良い麦なんです、毒麦つきの

2月12日(年間第6主日)のミサ説教は、晴佐久神父様司式のミサがなかったため、掲載できません。
代わりに、未公開の、昨年7月17日(A年・年間第16主日)ミサ説教を掲載させていただきます。

2011年7月17日 年間第16主日
・第1朗読: 知恵の書(知恵 12・13,16-19)
・第2朗読: 使徒パウロのローマへの教会への手紙(ローマ8・26-27)
・福音朗読: マタイによる福音書(マタイ13・24-43)

【晴佐久神父様 説教】

 「耳のあるものは聞きなさい」と、イエスさまは言われました。「私、耳あるから聞いていますよ」と思うかもしれませんが、イエスさまがわざわざこうして言われるのは、みんな聞いているようでいて、実際にはその一番本質のメッセージをちゃんと聞いていないからではないか。イエスさまが神の愛について語っているのに、聞いていない。神さまが一人ひとりの神の子たちに、「私はお前を愛しているよ、ゆるしているよ、ちゃんと見守っているよ」って言っているのに、それをちゃんと聞けていない。それで、イエスさまはたとえを用いて、私たちに神さまの本質を味わわせてくださっています。

 今日のこのたとえは、だからあまり、これはこういう意味で、あれはああいう意味で、と細かく考えないで、おおらかにそのままを受け取って、「これは神さまが私たちに語り掛けてくれている愛の言葉だ」って受け入れた方が、良く読めるんじゃないでしょうか。
 ちなみにこの箇所の後半で、イエスがたとえの説明として妙に厳しい内容のことを言ってますけど、これはイエスの言葉ではなく、福音書記者が自分なりの解釈をイエスに語らせているものです。迫害されて苦しんでいる当時のキリスト者たちに、ちゃんと神さまが、最後は悪を滅ぼして正しい世界、良い世界にしてくれるよと、そういう励ましのメッセージとして、イエスさまに語らせているわけですね。
 そういう意味では、この「泣きわめいて歯ぎしりする」とか、「悪いものたちが集められて燃え盛る炉の中に投げ込まれる」とか、そういうイメージを自分にあてはめない方がいいと思う。どうしても私たち、いつも裁かれることを恐れていますから、自分の中の罪とか悪とかに、いつも傷ついていますから、このような厳しい言葉に反応しやすいんですね。ここは、まずはイエスさまが本来語った前半のメッセージをちゃんと聞いた上で、この後半の解釈っていうのも参考にしたらいいんじゃないでしょうか。
 それじゃ、その前半の、イエスさまが本当に言いたかった毒麦のたとえはどういう意味かというと、これはもうメッセージとしては、はっきりしています。
 「確かに、私たちの現実には毒麦がいっぱい生えているけれども、大丈夫だ。無理して抜かずにそのまま共存していても、神さまは最後にはちゃんと素晴らしい良い麦畑を作ってくださる。神さまがそうなさるんだから、信頼しなさい。毒麦ばっかり見つめて、これを抜こうとか、どうしても抜けないとかで苦しまないで、まずは良い麦をしっかり見つめ、いつか完成する良い麦畑を信じて待ち続けよう」
 これがやっぱり、イエスさまがおっしゃりたかったことです。どうしてもこのたとえを読むと、ついつい「ひと麦ひとり」、つまり一本の麦が一人の人を表しているたとえ、というふうに解釈しがちだけれども、そういうふうに読むと、ちょっと、どうも変なたとえに聞こえてきます。だって、まずそもそも、この毒麦なんかは最初から毒麦なわけでしょ。頼んで毒麦になったわけじゃない。生えてみたら自分が毒麦だった。「ひと麦ひとり」で考えるならそういうことになって、それじゃあこの毒麦、救いがないですよ。気が付いたら自分はもう毒麦。「今からがんばって良い麦に変わりましょう」と言ったって、毒麦は良い麦に変わりません。「ああ俺、毒麦に生まれちゃった。いずれ俺は抜かれて焼かれるしかない」、なんて、あまりにも救いがないじゃないですか。イエスさまがそんなたとえ話しますかね。
 ぼくがこのたとえを読んで第一に感じることは、「麦畑が私、私たち」ってイメージです。つまり、だれの中にも生える毒麦の話です。神さまは私を良い麦畑としてお造りになってくださった。にもかかわらず自分の中に毒麦がある。確かにその毒麦を抜けば、良い麦畑になれるかと思うかもしれないけれど、なかなかことはそんなに単純じゃない。むしろ、神さまが何か計り知れない大きな摂理の中で、毒麦すらも良い麦畑に役立てようとして、毒麦の存在をお許しになっているのではないか。これは、一人の中でもそうだし、社会の中でもいえるんじゃないか。

 震災の直後から、公教要理の中のアウグスティヌスの言葉を紹介してきました。
 「神はどんな悪も行われえないようにするよりも、悪からも善を生ぜしめるようにするほうが良いとお考えになった」
 なるほど、毒麦は確かに自分の中に、社会の中にあるけれども、大きな目で見たら、その毒麦すら、私という畑の中で何らかの役割を負っているのかもしれない。普通に考えたら、抜ける毒麦は少しずつでも抜いて、自らを良い麦畑にしたらいいように思うけれども、仮に、抜くことに夢中になるあまり、一番本質のこと、つまり、「私は神さまが用意してくださった良い麦畑だ。私たちの世界は、本質的には良い畑なんだ」という信頼、喜びを忘れちゃったら、神さまが私たちに与えて下った本当の恵みを受け入れられないでいるってことになってしまう。
 本来、私たちは良い麦、良い麦畑なんです。皆そうなんです。でも、いつのころからかみんな、その本質を見失っている。私も思春期の頃は、自分の中の毒麦が気になってしょうがなかった。あの年代は、自分の悪を見つめるじゃないですか。「ああ、自分はどうしてこんなに愛のない人間なんだろう。どうしてこんなに変な性質が与えられてしまったんだろう」。つまり、どうしてこんな毒麦が生えてるのかってことです。そんなふうに純粋な気持ちで自分を見つめて、こんな自分は嫌だなぁと思ったりしてた。
 けれども、真剣にそんな思いと向かいあっていると、だんだん行き詰まっていくわけですね。だって、抜こうったって抜けないんだから。むしろ、無理して一つ抜くと、かえって一つ増えちゃう。白髪ですね(笑)。抜くと増える。自分の欠点を直そうだなんて言って毒麦抜こうと無理してたら、逆にいろんな悪が増えていくような体験すらしてきて、そうすると、ああもう毒麦は抜けない、もう自分はだめなんだって絶望するか、あるいはあくまでも抜き続けようとして壊れていくか。そのどっちかになりやすいんですよ。毒麦ばっかり見つめていると。
 皆さんも、自分の中に毒麦ありますでしょ。「私にはない」という人が、たぶん一番ある。(笑)だれだって、毒麦をいっぱい抱えてるんです。それを抜けないから、私はだめだと絶望するのも、抜き続けようとして疲れ果てて壊れていくのも、どっちも間違いだと思う。むしろ、そういう私たちを救うために、イエスさまがこのたとえを話してくださったのです。当時の人たちもそうだったんじゃないですか。毒麦抱えたお前は罪人だ、お前は地獄行きだと言われて、ああ俺は救われない、生まれてきた意味がないとまで思っていた人が大勢いるところに、イエスさまがこのたとえを語った。
 「だいじょうぶ。神さまが最後はちゃんと上手に悪い部分も全部抜いて、きれいな麦畑にしてくださる。世の終わりには必ずそうしてくださるし、一人ひとりが神さまのもとに召されていく時にこそ、そうしてもらえる」。
 煉獄(れんごく)って、そんなようなことかもしれないですね。カトリックには、天国に行く前に浄めのプロセスとして煉獄に入るっていう伝統的な考え方がありますけど、神さまのみもとに行くとき、神さまご自身に全部きれいにしてもらって、清らかな麦畑としていただいてから、神さまに迎えいれてもらえるってことです。これは、福音でしょう。希望です。こういう福音を信じて、自分は本来そのような良い麦畑だと受け入れることこそが、救いなんじゃないですか。自分は毒だと思い込むとか、その毒を抜き続けようとして疲れ果てるかではなく、イエスさまの福音、「あなたは良い麦だ、良い麦畑だ」、これを信じましょう。

 皆さん全員、良い麦なんです。毒麦つきの。(笑)これ、大事なんですよ。「皆さん全員、毒麦なんです。良い麦つきの」じゃないんです。似てるようで、全然違います。皆さんの本質は良い麦なんです。確かに毒麦はついている。でも、それを全部抜くことがこの世の仕事じゃない。イエスさまは、天の父の愛を語って、「両方とも育つままにしておけ」とおっしゃった。
 ぼく自身、その福音に救われました。それで、もはや自分の毒麦ばかり見つめるのをやめましたし、それを抜くことを第一にしません。まあ、生きてくために少しはね、少しは抜こうとしたりもします。でもそんなのは赤ちゃんのおままごとみたいなことにすぎない。信仰の本質は、両方とも育つままにしておいても、神がちゃんとしてくださるって信じること。そうして信じていれば、「私、毒麦いっぱい持ってます」って、平気で言えます。「神さまは、こんな毒麦だらけのぼくのことを大好きなんだ」とも、堂々と言える。これを信仰っていうのではないですか。イエスさまが言いたかったことは、それだと思う。
 それがちゃんとできていたら、このたとえのもう一つの読み方、人の毒麦を抜くなっていう読み方もできるはず。多いですよ、人の毒麦を抜こうとする人。「あなた、ちょっと鼻毛が出ていますよ」(笑)みたいな感じで。あなたの毒麦、目立ちますよ、抜いたほうがいいですよ、みたいに指摘する人いますよね。自分も鼻毛伸ばして、たくさん毒麦抱えていて、しかもそれを神さまにゆるされているのに、人の毒麦は気になって気になってしょうがない。しまいには、あの人さえいなければね、なんて抜こうとする。
 それで良い世界は実現するか。あの総理大臣を抜いたらホントに日本は良くなるのか。そういう問題じゃないって分かってるはず。抜いて、抜いて、抜いていったら何もなくなったっていうのが、真実じゃないですか。神さまは毒麦つきの世界をおゆるしになっているんです。私たちはその中で、良い麦を見るべきじゃないですか。忍耐強く、良い麦をこそ育てるべきじゃないですか。人の毒麦を抜いて、抜いて、抜いていっても、それは決して良い世界にはならない。
 地面にアリがいっぱい、いますでしょ。その中に、必ず何もしないで遊んでいるアリが何パーセントかいるんですって。実験で、その「遊びアリ」を全部取り除くと、今まで働いていたアリのうちの一部が、同じパーセントで「遊びアリ」になるそうです。面白いですね〜。ってことは、そのままこの遊びアリを抜き続けたら、最後はどうなるのか。当然、全滅する。「毒麦を抜いたら、良い麦まで抜いてしまう。だからそのままに」。それは、人間は毒麦とか良い麦とか簡単にいうけれども、そんな簡単に決めつけちゃいけないってことでもあります。
 神さまはおっしゃいます、「悪いように見えるものも、良いものに奉仕しているのだ。お前たちがこれはいらない、これは役に立たないって言っている、それこそが全体の中でちゃんと役に立っている。善悪二元論に陥らず、善とか悪とか言って裁き合わず、私に信頼して、みんなが一緒に生きる道を考えなさい」。どうも、そういう方向に私たちは招かれていると、このたとえで思うのは、そこです。特に、他人を毒麦だと決め付けることについては、私たち、本当に気をつけなければならない。
 それで、私、このたとえの続編というのを作りました。このたとえには、続きがあるのです。どういう話かっていうと、僕(しもべ)がね、この毒麦抜きましょうって言ったら、主人が言いました。「いや、両方とも育つままにしておきなさい」。すると僕は言いました。「ご主人様、それはあまりにも甘い。やはり毒麦は毒麦。これをそのままにしておいたら全部毒麦なってしまうかもしれません。私は、どうしてもこの毒麦を許せません。せめて、一番悪い毒麦を抜いていただけませんか」。すると主人は、「分かった。お前がそこまで言うなら、一番悪い毒麦を抜こう」。主人はそう言うと、エイッとばかりにその僕を抜きました。(笑)
 いい話でしょ。どっかで採用してくれないかな。(笑)悪を抜こうって言っている方が悪いってこと。神さまが両方ともそのままにって言っているのに、そうはいっても悪いものは悪いと、抜いていく。それこそが現代社会の傲慢なんじゃないですか。神さまは全部ゆるしてくださるなんて言っていると、人間どんどん悪くなるんじゃはないか、改心しなくなるんじゃないかなんて思うかもしれませんが、でもそこでしっかりと踏みとどまって、まず第一にするべきは、やはり「ゆるす神」を第一にすること、そこを一番にしていないと、何かが決定的にゆがんでしまう。ひっくりかえってしまう。人間の集まりで、現代の社会で、心の問題で、教会で、毒を抜いてけば最後は良くなるって思うのは、どこか間違っているってことを、このたとえは私たちに教えてくれている。
 たとえは、つまりは神さまの愛をたとえているわけです。ひと言で「神の愛」なんていっても、それはあまりにも神秘で、大きくて、すべてを包んでいるので、この世の言葉やこの世のイメージで語っちゃったら、かえってその大きさ広さが分からなくなる。だから、イエスさまがたとえを語る。耳のあるものはそれを聞く。福音書はここで、詩編の言葉を引用しているでしょ。「私は口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる」。マタイがそういう言葉をここに持ち出したのは、これはこの世のことを、この世のことでたとえてるんじゃなく、神さまの永遠なる愛をこの世の言葉で語ってるんだってことです。天地創造の始めから神さまの愛がちゃんと存在し、今もその愛が働いていることを、このような美しいたとえで私たちに語ってくれているんです。だから私たちは耳あるものとして、毒麦もまた、神さまの大きな恵みのうちにあっては、ちゃんと良い麦に変えられて行くのだ、という信仰を絶対持ち続けたい。

 被災地を周ってると、本当にこの世には悪が満ち満ちているようにも見える。しかし、罪の問題だけでなく、悪の問題についても、この毒麦のたとえは語ってるんじゃないか。たとえば、津波がなければ、それじゃ幸せかというと、そうじゃない。災害は起こって欲しくないし、悪や苦しみのない世界を私たちは祈り続けるけれども、私たちがなすべきことは、まずは、これほどの悪であっても、ここに良い麦畑がちゃんとあり、この悪からも善は生じるのだと信じることじゃないか。
 先週は岩手県の宮古を周ってきましたけれども、昨日のニュースで宮古の津波が史上最高だったというニュースが流れていました。40.5メートル。 想像つきますか。40メートルの高さまで、水が来る。そしてすべてをさらっていく。何もかもなくなった宮古の街中を通った時、あれ、これどこかで見た光景だな、とふと思い出したのは、ポンペイの遺跡でした。土台のところだけが残っていて、あとは何もかもなくなっている。浜の岬を越えていくところで、道が上がっていくじゃないですか。その、一番上がったあたりでも、お墓が水で倒れてる。ここまで来たか、と思うと、逃げるに逃げられない恐ろしい悪の現場を目の当たりにした思いでした。ほんとうに凍り付くような現場。
 その現場でやっぱり一番に思うことは、しかしそれでも、「神の愛は、この悪以上だ」という信仰です。もちろんこれは、大変なチャレンジです。試練の中で、なおもそう信じることは。でも、私たちはそれを信じます。悪とか毒とかばかり見ていると、見えないものがある。がれきの山とか津波の跡とかばかり見ていると、見えないものがある。その見えないものをこそ、信じなければなりません。見えないけれど、そこに信仰があり、愛があり、希望があります。それらの良い麦は神から与えられたものです。神さまがちゃんと最後は実らせてくださる、良い麦。悪の現場でこそ、そのような良い麦畑を思い描いて信じます。私たちキリスト者は、このような悪の現場で良い麦を信じて育てるため、神さまの創造のわざに協力するために存在しているのだ、そういう信仰を新たにします。

 先週、宮古の被災した信者さんたちとご一緒に、海岸でのミサをいたしました。信者さんの中には家をなくした方もいるし、大切な人を亡くした方もいる。そういう方の思いのうちに、津波の押し寄せた海岸でミサをしたいという思いがあるんですね。それはまさに、ミサの本質をよく表していると思う。悪の現場に、善であるキリストが立つってことですから。ボランティアベースのベース長が熱心に準備してくれて、宮古の神父様と、札幌教区の神父様と、ボランティアたちと一緒に、海岸でミサを捧げました。海岸で行うのは初めてだそうで、まだがれきが散らばる中、平らな所を探してテントをたて、聖堂にしました。
 海の中には、まだ行方不明の人たちが大勢いる海岸。何もないところを指さして、「あのあたりが私の家でした」という人もいるミサ。私は説教で、「今、ここに、イエスさまがおられる」とお話ししました。「ミサは、キリストが捧げているのであって、この悪の現場の真ん中に、今確かにイエスさまがおられる。悪を善に変えるために。そのことを、このミサほど美しく現わすものはない」と、お話ししました。がれきを片付けたり、様々なボランティアをしたり、どれも大事だけれども、一番大事なことは、どれほどの悪であっても神は善だと信じること。それこそ第1朗読にあったように、たとえわれわれは知らなくても、神はちゃんとすべてに心を配っておられることを、信じ続けます。海岸でミサを捧げているとき、私たちのすべての悪を救おうとする神さまの熱い思いを感じました。それを感じることが、真の創造を可能にします。
 この私たち、多摩教会の集まりだって魂の世界では被災地ですし、神さまの救いを必要としているし、こうしてミサを捧げているとき、皆さん自身も悪にいっぱい呑(の)まれているようでいて、そこに善なるものがちゃんと神さまによって育てられていると信じます。それが私たちのミサ。毒麦を見つめることから良い麦を見つめる、そんな信仰に育てられます。私たちのこのミサを見てください。美しい良い麦畑です。

2011年7月17日(日)録音/2012年2月14日掲載
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