イエスさまのおもてなし

2015年1月18日年間第2主日
・第1朗読:サムエル記(サムエル3・3b-10、19)
・第2朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント6・13c-15a、17-20)
・福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ1・35-42)

【晴佐久神父様 説教】

 自分が、最初にイエスに出会ったときのことを、思い起こしましょう。
 今日のこの福音書の箇所(※1)、感動的なシーンです。弟子たちが最初にイエスに出会った瞬間。イエスに招かれて、イエスのもとに泊まった夜。・・・感動的な時間です。
 私たちにもあったはず。「そんな劇的な出会いはなかった」なんて言わないでください。皆さん方が、現に今日、ここにこうして集まっているからには、イエスは皆さんに呼び掛けましたし、皆さんを招きましたし、皆さんと共にとどまった。そのとき、皆さんは、イエスのもとに泊まったのです。・・・そういう、最初のひととき、確かに「イエスさまのおもてなし」があったんです。それはいつだったか、どのようだったか思い起こしてほしい。
 まあ、幼児洗礼の人はね、なかなか赤ちゃんのころは思い起こせないかもしれませんが、それでも、やがて教会の素晴らしさ、教えの尊さ、信じる仲間の喜び、・・・そういうものを味わったはずだし、だからこそ、今日もここに集まっている。それらは、イエスに招かれたっていうことですし、これまで体験したすべては、イエスに「もてなされていた」ってことになるのです。
 成人洗礼の人なら、誰かに誘われて教会に来たとか、あるいは本を読んでキリスト教に出会ったとか、ネットで見つけて福音を知ったとか、それぞれにイエスに出会った瞬間があるはずだし、その瞬間は、神さまが皆さんを迎え入れた瞬間なんです。まあ、もともと迎え入れてるんですけど、それに気づいていなかった皆さんを、神さまが特別な(はか)らいによってもてなして、気づかせてくれた瞬間。・・・そういうことになります。

 イエスさまは、弟子たちに、「さあおいで。ついておいで」と言って招き、ご自分の所に泊めますでしょ。泊めたからには、(めし)くらい出したんじゃないですか? まさか、ただ寝かせただけじゃないでしょう。あるいは、黙ってじ〜っと3人でにらめっこ(・ ・ ・ ・ ・)してたわけじゃないと思いますよ。やっぱりワインのひとつも出して、一晩、語り合ったんじゃないですか? イエスさまは福音を熱く語ってくださったでしょうし、弟子たちは、自分のすべての思いをぶちまけたんじゃないですか?
 今日、成人の祝福式で、二十歳(はたち)の若い人たちもおられますけど、私も二十歳のころを思い出すと分かります。求めてたじゃないですか。
 「この宇宙とは何か」
 「人間とは何か」
 「生きるとは何か」
 「救いとは何か」
 「愛とは何か」
 ・・・「神は本当におられるのか」
 求めてたわけですよ、この弟子たちも。その弟子たちに、イエスは振り返って、イエスの方から声をかけ、「わたしについておいで」(cf.ヨハネ1:39)と招いて、そしてご自分のもとに泊める。
 そして答えたことでしょう。「宇宙とは、神と人が出会う場だ。人間とは、神に愛されるために造られた神の子だ。生きるとは、その神の愛に気づくプロセスだ。救いとはその愛に気づいて、真の幸いを味わうことだ。愛とは、それらすべてを完成させる原理だ。私と共にいれば、そのすべてを受けることができる」
 これこそ、最高のもてなしでしょう。
 間違いなく(・ ・ ・ ・ ・)、皆さん、それを体験してます。今もなお、そのまま、イエスのもとに泊まり続けてるようなもんですけど。
 実際、今朝も、この教会に泊まっている青年がいます。昨日の夜来て、泊まりました。彼は、この前のお説教でもお話した「祈りと聖劇の夕べ」に来た青年ですけれども(※2)、初めて教会に来た時、2013年の12月23日に来た時に神父から声を掛けられて、そして教会に泊まったんです。三日間泊まってました。教会にもてなされ、イエスに出会った・・・それがすべての始まりです。そうして2014年春には洗礼を受けました。その彼、実はまだ寝てるんですけど、昨日の夜のミサにちゃんともう出ましたから、今、寝てていいんです。彼の名誉のために、(笑) 申し上げておきますが。
 ・・・しかし、なんと幸いな宿泊。その夜、人生が変わったんです。
 これは、実は神父が声を掛けたんじゃないんですよ。イエス・キリストが声を掛けたんです。教会が泊めたんじゃない。イエス・キリストが、ご自分のもとに泊めたんです。
 ・・・なんと幸いな「おもてなし」。
 神さまは、私たちをもてなして(・ ・ ・ ・ ・)います。そのことを、皆さんも、イエスとの最初の出会いのことを思い起こして、「ああ私、ちゃんと、もてなされてるんだ」という喜びとか、「なんだ、何も心配しなくていいんだ」という自信っていうのを、持ってほしい。
 「これから、もっとこうしてくれ」って言う必要、ないですよ。今から神さまに要求することなんて、実は何もないんです。「もっと神さま、こうしてくれ」なんて頼む必要、ぜんぜんない。だって、もうすでに神さまは、やってくださっているから。私たちがそれに、ちゃんと気づいていないだけです。
 皆さんは、「もてなされて」います。

 あれですね、滝川クリステルですっかり有名になりましたけど(※3)、本当に、この世界を救う、尊い思いですね、「お・も・て・な・し」。
 今の時代に一番必要な心。歓待。ホスピタリティ。「歓待」っていう文字通り、(よろこ)んで(喜んで)お迎えすることですよ。あるいは、お迎えして喜ばせることですよ。・・・「歓待」。
 英語の「hospitality(ホスピタリティ)」は、「host(ホスト)」とか「hostess(ホステス)」、あるいは「hostel(ホステル)」とか、そういう言葉の語源になっているものです。みんなをお迎えして、おもてなしして、喜ばせる。でもまあ、そうは言っても、「hospice(ホスピス)」とか「hospital(ホスピタル)」とかでもそうですけど、一応、報酬はもらってるわけでしょ。「おもてなし」の報酬を。
 でも私たちは、報酬なしで、無償で、「おもてなし」されたんです、神さまに。神さまに、何の報酬も与えることはできません。何のお礼も差し上げられない。向こうはまったく無償で「おもてなし」をしてくれています。だから私たちも、そのまねをして、無償のもてなしをする。
 まあ、もっとも、私たちの場合は「無償」と言ってもですね、やがて、・・・やがて、神さまは、大きな報い(・ ・)をくださる。それは楽しみにして、支えにして、「おもてなし」したらいいんですよ。
 マルコ福音書の9章にありますね。
 「あなた方に一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」(マルコ9:41)
 私たち、「一杯の水を差し出す者」となります。無償で。しかし、天に大きな報いが待ってるということもまた、私たちは楽しみにします。
 教会なんていう所は、まさに「軽食無料サービス券」(※4)じゃないですけど、無償で「おもてなしをする」ということが、その存在の本質にかかわること。

 二十歳の皆さん、「おもてなしをする」という人生を生きていこうじゃないですか。それは最高の生き方です。それ以上の生き方はありません。
 私が二十歳のころ、教会の仲間たちで、よく集まって、よく語り合いました。あの頃集まった仲間たちの間でよく読まれたのが、濱尾(はまお)司教さま(※5)です。その後枢機卿になられて、もうお亡くなりになりましたけど、私たち青年たちを、本当にもてなしてくれた素晴らしい司教様で、その司教さまが書いた本を回し読みしながら、よく語り合ったものです。
 一番忘れられない一節が、
 「神から与えられた力を自分だけのために使うのは暴力だ」
 ・・・そんな一節があった。ドキッとさせられた。
 神さまが私たちに与えてくれた力を、自分だけのために使うなんて、そんなの暴力だ。人のために使え。私たち、いっぱい素晴らしいもの、もらってる。それを、「おもてなし」することに、みんなを喜ばせること、「一杯の水」を差し出すために使う。それこそが、この世界を、ホントに神の国に変えていく最高の方法なんだと。
 二十歳の皆さんに、そんな生き方に憧れてほしい。私は憧れましたよ、憧れました。「自分はそんなことできっこない」とか、「自分の利己心を考えると無理だろう」とか思いながらも、憧れましたよ。「日暮れて道遠し」・・・ちっともその憧れに近づけないけれども、その憧れは、あれから何十年たっても、まだ、魂の奥で燃えています。
 人を喜ばせることをしたい。神がそうしてくださったから。・・・「おもてなしの人生」
 「おもてなし」、イエスさまが一番最初になさったことです。
これ、ヨハネ福音書の最初のとこなんですよね。いよいよ「イエス登場」っていうシーンです。さあ、主人公のイエスさまが現れて、果たして「何を言うのか」「何をするのか」っていう注目のシーンで、一番最初にしたのが、「ついておいで」と招き、自分のもとに泊めて、もてなす。もう、福音のすべてがそこに込められてるんです。・・・これこそ、教会がなすべきことでしょう。

 私が、その二十歳のころ、とても仲良くしていた友人が亡くなって、先週ご葬儀を致しました。
 あのころは、それこそ晴佐久さんちは「おもてなし」の家でね、何十人という青年たちが集まって、飲めや食えや、やってたんですよ。もう、毎週のようでした。亡くなった彼は、その頃よく私の家に来ていた友人のひとりです。とても親しかった。どれだけ一緒に食べて、飲んで、しゃべったか。
 まあ、あのころは、わが家はたまり場で、みんなをもてなすのは当たり前のように思ってましたけど、その友人のことを思い起こして日記読んでたら、興味深い記述がありました。
 ミサの後とか、私が家に友達を何十人も、突然連れてくるわけですよね。そうするとわが家は慌ててね、テーブルを出して、母なんか、買い物に行ったりするわけですよ。食事のためにね。で、ある時、その集まりが終わって、みんな帰って片付け終わった時に、私が母にお礼を言ってるんですね。「ありがと、母さん」とか言うと、母が苦笑いしながら、「1万円飛んだわよ」って言ったって書いてあるんですよ。・・・「1万円、飛んだわよ」って。
 自分ちの子どもたちも養わなきゃなんないのに、突然何十人も連れてこられて、慌てて買い物に行っていろいろ作ってね、お煮しめとかね、上手だったから、治部煮(じぶに)みたいなやつをチャチャッと作ってみんなに出して、みんな喜んで食べて飲んでですけど、20人分、30人分作るって大変でしょう? 文句も言わずに、当たり前のように。まあ、「おもてなし」の家でした。だからこそ、みんな集まったし、でも、ああいう集まりも、まあ、神さまの「おもてなし」の一部だったんでしょうね。
 亡くなったのはケンジっていう友人です。私と同い年。さっさと天国に行っちゃいましたけど、今頃、あらためてあちらで私の母にお礼を言ってると思いますよ、「おかげさまで」って。
 まさに、あの語り合った日々を、私は忘れない。「おもてなし」のおかげで、どれだけ素晴らしい友達と巡り合えたか。「燃えるぜ!」っていうのがケンジの口癖で、「もらった力を、みんなのために使うんだ」「これから大人になっても、こういう仲間たちを大事にしながら、信仰の人生を生きていこうよ。大人たちは、もうみんな、そういう純粋な思いを忘れて自分勝手な世の中にしてるけれども、ぼくたちこそは、この信仰を守って、生活と信仰を一致させて、本当にみんなを救う、そんな教会をやってこうよ」って、もう、真面目に真剣に語り合ったもんです。
 ケンジも、「燃えるぜ!」って言いながら、精いっぱい生きたんです。さまざまな問題や悩みを抱えながらも、自分なりのもてなしを生き抜いて、そして天に召されていった。私は、まだ召されていないようなんで、もう少し「燃えて」いかなきゃなりません。

 先週、大阪で講演会をいたしました。シスターの講演会だったんですけど、そこに私、ある方々をお招きしたんです。
 私のところには、毎日のようにたくさんお手紙が来るんですけど、去年の年末に、ちょうどクリスマスカードを作ったということもあって、そのころ届いたお手紙に、珍しくお返事のカードを出したんですね。大阪からの手紙も何通かあったんですけど、大阪方面の方たちへのお返事には、最後にこう付け加えたんです。
 「年が明けたら、1月に大阪で講演会ありますから、よろしかったら来ませんか。ただ、これは、大阪の修道女連盟の講演会なので、一般の方が入れるかどうか分かりませんが、頼めば入れるんじゃないですか」
 そんなカードを、大阪の方に送ったんです。
 そうしたら、いらしたんですね。お二人。両方とも、プロテスタントの信者さんでした。どちらも大変悩んで苦しんで、つらい人生を生きてきて、しかし、晴佐久神父の本とかネットの説教に出合って救われて、そのお礼の手紙っていうのが来るわけですね。よく、全国から来ます。
 お一人の方なんかは、長年リウマチで苦しんでいる上に、ご家族のことでとても苦しんでいて、とてもつらい体験のなかで、信仰を求めて洗礼を受けたんだけれども、洗礼を受けても神さまの愛が分からず、聖書のみ言葉が守れずに、自分を責め続けて、救われない毎日だったようです。必死に勉強したけれど、ますますうつ状態になり、ホントに苦しかった、と。そんな中で、晴佐久神父の本に出会って、やっと会えたという思いで次々読んだそうです。気持ちが楽になり、それこそ「あなたはもう、神さまにもてなされてるんだ」というようなね、こういう話を聴いて目が開けたと。
 その方からの手紙の最後に、「いつかはクリスチャンじゃない夫と一緒に、ぜひ東京旅行に行きたい。はとバスに乗って多摩教会に行きたい」って、(笑) そうありました。
 ・・・「はとバスで多摩教会」って・・・。(笑)まあでも、それもいいかもね、そういうコース、作っていただいてもいいんじゃないですか? 「陽春の武蔵野〜深大寺と多摩教会」みたいな。(笑)
 で、多摩教会の前で写真撮って、お土産ショップで思い出になる物買って帰りたいって、まあ、そんなことが書いてあった。だから私、お返事に、「東京に来ずとも、大阪で講演しますよ」ってお知らせしたわけですが、その方、来られたんですよ。シスターに頼み込んだらしく、修道女連盟の講演会に一般の方がポツンといるわけですよね。しかも、同じようないきさつで来られた方がもう一人いて、二人いる。
 一人の方が講演会前にあいさつに来て、「神父さま、おはがき、ありがとうございました。シスターに頼んだら入れてくれました。お会いできてうれしいです」って、もうホントに喜んでいて。
 もう一人の方も、「私もご案内いただいて来ました。そうしたら、この方と出会って、『どちらから来ましたか?』と声を掛けたら、『晴佐久神父からはがきもらって来たんです』って言うんで、『私も、もらって来たんです』っていうことで、さっきここで知り合って、友だちになりました」って言ってるんですよ。で、その日、二人並んで講演会で福音を聞いてるんです。
 いいでしょう? なんか、こういうのってね〜。この二人、すごくいい友だちになると思いますよ。私、よく分かる。聖霊の導きですから。生涯の友人になるんじゃないですかねえ。これからも連絡取り合って、電話掛け合ったり会っておしゃべりしたりね、信仰について、福音について、つらかった日々について、救われた喜びについて、いっぱい語り合うことでしょう。
 こういうのって、これ、晴佐久神父が出会わせてるんじゃないんですよね。神さまの「おもてなし」なんですよ。教会っていうのは、そういうことに満ち満ちていて。
 ただでも、そうは言っても、1枚のはがきは必要ですよね。
 私たち、誰かをもてなすために、あと、何ができるかっていうことじゃないですか?
 ・・・「おもてなし」、もっと真剣に考えたらいいと思うんですよ。

 大阪からの帰り道、新幹線に乗りました。
 私は新幹線の中で、カフェラテを飲むのが最高の楽しみ。トールサイズのね、でっかいのを、乗る前に買って車内に持ち込んで。・・・カフェラテ、ご存じでしょ? 泡立てたミルクに、エスプレッソ入れるやつです。あれをゆっくり飲みながら、『ニューズウィーク』と『AERA』と、それから、いわゆる大衆雑誌の『週刊文春』か、『週刊現代』か、(笑) そんなの1冊と、だいたい3冊読みます、世の中観察っていうのもあって。まあ、一番大衆的な雑誌が一番面白いんですけどね。(笑) それをゆっくり読みながら、窓側の席で車窓を眺めつつ、コーヒーを飲み、時々うとうと・・・っていうのは、至福の時間。だから、新幹線乗るの大好き。
 ・・・だけど、このカフェラテっていうのはね、買うのに並びますでしょ。出てくるのにも時間がかかる。乗車前ギリギリに買って失敗したことがあるんですよ。だから、15分前には、カフェラテを買うようにする。それから雑誌を買う。そうしないと失敗するんです。
 でもまたこれ、さらにホームに並んで列車に乗るし、座って、急に飲むわけじゃない。ちょっと店開きして、ひと呼吸ついて、それからゆっくりと、「さて、そろそろコーヒータイム・・・」ってね。そうすると、もう買ってからそれなりに時間たってんですよね。・・・カフェラテって冷めちゃうじゃないですか。これは結構大きな問題。(笑) そこは気になるところですが、でもまあ、しょうがないと。
 ところがですね、今回、大阪からの帰り道、新大阪駅の1階にスターバックスがあったんで、並んだんですね。だけど、心の中で思ってたんです。もう少しギリギリに来ればよかったな。ちょっと早すぎたかも。これだと、持ち歩いているうちに冷めちゃうし・・・って。
 で、自分の番になって「ホットのカフェラテ、トールサイズ、お願いします」って注文したら、こっちが何も言ってないのに、お店のお姉さんが、聞くんです。
 「新幹線でお召し上がりですか?」
 「はい。これから乗るところですが」
 そうしたらですね、なんと、
 「冷めてしまいますから、熱めにお作りすることができますが、いかがですか」って言うんです。
 私、ビックリしてね、心の中、読まれたかと思ったくらい。(笑)
 「それはもう、そうできるなら、ぜひお願いします」って答えたら、奥で作ってる人に、
 「エクストラホットでお願いしま〜す!」って。
 ・・・恐るべし、スターバックス!(笑)
 だってこれ、私、また大阪に行ったら、帰り道、必ずあの店に寄りますよ。そして「熱めでお願いします」って言いますよ。これ、そもそもは、そんなサービスしてくれって、こっちは思ってなかったんです。向こうから言い出したんですよ。
 ・・・「おもてなし」って、そういうことじゃないですか。
 相手を喜ばせるために何ができるか。
 相手が「こうしてほしいな」と思うことを、時には、「まさか、そこまではしてくれっこないよね」って思っていることを、にっこり笑って、「どうぞ」と差し出す。当たり前のように。
 いや〜、負けてられないなって私、ホント、そう思いましたね。だって感動したもん。「ありがとう」っていう気持ちにもなったし。分かってもらえないことばかりのこの世の中で、「察してくれる」ってことがどれほどうれしいか。
 「ホントはこうあったらいいな〜」と思いながら寂しい思いをしている人、「自分なんかはそんないい目にあえるはずがない」って思い込んでる人、「もし親切に助けてもらえたら、だれかに支えてもらえたら、どんなにいいだろう。でもそんな身勝手な幸せ、願っても無駄だ」てあきらめている人、そんな人の思いに応えて、「ちょっと熱めにしましょうか?」とひと(こと)言えたら、もう、そこに天国、実現するじゃないですか。

 成人を迎えた諸君、皆さんが、イエス・キリストの(わざ)を、この世界に輝かせるとき、そこにたくさんの感動が起こる。
 皆さんはもう、イエスさまにもてなされましたから、今日もイエスさまから語りかけられましたから、イエスさまに招かれましたから、イエスさまのもとにとどまり続けて、「熱〜いコーヒー」を出すことに喜びを感じる、そんな人生に憧れてほしい。


【 参照 】(ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがありますので、ご了承ください)

※1:「今日のこの福音書の箇所」
本日(2015年1月18日〈年間第2主日〉)の福音朗読箇所。
 ヨハネによる福音書 1章35〜42節。
  〈小見出し:「最初の弟子たち」〉(小見出しは、新共同訳聖書による)
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※2:「彼は、この前のお説教でもお話した・・・」
・ 「クリスマスの奇跡」(「福音の村」2014年12月24日〈主の降誕-夜半のミサ〉)の
   後半、下から2段落目(>>>こちら)をお読みください。
・・・ また、詳しいことのいきさつは、 「どうぞ何でも盗んでいってください」(「福音の村」2013年12月25日〈主の降誕-夜半のミサ〉)の晴佐久神父の説教でお読みになれます。説教のちょうど中ほど(上から6落目)から、最後までです。
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※3:「滝川クリステルですっかり有名になりましたけど」
 2013年、アルゼンチンのブエノスアイレスで、2020年オリンピック・パラリンピック開催都市を決定するIOC(国際オリンピック委員会)総会が開かれ、「東京」がプレゼンテーションを行った。
 その中で、滝川クリステル(滝川 ラルドゥ・クリステル雅美/テレビアナウンサー)が、東京招致を訴えるため、日本の「お・も・て・な・し」の心を印象的にアピール。この言葉は話題となり、2013年の「新語・流行語大賞」の年間大賞を受賞した。
(参考)
・ 「滝川クリステル」(ウィキペディア)
・ 「滝川クリステルさんのプレゼンテーション IOC総会」(YouTube-ANNnewsCH)
・ 「見逃した方用【おもてなし】滝川クリステル話題のスピーチ内容の詳細」(NAVERまとめ)
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※4:「軽食無料サービス券」
 カトリック多摩教会では、2014年12月中旬から、初めて教会にいらした方に、歓迎の気持ちを込めて、日曜日のミサ後に軽食を無料で提供する、「軽食無料サービス券」をご用意いたしました。
 ミサの前後に、聖堂エントランスにいる案内係に、ご遠慮なくお声をおかけください。(案内係が見つからなければ、だれでも結構です。)
(参考)
・ 「『三ツ星』の教会を目指して」(『多摩カトリックニューズ』2014年12月号主任司祭巻頭言)
・ 「日本一のおもてなし教会」(「福音の村」2014年12月21日〈待降節第4主日〉説教)
   ・・・該当箇所は、説教後半、下から2段落目です。
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※5:「濱尾司教様」
◎ 濱尾文郎(はまお・ふみお)枢機卿
 1930年3月9日-2007年11月8日
 1957年司祭叙階、1970年司教叙階、2003年枢機卿任命
 「行動する枢機卿」として、多岐にわたる要職を勤めつつ、世界各地を回り、現場で人々の訴えに耳を傾け、励まし、「すべてを受け入れる器の広さと、豊富な学識とスケールの大きな国際性、暖かな人間味など、年齢を超えた広範な世代で多くの人々を魅了した」(中央協議会「ステファノ 濱尾文郎枢機卿 帰天」より)。
(参考)
・ 「ステファノ 濱尾文郎枢機卿 帰天」(カトリック中央協議会)
・ 「濱尾文郎」(ウィキペディア)
・ 「濱尾枢機卿葬儀ミサ」(YouTube)
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2015年1月18日 (日) 録音/2015年1月24日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英