神さまとの結婚式

2013年1月20日 年間第2主日
・第1朗読:イザヤの預言(イザヤ62・1-5)
・第2朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント12・4-11)
・福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ2・1-11)

【晴佐久神父様 説教】

 ガリラヤのカナでの婚礼の出来事ですけど、私も、このカナに行きましたよ。何年か前にイスラエルの巡礼旅行に行ったとき、ここがそのカナだっていう町があって、「カナの婚礼教会」というのもあり、巡礼の仲間一同でお祈りしてきました。
 そのときですけど、一行の中にご夫婦がいらして、このカナの婚礼教会で改めて結婚式を挙げたいって言いだしたんですね。でも、あそこは本来、申し込んでおいて、ちゃんと払うものを払わないと、結婚式はできないんですよ。申し込んでおけばね、そこで結婚証明書かなんかもいただけるんですけどね。でもまあ、ぜひにとの願いでもあったので、「じゃあ目立たないように、結婚式のようなお祈りをしましょう」(笑)ってことになって、「限りなく結婚式に近いお祈り」ってのをすることにしたんですよ。
 だけど本人たちは最初っからやる気満々で、ちゃんとウエディングドレスまで持ってきてる。(笑)隅っこで、チャチャッて着替えて、二人並んでそのお祈りをやったんですけど、そういうことをするグループも時々あるんでしょうね、その教会のスタッフには、この一行、どうもアヤシイ・・・って思われていて、なんとなく見張られてるんですよね。で、ウェディングドレスを見て、「これ、結婚式でしょう? ダメ、ダメ!」って言われたんですけど、私も「いや、これは、結婚式のようなお祈りです」って言って、(笑)お祈りして、その後逃げるようにサーッと(笑)バスに乗って。
 懐かしいね、あの婚礼教会。のどかないいところでね、あそこで結婚式したいっていう人が多いのもわかるし、この教会にも、あそこで結婚式したっていう方がいます。
 それはそれでいいんですけど、ただ、聖書で「結婚」っていうと、これは、この世の結婚、夫婦の結婚のこと以上に、神さまと人が結ばれるっていうイメージがとっても強いんです。神と人の結婚、神と教会の結婚。神と人が本当に結ばれて、もう、決して離れない。聖書では、そういう神秘的な結婚のイメージを大切にして読みます。
 ですから、それでいうならですよ、カナの婚礼教会で式をするとしたら、この世における「結婚式」もいいんですけど、むしろ「洗礼式」がいいんじゃないですか。洗礼って、神と人が本当に結ばれて、ず〜っと一緒であり、もはや誰も引き離すことができないっていう恵みの世界でしょ? このカナでの「最初の奇跡」も、神と人が結ばれるイエスそのものを表しているわけですし、「水をぶどう酒に変えたカナでこそ、洗礼式をする」、そういうことじゃないでしょうかねえ。
 ここに集う私たちもみんな洗礼を受けていますけれど、これは、もはや神と私たちは決して離れない、深い、深い絆で結ばれた、そういう恵みの世界に入っている、ということなんです。
 いま洗礼を準備してる人も、そのように、自分はもうすぐ神さまと、まるで夫婦のように本当の愛で結ばれる。・・・そういうことなんだと信じていただきたい。

 さっきの第1朗読、ご覧ください。まさに、これですよ。4節に、「主があなたを望まれ」とあります。まあ、イザヤの預言の今日の箇所は、結婚のイメージで描かれているわけですけど、「主があなたを望まれ」ってある。主が、あなたを望まれた。そして、「花婿が花嫁を喜びとするように、あなたの神はあなたを喜びとされる」。これって、つまりは、神さまの方が私たちにプロポーズしたっていうことですよ。
 結婚というと、普通はフィフティ・フィフティというか、お互いにプロポーズし合って、お互いに受け入れ合ってっていうことでしょうけれど、神と人が結ばれるということにおいては、まず、神がプロポーズしてくださるんです。神が望まれる。神が選んで、神が望んで、神がどうしてもあなたと結ばれたいと、そう言ってくださる。こんなうれしいことないでしょう。これ以上のプロポーズ、ありますかね。神さまが、「あなたが必要だ」「あなたを愛している」「あなたと結ばれて、もう、ずーっとあなたと離れたくない」と言ってくださる。そういうことでしょ? 神からの結婚のプロポーズ。
 神さまがそんなふうに、この私を望んでくださったんだから、私はもはや、他に何もいらない。この神とのつながりさえあれば、たとえどんなに困難や恐れがあっても、私たちは常に神の恵み、神の力の中で、安心して生きていける。素晴らしい夫を得た妻は、ホントに安心して、安らかな家庭で喜びのうちに生きていくじゃないですか。
 洗礼って、そういうことです。神が望んでくださった。その神と結ばれて、私たちは何があっても安心して、神の家で生きていく。そんな結婚をイメージしながら、いま洗礼式を準備している方々は、「いよいよ、天と結ばれるんだ。神と結婚するんだ!」という気持ちで、洗礼式に臨んでいただきたい。

 このカナの婚礼の出来事も、まあ、水がぶどう酒に変わるっていうことですけど、そこで言われていることは、実はそういうことですね。
 この石がめに入っている水は、「ユダヤ人が清めに用いる石の水がめ」ってあるように、旧約の律法で定められた、清めのための水ですね。この時代は律法が支配していた時代ですから、いろいろな(おきて)があって、特に手を洗ったり、器を洗ったりと、清めに関して非常に細かい規則があった。そのために、石の水がめに、清めに用いる水がいつも入れてあった。石造りの、そんなきれいな水がめじゃないでしょうね。入り口あたりにドンと置いてある無骨な水がめ。
 それはある意味、律法主義のシンボルですね。律法主義とは、「あなたがたは汚れたものだから、常に正しい方法で清められて、立派に掟を守って生きていかないと救われませんよ」という、そういう教えでしょう? そのシンボルなんですよ、この石の水がめは。「清く正しく、ちゃんと掟を守って立派に生きていないと救われませんよ」という、厳格な律法のシンボルです。
 そんな石の水がめに水を入れて、その水をイエスさまがぶどう酒に変える。決定的に変えてしまう。このぶどう酒は何のシンボルかといえば、これはもう、宴のシンボルですね。永遠なる天の宴です。「たとえあなたが、清く正しく立派でなくても、さあどうぞ、この宴へ」と。これが新約時代のシンボルです。イエスさまが十字架と復活で新しくお開きになった天の宴のシンボルです。
 清めに用いる掟の水の世界から、私たちを永遠なる喜びの天の(うたげ)へと、イエスさまが招いてくださる。いや、変えてくださる。私たちの生活を、人生を、まったく変えてくださる。ただの手洗いの水だったのが、これ以上ないというほどにおいしいぶどう酒に変わったんですよ。これ、飲みたくないですか? 私はこれを飲みたいし、いや、洗礼によって、そしてこのミサの仲間たちとともに、いつもそれを飲んでるんだ、そしてやがて天で、本当にこのぶどう酒を分かち合う宴に入るんだ、そんな希望に支えられます。

 「2ないし3メトレテス」って、そこの解説には「1メトレテスが39リットル」ってありますから・・・約40リットルですよね。「2ないし3」っていったら、80リットルから120リットルですから、大体100リットルでしょ? その石がめが六つあったと。これ、イエスさま、六つぜんぶ変えたんですかね・・・たぶんそういうことですよね、まあ、詳しくは書いてませんけれど。仮に六つ全部変えたっていうなら、600リットル? 2リットルのペットボトル300本分。極上のぶどう酒が、2リットルのペットボトル300本!(笑)・・・これはもう、究極の宴会でしょう。
 「もう、ぶどう酒なくなっちゃいました。アウトです。この宴会終わりです。さあ、みんなもう解散です」っていう危機的状況だったんですね、このとき。当時、七日間も結婚式したそうですから、まあ、ぶどう酒もたくさん必要。50人、100人集まって、毎日飲めや歌えやで、どんどんぶどう酒はなくなる。で、ぶどう酒のない宴会なんて、もう、あり得ないわけで、しらけちゃうというか。
 ですから「ぶどう酒がなくなりました」ってこれは、この夫婦にとっては、最大の失態というか、きっと、いつまでも言われるんでしょうね。「あんたたちの結婚式、酒切らしたよね〜」とかって。(笑)この大失態は、ホントにしらける瞬間でしょう。ぶどう酒がなくなっちゃう。そんな現実の中で、イエスさまが、極上のぶどう酒を600リットル! ま〜あ、このぶどう酒がどんどん出てきたら、テンション上がったでしょうね。村の歴史に残る、大宴会。みんなが心行くまで楽しみましたって、そういう結婚式になったでしょう。イエスさまはそれをつくり出した。イエスさまは、危機的な状況をそのような宴会に変えてくださる方なんです。しらけて、もう終わりっていうような気持ちを、あるいは、清く正しく立派でなければ宴には参加できませんっていうような思いをみ〜んな集めて、「さあ、神さまがあなたと結ばれたいと言っているんだ!」という永遠の宴を、そこにつくり出す。
 私たちのミサは、まさにそのような、イエスさまのお始めになった宴です。あまりにもつら〜い気持ち、もうダメだっていうような絶望的な思いを、こんな喜びの宴に変えてくださったんです。だから、私たちは今日もここで、神の宴に(あずか)って、心行くまで喜べる。こんなにも清くなく、正しくなく、立派でない私が、この宴に招かれて、神に結ばれて、「ああ、もうだいじょうぶ。ここがあればだいじょうぶ」という、それがこのミサの喜びです。

 昨日も小さな宴をしましたけど、私の20年来の友人が来て。ご夫婦ですけど、私が結婚式を司式した二人です。昨夜の宴では、今、共通の友人のことでいろいろ心配していて、一緒に励ましていこうよっていうような話をしたわけですけど、いいね、古い仲間。昔一緒に一生懸命いろいろやった仲間と、宴をする。昨日はホント、うれしいひとときを過ごしましたけれど、考えてみたら、そうやって昔の仲間たちっていうのがいるから、今日の宴があるわけでしょ? で、今日のこの仲間たちも、やがて未来の宴の昔話になるわけですよ。そしていつの日か、天の宴が待っていて、すべてがそこで完成する。昨日も、「ああ、あのころいろいろあったよな。一緒にがんばったね。『やるならちゃんと!』を合言葉に、教会活動に燃えたよね〜」っていうような話をしましたけど、そうやって、みんなでこの世をちゃんと生きて、この世の宴を繰り返して、それがやがて天の宴でね、最高の宴で、思い出になってるんです。「ああ、あの頃、ホントによくやったよね」、そんな宴が私たちを待ってるっていう、これは多いなる希望でしょう。私たちの「洗礼」っていうのも、その宴の先取りなのだと思っていただきたい。そうして、今、洗礼を準備している人がいっぱいいますけれど、その一人ひとりに、「この宴が、あなたの本当の居る場所だよ」「天の宴はここに始まってるんだよ」と教えてあげていただきたい。

 先週、与太者の話、しましたでしょ? ある人が「私、多摩教会で洗礼受けるんです」って言ったら、どなたかが、「多摩教会も大変ね〜。与太者が集まってるそうじゃない」って言ったっていう、(笑)そういうエピソード。私は、与太者の集まる教会こそが、ホントにいい教会だと思いますから、「多摩教会、与太者集まってますよ!」って胸張って言いたいですけど。「与太者」ねえ・・・。でも、あいつら、いいですよ、すごく。
 先週の月曜日なんか、10代、20代の与太者4人が雪かきしてくれたんですよ。与太者って、かわいがっとくと、便利ですね。(笑)あの大雪の日、ちょうど前の日から4人泊まってたんで、その日のうちに一斉に雪かきしてくれた。教会の周りを全部、ピカーッときれいにしてくれて。まあ、私も無理してやって筋肉痛になりましたけど。みんなで雪かき、楽しかったし、実は今日の夜、この雪かきの打ち上げがあるんです。(笑)
 雪かきした与太者のうち、二人はね、信者じゃないんですよ。信者じゃない与太者二人。ぜひ、信者になっていただきたいですけどね・・・って、そのうち一人は今、目の前にいるから言ってるんですけどね。(笑)君もぜひ、信者になっていただきたい。まあ、ともかくあの日は、雪かき、ありがとうございました。君、特に立派でした。「元野球部です」とかって、ダーッと雪を次々運んで、川に落としたよね。彼、そこの橋まで持ってって、川にぜんぶ投げ込んだんですよ。
 最近は与太者間の友情ってのも芽生えていて、なんか、宴なんですよね〜、教会って。今まではバラバラだったヤツが出会って、あっ、ここ、なんか、自分のいるところだなって思えてくる。そうして、みんな、ここが天の宴への入り口だって感じてくれれば。
 信者じゃない与太者のもう一人は、去年の10月頃からこの教会に現れたんですけど、この近くに住んでるんです。この彼、親とうまくいかないし、精神的にひどくまいっている20代ですけど、過食になるんですよね、ストレスたまると。で、食い過ぎては吐くの、繰り返し。精神科のお世話にもなってるんですけど、仕事もできず、ただただ家にいるしかない。その家にいても、親とうまくいかない。まあ、そんなんで居場所がないもんだから、いっつもこの辺をうろついてて、そこの橋あるでしょ? 雪、放り込んだところ。あの橋のところで、ボ〜ッといつも過ごしてた。
 で、橋のところでボ〜ッとしてると、イヤでも、カトリック多摩教会が目に入るんです。(笑)ある時ついに、恐る恐る、入って来たんですよ。私、彼をつかまえて、いろいろお話しました。これが変わっててね〜。自分のことばっかり、立て続けにしゃべり続ける。たまに相手のこと話すときは、遠慮なくズケズケしゃべる。「俺のこと、気にいるヤツと、嫌いなヤツと、はっきり分かれるんだよ」なんて言ってましたけど、う〜ん、嫌われるだろうな〜って。(笑)
 だけど、精神的に苦しくて必死な気持ちがあって、なんとか救われたいと思ってて、ここにいていいかどうか心配している。私、正直、なんかちょっと厄介だな〜って思いながらも、話しているうちに、なんだか気に入っちゃったんですよ。理由はただ一つ。正直なんです。ホンットに正直。自分の駄目なところも弱いところも、怒りも欲望も、ぜ〜んぶしゃべって、しゃべって。これまで、街の仲間とつまらない事件を起こしたり、ずいぶん殺伐とした日々を送ってきたようですけど、自分が体験したこと、感じていること、傷ついたこと、何でも包み隠さず話してくれると、なんか安心するじゃないですか、こっちも。腹に一物ないっていうんですかねえ。私、話すたびに好きになっちゃったし、毎日のように来るから、だんだん仲良くなった。やがて、与太者同士も互いに出会って、一緒にいろいろなことをやるようになりました。信者じゃないですけど、ミサにも出るようになり、今は毎週欠かさずミサにも来ています。
 去年のクリスマスなんかは、ず〜っとこの教会にいたんですよ、その彼。23、24、25日とね。23日は聖劇があってパーティーがあって、24日はミサがあってパーティーがあって、25日もまた、心を病んでいる人のためのクリスマス会があってパーティーがあって。このクリスマス会では、聖歌のグループと一緒に歌ってもくれました。何週間も練習してね。まあ、三日間いろいろなパーティーに出て、三日間教会に泊まって、彼にとってはある意味天国だったみたいですよ。与太者同士も楽しく一緒に過ごしてね。実際、家にいてもホントに独りぼっちでつまらないけれど、この教会に来れば、こんなにいろんな人とおしゃべりができて、友達もできて、パーティー、宴があって。今、教会天国を味わっているところなんです。
 だけど、その三日間が終わって、家に帰らなきゃなんない。家に帰らなきゃなんないときにですね、まあ、寂しかったんでしょうね、与太者の一人に10代がいるんですけど、そいつに、帰り際、ポツンと座りながらこう言ったんですって、「あ〜あ、あしたっから、また殺風景か・・・」。
 そう言われた10代、その気持ちが胸にギュッときたそうです。楽しくみんなと過ごしていても、やがては終わっちゃう。仲間とも、最後は別れなきゃならない。また独りぼっちになる。そんな気持ち、その寂しさをその10代もいつも感じていたから、そのひと言がとっても響いたみたいで、あとでぼくにそのことを報告しながらね、ポロポロッて涙こぼしたんですよ。「オレ、分かるんだ、あいつの気持ち。あいつがね、『あ〜あ、あしたっから、また殺風景か』って言ったんだよ」って。ああ、共感し合えるいい仲間が育ってるなって思って、うれしかった。
 そのさみしい気持ち、ぼくだってよく分かります。「宴のあと」っていうヤツですね。ああ、終わっちゃったっていう。それに共感して涙する姿に、今度はこっちが共感してキュンとして。そんなことがあったんで、ちょうど昨日、彼にその話をしました。「あいつ、お前のために泣いてたよ」って。彼、ちょっとびっくりしながらも、うれしそうでした。
 確かにこの世は、殺風景だ。おっしゃるとおり、殺風景だ。だから、教会がある。ここには仲間がいる。ここには宴がある。「ああ、もうぶどう酒がなくなった、もう終わりだ、みんな帰ろう」っていうときに、それを帰さないのがイエス。「終わってないよ、ここから始まるんだよ」と、すべての欠如を恵みに変えて、天の宴を始めてくれるのがイエス。私たちを呼んでくれたのがイエス。私たちを一つにしてくれるのがイエス。今日もこの美しい宴をつくっているのがイエス。イエス・キリスト、この宴が私たちを待っているんです。この世がどれほど殺風景でも、私たちには希望がある。今も天の宴を目の当たりにしている。
 「あ〜あ、殺風景か」と言ったその彼は、このたび受洗を決心して、今度の復活祭の洗礼式で洗礼を受けることになりました。橋の上にいた与太者が、天の宴に入ってくるんですよ。
 彼には昨日、はっきり言いました。
 「今度の君の洗礼式は、神さまとの結婚式だよ。もう一生、殺風景じゃないよ」

2013年1月20日 (日) 録音/2013年1月26日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英