15の夜

2012年4月22日復活節第3主日
・第1朗読:使徒たちの宣教(使徒3・13-15、17-19)
・第2朗読:使徒ヨハネの手紙(一ヨハネ2・1-5a)
・福音朗読:ルカによる福音(ルカ24・35-48)

【晴佐久神父様 説教】

 第1朗読のペトロの説教、いいですね。私も洗礼名ペトロですけれど、こういうペトロに憧れます。人々の中で堂々と、「主は復活した! みんなもう救われたんだ!」、そう宣言するペトロの自由、もう何にもとらわれのない、恐れのない自由に憧れます。
 私も、何かにとらわれて苦しむようなときがありますけれど、そんなとき、「主は復活された」「もうすべてのとらわれは打ち滅ぼされた」「私たちは解放された」、そういう宣言は何よりも美しく心に響きますし、この私を今日まで支え、生かしてきました。
 「自由」への憧れ。私はず〜っとそれを持ってきました。何かにとらわれることが、なによりも嫌でしたから。思えばペトロなんてね、人々を恐れてビクビクして家に閉じこもっていたのに、復活の主に出会ってから、まったく変わってしまった。恐れから解放され、とらわれから逃れて、ついに自由になった。・・・私もまた、そういう自由に憧れます。

 3カ月ほど前から、わが教会に16歳がひとり住み着いてるんですけど、これがまた、自由なんですよ。うらやましいというか・・・、あの〜、彼のこと、お話しましたよね? その辺をウロウロしていますけど、煙たがらないでくださいね。沖縄からギター1本抱えて飛び出してきて、ここに住み着いて3カ月になります。これがま〜生意気なんですよ。(笑) 偉そうなことを言うんです。私はその度に、「俺はおまえより3倍以上生きてるんだぞ」(笑) とか思うんですけど、彼見てると、「やっぱり自由っていいなあ」と思いますね。彼自身、その自由への憧れをもって飛び出してきたわけですし、そういうモチベーションには、やっぱり、すごく影響を受けますね。刺激がある。3カ月一緒にいると、明らかに俺の影響受けてるな・・・って思う部分もあるし、また明らかに、こっちも影響受けてるなっていうのもある。
 自分もね、16歳の頃、ホントに自由に憧れてました。縛られるのが嫌で、周囲につっかかるようなこと言ったり、すごくこう、社会に対してひねくれた捉え方をしたりしていたし。そしてまた、純粋に自由に憧れているからこそ、純粋に何かにチャレンジしようっていう気持ちもあって、いろいろもがいていた16歳の頃のこと、よく覚えている・・・。それが最近、やっぱり年とってくるとね、守りに入るというか、チャレンジが少なくなるというか。
 せっかくイエスさまに出会って捕われから自由にしてもらえたんだから、何にもとらわれずに自由にやってきたいな〜っていう気持ちを、今、新たにしているとこです。そういう意味ではね、16歳の君に感謝しておりますと・・・。おいおい、そこで「まあ分かればいい」っていう顔するんじゃないよ。(笑) なんでいつも一番後ろに座ってんのに、今日はそんな目の前に座ってんの?(笑)・・・本人が目の前にいますけど、まあ君に感謝もしてますし、でもちょっと親目線でね、心配もしているっていうのは事実。こいつが、路上ライブなんかしちゃってるんですよ。こう、ギター抱えて、「ちょっと歌ってくるからね」って出かけていく姿はなかなかカッコよくってですね。でも路上ライブ、そんな人集まんないんでしょ? ここだったら、ほら、200人以上はいますよ。(笑)

 今、早稲田大学の理工学部で宗教学の講義してるんですけど、自分の信仰について話してるんですよ。あれ、講義っていっていいのかどうか、ほとんど入門講座みたいな感じですけど。講義の後で、学生が質問に来るんですね、いろいろと。学生っていっても20歳(はたち)そこそこですし、やっぱりみんな同じような素朴な疑問なんですよ。「本気で信じてるんですか?」みたいな感じで。「宗教やってて、縛られているような、とらわれているような気持ちにならないんですか?」・・・つまり、彼らにしてみたら、当然ながら「自分たちは今自由で、宗教なんて信じるのは不自由だ」って、そう思ってるわけです。
 だから私が、「いやいや、自分はイエスに出会って、イエスの『復活』という、すべてのとらわれから解放される究極の自由を信じたから、今、ホントに自由を生きてるつもりだよ」と言ってもですねえ、「う〜ん、でも自分はやっぱり、何かひとつの宗教信じちゃったら、自分の可能性が閉ざされるような気がする」・・・とまあ、そう言う。
 そこで私、先週の講義でこんなお話をしました。
 「君たちは宗教は不自由だって言うけれど、でも実はみんなもう、ある宗教を信じちゃってるようなもんだよ」と。「日本で生まれ育って、この消費主義社会の真っただ中で、偏った情報だけ聞いて、すでにでき上がったシステムの中で自己実現を果たそうとしている君たちは、実はすでに、ある特定の教えを信じているようなものだ。たとえば、目に見えるこの世がすべてだっていう『この世だけ教』とか、死ねばもう終わりだっていう『死ねばそれまでよ教』とか。ぼくは、むしろそういうとらわれから自由になりたかった。だから、すべてのとらわれから解放してくれる、イエスの教え、復活の主を信じたんだ」
 ・・・でもまあ、学生たちはなかなかそうはいってもね、分かってくれるような、分かってくれないような。なにしろ、理工学部ですからね。科学的思考訓練を受けている彼らにとっては、すごくチャレンジングな講義で、いろんな意味で気になってるだろうな、とは思います。

 先週、その早稲田の講義の後で、なんだかちょっとパワー失くしてたんで、「そうだ、あいつの路上ライブ聴きにいこう」って思って、聞いてきました。やっぱりねえ、同居人の晴れ舞台を一度は見てやんないとね、とも思ったから、行ってみたんですよ。早稲田から新宿って、すぐですから。彼の舞台は新宿駅西口なんです。ご存じですかね〜、小田急出た所に歩道があって、「ここで演奏活動を禁止する」っていう看板がいくつも立ってるとこ。(笑)その看板の前で、路上ライブしてます。(笑)・・・歌ってる人、結構いるんですよね。で、あいつもやってるかな〜って行ってみたら、・・・いましたよ。歌ってた。
 ぼくはあの、まあ、本人と仲いいわけですから、こう前に出て行って、「よ〜っ!(*^0^)ノ」みたいにからかったりしようなんて思って楽しみに行ったんだけれど、いや〜、実際にその真剣な歌声聴いたら、もうそんな「からかう」なんて、とてもできなかった。ホントに久しぶりに、生の歌で感動して・・・。ああ、歌の力、すごいな〜っていう感動体験しました。
 新宿西口、ご存じでしょ? にぎやかじゃないですか。暮れなずむ街、空がまだ少し明るい。あたりは蒼い世界で、ビルには灯がいっぱいともっていて。バスやタクシー、車が轟々とロータリーを走っていて、歩道をサラリーマンや恋人たちがゾロゾロ歩いていて・・・。その真ん中でですね、ひとり真っすぐ立って、歌ってるわけですよ。思わず足を止める人もいる。それはあの、なんていうんだろう・・・こう、街ってすごいパワーがあるじゃないですか。だけどそのパワーっていうのが、現代社会のさまざまなシステムの力であるとか、欲望の力であるとかで、決してホントに人を幸せにしているパワーじゃないですよね。でも、そのパワーにみんな巻き込まれて、逃げ出せないでいる。そんな新宿西口の強烈なパワーっていうものがあって、そこに巻き込まれている人の、いろんな思いっていうものがあって、そんな中で、たった1曲の歌がね、ちゃんと張り合ってるんですよ。大勢の街のパワーと、ひとりの歌のパワーが。それは、「自分はこういう世界に負けないぞ、絶対負けたくないんだ、ホントの自由を見つけたいんだ」っていうパワー・・・ですね。

 沖縄から、学校やめてひとりでポンッと出てきて、ギター1本で、新宿西口で歌うって、まあ、いえば簡単ですけど、実際にはすごく大変なこと。何か、よほどの思いがないとできないこと。それはまさに、とらわれたくない、自由への憧れ。・・・そうでしょ? 自由への憧れ。歌っていたのは尾崎の「15の夜」。知ってますか? 尾崎って、あの〜、「紀世彦」じゃないですよ。(笑) 尾崎「豊」の「15の夜」。いい歌ですよね。名曲です。
 新宿西口で、16歳がひとりで、あの「15の夜」を歌っているっていうのを、私は美しいと思った。だって、とらわれたくないっていうんだったら、私たちみんな、そうじゃないですか。だけど、みんないつの間にかとらわれて、いつの間にか・・・何て言うんだろう・・・諦めて? 生きてる私たちの中で、やっぱり「とらわれたくない」っていう純粋で熱い思いを持ってるって、ぼくはそれは、神からのものだと思いますよ。
 「15の夜」って、そういう歌でしょう? まさにあの歌詞は、やり場のない15歳の気持ち、そのまんまですよね。・・・「覚えたてのたばこ」を「校舎の裏で・・ふかす」わけですよ。「見つかれば逃げ場もない」。みんなで「しゃがんで、固まり、背を向けながら、心ひとつも分かり合えない大人たちを、にらむ。・・・そして仲間たちは、今夜、家出の計画を立てる。とにかくもう、学校や家には帰りたくない。・・・自分の存在が何なのかさえ分からず、震えている15の夜」・・・。
 それってでも、単なる青春の甘酸っぱい思い出じゃないですよ。私たち、今でもみんなそうじゃないですか。「自分の存在が何なのかさえ分からず震えている」・・・キリスト教ではそれを「罪」という。神から離れている状態。アダム以来、楽園を失って丸裸で放り出された私たちは、自分の意味が何だかも分からない。どうやって生きていっていいかも分からない。震えているわけでしょ? それは、校舎の裏へは行かずに学校の中にいる、いい子たちだって一緒なんですよ。でも、みんなもうすっかり諦めて、「こんな現実しかない」と思い込んでいる。そんな中で、「いや違う。何かあるはずだ、真の自由への道があるはずだ」、そう思い、そう招かれて、とらわれの世界から飛び出していく。それは、ぼくは、神からのものだと思いますよ。ただ、大事なのは飛び出していったその先。
 「15の夜」のサビの部分では、「盗んだバイクで走りだす」わけでしょ。「行き先も分からぬまま、暗い夜の(とばり)のなかへ。誰にも縛られたくないと、逃げこんだこの夜に、自由になれた気がした、15の夜」・・・でも、バイクで走り出していって、そこにホントに自由があったか。自由を求める気持ちは神からのものでも、「求める者には与えられるはずだ」「探す者にはちゃんと見つかるはずだ」という、その「求めるもの」に出会えなかったら、走り出して逃げ込んでいっても、やがてはまた帰って、諦めて、同じ世界に戻っていくしかないじゃないですか。

 だから、ぼくはやっぱり、教会の役割って、すごく大事だと思う。学校を飛び出していくような、その美しい純粋な魂に、「教会」という究極の学校として、イエス・キリストという究極の教師が、「今ここに生きて存在しているんだ」っていうことをちゃんと示す。・・・教会の役割、すごく大事だと思う。ペトロたちだってね、高校3年間じゃないですけど、「ガリラヤ学校」で3年間育てられたわけでしょ。そして「復活の主」に出会って卒業した。もはや、イエスとひとつになって。・・・すごいですよ、イエスさまの教育方法。
 そもそもはペトロだってヨハネだって、みんなやっぱり鬱々(うつうつ)としてたわけでしょう、理不尽な現状に。だから飛び出したかったんですよ。そんな若き思いに「俺について来い!」「本物見せてやる!」と言って連れ出し、「真理がお前たちを自由にする!」と宣言し、そして「愛」という真理を、命がけでちゃんと見せてくれた。・・・ペトロならペトロの魂の成長に合わせて、ちゃんと導いてくれたんです。にもかかわらず最後はイエスを裏切って、完全に絶望していたペトロに、イエスはちゃんと自分を現してくださった。
 この、復活の主の教育なんか、親切ですよね。ちゃんと見える形で現れてですよ、まだ怯えている、信じられない一人ひとりに、「わたしだよ」と語りかける。「この傷を見なさい。あなたのために受けた傷だよ」と。「まだ分からないでいるのか。それじゃあペトロ、何か食べる物持っておいで。一緒に食べようじゃないか。わたしは生きてるんだから」。
 ・・・主の復活なんて、科学では想像もつかない、論理では説明もつかないけれど、今、まったく新しい世界が始まった。神を知らない「この世の罪」というとらわれから、本当に解放される自由が始まった。ペトロはそれを体験して、もはや何も恐れない。エルサレムで、彼は宣言します。「主は復活された。あなたたちも自由になった。・・・信じてくれ!」と。
 新宿西口で、ピンで歌ってるひとりの16歳。君、カッコよかったよ。エルサレムの真ん中で説教してるペトロみたいに。「皆さん、聞いてください! 皆さんは、それでいいんですか?」と、「信じて自由になろうじゃないか!」と、そう歌ってるようで、カッコよかった。感動しました。なかなかちゃんと言う機会がなかったので、(笑) 今日はこの場で伝えさせていただきます。

 君ね、2、3日前、質問してきたじゃないですか、私に。・・・私、「はれれ」って呼ばれてんですけどね、
 「はれれ、ホントにイエスさま信じてるの? イエスさまってホントにいたと思う? もしいなかったらって思ったことないの? いなかったらって思うと怖くない?」って、君、そう聞いたじゃないですか。
 で、ぼくは、「もちろん、いないと疑ったことあるし、幻に人生かけることになるかと思うと、怖かったこともある。でも、今はもうキリストとひとつになって救われてる」みたいなことを、まあ簡単に答えたんだけど、「フ〜ン」って顔して、ホントはその後、もう少し話そうと思ったのに、説教されると思ったらしくて、(笑)さっと逃げてったじゃないですか。
 ・・・大当たり。あのとき、説教しようとしたんです。(笑) 「君も信じなさい」みたいなね。やだね〜神父って、すぐ説教始めるから。 (笑) だけど、16歳にちゃんと届く言葉持ってなければ、神父なんかやってても意味ないわけで、だから、あの時言おうと思ってた説教じみた話じゃなくって、言葉足りなかったところをちゃんと補って、もっと正直に話したい。
 ぼくはホントに、「もしイエスがいなかったら」と思ったら、とっても怖かった。で、疑ったし、その怖さを乗り越えようと思ったし、「こうなったらもう、ペトロの宣言を信じよう!」と、「信じる」ってことにチャレンジし続けてきた。だけど、正直言って、今でも怖い。本音を言えば怖い。疑うことも、もちろんある。薄い信仰だな、とも思う。でもね、それ以上にこう思うんですよ、・・・「もしイエスがいたら・・・」と。
 神がホントにいるのなら、イエスがホントに復活したのなら、私もホントに復活するなら、・・・それを信じていない方が怖い。「イエスがいないのに、信じてる」っていう怖さより、「イエスがいるにもかかわらず、それを信じていない」っていうことの方が、よほど怖い。だから、ぼくは怖がりだから、ペトロの宣言との出会いでイエスとの出会いだと必死に信じて、イエスはホントに復活して、今、「私と共にいる」「私と共に語っている」「私と共に歌っている」、そう信じる人生に踏み出したんです。

 尾崎だってね、あの「15の夜」のライブの時のMCで言ってましたよ。・・・「時には間違うこともあるだろう。でも、新しい一歩を踏み出すためには、自分で体験して、一つひとつ解き明かしていかなくちゃならないんだ。そのために、傷つくこともある。もしかしたら命を失うかもしれない。けれど、命をかけてでも、自分は新しい一歩を踏み出したいんだ。それが俺の生き方だ」。・・・まあ、彼はデビューの10年後には不遇の死を遂げますけれども、あの憧れ、あのチャレンジは美しいし、今は「よくやった」って神さまに褒めてもらってると思いますよ。
 君もね、いつかホールコンサートやってください。そのときのMC楽しみにしてますよ。武道館とかどうですか。まあ、その前に、俺が武道館ミサしてやろうと思ってるんですけどね。(笑)君とぼくと、どっちが先にあそこで、この世界に「自由が来たぞ」って宣言できるか、もう競争って感じだね。

2012年4月22日 (日)録音/4月26日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英