心の奥の隠された花

2012年4月29日復活節第4主日
・第1朗読:使徒たちの宣教(使徒4・8-12)
・第2朗読:使徒ヨハネの手紙(一ヨハネ3・1-2)
・福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ10・11-18)

【晴佐久神父様 説教】

 いいでしょう? 赤ちゃんの泣き声。あの〜、ご両親は気にしないでそのまま座っててくださいね。今日は主人公ですからね、幼児洗礼を受ける赤ちゃんたち。今日はこの後、4人の子どもたちが洗礼を受けます。
 赤ちゃんの泣き声のする教会。それは、神さまが、それこそ、「ゆりかごから墓場まで」じゃないですけど、その人の生まれる前から、その人を天にお召しになった後まで、すべてを神さまがちゃんと導いてくださっていることの目に見えるしるし(・ ・ ・)ですし、とりわけ幼児洗礼は、そのことをよく表しています。洗礼を受ける君たちが、神と共にある素晴らしい人生を送ることができるように、今日は先輩たちが大勢、祈りますよ。
 幼児洗礼式は、教会の希望です。

 先週から、入門講座も始まりました。おとといの金曜日、昨日の土曜日、そして今日の日曜日、それぞれの入門講座の年度初めです。今日はミサ後、チャリティーコンサートがあるので混み合ってますけど、入門講座は必ずどこかでやりますから、来られた方はそのおつもりで。
 入門講座の年度初めは、やっぱり嬉しい。入門講座の最初の日に、新受洗者が洗礼を受けた気持ちなどを語ってくれるっていうのも、嬉しいひとこまです。新受洗者が、ホントに心から安心して、主と共に歩む新しい人生を始めた、そんなひと言ひと言がお互いに励まし合う言葉となり、講座に初めて来られた方をも導くひと言になる。そんな意味でも、この年度初めの入門講座を、私は大事に思ってます。入門講座もまた、教会の希望です。
 もっとも、おととい金曜日の入門講座には、初めての人が来なかったんですよね。多摩教会の入門講座は洗礼受けたらもう終わりではなくて、その後も更にもう1年一緒に学んでいくっていうかたちですから、おとといも入門係を含め大勢の人がいたんですけれども、「今日初めてっていう人いますか?」って言ったら、いなかったんですよ〜。大抵、数人はいるんですけどね。やっぱり年度初めに「今日初めて」っていう人がいないと、ちょっと残念っていうか・・・。まあ、他の曜日のクラスにはいますし、5月、6月には次々と来ますからいいんですけども、やっぱり年度初めに1人はいてほしいな〜と、そう思ったもんですから、私、祈ったんです。「神さま、このクラスにも、今日初めてという人を送ってください!」とこう、手を上げて、「さあ、いらっしゃい!」って祈ってたら、・・・そこにホントに現れたんですよ。(笑)嬉しかったですねぇ。
 で、現れたのは19歳。上京して近くの大学寮に入っているという大学生なんですけど、ある地元の知り合いの信者さんが、その学生のことをとても心にかけていて、東京在住の友人に頼んで、その友人がわざわざ彼を迎えに行って、ここの入門講座に連れて来たっていうんですよ。ですから、その連れてきた人と学生っていうのは特に面識あるわけじゃないんです。でも、素晴らしいじゃないですか。そうやってだれかが心にかけて、連絡して、ちゃんと連れてきてくれるっていう・・・。
 ・・・ああ、泣いてる赤ちゃん、ついに連れ出されていっちゃう・・・(笑)あっ、でも泣きやんだ、泣きやんだ・・・あの〜、今日、これラジオに録ってる日ですよね。(笑)この泣き声って、技術的なあれでカットされちゃうんですかね、ラジオ局の方いますけど、この声入ります? ・・・あっ、入るんですって。やりましたね、君の声、全国放送ですよ。(笑)だからって、ほかの子も泣かないでね。(笑)
 神さまがちゃんと心にかけてくださってるっていうことほど嬉しいこと、ないでしょう。この赤ちゃんひとりだって、神さまが心にかけてるんです。今日ここに来て、ここで洗礼を受けるっていうのは、まあ、親の決心でもありますけど、神さまがなさってることなんですよ。
 ひとりの大学生が、みんなの心配りによって、入門講座の初日に現れる。それは、神さまがどれだけ心にかけてくださっているかっていうことなんです。ここに集められた皆さん一人ひとりも、神さまが心にかけてくださっているんです。第2朗読の冒頭で、読まれましたでしょ。
 「愛する皆さん、御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい」(一ヨハネ3:1)
 そう言われたとおりに、皆さん、考えてください。どれほど神さまが私たちを心にかけているか。大体われわれは、心にかけてもらえないことが多いので、無視されたとか、構ってもらえないとか、忘れられちゃったとか、そんなことばっかりなので、この永遠なる神さまが、完全なる愛をもって、「絶対忘れないぞ!」と心にかけてくださっていることが、どれほど素晴らしいことか、皆さん分かってるはずですよ。ここに今日座ってみ言葉を聞いているのは、神さまが心にかけてくださっているからです。
 ホントに久しぶりにミサに来られた方がいますね。自分のこと言われてるなって、本人はお分かりでしょう。私、あなたが来てくれたこと、すごく嬉しいんですよ、今。・・・久しぶりに来てくれた。それこそ、「神さまが心にかけている」ってことなんです。

 さっき福音書の中で読まれたとおり、良い羊飼いでない雇い人は、羊を置き去りにして逃げちゃうわけです。なぜなら、「彼は、羊のことを心にかけていないからである」(cf.ヨハネ10:13/強調引用者)と、そうあった。・・・「心にかけていない」。
 まあ、この世はそんな感じですね、お互いに。ちゃんと心にかけていない。これ、他の翻訳で「どうでもいい」って翻訳もあるんですよ。その方がなんかピンときますね。・・・「彼は雇い人で、羊のことなんかどうでもいいからである」。
 この世って、そんな感じでしょ? お互いに結局、自分のことしか考えていなくって、ほかの人はどうでもいい。関わらない。関係ない。
 しかし、キリスト教は、イエス・キリストがすべての人を「どうでもよくない」といって関わる宗教なので、お互いに心にかけ合います。初めて来た人に、「どうぞ、どうぞ」と言って、「あなたを心にかけたい、あなたはどうでもいい人ではありません」っていうことを分かってもらいたい。それがキリスト教だから。
 今年も入門講座、1年間、「あなたに会いたかった!」っていう気持ちを大切にしてやってますから、皆さんも、講座に連れてきてくださいね。おとといの大学生連れてきたのは、よその教会の人ですよ。まずは、うちの教会の人が連れてこなくっちゃ示しがつかないってことじゃないですか? 連れてきてください。「あなたはどうでもよくないんです」と。「『大事なひとり』なんです」という気持ちでね。

 おとといのその入門講座に、私の親しい友人の神父が、イタリア人なんですけど、会いに来てくれたついでに参加してくれて、これも嬉しかった。彼は西日本の修道会なので東京に来ることは本来なかったんですけれど、どうしても山谷で働きたいってことで、山谷のマザー・テレサの会にお世話になって、ホームレスのために働いている神父です。
 この春、その奉仕活動が終わってもう地元に帰らなきゃいけなくって、それで「もう会えなくなるねえ」ってこの前会った時には話してたんですけど、管区長に「どうしても、まだ放っておけないホームレスがいっぱいいて、関わりを続けたい」って頼んでみたら、管区長が「そこまで言うなら・・・」と許していただいたってことで、もう1年山谷で奉仕できるって報告に来てくれて、私も嬉しかった。「今年もまた、時々会おうね」と。
 素晴らしい神父なんですよ、この神父が。ピュアでね、心がとってもきれいで。イタリア人らしくない。(笑)・・・いや、すごくおとなしいっていうか、控えめだっていう意味でですよ、陽気なイタリア人ぽくない。あのピュアな魂に触れると、私なんかは、自分の汚い部分っていうのをすごくこう、感じさせられちゃって、彼のような神父に憧れます。とっても純粋な心。
 彼が、昨日言ってたんですけど、「すべての人の中に、ちゃんと神さまからの恵みの種のようなものがあって、それを大切に育てたい。顔には出さないけれども、誰もが心の中に『静かな叫び』を持っている。私は、その静かな叫びに耳を傾けて、その人と関わりたいんだ」と。・・・日本にもホームレスはいっぱいおりますけれども、こういう神父が耳を傾けていると思うと、いや〜、イエスさまは確かに働いているなとも思うし、キリスト教はホントにこの二千年間、神がどれほど私たちを心にかけているかということを、ちゃんと証ししてきたんだなぁっていうことを、改めて思わされる。
 彼が、今関わっている、ひとりのおじいさんの話をしてくれました。ホームレスなんですけど、心を閉ざして誰とも関わろうとしない。だけど、丁寧に話を聞いていると、ぽつぽつと話し始めて、過去に人にだまされて、傷つけられて、とにかくもう誰とも関わりたくないんだってことが分かってくる。そういう、ひとりのおじいさんの心の内を、そこを通りすがる人は誰も知らない。誰も耳を傾けようとしない。時には「どうでもいい」とさえ思っている。しかし、この神父は「どうでもよくない」から耳を傾ける。すると、「初めて聞いてもらった」という体験の中で、自らの「静かな叫び」を語る。
 そのおじいさん、ブルーテントに住んでるんですね。ブルーシートで作ったテント、ご存じでしょ? で、お訪ねして中をのぞいたら、中に、鉢植えのきれいな花がいっぱい飾ってあったんですって。で、その瞬間、その神父は、そのおじいさんの心の中が見えた気がしたそうです。「この人は、心の中に、こんなにも美しい花をいっぱい隠してたんだ」っていうことが見えた気がした、と。そして彼は、「この人の心の奥の隠された花を咲かせたい。無視せず、焦らず、諦めず、この人の心の花をていねいに育てて、もっともっと咲かせたい」と思ったそうです。
 なんて細やかな愛情でしょうか。これやっぱり、良い牧者のあり方でしょう。みんなが心にかけていないものを、心にかける。みんなが気づかない隠された花に目を留めて、それを咲かせようとする。良い牧者っていうのは、そういう方ですよ。そういう牧者に私たち出会ったからこそ、今日まで生きてこられた。そして、そういう方と共に、私たちも小さな魂に、静かな叫びに耳を傾けて、秘められた花を咲かせようじゃないですか。
 「心にかける」・・・これがキリスト教の本質でしょう。

 山谷にはアル中の人もいっぱいいてね。酒乱で暴れたりすることもある。で、最近の経験ですけど、そんな暴れてるひとりに彼が近づいて話し掛けると、顔見知りですから「あっ!あの神父だ」って気づく。そして、急に酔いが醒めた感じになって、暴れていたのがおとなしくなって、「ごめんなさい」って、ぽろぽろっと泣き出したんだそうです。「またやっちゃった」という後悔、「こんな自分はダメだ」という自己嫌悪、「もう生きててもしょうがない」という絶望。その神父は、そんな涙のひと粒見ただけで、その人の心の中の「静かな叫び」が聞こえるし、そんな救いを求める熱い思いにこそ応えたいんだと言う。
 山谷でね、いっぱい炊き出しをしたり、毛布配ったりしていて、それは大切だけど、「それだけじゃぜんぜん足りないんだ」とも言ってました。そういうこと以上に、「みんな、心の中の静かな叫びに耳を傾けてもらいたいんだ」と。普通には、「誰も自分のことなんか聞いてくれない」「そんな親切な人がいるわけない」って思っているけれども、その思いに応えてあげるのが、良き牧者であり、牧者が宿っている私たちキリスト者。
 でも、そう言うんだったら、皆さんのすぐ隣に、静かな叫びをもってる人、いっぱいいるんじゃないですか? 奥様の心の中の静かな叫び、聞こえてますか? 息子さんが心の中で叫んでいる、その静かな叫びが聞こえますか?
 ・・・誰もの静かな叫び声に耳を留めてくださる、良き牧者の主日です。

 先週は被災地訪問で、釜石と石巻に行ってきました。釜石では、また新生釜石教会の牧師先生とお会いできました。もう釜石も5回目か6回目かですけれど、行くたんびに明るくなって、次第次第に街が復興してるんですよ。でも、心の奥の静かな叫びは、何も変わっちゃいないし、むしろ、街が明るくなって、人々の記憶が薄れていくにつれ、失ったものの大きさとか、自分は忘れられていくんじゃないかっていうような孤独とか、そういう静かな叫びはますます高まっているような気がしますよ。
 牧師先生と一緒に晩飯食べながら、お互いに励ましてたんですけど、話していると、いろいろなものが全部なくなった、津波直後に起こったあの奇跡を思い出すわけです。何もかもなくなった、すべて流された。でもだからこそ、そこに「愛」があった。「いたわり」が生まれた。心の静かな叫びがちゃんと聞こえた真っ暗な夜があった。それを忘れちゃいけないよねっていうことでしょう。
 私たち、あのとき、新生釜石教会のためにチャリティーコンサートしましたよね。今日もまた別のチャリティーコンサートがありますけど、あの、震災の直後にやったチャリティーコンサートをきっかけに、つながりが生まれました。おかげで私も、何度も釜石行くことにもなった。大したことはできないけど、とにかく何か、つながりたい。この「つながり」っていうのがね、「心にかける」っていうことがね、実はキリスト教のすべてなんじゃないですかねえ。
 新生釜石教会に入ると大きな旗が掛かっててね、前も話したかな、「物よりつながり、作業より笑顔」って書いてあるんですよ。何のことか分かりますよね。被災地にはいっぱい物資が届く。大勢ボランティアも来た。で、物はたくさん届きました。ボランティアも来て、一生懸命働いてくれます。でも、一番大事なのは、物より「つながり」なんだ、作業そのものより、ひとつの「笑顔」なんだ、と。そういうことです。そこにつながりが生まれ、ひとつの笑顔を目にした時、私たちは、ああ、神さまはどれほど私たちとつながりたいか、どれほど私たちを笑顔にしたいかってことに気づくんですよ。

 石巻に行ったのは、新しく改修なったカリタスジャパンのボランティアベースを訪問して応援するためですけど、素晴らしい活動をしてましたよ。私が行った時ちょうど、コミュニティースペースに、ベトナム人とボリビア人とブラジル人とフィリピン人と日本人が一緒にお話ししていて、担当のシスターがていねいにそのお世話をしていて、それこそ、静かな叫びをもった大勢の被災者がそこに集まっていました。
 ちょうど、ひとりのベトナム人の女性が、日本に来てすごくいろいろな試練があって苦しんだこと、そのうえ被災して、とってもつらい思いをしたことなどを話していたんですね。で、その後で、「今日、ホントに、初めて自分の抱えていたつらい思いをみんなに聞いてもらえた。ホントに嬉しかった。おかげですごく楽になった」。そう言ってるんですよ。
 「こんな救いの場が実際にあるってすごいことだ」「このベース、良い奉仕してるな〜」「いいコミュニティースペースとして機能してるな〜」と思ったし、これこそ「良き牧者」だ、すべての人を心にかけている神さまの愛の目に見える印だと思って、嬉しかった。・・・やっぱり、キリスト教すごいな〜って思いますよ。大手のボランティアグループはもう引き上げていって、後は復興、復興でお金や建物の話になっている時に、「物よりつながり、作業より笑顔」と言い、コミュニティースペースで、誰も聞いてくれない小さな叫びをちゃんと聴いている。これはキリスト教だと思った。
 皆さんの中に、言うに言えない、そんな思いがいっぱいあるかもしれない。お互いにそれをちゃんと聴き合いましょう。お互いに信頼し合って、自分の中の心の叫びをちゃんと語り合って、それを受け入れ合って、真の家族になりましょう。良き牧者が、そういうお世話をしてくれる。まずは良き牧者が聴いてくれるし、私たちも良き牧者となって聴いてあげます。その時私たちは、第2朗読にあるように「御子に似た者」になるんですよ。・・・「御子に似た者」。

 明日ここで、お通夜があります。あさってご葬儀です。亡くなった方は信者ではないんですけど、そのお母さんが多摩市に住んでいるカトリック信者で、海外で洗礼を受けたものの日本ではどこの教会にも所属していなかったということで、教会には全然来ていなかった方です。この方が、金曜日に事故で息子さんを亡くされました。24歳の息子さんです。
 で、ショックで混乱している中、それでも葬儀をしなきゃならない。でも息子さんは洗礼受けてないし、どうしようかと絶望的な気持ちでいらして、ともかく近くの教会にってことで電話してこられたんですね。以前一度は私と会ってるようで、そんなご縁もあって電話してきたわけです。私はもちろん「大変な思いをなさいましたね」と申し上げ、この教会でできる限りのお世話をしますからと、すぐに来てもらって相談して、明日この聖堂でお通夜、あさってご葬儀ということになりました。
 亡くなった息子さんはいつも聖書読んでたっていうし、洗礼を希望していたということですので、もうすでに臨終洗礼、望みの洗礼を受けたという扱いにして、この教会の信徒として、みんなで心を込めてお祈りして、お母様もお支えしますからとお話しをして、司式をお引き受けいたしました。
 ・・・どうぞ皆さん、明日のお通夜、あさっての葬儀ミサ、お祈りください。お母様は、ただただ泣くばかりで、ホントに支えを必要としている状態です。これからは多摩教会に通うとおっしゃってますので、大切な教会家族の一員として、お世話いたしましょう。1本の電話の向こうの叫び声にちゃんと耳を傾けて、その方の魂と共にあろうとする、これはキリストの教会の姿です。
 「あなたはどうでもよくない」「あなたと関わりたい」・・・そういう思いこそが、教会です。神が心にかけてくださる、その事実の目に見えるしるしが、洗礼の秘跡です。
 それでは、幼児洗礼を受けるお子さんとご両親、代親の方は前に出てください。

2012年4月29日 (日)録音/5月1日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英