神さまの意地

2013年9月15日 年間第24主日
・第1朗読:出エジプト記(出エジプト32・7-11、13-14)
・第2朗読:使徒パウロのテモテへの手紙(一テモテ1・12-17)
・福音朗読:ルカによる福音(ルカ15・1-10)

【晴佐久神父様 説教】

 イエスさまのたとえは、いつも分かりやすいですね。
 ドラクメ銀貨、だいたい、1枚1万円くらいと思ったらいいんですけど、「10枚持ってる女がいた」と。私たちの日常の話ですね。引き出しの中に10万円入れてあった。ふと見ると、9枚しかなかった。「まあ、1枚なくってもいいわ」って諦めますか? 諦めないでしょう? とことん捜しまくるんじゃないですかねえ。どれくらい捜しますか? 5秒捜して、「まあ、いいわ。9枚あれば」って、そうは言わないでしょう。5分捜します? 10分? 1時間?
 で、別の引き出しで見つけて、思い出す。「あ、そうだ! 1枚は別にしとこうと思って、自分でこっちに入れたんだった」みたいな話、よくありますよね。何にしても、ついに出てきて「やった~! バンザ~イ!」っていう、その喜びは、いかばかりか。・・・とっても日常的でわかりやすい。
 羊のたとえも、「1匹たりとも見失わないぞ!」って思う、この羊飼いの気持ちは、私がいつも、「10人の子どものたとえ」に置き換えてお話してますよね。覚えてますか?
 ある親が、10人の子どもを連れてピクニックに行ったら、一人が迷子になりました。「まあ、いいわ。9人いるから」(笑)、そう言って帰りますか? 「見つかるまで捜し回らないだろうか?」と問われれば、だれもが「そりゃあ、捜すでしょう」と答える。わかるでしょう?
 神さまは、絶対捜し出します。必ず見つけます。一人残らず。
 ・・・ってことを、イエスはなんとか伝えたいわけですよ。その、神さまの「意地」みたいなものをね、イエスさまはみんなに、このたとえから感じてほしいんです。・・・神さまの意地を。

 このたとえは、悔い改めの話ってことですけど、よくよく読んでいただきたいんですが、これ、「羊が悔い改めたから、助けに行きました」とか「銀貨が悔い改めたから、元に戻してあげました」っていう話じゃないですよね? 「羊」も「銀貨」も、ただ見失われて、ただ途方に暮れてるだけ。彼らは、自分で自分を救えません。それを見つけ出し、救い出すのは「神」なんですよ。神さまが(・ ・ ・ ・)見つけ出す。それを「悔い改め」って呼んでるんですよね、ここでは。
 神さまが見つけ出した。そして羊は喜んだ。銀貨もホッとした。それを神ご自身が誰よりも喜んでる。そのように、ここでは、「神から離れていた存在が、神の(わざ)によって、神のもとに帰る」ことを「悔い改め」って言ってるんですよ。
 これ、だから、「誠実に悔い改めれば、ゆるされて元に戻してもらえる」っていうことだって思ってたら、このたとえは読めない。その場合の悔い改めは、いわゆる人間的な改心のことで、「ちゃんといい子にしたら、救ってもらえる」っていう話ですよね。そうじゃなくて、「こんなに悪い子なのに、神さまは見つけ出してくれる」、それを信じて、真の平和を得る。これが「悔い改め」なんです。
 まあ、たぶん、悔い改めてなお、悪い子のままじゃないですかね、私たち。だれもが、ずっと、悪い子のまんま。神さまにゆるされて、少しはいい子になろうと頑張るかもしれないけど、まあ、大したもんじゃないです、人間の努力、改心は。結局死ぬまで、悪い子のまんま。
 今日、「シニアの集い」ですけど、こういう話に一番うなずくのは、シニアの方たちじゃないですか? 結局いくつになっても、「悪い子のまんま」っていう真実。若いころはね、いつかはもう少しマシになるかと思ってたら、むしろだんだん忍耐もなくなり、だんだんわがままになり、もっと悪い子になっちゃったみたいな。・・・ぜんぜん変わらない。だからこそ、シニアの方たちの信仰は深まるんです。こんな悪い子なのに、神さまが見つけ出して救ってくださるという、神の愛への信仰。
 悪い子を、絶対に(・・・)捜し出す。誰であれ、一人ひとり、みんな自分のもとに呼び寄せる。そういう神さまの「意地」を、われわれは信じるべきだし、その信仰において、私たちの中に喜びが生まれ、神もまた、ホントに喜んでくださる。
 このたとえだと、そうなりますよ、どうしたって。「羊」だって、迷いたくて迷ってるわけじゃないですから。迷いたくないのに、気づけば迷っちゃったってだけだし、それを捜し出すのは「神」の方。そして「神」は捜し出してくれている。私たちは、そのことを信じなくっちゃ。
 「神の意地」、私はそれに信頼しますし、また、「そういう神さまですよ」っていうことを、みんなにも知らせて救ってあげたいし、その意味では、私にも意地がある。神の「意地」にいつも救われている者として、私もちょっと意地を張ろうかと思う。

 この「意地」っていうのは、私の大切なキーワードですけど、皆さん、どう思いますか。私って、意地っ張りに見えます? うんうん、ってうなずいてる人がいますけど。(笑) 私は、日頃、ユーモアを使ったり、物腰柔らかくしたり、のんびりしているように振る舞ってるんですけど、実は私の本質は、ただもう、ひたすらに「負けず嫌いの意地っ張り」です。ひじょ~に意地っ張りです。まあ、そうでもなきゃ、26年、無人島に行ったりしませんけど、ただただ意地っ張りです。
 「ここで負けちゃったら、ぜんぶ台無しじゃん!」みたいに思って、「もう1回福音を語ろう!」「もう一つ工夫しよう!」「もうひとり福音を伝えよう!」って、まあ、その辺は、「意地」がないと、なかなか難しいですね。それはもちろん、誰かのためっていうのもあるけど、もはや自分の意地に殉じてるようなとこもあります。・・・「ここまでやってきたんだから、これで負けてたまるか!」って。
 でも、そんな意地も、少しは神さまの「意地」に連なってるんじゃないかなって、思ってはいるんですけどね。・・・その意味では、私たちももう少し、「意地」、張りましょうよ。
 パウロも、相当意地っ張りな人でしたけど、第2朗読でこう言ってました。「『キリスト・イエスは、罪人(つみびと)を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します」と。で、こうも言ってます、「わたしは、その罪人の中で最たるものです。しかしわたしは憐れみを受けた」。
 まあ、パウロにしてみたら、自分は最悪の罪びとだってことをわかっているわけですけど、そんな罪びとを、神さまが意地でも(・・・・)見つけて、福音を伝える(うつわ)として用い、使徒として遣わす。・・・最たる罪人パウロを、それほどまでに重要な使徒にするなんて、まさに神の「意地」ですよね。・・・神は「その一匹」を、決して放っておかない。
 パウロは、そんな神の「意地」に出会って、自分も意地を張り続けた使徒です。「神に選ばれたってことだけは絶対に譲らないぞ」「イエスに救われたってところだけはぶれないぞ」っていう。
 そういう意味では、わがキリストの教会は、もっともっと、「すべての人を救うんだ」っていう「神の意地」を張っていただかないと、「キリストの教会」じゃなくなっちゃうんじゃないですか? キリスト者なんて、意地張って何ぼなんです。「いや、この人に言っても無理だろう」とか「この状況ではちょっとやめておこう」とか、まあ、ついつい私もそういう情けないこと思うことが、チラチラあるんですけど、でもそういうときに、「でも、ここで意地張ってこその晴佐久だろう!」とかっていう思いは、やっぱりありますね。

  
 先週もまた、いろんなとこ行って、意地張りまくってきましたけど、たとえば、岩波ホールでね、大勢の観客を前に、映画の後でトークショーをしたり(※1)、奈良市役所に行って、市役所のホールで、大勢の一般の人たちにお話したり、大阪の「淀川キリスト教病院」のチャペルで職員や患者さんたち、その家族たちにね、「どんな人も、必ず、必ず(・・)救われる」っていう話をしたり、昨日は「いのりフェスティバル」っていうイベントでね、これはカトリックやプロテスタント、その他仏教徒やイスラム教徒も交えての超教派の文化祭みたいなもんですけども、ホールの壇上で、宮台真司(※2)っていう社会学者と、対談をしました(※3)。これは楽しかった。ともかく、どこに行っても私、意地張って福音語ってきましたよ。今日もこの後、飛行機で福岡に行って、「ナザレン教団」っていうプロテスタントの教会の九州大会で、今晩と明日の2回、「みんな救われる!」っていう話をしてまいります。・・・よく働くね~、この神父さん。(笑)
 これやっぱり、意地っ張りでないと、なかなか難しいと思う。心の中ではね、「あ~、もう、しんどいな~」って、正直、思うこともあるんですよ。これ、告白しましょう。意地張ればきっといいことあるぞっていう、ワクワクする思いと同時に、「いや~、もうくたびれたよ。俺も『シニアの集い』に出たいよ・・・」って感じもある。それでも、やっぱり神さまの「意地」に感染してるんですかね~。「サボってると、だれかひとり、救われないかも」っていう思いが、どっかにあるんですよね~。

  
 岩波ホールでは、エルマンノ・オルミ監督の『楽園からの旅人』(※4)っていう映画の後でのトークでした。この映画は、ひとりのカトリック司祭が、教会が閉鎖されるときに、ちょうどそこに忍び込んできたイスラムの難民たちをかくまうっていう話です。以前、この話、しましたね(※5)。 いい話です。それまで、教会でカトリック信者相手にいっしょけんめ働いてきて、でも、最期の最後には、イスラム教徒の難民たちをかくまう。それが司祭人生の総仕上げになっていく。そういうのに、私も、ちらっと憧れますけどね。
 実は、岩波ホール(※6)で話せるってことは、ちょっとうれしかったんです。映画ファンの私にとって「岩波ホール」は聖地ですから。1979年、あそこで『木靴の樹』を見て以来、「岩波ホール」のファンでね。あのホールで、どれだけ素晴らしい映画を見たか。『コルチャック先生』とか、懐かしいね。『八月の鯨』とか、『森の中の淑女たち』『山の郵便配達』、監督でいえば、ケン・ローチとか、サタジット・レイ、アンジェイ・ワイダ、もう、それはそれは、きら星のごとく
 あそこで、エルマンノ・オルミの最新作についてトークショーができるなんて、私にはもう、誇りですよ。だって、聞いてるのは一般の観客でしょう? その前で福音語れるなんて。それこそ、意地張って映画観てきてよかったなあって。で、実はそこで、教皇さまの話もしたんです。

 この前、7月8日、教皇フランシスコが、まさにこの映画と同じこと、なさったからです(※7)
 今、イタリアに、アフリカや中近東から何万という難民が海を渡って押し寄せてきてますけど、それをイタリアの当局は受け入れたくない。そんな中で、海で命を落とす人が年間数百人もいるし、非常に劣悪な環境の中で、子ども抱えて大変な思いをしている母親だっている。それで、教皇は人道上見過ごせないと、教皇になって初の公式訪問の場所として、ランぺドゥーサ島を選んだんです。ランぺドゥーサ島っていうのは、イタリアの一番南の、もうすぐチュニジアっていう所にある小さな島ですけど、小舟に乗った難民たちが命からがら、漂着してくる島です。でも、島に着く前に、海で命を落とす人も大勢いる。
 教皇はそれに心痛めて、「私は人々の良心を呼び覚ますために、公式訪問として、まずあの島に行く」と言って訪問し、そこで命を落とした難民たちのためにミサを捧げ、「私たちは他者の苦しみに鈍感になっている」と、世界中に広まっている無関心を戒めたんです。イタリア当局は大慌てでね、「もう、余計なことを!」と心では思いながらも、難民への待遇を改善せざるを得なくなった。これなんかもう、まさに「意地」ですよね。
 「カトリック教会は、『すべての人を救う、すべての人のための教会』、そういうことを、あらゆる壁を越えて真剣に求めてきたし、今もそのように活動している教会なんです」っていうことを、そんな出来事を交えて、「岩波ホール」で一般の人たちを前にしゃべってるっていうのはね、何としても「その一匹」を捜しに行く、あのイエス・キリストが、今日もキリストの教会を通して働いているからだって感じていただければと思いますよ。

 昨日の宮台真司氏との対談なんかもね、意地張りました。ちょうどいいことに、というか、宮台さん、遅れて来たんですよ。実は私も遅れたんですね。「1時半からの対談ですから、打ち合わせのために1時に来てください」って言われてたのに、遅刻して、1時半、ぎりぎりに着いた。で、「宮台先生、申し訳ありません!」って謝るつもりで、慌てて控室に行ったら、主催者が「宮台先生、時間を間違えて、まだ来てないんです」って言う。いや、そういうときって、ホンットにうれしいんですよね~。(笑) 上には上がいるというわけで、ホッとして、ああ、よかった~ってね。
 で、あと30分以上かかるっていうのに、会場は満員なんですよ。それ、30分以上待たせるわけにいかないって思ったんで、主催者に「じゃあ、私ひとりで勝手にしゃべり始めていいですか?」って言ったら、「え、いいんですか! 助かります、ありがとうございます!」って言うんで、「いや、いや。これこそ聖霊の働きなんですよ♪」ってですね、壇上で30分間、説教しまくり!(大笑)途中で司会者がね、「宮台先生、あと10分くらいでお着きになります」って言うから、「『どうぞ、ごゆっくり♪』とお伝えください」とか言ってね(笑)。まあ、カトリック教会の普遍性について、しゃべりまくりました。「すべての人が求めている、すべての人に通じる、真に普遍的な救いをこそ、カトリックは救いとしているんだ」とかね。
 そのうち宮台さん到着したんですけど、実は私も初めてお会いしたし、本をちゃんと読んだこともないし、有名な社会学者ということですけど、社会学なんて難しくてよくわからないし、その上、まったく打ち合わせしてないわけでしょ。果たして何話していいものやら、最初はちょっと戸惑いました。
 主催者は、「異色対談」ってことで組んだんでしょうから、まあそこで、激しい議論を期待してるわけでしょうから、まずは宮台さんが社会学者として理性的に宗教に突っ込んでくるだろうから、こっちはこっちで、「でも宮台さん、あなたも神さまに愛されてますよ」とか煙に巻こうと思ってたんですよ。ところがね、ふた開けてみたら、ホンットに優れた、まともな社会学者でした。学問的であり、かつ宗教的であり、そして何より実践的。私、感動しました。
 普通、学者というものはですね、なんかまあ、自分の知識第一でね、評論的な第三者的立場での物言いばっかりなんですけど、彼はとっても現実的で、自分自身の良心的な意思、この世界を本当にいい社会にしていきたいという意思をはっきりと持っていて、そしてそのためには、伝統宗教の普遍性、実践性がどれほど重要かっていうこともよく分かってるんですよ。そういう立場で、カトリック教会を正当にリスペクトをしてくれる。尊敬を持ってくれてるんです。だから、ちっとも議論の応酬にならず、むしろ「今の晴佐久神父さんの話をフォローします」みたいな応援をしてくれて。
 同世代なんですけれど、なんか気が合っちゃってですね、壇上で、「今度一緒にワイン飲みましょう」とか(笑)そんな話にもなって、多摩教会にも来てくれそうですよ。対談後、いろんな話してたら、「ぼくも無人島行きます!」とか言い出したんで、(笑)来年はぜひ一緒にあの島に行って、「本当にいい社会をつくるために、一緒に意地張りましょう!」なんて話をできたらいいなあって、心待ちですよ。
 宮台真司っていうのも意地っ張りですから、敵も多そうですけれども、それでも、本当にみんなが幸せになる道を、どうしたらいいかっていうことを、とても(・・・)具体的に、ず~っと(・・・・)考えて、実行し続けてるんです。今は政治にかかわって、ロビー活動(※8)みたいなこと一生懸命やってるみたいですけれども、ああやって市民レベルで、地道に啓蒙をし、仲間を募り、実効性のある道を示すのって、まさに普遍性を目指す装置としてのカトリックですよ。
 そんなこと思ってたら、「実は、妻はカトリックなんです」とか言い出して、「妻は、かつて教会学校で晴佐久神父さんのお世話になった者です」なんて言われて。・・・なんか、つながりがあるんですね。おもしろい。
 この対談なんかも、最初はためらったんですよ。「社会学者との対談? 俺なんかで、うまくいくだろうか。でもきっと何か、いい出会いになるんじゃないか。福音のためのいいきっかけがつかめるんじゃないだろうか。ここで逃げちゃったら、俺らしくないだろう」、そんなふうにためらいを乗り越えたのを、よく覚えてます。現に前回は、この「いのフェス」の対談、断っちゃったんです。相手がオタクの学者、岡田斗司夫だって聞いて、なんだかビビって、逃げちゃったんですよね。・・・「それ、勘弁してください」って。
 でも今年は、チャレンジしました。逃げてばっかりじゃねっていう「意地」で。で、意地張ってホントによかったなって。
 皆さん、一緒に、もうちょっと「意地」、張りませんか? どうせみんな天国行くんだから、この世にいる間に、もうひとつ意地張って、頑張って、おもしろいことして、「いや~、いい人生だったね~」ってね、やっぱり満足して、天に召されましょうよ。・・・って「シニアの集い」(※9)にすごいこと言ってますけど。(笑)

 「淀川キリスト教病院」ではね、患者さんがチャペルに座ってるわけです。そういう所で、「あなたは幸い」っていうタイトルで話したんですけど、それもやっぱり、勇気がいる。でも意地っ張りですから、「それでも、あなたは幸いだ!」と、そう宣言し続けました。
 で、講演が終わって、「なにかご質問はありませんか?」って司会者が聞いたんですけど、誰も、なかなか手をあげない。司会者がしばらく粘ってたら、やがてひとりの患者さんが手を挙げました。・・・この方、ホスピスにおられる方なんですよ。パジャマ着てね、カーディガン羽織って、聞きに来てるんです。
 「神父さん、お話、ありがとうございました。『あなたは幸い』って聞けて、励まされました。けれども、実際の自分の体は、大変な状況で・・・。その『幸い』の世界と、現実とのギャップが大きすぎて・・・!」とそこまで言って、泣き出して、声詰まらせて黙っちゃった。・・・「ギャップが大きすぎて・・・!」って。
 私、それに応えなきゃならないんですよ。それに応えなかったら、「意地っ張り」の名折れじゃないですか。しかも、大きな病院で、チャペルでの講演は、「ぜんぶのベッドサイドのモニターに映ってるんです」って言うんですよ。もちろん、本人が希望してつけてれば、ですけどね。
 ホスピス病棟がある病院ですから、「自分は、あと何カ月か、あと何週間か」って、わかってる人たちです。不安と恐れと、ときには痛みのなかを、必死に耐えて生きてる方たち。ベッドサイドで、カトリックの神父が来て、何かお話をしているっていうのを、必死な思いで見てるわけでしょ。
 そんな全病室の眼差しを、ひしひしと感じながら、「何て答えていいか・・・」って思ったときに、やっぱりイエスさまのことを思いました。イエスさまなら、何て言うか。それなら、もう応えははっきりしてるんですよ。その「1匹」を捜しに行くイエスですから。救いから一番遠いところにいる、現実に一番つらい思いをしている、その「ひとり」のために、イエスは語るんだから。
 イエスさまだったら、当然言うことを申し上げました。
 「神は、あなたを愛しています。あなたが病室でどんな思いで過ごしているか、どれほど恐れて、苦しんでいるか、だれよりもよく知っています。だから、今日、ひとりのキリスト者をここに遣わして、あなたにご自分の思いを伝えているんです。神はどうしても言いたいんです。『私はあなたを望んで生んだ。まことの親としてあなたを愛している』『私は、あなたを必ず救う』・・・どうか、今日のこの出会いを信じてほしい」
 ・・・それだけ申し上げました。これはもう、神さまの意地でしょう。
 講演の後でね、そのパジャマさん、自己紹介をして、今の状況を話し、私の手を握って、「本当にありがとうございます! ありがとうございます!!」と、泣きながら感謝してくれました。
 チャプレンっていう、病院付きの牧師先生が、後で、「あの方を本当にいつも心配して、ケアをしていたところです。まさに彼の質問は、全患者を代表しての質問です。それに、神さまがはっきり答えてくれました。本当に感謝します」と言ってくださいました。


 さあ、今日もまた、意地張りに、午後、九州へ出かけます。どうぞお祈りください。シニアの皆さんも、もうひとつ、小さな意地張って、神さまの愛のひと言を、どなたかにお伝えくだされば。
 そんなシニアの皆さんを、励まして力づけるために、病者の塗油(※10)をお授け致します。秘跡を受ける方は、前にお進みください。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)

※1:「映画の後でトークショーをしたり」
・ 「晴佐久神父、映画『楽園からの旅人』を語る」参照 (「福音の村」サイト内より)
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※2:「宮台真司」
◎宮台真司 (社会学者・映画評論家・首都大学東京教授)
 1959年、仙台市生まれ。京都市で育つ。東京大学大学院博士課程修了。社会学博士。権力論、国家論、宗教論、性愛論、犯罪論、教育論、外交論、文化論などの分野で単著20冊、共著を含めると100冊の著書がある。近著に『14歳からの社会学』『〈世界〉はそもそもデタラメである』など。(「いのりフェスティバル」ゲスト紹介
・ 「宮台真司」(ウィキペディア)
・ 「MIYADAI.com Blog」(宮台真司氏 オフィシャルブログ)
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※3:「対談をしました」
・ 「いのりフェスティバルで聖☆対談
  (「福音の村」サイト内、2013年9月14日「いのりフェスティバル」対談のご案内)
・「福音の村」のサイト内から、そのときの様子を動画でご覧いただくことができます。
 → 対談「信じる者はホントに救われる?」 (お相手:宮台真司氏)からご覧ください。
   ( 動画は「いのりフェスティバル」提供 )
・ YouTube(動画共有サイト)でも、その際の動画を配信しています。(「いのりフェスティバル」提供)
  前半と後半に分けられていますので、順を追ってご覧ください。
  (YouTubeでご覧になる場合は、以下の画像、あるいはURLをクリックしてください)
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<前半> :  → http://goo.gl/nwb04G(53分17秒)
<後半> :  → http://goo.gl/bben7W(53分44秒)
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※4:『楽園からの旅人』
(参考)
・ 公式サイト >>> 『楽園からの旅人』
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※5:以前、この話、しましたね。
・ 2013年7月14日(年間第15主日)説教「善を行うことは、信仰にまさる」参照
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※6:「岩波ホール」
・ 「岩波ホールについて」(「岩波ホール」オフィシャルサイトより)
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※7:「教皇フランシスコが、(中略)なさったからです」
・ 「無関心のグローバル化に警告、教皇、ランぺドゥーサでミサ、移民たちとお会いに
  (「バチカン放送局」:司牧訪問より)
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※8:「ロビー活動」
【意味】
 ロビー活動(lobbying)とは、特定の主張を有する個人または団体が政府の政策に影響を及ぼすことを目的として行う私的な政治活動である。議会の議員、政府の構成員、公務員などが対象となる。
(参考)
 「ロビー活動」(ウィキペディア)
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※9:「シニアの集い」
・ カトリック多摩教会では、「敬老の日」の頃、「シニアの集い」を催して、教会のシニアの方々への感謝と、喜びを共にしています。今年は9月15日(日)に開催しました。
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※10:「病者の塗油」
・ 「病者の塗油の秘跡(1)
・ 「病者の塗油の秘跡(2)
(参考)
・ 女子パウロ会「Laudate」<カテキズムを読もう>
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2013年9月15日 (日) 録音/2013年9月20日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英