信じて、信じて、信じて

2012年8月12日年間第19主日
・第1朗読:列王記(列王記上19・4-8)
・第2朗読:使徒パウロのエフェソの教会への手紙(エフェソ4・30〜5・2)
・福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ6・41-51)

【晴佐久神父様 説教】

 昨日まで、教会で教会学校のキャンプをやってたんですよ。このミサにもキャンプに参加した子どもたちが何人か来てますけど、楽しかったよね。一緒にプールに行ったり、一緒にお風呂に入ったり、ホントに楽しかった。スイカ割りも楽しかったね。ビール工場見学とかね。(笑)いや、なぜ「ビール工場見学」なのか、謎だったんですけど。(笑)でも、楽しかったですよ。すぐそこにあるんです。ご存じですか? サントリー武蔵野工場ですね。「プレミアム・モルツ」を作ってる。
 でもこれが、結構面白かったんですよ。優しい、きれいな声のお姉さんが付きっきりで、ず〜っと案内してくれるんです。これが最高の天然水だとか、これが特別な麦だとか、これは、選ばれたホップだとか、ず〜っと言われ続けてると、だんだん洗脳されてきちゃうんですよね〜。(笑)
 そのうち、「ここはビールを煮沸する部屋です」とかってとこに連れて行かれると、暑いんですよ、すごく。あれ、意図的なのかなんか知らないですけど、とても暑い部屋で、それでいて、「工場内は飲食禁止です」って言う。でも、喉も乾いてくるじゃないですか。ボ〜ッとしてくるじゃないですか。(笑)で、そんな中で呪文のように「アロマリッチホッピング製法」だとか繰り返し聞かされて、そこからいきなり涼しい部屋に連れて行かれると、目の前にできたての無料の生ビールがダーッと並んでて。(笑)それをクイッと飲むと、ホントにおいしくってね。洗脳完了です。もちろん、子どもたちにもおいしいジュースとお菓子がね、いっぱい用意してありましたけど。企画したお父さんが誰よりもお代わりしてビール飲んでるのを見て、謎が解けました。(笑)みんなで過ごした時間はホントに楽しかった。
 子どもたちと一緒にいろんな体験をすると、ぼくなんか、子どもいないじゃないですか、やっぱり心洗われるような気がするんですよ。楽しいし、子どもたちの、その・・・素直さっていうか、正直さっていうか。明るい単純さ? なんかそういうのに触れていると、心が洗われるような気がするんですよ。
 大人ってね、普段、建前で生きてますし、なんかこう、周りの目を気にしてばっかりで。頭の中で考えたことばっかりで。しまいには、面倒な理屈こねくりまわしてケンカ始めたりするでしょ? もっと素直な、正直な、明るくて単純なものの中に本質はあるはずだって、こういう教会学校のキャンプでは、心洗われる思いになりますよ。子どもたち、正直ですからね。
 夜のたき火の時に、「自分の心の中のよくない思いを、イエスさまの清い火で燃やしてもらいましょう」って言ってね。みんなで自分の心の中の良くない思いを書いてね、それを神父さんがたき火で燃やす、みたいなのをやったんですけど、みんな正直に、「弱い心」とかね、「お友達とケンカする心」とかね、「ついカッとなってキレてしまう心」とか書いてあるんですよ。そういうの読むと大人もドキッとしますよね。いやあ、「自分だってそうだ」って思いますし、中には「お金を求める心」とか。(笑)子どももね、やっぱり分かってるんですよ。お金自体は悪いもんじゃない。誰もが求めてますし、なしには生きていけないんでしょうけれど、それ求めてるだけじゃ、なんか違うんだって、小学生でも分かってるんでしょう。
 それをパラパラッて、こう燃やしながら、「そうなんだよね〜」と思いました。素直に、単純に、神さまの愛だけあれば、もうあと何もいらないっていう、その本質にいっつも立ち返っていないと、なんか余計なものがついてきて、そしてその余計なもので、私たちは道を誤る。
 単純にいきましょう。素直なのがいいですよ。もうなんか、何教とか何宗とか、そういう宗教間のことだって、結局複雑すぎるんですよね。「神も仏も愛だ」って言ってりゃ、それですべてが繋がるのに、まあ、余計なことばっかり言って。子どもたちだったら、すぐそういうこと、ピンとくるんじゃないですか? 正直に「私は愛されている」っていう、その気持ちだけあればいいのにね。
 だから合宿最後のミサでも、そのことをいっしょけんめ、子どもたちに強調したんですよ。「晴佐久神父さんも50年前、君たちとおんなじころに信じたんだよ。『神さまは愛だ』ってね、『イエスさまがちゃんと救ってくださる』ってね、心から信じたんだ。だから、君たちも信じてください。教会は神さまが集めてくださった神さまの家族なんだし、みんなでミサっていう家族の食事をしてるんだから、みんな心ひとつにして、信じてください。信じて、信じて、信じてください。疑っちゃいけない。恐れちゃいけない」。
 ちょうど、小学1年生が、初めての侍者をやってたんですよ。だから自分も初めての侍者のころのこと思い出してね。あの頃は神父さんに「晴佐久くん、侍者しましょう。神さまにお仕えしましょう。キリストのパンをいただきましょう。これをいただいたら天国に入れます」って言われて、「は〜い!」ってね、素直に信じて。それを食べて、食べて、食べ続けて、半世紀食べてきましたけど、結局その間、いろんなこと悩んだり、疑ったりあれこれあったけれども、「神さまはホントに優しいお方だから、昌英君を必ず幸せにしてくれるよ」って教わったこと、そこから何も進歩していないし、する必要もないし、考えてみたらそれだけで生きてきたし、それだけで死んでいきたい。
 なんか、余計なこといっぱい付け加えるのが「大人になる」ってことでしょうけれども、そろそろ、なんていうんでしょう、年のせいか知らないですけど、単純なものが良くなった。食べ物だってそうですもんね。なんかこう、複雑なものより、素朴〜なものが好きになってくるじゃないですか。
 単純なのがいいですよ。今日もここに、これだけ神の子たちが集まってますけど、あまり複雑な難しいこと考えないで。「神さまが、わが子だから、ここに家族として集めてくれた。そんなわが子に、ちゃんと『みんな愛してるよ!』って語りかけている」っていう、そこだけは疑わずに、信じて、信じて、信じて。
 「『信じて』を100回言ってもいいくらいですよ」って、子どもたちに言ったんです。「信じて、信じて、信じて・・・!」って。それくらい強調すれば、子どもたちも、いつの日か悩んだり苦しんだりしたときに、「ああ、神父さんが『信じて、信じて!』」って言ってたなって思い出すじゃないですか。「神さまを信じよう。信じる心があったら、必ず乗り越えていける!」って。

 昨日の夜のミサには、私の韓国人の友だちが来てたんで、ついつい、オリンピックの男子サッカーの話をお説教でしちゃったんですよ。日本、残念でしたね。韓国に負けちゃいましたけど、お説教では「まあ、勝ちを譲ったんです」とかって(笑)負け惜しみを言いました。
 その時もお話したんですけど、やっぱりあれは、信じたもん勝ちですね。先週は日本チームの「一体感」についてお話ししましたけど、今回も確かに「一体感」はあったと思うんですよ。でも最後、それにプラスして決定的なのは、や〜っぱり「信じる力」なんでしょうねえ。「信じる力」。韓国のチームの方が「信じる力」、強いように見えましたよ。日本の若い選手たちも、必死だったけれども、どこかもう、こわばっちゃったっていうか、諦めちゃうっていうか。
 ただね、昨日のミサの後、その韓国の友人から聞いたんですけど、「あれ、勝ったのにはわけがある」って言うんですよ。あの試合に勝つと、韓国では徴兵制なわけですけれども、兵役が免除になるんですって。「そりゃ必死になるよ」って彼も言ってました。まあ兵役っていうのがどれほど大変なんだか、ちょっと体験ないので分かりませんけれども、なんかそういうの聞くと「ずるいな」っていうかね、「日本もなんかやったらいいのに」って気になりましたけどね。もっとも、日本は徴兵制ないですから、たとえば「生涯消費税免除」とかね。(大笑)いいんじゃないですか。10パーセントになるっていうしねえ。そんなんで信じる力引き出せるなら安いもんですよ。信じる力って本当にかけがえのないものですから。
 私、子どものころからずっと教会に通い続けて、信じることだけで成り立っているこの不思議なミサっていうのを、ホントにリアルに生き続けてきているから、だんだんこう、「信じる」っていうことが特別なことじゃなくって、すべての基本になっている。「息を吸う」っていうのと同じ、当たり前なくらい大事なものだっていうのが、身に染みて分かっているつもり・・・です。皆さんもそうあってほしいですよ。
 それは改めて「さあ信じよう!」なんて話じゃない。みんなも、本当は深いところで信じているはず。後でいろんな理屈をつけて、議論したり悩んだりするっていうのはあるかもしれないけど、本質はもう、神さまからちゃんと与えられて、私たちは「信じる」っていうことなしには生きていけない生き物として、「信じる」っていう恵みを与えられて、日々、空気のように「信じる」っていうことをやっている。そうできているはずだって、心に、その信じる力について、ちょっと問いかけてみてください。
 ミサで、キリストの体を頂きます。「なんでこのパンがキリストの体なんだ」って言われても、イエスがそう遺言で言って死んでったんで、ぼくらはそれを信じて頂きます。そもそもパンがイエスになるんじゃない。イエスがパンになって私たちのところに来るわけですよね。しかも抽象的に来るんじゃない。「ホントに行くんです。ホントにひとつになるんです」っていうことを、このイエスが最後の晩餐で、パンのかたちで遺言にのこしてくれて、ぼくらはそれを食べ続けてます。
 さっきの第2朗読でいうんなら、「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りの良い供え物として、神に献げてくださった」。これが「ご聖体」ですよね。「キリストの体」「キリストの愛」「キリストという献げもの」、それを私たちは頂く。
 「キリストがわたしたちを香りの良い供え物として、わたしたちを愛して、わたしたちとひとつになって、わたしたちも神さまへの献げものになる」。それがこのパンにおける一致ですよ。
 素直に信じてね、頂いてください。

 先週もほら、パンの箇所だったじゃないですか。で、先週の16時のミサでも、「ホントにパンが大事だから、それをいっつも心して頂いてほしい。神が私をホントに今、愛してるっていうことを、ちゃんと心して目覚めてほしい」っていう話をして、「皆さん、いつもご聖体を、当たり前のようにパクパク、パクパク食べてるけど、ホントにどれだけ信じて頂いているのか。本気で信じてもらうために、もう今日はショック療法でご聖体を渡しません!」って言ったんですよ。お説教でね。「たまにはね、ご聖体なしで帰ったら、どれほどご聖体がありがたく、どれほど尊いかっていうことを自覚できますから、今日はもう聖体拝領は中止です」ってお説教でお話しして。もちろん、お説教の最後にはね、「まあ、そうは言っても、晴佐久神父さんは優しいから、パンをお渡ししましょうね」ってお話ししたんですよ。みんな、ニヤニヤ笑って、「まっ、晴佐久の言うことだから、またよく分かんない冗談言ってるんだろう」くらいに聞いてましたけど、それがね、申し訳ないことに、中には、素直に本気にした方がいたんですよ。だから、「今日はご聖体を渡しません」って言ったとき、「ああ、今日はご聖体食べられないのか〜」って、ホントに残念に思ったそうです。そして、お説教の最後で「まあ、そうは言っても、お渡ししましょうね」って言ったら、「ああ、良かった〜!」ってうれしくなって、「今日はホントにご聖体がおいしかった」ってミサ後に言ってたんで、まっ、効き目はあったっていうことでしょうか。(笑)
 でも、そういうことでしょう? 今日、ホントにやめましょうか? いつもパクパク頂いてますけど、ちょうど、空気吸ってるのに、誰も空気に感謝してないのとおんなじで、神が愛してくれているのに、誰もその神の愛に気付かない。気付かないからこそ、悩んだり恐れたりしている。だから、イエスは、最高の献げ物として、神の愛のしるしとして、ご自分を十字架の上でささげてくださったし、それを忘れないようにってご聖体のかたちで、今日も私たちにご自分を与えてくださってる。これ以上の恵みはないんだから、イエスさまの愛をパクリと食べた時にですね、素直に感動して、まあ、できれば涙の一つもこぼしてほしいっていうところですよねえ。
 素直さっていいじゃないですか。正直さ、明るさ、単純さ。「信じる」っていうことで、すべては解決するのに、「疑う」っていうことで、すべてを駄目にする。人間関係でも社会でも、そうじゃないですか? 疑って、恐れて、呪って、戦争始めるわけでしょ。素直に相手を信じる。単純に神さまが与えてくださる愛を受ける。それこそが最高のわざです。まず神を信じる。神の子がお互いに信じる。そして神の愛をちゃんと受け止めて、私たちは本当に幸せになれると、そう信じる。

 昨日のミサに、ず〜っと車椅子で来られていた方が、立ってミサに(あずか)ってたんで、もうホントに嬉しかったですよ。4年前、足の先から腐り始めてね、一時は「もう足切断です」って言われたんだけども、痛みに耐えながら、なんとか切断せずにがんばってきました。つらい透析を繰り返しながら・・・。怖いですね。体の中に菌が入ってなかなか抜けないっていうの。4年間苦しんで、私が来た頃からず〜っと車椅子でした。でも、昨日、ミサの始めにお御堂に入ってパッと見たら、一番前に背の高い男性が立っていて。「誰だろう?」って思って前に来てみたら、その彼が立っているんで、驚いたし、すごく嬉しかったですよ。良くなったんですよ、「もう駄目」って言われてたのに。
 「信じたら病気が治る」っていう話をしてるんじゃないですけど、でも、信じたら救われるってことを、本当に神の愛によって最高に幸せになれるっていうことを、みんなで信じ続けていけば、最終的には「もう駄目」って思っていた世界が、まっすぐに立ち上がって神さまを賛美するような、とてつもない美しい未来をちゃんとつくり出すんです。そういう素朴な信仰が、われわれには必要でしょう。ああいう幸いな奇跡的治癒みたいなのを見て、「そうなんだ。諦めちゃいけないんだ」って励まされるっていうことです。もちろんこの世においては治らないこともありますけれど、ともかく信じて、信じて、信じて、最後は「神の国」っていう最高の喜びを、私たち、絶対に信じ続けようじゃないですか。

 第1朗読の、ホレブの山に着いたエリヤの話、私大好きですよ。
 今日の箇所ね。「もう十分です」。・・・「もう殺してくれ」って言ってんですよね、預言者エリヤが。「もう無理」。・・・私たちにもあるじゃないですか、そういう時。「もう無理」「もう終わった」。で、えにしだの木の下でバッタリと倒れて寝込んでしまうと、御使いがやって来て、枕元にパンを置いて「起きて食べよ」。・・・それを食べて、歩き出す。
 「もう駄目」っていうときに、必ず神が必要な恵みをくださる。それを信じて食べます。そして歩き出す。いつ、どこに着くかは、着いた時のお楽しみですよ。神が導いてくださる。神さまが支えてくださる。そうして私たちは、神の国で、真の感謝と賛美をささげることができる。「もう駄目」っていうときにこそ信じるんですよ。
 子どものように、素直に信じて、パクリと神の愛を食べて歩き出します。・・・ご聖体ですよ、ご聖体。

2012年8月12日 (日) 録音/8月17日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英