いいよ

2013年3月10日 四旬節第4主日
・第1朗読:ヨシュア記(ヨシュア5-9a,10-12)
・第2朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント5・17-21)
・福音朗読:ルカによる福音(ルカ15・1-3,11-32)

【晴佐久神父様 説教】

 今日この美しい福音が読まれる四旬節第4主日、多摩教会は共同回心式をしております。私含め3人の司祭がミサの1時間前からゆるしの秘跡を授けておりましたが、ミサ後も3人でお授けしますので、どうぞ行列に並んでください。

 なんか先週、ちょっと言い過ぎましたかね。今日は例年より、行列が長いですもんね。先週、「来週の回心式でゆるしの秘跡を受けないということは、『私は、罪はありません』という表明ということでよろしいですね」なんて冗談めかして申し上げちゃって、すいません、ちょっと脅し過ぎましたか。
 実際には、罪のない人はいません。にもかかわらず、ゆるしの秘跡を受ける前から、神はもう私たちをゆるしてくださってますし、また、聖なるミサこそは、最高のゆるしの秘跡ですから、こうして回心のミサに(あずか)っている皆さんは、あまり神経質にならないでくださいね。今日は、ゆるしの秘跡を受ける人も、受けない人も、皆、この共同回心式において、豊かな罪のゆるしに与っていると、そう思っていただきたい。・・・なんて言うと行列が急に減るっていうことはないでしょうね。(笑)
 ちなみに、なぜか私の行列が一番短いんですけど、(笑)まさか、私じゃゆるしてくれなさそうっていうことじゃないでしょうね。(笑)やっぱり、身近な神父には告白しにくいっていうことでしょうか。

 ただ、申し上げておきたいのは、「どのみち、神はすべてを知っている」っていうことです。私の弱いところ、(あやま)ち、偽善、冷たさ、心の中の、神を忘れて罪におぼれている身勝手な現実、それを誰よりもよく知っているのは、神さまご自身なんですよ。
 思えば、そこまで知っていながら、この私を今日も生かして、この私に今日も福音を語りかけて、この私に今日も素晴らしい一日を与えてくださっている。もうその事実から、すでに、「ああ、神はホントにゆるしの神だ」と知るべきでしょうね。
 神は、私たちの存在をゆるしております。まずもって、それが「ゆるしの神」でしょう。福音としては、それがまず第一のことですよね。そもそも、個々の過ちを赦すなんていう以前に、私をゆるして生んでくださったんだから。
 「晴佐久昌英、いていいよ」とゆるして、この世界に生んでくださったのは神なんです。「お前みたいなだめなヤツ、ずるいヤツ、いい加減なヤツでも、愛しているよ。お前は存在していいんだよ」とゆるされて、今日まで生きてきたんです。
 私たちは、神のゆるしの中を生きています。このゆるしは何のためか。今も神さまがおつくりになっておられる素晴らしい神の国のために、こんな「私」が必要だからでしょう。
 神さまのそのゆるし、その忍耐は、ご自分のご計画を完成させるために、この「私」という、しょ〜もない人間を必要としていればこそですよ。必要のないものを、神さまはお生みになりません。あらゆる出来事、あらゆる私の現実は、やがてそのように、神さまの恵みの世界に連なっているものだという信頼と希望をもって、一日、また一日を捧げてまいります。

 おそらくは私たち、聖人ならぬ身、これからも罪の中を生きていくことになるでしょう。ゆるしの秘跡を聴いていると、皆さん結構似てるんですけど、いつもおんなじ罪を告白するんですよね。中には「すいません、去年とおんなじですが」って、わざわざ断って(笑)告白する方がいる。「・・・ってことは、来年も言うのね」って(笑)思うわけですが。
 それでいいとは言いませんが、でも、それが人間の真実じゃないでしょうか。その人なりの弱さとか、その人なりの個性っていうものがあって、おんなじ過ちを繰り返して、おんなじ罪で苦しんで、死ぬまで私たちは不完全な罪の世を生きていきます。だからこそ、そのおんなじ過ちを繰り返しているこの私の現実を知っていながら、なおも忍耐強くすべての恵みを与え続けている神の思い、これは知らなきゃならない。
 あの人に冷たくしちゃった、この人にひどいこと言っちゃった、困ってるのに助けてあげなかった、・・・とまあ、それぞれの罪はありますけれど、忘れてならないことは、「しかし神はこの私に冷たくしていない」「神はこの私を決して悪く言わない」「神はこの私を何があっても見捨てず、助けてくれている」っていうことです。それに気づくことこそが、ゆるしの秘跡ではないでしょうか。
 ゆるしの秘跡はついつい、「自分はこんな悪いことをしました。今度こそ、いい人になります。もう二度とこんなことはいたしません」みたいな感じになりがちですけど、あくまでもそれは人間側の考え、決心にすぎない。もちろん、もうやりたくない、こんなことは犯したくないと決心するのは尊いし、美しい。でも、人は常に過ちの中を生きていかざるをえない。そんな中でむしろ強調すべきは、それを承知で、神の側では私たちを愛し続けているという事実でしょう。それを真に知ったときに、初めて人は変わり始めるからです。

 私なんかが、常に叱られて育ってきたのは、衝動的に思いついたこと口走ったり、やりたいことをやっちゃったりっていう、注意欠陥障害みたいな傾向があったからですけれど、常に「あれほど言ったのに、なぜできないんだ」って叱られるっていう幼少時代を過ごしてきてますから、「これが自分だ」という静かな悲しみは背負ってるわけですよ。
 しかし同時に、そんな自分を救ってくれるキリストの愛を信じているので、これほどに繰り返し失敗している私を、神が受け入れ続けてくれていることに感動もするし、そこからこそ、神さまの限りない愛を汲み取りたい。
 繰り返し過ちの中にいる私たちを、神さまはゆるし続けています。

 パウロが、大変ありがたいことを言ってくださいました。使徒パウロのコリントの教会への手紙、先ほど読んだところですけど、
 「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられた」(二コリ5:19/強調引用者)
 うれしいですよね〜、「人々の罪の責任を問うことなく」。・・・罪の責任を問わない神。
 これほどまでに、弱い私たち、罪深い私たちなのに、神はその罪の責任を問わない。そう知ったときに、私たちの中で何かが変わるんでしょうね。
 神が責任を問わないことを本当に知って救いの喜びを知ったときに、「ああ、私も人を責めるのをやめよう」とか、「これくらいの迷惑は受け入れて忍耐しよう」とか、そういう優しい心も神さまから頂いて、もうちょっとマシになれる。
 でもそれは、あくまで、み心なら頂ける神さまからのご褒美みたいなもんで、仮にそんな実りがついに自分のうちになかったとしても、神はゆるし続けている。ここは譲れないところです。「無条件」ってことです。罪の責任を問わないということは。

 放蕩息子のたとえを読みました。美しいたとえです。放蕩息子が改心して父のもとに帰ってくる。
 私たちはこれを、「改心して父のもとに帰ってくる物語」として読みますけれど、実をいうと、よく読んでいただければわかるんですが、放蕩息子が「我に返って」「父のもとに帰ろう」って思ったときは、これまだ真の回心じゃないんですよね。
 だって、父親の財産を持ち逃げみたいにして出てって、全部使い果たしちゃって、よもや父のもとにおめおめ帰れるものかっていう状況ですけど、その息子がいよいよ父のもとに帰るしかないと思ったその理由は何かって言ったら、これ、腹減ったからなんですよ。回心してるんじゃないんです。おなか空いて、このままだと飢え死にしちゃうから。
 「どっかにパンないか。そうだ、親父(おやじ)んとこにある。あそこじゃ雇い人でもありあまるほど食ってる。どうせ俺はもう親父に嫌われて、息子の資格もなくしてるだろう。だから、お父さんごめんなさいと謝って、雇い人の端くれにでもしてもらえれば、パンくらいは食わしてくれるだろう。ともかくこうなったら、あそこしかない」
 この息子は、そう思って帰って来たわけですよね。これ、回心ですかねえ。
 じゃあ、本当に改心したのは、この物語で言えばいつになると思いますか? ・・・親父に抱きしめられた後じゃないですか? 
 「もう息子と呼ばれる資格はありません」とか言っている息子の言葉もろくに聞かず、親父は息子を抱きしめて、接吻し、息子である資格としての指輪をはめてやれと言い、さあ、宴会だと、一番上等な子牛を(ほふ)って宴会を始める。親父に抱きしめられ、宴会で最高のご馳走、最高のパンを食べて、この息子はようやく知るんです。
 「ああ、この親父、私を愛してるんだ。私がどんな息子であろうとも、愛し続けていたんだ。私が親父のことを忘れて、もはや息子と呼ばれる資格もないと思っていたときにも、親父は私を息子だと思い続けていたんだ」と、抱擁と宴会で知るんですよ。
 この抱擁と宴会とは、何か。これがイエス・キリストの抱擁であり、キリストの教会のミサという宴であり、私たちは今日、キリストの愛に包まれ、キリストの宴に招かれて、「ああ、これほどまで愛されているんだ!」という喜びのなかで、ようやく回心(開心)ができる。
 そういう、「あなたは赦されてるよ」「そんなあなたでもいいんだよ」って言い合う、神の国の宴のような教会っていうのを、やっていきましょうよ。
 実際にはついつい冷たいこと言ったり、知らぬ間に溝ができちゃったりすることはあるけれども、でもここは、本質的に、神がこんな私を受け入れてくれる現場としての教会なんだから、受け入れ合う教会、「あなたはそのままでも大好きだよ」って言い合えるような現場、それにやっぱり憧れて、工夫して、互いに迎え入れましょうよ。

 昨日相談してきた方は、ある障害を背負ってる方ですけれど、ある教会で、なんだかそこにいづらくなったっていう相談でした。いづらくなった理由は、みんなが意地悪だからじゃなくて、みんなが「素晴らしい」人だから。
 みんな信仰熱心で、明るくって元気で、立派に奉仕する人たちで、こんな私はそこまでの信仰を持っていない、こんな私にはちゃんと信仰生活ができていない、だんだんそう思わされて、いづらくなったそうです。で、そういう相談をすると、「だいじょうぶよ! 頑張ればあなたにもできるから」って励まされちゃって、余計に「私には無理」って思うようになる。さらには、障害のことなどのつらい思いを口にすると、「そんなことじゃダメよ!」って叱られるんですって。
 「ほら、障害を背負っても頑張ってる人が大勢いるでしょう? みんなつらいけれど、信仰を強く持って乗り越えてるのよ。愚痴を言わずに頑張っていれば、きっと素晴らしい恵みをいただけるわ」、そう励まされる。で、励まされると、ますますいづらくなる。
 そういうのを聞くと、何かこう、教会っていう所は、そういう元気で頑張っている恵まれた人の集まり・・・じゃない方がいいんじゃないのかなって思いますよ。
 むしろ、「あんたもダメねえ」と、「実は私もダメなのよ」と、「でも、ダメ同士で支え合ってやって行こうね」って慰めあってる所の方が、いやすいんじゃないですかねえ。
 そもそも宴って、本音を言い合う場ですし。弱音を出し合って、「何だかホントに私、もう自信なくしちゃった〜」なんて言ってるのを、「だいじょうぶよ。それでも救ってもらえるわよ。あなたのままで平気。頑張ったって、私たちには限界があるんだし、神さま、ちゃんと分かってくださっているから、安心してお任せしていいんじゃないの?」と。まあ、そんなこと言い合えるところ、そこが「宴」なんじゃないですか。
 「お前のままでいいよ」と、神さまがそう言ってくださっている、それを感じられる教会っていうのに憧れます。先ほどの方にも、そういう教会も必ずあるから、そういうところにも行ってみることをお勧めしました。

 確かに努力は必要ですけど、親にしてみたら、それは二の次。宴の席で、放蕩息子がね、言い出すんです。「そうは言ってもお父さん、ぼくのしたことは到底ゆるされることじゃないでしょう。こんなにしてもらう資格、ホントにないんです。もう息子と呼ばれる資格なんて、ホントにないんですよ。これからはがんばって、なんとか信頼を取り戻すために・・・」とかって言い出す。けれど、親父は聞いちゃいない。「ああ、分かった、分かった、いいから食べろ」「ほら、もっとパンを持って来い!」って。
 そういう教会っていうのが、罪深い私たちを受け入れる神の、目に見えるしるしになるんじゃないでしょうか。
 教会は、ダメなあなたを立派なあなたにする教育機関じゃないと思うよ。
 もっともっと、お互いに優し〜い気持ちで受け入れ合う、究極の宴。

 この放蕩息子のところを読むとね、どうしても思い出すことがあって。
 「放蕩息子の帰還」っていう絵を見たときのことです。
 2年ほど前に、サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館に行きました。
 で、たまたまそのとき私、ひじょ~~に傷ついて、とっても弱ってたんですよ。というのは、まあ、ある過ちというか、自分の弱さゆえに人の心を傷つけてしまう、そういうことがあって、その人から非常に強く、・・・叱られたんですよね。
 「それでも神父かっ!! 神父やめろ!」
 これは、こたえました。確かに悪いところはあったけれど、お互いさまって部分もあり、実際には、そこまで言われるほど大したことじゃないんです。ホントに。でも、言い方が非常に厳しかったせいもあり、大変傷ついた。
 で、ここが自分の一番駄目なとこなんですけど、謝らずに、つい言い返すんですよね。「逆ギレ」って言うんですかね。(笑)いや、「逆ギレ」って言うほどキレてもいなかったな。もっと陰湿なね、「逆恨み」みたいなヤツ。(笑)
 で、自己弁護して、「そんなあなただって」みたいなことを言っちゃったりする。向こうはさらに激高して、「そういう話じゃないだろう!」みたいな。
 まあともかく、自分の中でも一番駄目なところが出て、その人とこじれて、傷ついたままサンクトペテルブルクに行って、エルミタージュ美術館に行ったら、レンブラントの「放蕩息子の帰還」っていう美しい絵に出合いました。大きな絵ですよ。レンブラント、最も好きな画家のひとりです。
 お手元の、今日の「聖書と典礼」の表紙もね、父親が放蕩息子を抱きかかえている絵でしょ? レンブラントのその絵も、年老いた父親が立っていて、息子がひざまづいてその父親の懐に顔をうずめている。その息子の背中をね、父親は両手でしっかり抱きよせて、受け入れて、支えている、そういう絵なんですよ。
 それ見てるうちに、「ああ、こんな自分だけど、こんなにいいかげんで、まさに『それでも神父か!』って言われるような現実を抱えているけど、神は、この私を赦している。それに応えていかなきゃならないな。神は、こんな私を、いつまでも絶対に赦している。そういう神を信じ続けなきゃいけないな。逆恨みはやめて、あの人にもちゃんと謝ろう」、その絵を見て、そう思わされた。実際、帰ってからその人に会って、謝りました。向こうも「言い過ぎました」って謝ってくれた。
 人の心を動かす、ホントに素晴らしい絵でした。感動して、祈って、その絵の前で1時間立ってた。もっとだったかもしれない。
 そんな私を、椅子に座ってじーっと見張ってるおばちゃんがいたんです。美術館にいるでしょう? 座って膝かけしてる見張りの人。ロシア人のね、体のおっきな女性でしたけれど、私のことをチラチラと見てる。で、私があまりにもず〜っとそこにいるから、アヤシイと思ったのか何なのか、1時間過ぎた頃に、そのおばちゃんがいきなり立って、ツカツカッと寄って来たから、「もういい加減に行きなさい!」って言われるのかと思ったら、なんと手真似で「私の椅子に座れ」って。そう言って、自分は立ってるんですよ。いつもだったら思わず「いや、いいですから」って言うところを、そのときはなんだかとっても素直に、「ありがとうございます」って座らせていただきました。弱ってる時に優しくされると、心に染みますよね。
 ふと、神さまが「いいよ」って、この私に「いいんだよ」って言ってくれてるような気がして、涙ぽろぽろこぼれた。

 この世の中って、「ダメだ」「ダメだ」ばっかじゃないですか。「あんたじゃダメだよ」「それじゃダメだよ」・・・。
 「いいよ」っていう声、聞えますか? 神さまが今日、確かに皆さんに言っている声。
 ・・・「いいよ、お前でいいんだよ」

2013年3月10日 (日) 録音/2013年3月13日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英