新しい時代が始まりました

2013年3月17日 四旬節第五主日
・第一朗読:イザヤの預言(イザヤ43-16-21)
・第二朗読:使徒パウロのフィリピの教会への手紙(フィリピ3・8-14)
・福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ8・1-11)

【晴佐久神父様 説教】

 よかったですね〜、罪深い皆さん。(笑)今日、私たち、ここに集まってきた全員が福音を聞きました。イエスさまの言葉です。「あなたを罪に定めない」
 罪深い私たちはそんなひと言を聞いて安心もするし、元気にもなるし、ああ、本当に神さまに愛されているんだとわかって、もうちょっとましに生きていこうという憧れも湧いてくるし、罪深い他人に優しくしようともし始める。今日、そんな福音を聞きました。
 「わたしはあなたを罪に定めない」っていう、こんなうれしいひと言を聞くために私たちは集められたし、聞いたからには、神のゆるしを受け入れて、だから他の人もゆるそうっていう気持ちになりましょう。こうして素晴らしい仲間が集まって、この美しいミサを捧げているのは、まさに、神のゆるしを受けるため、お互いにゆるし合うため。
 昔のことを思い起こして、「やっぱり、あいつゆるせん!」とか「おのれ、あの時はよくも・・・!」とか、そういうのは、もういいでしょう。神さまは私をゆるしてくださっているんだから。

 今日初めて来られたっていう方、おられますか? 今日この教会初めてっていう方、手をあげていただけますか・・・ああ、こんなにいる。うれしいですねえ。ようこそ、ようこそ♪
 どうぞ皆さん、今日ここに来たからには、罪のゆるしの宣言を受けて、安心してお帰りくださいね。安心してまた罪を犯しましょうっていうんじゃないですよ。(笑)安心して、ゆるされた喜びの中を、共に生きてまいりましょう。
 あれ? 今日初めて来られたっていう、そちらのご一家、もしかしてさっき、ミサの前に教会の前で記念撮影してた方ですよね? 私、2階から見てましたよ。(笑)コワいですねえ、神父。上から見張ってるんですよ。(笑)いや、たまたま見たら、お宅のご一家がお子さんと一緒に「カトリック多摩教会」の看板の前で記念撮影してたのが見えたもんですから。いいですねえ、多摩教会。今や、観光名所。(笑)「教会ショップアンジェラ」というお土産物屋(?)もありますから、ぜひなんか買ってっていただきたい。(笑)

 この教会、いい教会ですよ。福音が聞けますから。私もなるべく心がけています、「みんなゆるされている」「みんな救われる」「みんな神さまに愛されている」って宣言すること。それを聞くために私たち集まって来るんだし、さらには誰かにも、「あなたもゆるされている」と聞かせてあげたい。そういう思いで、多くの人を教会に招いてくださいね。だって、そんなゆるしのひと言を知っているか、知ってないかで人生が全然違いますから。
 それくらいみんな、自分の罪を恐れているし、自分の弱さを受け入れられないでいるし、自責の念に苦しんでいるじゃないですか。そんなときに、「わたしはあなたを罪に定めない」(cf.ヨハネ8:11)って言われると、ホントにこう、体の緊張がふう〜って抜けるようなね、真の喜びが湧いてくる。・・・罪に苦しんでいる私たちですから。

 第1朗読で、イザヤの預言が読まれました。
 「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか」(イザヤ43:18-19)
 ・・・聖書がそう言ってるんですよ、「昔のことを思いめぐらすな」って。
 まあ確かに、昔、つらいことがあった。昔、悪いこともした。もちろん、反省もしてます。してない人は少し思いめぐらしましょうね。(笑)反省は大事ですから、「私、悪かった」ってやっぱり思うべきでしょう。思うべきですけど、だけどもうみんな、わかってるじゃないですか。自分の弱いところ、繰り返し犯す罪、自分がホントに情けない人生を生きてきたっていうことは、もう重々承知でしょう。そんな自分だからこそ、みんなからも責められ、自分でも責めて、苦しんでいるんですよ。だから神のゆるしが必要。だからイエスさまが来られた。だから今日もミサが捧げられてるんです。

 先週相談に来た方は、「私、洗礼を受けて30年間、神さまを信じてまいりました。ホントにキリスト教を信じてるんです」ってそう言いながら、「でも、この30年間、私の中に喜びはありませんでした」って、そう言ったんです。耳疑う発言ですよ。それ聞いてホントにびっくりしたんです。「じゃあ、あなたは何を信じてたんだろう」って。「神を信じてまいりました。でも喜びはありませんでした」って、「それ、何か違う神、信じてませんか?」って。キリスト教が信じている神は、「ゆるしの神」ですから。
 「わかった。もうお前の過去は問わない。私はあなたをゆるす。さあ、新しいことを始めよう」・・・これじゃないですか? ゆるされて、元気になって、自分もゆるしに出かけるんです。ゆるされて、安心して、「あなたも、ゆるされてる」って宣言に出かけるんです。
 今日読まれたイザヤの預言の最後のとこには、「わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない」(イザヤ43:21)ともありました。
 「わたしの栄誉」、すなわち、この世界を愛してつくり、私たち一人ひとりをゆるし続け、すべてを完成へと導いてくださる方の栄誉、それをこそ私たちは語る。自分の罪深さを語ったり、人の罪深さを指摘したりなんてのはそこそこにして、まず神の(・・)栄誉を語る。
 みんなちょっと、自分のこと喋り過ぎですよね。「私はこんな立派なことをした」にせよ、「私はこんなに駄目な人間だ」にせよ。もうその「私」っていう主語はやめて、「神」について語りましょう。ゆるしの神について。すべてを完成させてくださる神について。

 
 昨日の入門講座で不思議なグループができていて、なんかアヤシイグループなんですけど、「みかんせいじんの会」っていうのが勝手にできてました。主任司祭の許可もなく。(笑)
 「ミカンせいじん(ミカン星人)」(※1)ってご存じですか? 20年位前の子ども番組に出てきたキャラクターです。知らないかなあ。大きなミカンに顔が付いてて、ヒョロッとした手足が伸びてる宇宙人(※2)なんですけど、私は大好きでした。「ミカンせいじん」、たぶんミカン星から来たんでしょうね、(笑)ナゾのキャラクターですけど。
 ま、ともかく、この「ミカンせいじん」をもじって、「みかんせいじんの会」って言ってるんですね、そのグループの人たちは。私がいつも入門講座で「私たちは不完全な存在だ。今は神さまがこの世界を完成させる途中なんだ。この現在の悪も、いつか善に変えていただけるんだ」、そういうことを強調しているので、作った会らしいです。つまり、私たちは常に未完成なので、いうなれば、「未完成人」だと。それを自覚した者の会らしい。「それなら、私も未完成なので」と、私も入会しました。(笑)
 実際には何の活動してるんだか知りませんけど、願わくば、自分が未完成であることを勇気を持って受け入れ、そして他人の未完成に忍耐する会であってほしいですね。
 でも、それで言うんだったら、皆さんも全員、「未完成人」なわけでしょう。私はもう完成したっていう人がいたら、どうぞ、出てきてください。説教代わりましょう。(笑)完成した立派な話をしてください。
 私は、自分が未完成であることを、ある意味喜びを持って受け入れます。だって完成へのプロセスっていう、素晴らしい救いの道を歩んで行けるから。完成へ向かう喜びの道。

 第2朗読のフィリピの教会への手紙で、パウロもはっきりそう言ってました。
 「わたしは、既に完全な者となっているわけでもありません」(cf.フィリピ3:12)
 イエス・キリストによってもう救われている私たちですが、すべてが完成しているわけじゃない。それが完成する救いの日をパウロは求めている。「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません」。パウロも「未完成人」なんですよ。
 だからパウロは、こう言う。
 「兄弟たち、なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(cf.フィリピ3:13-14)
 何か「賞」をいただけるみたいですよ、神の国の完成のとき。楽しみじゃないですか。その賞をいただいて、私たちは完成するんでしょう。そんな日が待っていると思ったら、この未完成をただただ呪うんじゃなくて、完成に向かって前を向いていきたくなります。
 もういいでしょう、後ろのことは。確かに昨日も失敗しました。去年も駄目だった。中には10年前のことを呪ったり、50年前のこと引きずったりしてる人もいる。でも、「後ろのものを忘れ」って今日言われましたよ。「見よ、新しいことをわたしは行う」(イザヤ43:19)って、神さま、そうおっしゃってますよ。
 30年、50年、70年生きてきたら、「もうこんなもんだ・・・」って思っちゃいがちですけど、たとえば今日初めて多摩教会に来た方は、今日まったく新しい日を始めてるんです。そういう日が人生にあります。福音にはそういう日を造る力があります。イエスさまが今日、「わたしもあなたを罪に定めない」って言ったんだから、「ああ、よかった!」って思って、その喜びの中で、新しい一日を始めようじゃないですか。

 今日の福音書で読まれた、姦通の現場で捕らえられた女性、まあ、なんとつらい出来事かっていうことですけれど、考えてみたら、そのおかげでイエスさまに会えたんだから、その意味では、未完成で、不完全で、罪深い人生を生きてきてよかったとすら言えるんじゃないですか? 律法学者やファリサイ派の人々に引っ張り出されてきてね、もちろんそれは、残酷でつらい体験でしょうけど、でも、イエスさまに会えたんですよ。イエスさまから、「わたしはあなたを罪に定めない」(ヨハネ8:11)って言っていただいたんですよ、直接。そんなことがわが人生に起こるんであれば、まあ、「姦通しててよかった」とまでは言いませんけれど、罪深い現実を生きている私たちとしては、「ああ、すべては神さまのみもとに導かれるために、備えられているんだ。だから、私たちはそんな現実に耐えながら、なおも希望を持ち続けていいんだ」って、こういう出来事から教えられるんじゃないですか?
 この、彼女を連れ出して来た人たちは、意地悪ですけどね。「さあ、こういう女は石で撃ち殺せと命じられている。さあさあ、どうする!」みたいな、意地悪な人たちです。自分たちが罪人であることを忘れて、他人の罪を指摘し合っている人たち。
 それに対するイエスのひと言は強烈ですよね。「あなたたちの中で罪を犯したことのないものが、まず、この女に石を投げなさい」(ヨハネ8:7)。そう言われて、石を投げられる人はいないでしょう。「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい」というのはよくわかります。やっぱり(よわい)を重ねてくると、自分の罪深さをよくよく知っていくわけですし、またそれに、年長者って、逃げ足速いですよね。(笑)雲行き怪しくなると、「ちょっと孫が待ってるんで」とかって、ス〜ッと。(笑)やっぱり経験重ねてるんですよ。人間の弱さ、自分の罪について。
 だから、イエスさまから「さあ、罪ない者、石投げろ」って言われて、年長者から一人、また一人と。まあ、若気のいたりはね、石握りしめて、辺りキョロキョロして、次々いなくなっちゃうから、「チッ」とか言ってね、(笑)石捨てて帰ってったんじゃないですか。
 今日の『聖書と典礼』の表紙(※3)で、右側で立ち去ろうとしている人たちがそれですね。「これ、どれが若い人?」とか思うかもしれないけど、私思うに、年長者はこの絵に載ってない。もうとっくに立ち去ってる。(笑)絵は、逃げ遅れた若いやつらですね、たぶん。「あ〜あ・・・」、みたいな顔してるでしょう? 自分の罪ってものを、これからだんだん知っていく人たちですよ。それをゆるしてくださる方との出会いが、これからある人たちでしょう。

 そんな中、この女性は、ゆるしに(あずか)っています。この女性がマグダラのマリアだとか、七つの悪霊を追い出された人だとか言われますけれど、それは分かりません。イメージ的には、神のゆるし、イエスが罪に定めないっていうその恵みに与って、まったく新たな人生を生き始めた聖女って感じでしょうけれど、どういう女性だったか、どんな心の人だったか、それはわからない。それについては、聖書は何も書いていません。
 私、とても重要だと思うのは、この女性がどういう女性かわからないってことです。罪の現場を生きていて、まあ荒んだ、虚無感に溢れた人生を生きてたのかもしれない。いずれにせよ、引っ張り出されてイエスのもとに来るまで、彼女は何も言ってないし、何もしていない。特に改心したってわけでもない。ただ引っ張り出されてきただけ。
 そんな素敵な女性じゃないかもしれないですよ。もっとなんかこう、ふてくされたような人でね、「チッ、捕まっちまったか」とかね、(笑)そんな感じの女性かもしれないですよね。・・・わからない。
 言いたいのは、どんな人であれ、イエスにしてみたら、どうでもいいんですよ。何をしていたか、していないか、いい人か、悪い人か、そんなことお構いなしに、何もその人のことを知らずに、イエスは宣言します。
 「わたしはあなたを罪に定めない」(ヨハネ8:11)
 ・・・ここが重要じゃないですか?
 そうは言っても、人間の側でもっと改心しなきゃとか、自分の罪をきちんと整理しなきゃとかいう思いはありますし、そうしたらいいに決まってるんだけども、神のゆるしは、人の改心に先立ちます。そうじゃなけきゃ救われませんよ。
 パウロが言ってるのもそのことでしょ? 「神から与えられる義」、それは「律法から生じる自分の義」じゃない (cf.フィリピ3:9)
 罪深いに人間をゆるすことができるのは、人間の努力ではありません。・・・神の愛です。イエスはそれを宣言いたします。
 この女性は、この瞬間、「底をついた」っていう感じですね。人生で一番つらい状況に陥ったわけでしょ。はずかしい現場から引きずり出されてきて、着の身着のままで、人々から(さげす)まれている屈辱があるわけですよね。今にも石が飛んでくるんじゃないか、もう殺されるんじゃないかっていう恐怖もある。そんなことになってしまった自分自身の罪深さとか、呪われた生まれ育ちとか、そんなことを思って、生涯最悪の瞬間を迎えてるんですよ。そんな、孤独の底、誰も私をわかってくれないという闇の底の底にいるときに、イエスがひと言言うんですよ。
 ・・・「私はあなたを罪に定めない」
 そのひと言で、人は変わります。私たちも、そのひと言を本当に受け入れたときに、変わっていけます。完成への新たな旅路が始まります。

 カトリック教会はこのたび、新しい教皇、フランシスコをいただきました。感謝いたしましょう。
 新しい教皇、どんな名前にするんだろうって思ってたら、「フランシスコ」。
 もう教会通はピンときますよね。なぜ、こういう名前を付けたのか。今教会は、本当にいろんな問題を抱えていますから、だからこそ、あのアシジのフランシスコ、神様から「わたしの教会を建て直しなさい!」って言われたフランシスコの名前をつけた教皇の気持ちはよくわかります。
 また、さらにいえば、今のこの全世界が、グローバリズムの世界、貧富の差がどんどん拡大していく世界、儲ける人がどんどん儲けて、貧しい人はどんどん奪われていくこの世界の中で、貧しい人と共にあった聖フランシスコ、自らの着ていた服まで脱いで貧しい人に捧げた聖フランシスコ、石を一つひとつ積んで、仲間たちと忍耐強く神の国のために働いた聖フランシスコの霊性、それがこの世界に必要だっていうことを、新しい教皇さまは、本当に、直感しておられるわけでしょ?
 だから、あさって就任式ミサですけれども、なんと彼は、「バチカンに来るな!」って言ったんですよ。「高い金払ってわざわざバチカンに来る必要はない。そんな金があるんだったら、貧しい人に分けてください」って言ったんですよ。
 自らも枢機卿の邸宅には住まず、アパートに暮らして自炊してるって報道ですけど、ホントですか? 自炊ですって。バスに乗って、地下鉄に乗って、仕事に行くんですって。寒い夜、助けを求めてきた人に自分の毛布を分けてあげたって報道もありました。
 「フランシスコ」を名乗る、その気持ちはよくわかる。それが、キリスト教だから。それが、イエスのなさったことだから。
 貧しい私たち、弱い私たちに、神さまはすべてを与えてくださいました。与え尽くされ、ゆるされ尽くして、私たちは生きる者となったんですよ。イエスこそが最も貧しい者になって、私たちを救ってくださった。そのことを知って、信じた私たちは、この罪深い現実を「私は罪に定めない」と宣言してくださるイエスの福音によって救われて、力づけられて、「見よ、新しいことをわたしは行う」(イザヤ43:19)という神さまに協力しようじゃないですか。

 新しい時代が始まりました。
 教皇フランシスコが、昨日の記者会見で、「つつましい教会を目指す」「貧しい人と共にある教会を目指す」「貧しい人のための教会を目指す」と、そう宣言なさいました。
 貧しいものである私たち、そして本当に貧しいものである全世界の人たち、教会は、そんな私たちのためにあります。
 新しい教皇さまと共に、新しい時代を始めます。神さまからの宣言を胸に刻んで出発いたしましょう。
 ・・・「わたしはあなたを罪に定めない」という美しい言葉。


【 参照 】

※1「 「ミカンせいじん(ミカン星人)」ってご存じですか?
 ・ ウィキペディア(フリー百科事典)「ミカンせいじん」参照
  →  http://goo.gl/pofX1   < 文中へ戻る

※2「 大きなミカンに顔が付いてて、ヒョロッとした手足が伸びてる宇宙人 」
 ミカン星人
 ( ← クリックすると、大きくご覧いただけます )
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※3「 今日の「聖書と典礼」の表紙 」
 ・ オリエンス宗教研究所『聖書と典礼』(2013年3月17日 四旬節第5主日C年)表紙絵解説参照
  →  http://www.oriens.or.jp/st/st130317.html   < 文中へ戻る

2013年3月17日 (日) 録音/2013年3月19日掲載
Copyright(C) 2013 晴佐久昌英