろんな良い出会いもあり、縁あって多摩教会に導かれて洗礼を決心したわけです。そして、その洗礼面接のときに、その夢のお話をなさってね、「ぜひともまたあの夢を見て、今度は『はい!』と言って門をくぐり、その道を歩いていきたい。でも、またあの夢、見ることができるでしょうか」って聞く。でも私は、「そんな夢を見る必要、まったくない。なぜなら、あなたがイエスの招きに応えて、『洗礼を受けたい』と申し出て、『さあ、どうぞ』と言って教会が迎え入れ、信仰の道を歩み出す。これが何よりのイエスさまへのお応えなんだから。あなたはもう応えたし、これからその道を歩いていくんです」と、お答えしました。
 まさに『入門講座』っていう名前のとおり、門を入るんですよ。そして、この門を入ったら、もう安心。何の問題もない。もうその門から追い出されることは絶対ない。ともかく入りましょう。教会はそう誘います。
 もちろん、門の外の人もみんな、神さまは救ってくださると信じてはいますけれども、門の中には恐れがない。神さまが共に歩んでくださっているし、それを信じる仲間と一緒に、この門の中をさらに歩いていく。これが、私たちの洗礼です。新たに生まれる洗礼、神の子として新たにされる洗礼ですから、どうぞ、今まだ迷ってる方、信頼して、私たちと一緒に歩んでまいりましょう。

 あと3週間なんですよね、洗礼志願書の提出の締め切りまで。あと3週間です。
 今、受洗について迷ってる方もいて、昨日の入門講座の新年会でも、おひとりの男性が立って、そんな最近の思いを語ってくださいました。その方はすでに洗礼を決心し、受洗動機書も提出し、面接でも洗礼許可証にサインをもらって準備を始めた方なんですけれど、その後に迷い出したんですよね。「どうしようか。やっぱり私なんか」って思い始めてしまった。まさに悪霊の働きです。悪霊の働きで一番巧妙なのは、「お前はダメだ、やめろ!」って責めるやり方じゃなくて、その人自身に「俺はダメだ」と思わせる。これが一番巧妙で、効果があるんです、悪霊にしてみたら。だって、どんなにいろいろな方法で攻撃しても、「いや、俺は負けない。頑張るぞ!」って必死に抵抗されたら、面倒でしょう? それよりも、当人が「俺はダメだ、もう負けだ」って思い込んで自滅してくれたら、こんな楽な話ないじゃないですか。悪霊的には、それが一番簡単なんです。
 その方も、「私みたいな人間は、洗礼受けちゃだめだ。受けても、きっとみんなは受け入れてくれない。私なんかはみんなに迷惑かけるだけだ。洗礼にふさわしくない」、そういう気持ちにとらわれて、自らを否定し始めたんですよ。先週あたりからそんなことを言い出した。そしてついに、やっぱり洗礼は無理だって決心したんですね。で、昨日はみんなの前でこう言ったんです。「昨日、洗礼は受けないと決心しました。それで今日は、神父さんと皆さんにそれを申し上げにまいりました。でも、こうして、この仲間たちの姿を見て、みんなと一緒にいるうちに、何だかやっぱり受けたくなりました」って。(笑)
 まあ、ゆらゆら揺れて、揺れて。そういう時期も確かにあるし、それでいいんじゃないですか。その方に私、申し上げました、「迷うのも神の恵みのうちだから、好きなだけ迷いなさい。ただ、『受ける、受ける』と言っていて、急に『受けない』というのは準備の都合上簡単だけど、『受けない、受けない』と言っていて、急に『受ける』って言われても、対応が大変なんで、一応『受ける、受ける』にしておいて、(笑)直前に断ってもらった方がこっちも助かるから、そういうことにしておきましょう」と。
 そして、「あなたはきっとこれからも、あと2カ月半の間、まだまだ迷うでしょうが、もういろいろ考えず、当日ぎりぎりまで受けることにしておいて、最終的にどうしても駄目っていうなら、水をかけられる直前に、『やっぱり無理です』と言って拒否していただければいい。ただし、私はあなたがそういう前に、サッと水をかけちゃいますけどね」と、(笑)申し上げておきました。その方も笑ってましたが、それでいいんじゃないですかね。だって、迷って、迷っているのは人間の方であって、神は迷ってない。一切、迷っていません。神は、もうお決めになってるんです、「あなたを救う」と。「あなたを愛しているから、その最高のしるしであるイエス・キリストをあなたに与え、聖霊による洗礼をあなたに授ける」。それは、神さまがもうお定めになってることです。ですから、どうぞ迷ってくださってもいいんですけど、どうせいずれ受けるんだから、さっさと受けなさい。(笑)・・・っていうのが私のいつもの主張なんです。

 今日は若い方が大勢来られてますが、この前列のかたがたは、成人の祝福で来られてる方ですか? 今日のミサは成人の祝福ミサですが、洗礼を受けてない方も何人か祝福を受けに来ておられると聞いてます。ようこそ、多摩教会へ。今日のこの説教は、洗礼を受けていない若い皆さんを洗脳する説教です。(笑)まあ、教会を信頼していただきたいです。この門の中が、どれほど安心で、どれほど素晴らしい家族があなたたちを待っているか。しかも、この世の教会家族だけでなく、やがて死を超えて天に生まれていったときに、先に生まれて行った、永遠なる天の家族が迎え入れてくれる。その先取りなんです、洗礼は。どうせ入るんですよ、みんな、そんな神の国に。だから、その喜びを先取りしましょうよ。このつらい世界を生きていく元気と、希望と、神の愛への信仰のために。天を先取りして、洗礼を受けましょうよと、私はそれを、本当に若い皆さんにお勧めしたい。
 みんな迷ってるし、みんなつらい思いをしているし、だからこそ神に導かれて、さまざまなプロセスを経て、洗礼を受けるんです。ようやく洗礼を決意して、「もうこの先、私は神の子として、本当に安心して生きてくんだ」っていう一人ひとりのために、ぜひお祈りしていただきたい。どんな人でも、洗礼にふさわしいんです。ふさわしくないと思っている、そんなあなたのために、聖霊と火によるイエスの洗礼が授けられる。福音書にあるとおり、それはもう、「天が開ける」っていうことですから。

 先ほど読まれたイエスさまの洗礼は、これ、イエスさまだけの特別な洗礼っていうわけじゃないですよ。そもそも神には洗礼、必要ありませんから、じゃあなぜ、神であり人であるイエスが洗礼を受けているかというと、すべての人が洗礼を受けて神さまの子どもとなる、その最高の喜びの状態を、人であるイエスさまが身をもって示してくださっているんです。イエスの洗礼は、ある意味ですべての洗礼の模範ですから、このイエスの洗礼のシーン、これは皆さんが洗礼を受けるときに、実際に起こることだといえる。天が開け、聖霊が怒涛(どとう)のごとく注がれて、そして神の声が聞こえる。
 「あなたはわたしの愛する子」(ルカ3:22)
 日本語の翻訳で、「あなたはわたしの愛する子」って、ちょっと硬い言葉ですけども、まあ、原文がそうなっているし、翻訳上いたしかたなくこうなってるだけで、本来は、親がわが子に「おまえを愛してるよ」って語っている言葉ですから、日本語では、ちょっとこの翻訳は硬すぎますよね。だって、お母さんは赤ちゃんに言わないでしょ? 「あなたは私の愛する子」(笑)なんて。これ、神が「わたしの」って一人称で、神の子に「あなたは」って二人称で言ってるところが重要で、神と人間の直接の関係をストレートに表している言葉ですけど、日本語ではこういうことを言うとき人称を省くのが普通ですから、「あなたは私の」って言うと硬く聞こえちゃう。
 日本のお母さんは、何て言うか。「ああ、かわいい、かわいい♪ いい子だね、いい子だね〜♪」。そんな、本当に人格的な親心によって、洗礼が授けられているんです。わが子を愛する熱〜い親心が、天が開けて、今、イエスに注がれている。そして今、受洗者に注がれている。まさに今、洗礼を受けてミサに(あずか)っている皆さんに注がれている。「ああ、かわいい、かわいい、いい子だね、いい子だね」・・・そんな神の親心が、怒濤のように注がれている。
 こんな洗礼の素晴らしい恵みを、どうして独占できようか。なぜ黙っていることができようか。「どうか皆さん、洗礼受けましょう!」って、多摩教会はそうみんなに言い続け、語り続けて、多くの仲間がまた今年も洗礼を受けるっていうことです。神が授けるんです。どなたでも洗礼を受けることができる。この人は違うだろうっていう人はいない。

 昨日面接した方が、おもしろいこと言ってた。あるどこかの教会関係の集まりに出て、「今度、多摩教会で洗礼を受けようと思ってるんです」と、そう言ったら、眉をひそめて「多摩教会も大変ね〜」って言う人がいたんですって。なんでかって言うと、「多摩教会って、最近、与太者が集まってるそうじゃない」(笑)って言われたっていうんですよ。
 私、なんだかうれしくなりました。「与太者」っていう言い方がね、なんかすごく、かわいいじゃないですか。(笑)ちょっと古風な言い方っていうか。「与太者」って、要するに「はずれ者」ですよね。駄目なヤツっていうか、民話かなんかに出てくる「村の与太郎」みたいな感じ。あるいは、ちょっとやくざっぽいヤツとかをね、「与太者」っていうわけでしょ?
 それ聞いて思わず笑いましたけど、誇りに思いますね。名誉に思いますね。多摩教会に、与太者が集まってる。いいじゃないですか、与太者が集まる教会。そこは本物の教会です。イエスは、罪人を集めました。与太者を集めました。聖書に書いてあります。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく、病気の人だ。わたしが来たのは罪人を招くためだ。正しい人を招くためじゃない」。それが教会です。そういう人たちが集まって、癒やされて、希望を新たにして洗礼式に臨むならば、そこは教会です。
 どうぞ、与太者いっぱい集めてください。与太者の扱い、私慣れておりますし、どんなんでもだいじょうぶです。・・・すでに与太者ひとり、住みついてますし。(笑)

 その与太者がね、年末年始にインフルエンザにかかって、39度の熱が三日か四日か続いたんですよ。ホントに、何て言っていいか、・・・心配しました。子どものいない私としては、17歳の与太者ですし、まあちょっとこう、子育て気分でもいるわけですから、いや〜、子どもが39度の熱、三日も四日も出すとこういう気分かっていう親心を、ちょっと味わって・・・心配しました。
 皆さん、ホント、大変ですね、子育て。(笑)ご苦労さまでございます。こういうときは、何て言うんでしょう、ホントにどうしようかってオロオロしちゃいますし、ちょうど年末年始で病院もなくって、まあつらそうなんで解熱剤を飲ませたら、とりあえず熱は下がる。でも、どうせまた上がるわけですから、「また熱上がるから、おとなしく寝てろ」って言うのに、いったん熱下がったらいい気になって、「もう治った♪」とか思い込んで、別の与太者に誘われて、こっちが知らぬ間に勝手に外に出かけてっちゃうんですよ。(笑)しかも冷たい雨の中、ファミレスかなんかに行って、ぬれて帰ってきて、また熱が上がる。もう、こっちも発狂しそう。(笑)「何やってんだよ!」と。言うこと聞かずに出歩いて、ホントに心配かけて。
 あの、こういう親心っていうのを、聖書的には「(あわ)れみ」っていうんですよね。さっきの第二朗読に出てきました。パウロの手紙ですけど、「神は、わたしたちが行った義の(わざ)によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました」(テト3:5)
 「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました」。・・・これはキリスト教ですね。私たちがね、立派に生きてるから、ちゃんと約束守ってるから、そういうことじゃない。私たちがいい人だから、私たちが本当に努力して、ちゃんと神を信じているから、そういうことじゃない。「私たちを救うのは、神さまご自身の憐れみによる」と。・・・「憐れみ」。
 「ああ、どうしようか」と必死になる心。それこそわが子が病気だったら、ホントにもうその弱さ、そのかわいそうな様子に、真心から何とかしてあげようと思う。いい子だからとか、言いつけ守ってちゃんとおとなしく寝ているから、かわいがるって話じゃない。無条件です。これを「憐れみ」という。全能の神さまが、そんなふうに必死になって私を憐れんでくれるんだったら、もう何の問題もないわけでしょ? まさに洗礼なんて、この無条件なる神の憐れみによって授けていただくんですから、何の問題もない。神の憐れみさえあれば。
 こんないい加減な私だってですよ、憐れみがある。高熱でつらそうな様子を見れば、なんとかしてあげたいって思う。食欲がなくて、何にも食べないから、どんどん痩せてくんですよ。何とか食べさせなきゃと思って、「何か食べたいものない?」って聞いたら、ようやく「ぶどうゼリー」って言ってくれた。確かに、ゼリーは冷たくてね、おいしい。ああよかったと思って、「わかった、じゃあぶどうゼリー買ってくるよ」ってすぐに買いに行ったんですけど、ないんですよ、ぶどうゼリーが。(笑)コンビニいくつ回ってもないし、スーパーも二つ回ったけれど、ぶどうゼリーがない。しょうがないから、リンゴゼリーと桃ゼリーとみかんゼリーといっぱい買ってきて、「ごめんね、ぶどうゼリーなかったよ」って・・・。
 つらい思いをしている人、与太者に、神さまがどれほど憐れみをかけておられるか、どれほど必死に救いのみ業をなしておられるか。少しは感謝したらいいと思います。

2013年1月13日 (日) 録音/2013年1月16日掲載
Copyright(C) 晴佐久昌英