神の国の開会式

2012年8月5日年間第18主日
・第1朗読:出エジプト記(出エジプト16・2-4,12-15)
・第2朗読:使徒パウロのエフェソの教会への手紙(エフェソ4・17,20-24)
・福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ6・24-35)

【晴佐久神父様 説教】

 昨日はエジプト戦。ちょうど時間帯も良かったんで、皆さんご覧になったんじゃないですか。オリンピック男子サッカー、日本対エジプト。エジプトの皆さんには大変申し訳ありませんが、日本が勝たせていただきました。
 今のオリンピックチームのあの日本選手たち見てると、ついに4強になりましたけど、その理由がなんとなく分かる気がする。関塚監督が、よ〜く言ってるあの「一体感」っていうやつですね。口癖のように「一体感」って言う。試合見ててもそれを思いましたよ。
 日本の場合は、特別なスーパースターがいて、次々とゴールするみたいなことじゃないですよね。むしろ、みんなが一体感をもって、それぞれが心をひとつにして自分のすることをしていると、こうなんか全体が「ひとりの人」みたいに動いて、結果が出る。あの一体感っていうのは、たぶんチームの中にいたら、すごく感じることでしょうし、気持ちのいいことでしょう。そして結果が出た時に、まさに本人たちが、「あ、これなんだ」って分かってるんだろうなっていう気がします。そんな風に感じることができたらいいもんでしょうね、「一体感」。
 女子のサッカーも4強になりましたけど、あれも一緒ですよね。なんか特別秀でた選手がキラキラ輝いて勝つっていうわけじゃない。あの〜、宮間さん、キャプテン・・・ですか? 彼女も言ってましたけど、「うちのチームは、華麗なサッカーじゃない」と。「お互いに連動してるんだ」と。「連動」って言葉使ってましたよ。「お互いに連動して泥臭い試合をして、強い相手に向かってく。それが私たちのサッカーだ」。・・・この「連動」って言葉もいいですねえ。お互いに通じ合っていて、一人の人がやってるんじゃなく、みんなが通じ合って一緒になって動く。その時、一人だけじゃ絶対わからないけれど、人間が大勢出会って共にいることの意義が、急に立ち現れて見えてくるような感じ。
 たぶん、どの国のサッカー選手も、それなりに練習して、それなりの体を持っていて、それなりに技術もあるんでしょうけれど、あとはこの「一体感」とか「連動」っていうのが生まれた時に、まるで魔法のように、球がみんなの間を回っていって、ゴールしちゃう。きっと、あの「一体感」とか「連動」っていうところに、何か大きな秘密があるんだろうと思う。一人で努力して、一人で才能を伸ばして、一人で偉くなってっていくみたいな話とはぜんぜん違う世界。みんなが一緒になって一体になっている。心を一つにして連動している。そこにこそ、神さまが望んでおられる、何か素晴らしいものが現れるっていうことじゃないでしょうかねえ。
 わが多摩教会なんか、どうですか。今朝もミサの前に2階の部屋でなんとなく聞いていると、教会内のあっちからもこっちからも笑い声が聞こえてきました。いいですよね〜、朝から笑い声が絶えない教会。一体感がある。そうして、ミサでみんな心を一つにして、まるで一人の人であるかのように連動している。
 そりゃもちろん、お互い、いろいろ弱い所があって、うまくいかないこともあって、失敗したり、小さなことでぶつかったりするようなこともチョコチョコあります。でも、神がここに私たちを集めた、私たちは一体なんだ、連動してるんだって思えた時、われわれの教会、何かすごいことできるんじゃないか。「一体感」「連動」。・・・オリンピックのあの試合を見ていて、ちょっと羨ましくもあり、いやいや、ちょっと待てよ、「うちの教会はこれ以上だぞ」みたいな、そんな思いもありで。

 第1朗読で、イスラエルの民が、まあ、文句、文句でしょ。おなかがすくと人は文句言い出すんです。(笑)不平、不満。足りない、足りない、足りない! ・・・でも、これってわれわれの姿じゃないですか? あれが足りない。これが不足。あの人がもっとこうしてくれればうまくいくのに。私がもっとこんなふうにできればいいのに。不足、不満ばかり。そして最後は、「もっとお金があればね〜」みたいな話で終わり。「足りない、足りない」ばかりの毎日、「おなかがすいた、おなかがすいた」だけの人生だと、ついには争いごとになり、バラバラになって、人の心は荒れ果てる。戦争も起こる。明日は広島原爆の日ですけれど、「あれが足りない、もっと欲しい」「これが足りない、奪ってやれ」の話になって、人は地獄を見ることになる。
 反対に、私たちがここで心をひとつにしているっていうことがどれほど素晴らしいかっていう喜び、私たちはもう神さまから大いなる恵みをいただいているから満足してるっていう安心があったら、戦争なんか起こるはずがない。そんな喜び、安心を、今日このミサにおいて深く味わいましょう。
 まあ、足りないものはいっぱいあるんでしょうけど、でも皆さん、いったい何が足りないんですかねえ。あと何が必要なんですか? よく考えてみてくださいよ。なんか「不平不満ノート」でも作ってね、「私が足りないものリスト」みたいなもんでもいいから、順番に書き出してみてくださいよ。よ〜く読み直してみれば、どれも大したもんじゃないと思いますよ。「あれが足りない、これが欲しい」って言ってるうちに人生終わっちゃったら、いつ満足する? サッカーの試合みたいに、最後に「ゴール!」って満足して終えられればいいんでしょうけど、「おのれ、もう少しあれさえあれば・・・!」って言いながら死んでくなんて、(笑)なんだかわびしい話でしょ。でも、いつ私たちの人生は完成するんだか分からないんだから、今日満足していなければ最後もそうなんじゃないですか。今日満足できなかったら、明日も満足してないよって思った方が正解じゃないでしょうか。
 イエスさまは私たちに、真の「満足」を与えてくれたはずです。旧約の民は「おなかがすいたよ〜」とか「もっとあれが欲しいよ〜」とか「私はこんなに足りないよ〜」って不平ばかりでしたけれども、それは究極的には真の救い主を求めていたのであって、そんな不満と不安の人類に、イエスさまが神さまからもたらされて、「わたしが命のパンだ」と言った。「わたしのもとに来るものは決して飢えることがない。わたしを信じる者は決して渇くことがない」って言ってくださった。つまり、人類は新約時代を迎え、ついに満腹したんです。イエスと一つになり、イエスによって生きることで、すべての神の子と一体となるという、真の満足を知ったはずなんです。
 ですから、私自身、日々その命のパンを食べて、もはや足りないものは何ひとつないっていつも思うようにしてますし、そんな信仰から生まれてくる安心感は、こよなき安心感ですし、それを味わっている「イエスによって生きている私たち」っていうキリスト者の一体感は、これまたかけがえのない一体感。それさえあれば、何がなくとも平気。
 どうなんでしょうね、私たち。「これが足りない、あれが足りない」って、まあいろいろ言いますけれども、ホントに足りないんでしょうか。神さまの愛に満たされて、「私は今ここにある」っていう安心感、「イエスさまでいっぱい」っていう満足感、「みんな一緒に味わって共にいる」って言う一体感、そんなものを一緒に味わいましょうよ。ミサは、それを味わうためにこそ、こうして集まってきてるんだから、ここで私たちが本当に神さまに満たされているっていう喜びを感じることができて、お互いにみんなそれを味わってるんだっていう一体感があったら、このチーム、素晴らしい働きするんじゃないですか? チャレンジしましょうよ。なんかこう、「教会オリンピック」みたいなの、ないですかねえ。福音宣教とか共同体の一致を競い合うみたいな。そんなのあったら、うちの教会、4強くらいまでいけるんじゃないですか。そういう、燃えるものがね、人生に欲しいじゃないですか。私、オリンピック見てると、出てる人たちがやっぱり羨ましいですし、負けるもんかと思いますよ。

 ま、「実を言うと」っていう話なんですけど、え〜、1週間ほど前に、夏休みをいただきまして、「ロンドン」ってとこに行ってきたんですよ。(大笑)で〜、行きましたらね、「オリンピック」っていうのやっててですね、(笑)「ああ、これはちょうどいい」って思って「開会式」っていうのを見てきました。
 皆さんはテレビで暑い中ご覧になったでしょうけれど、ロンドンはこれがまた、とっても涼しくって気持ち良く、そんな中、開会式に参加してまいりました。実をいうと私、オリンピックが大好きで、もう子どもの頃からオリンピックっていうとワクワクして・・・。中でも「開会式」が好きなんです。もちろん各競技も見ますけど、開会式っていいじゃないですか。だって、全員揃うんですよ、地球上の国の人たちが、み〜んな。世界中の人がニコニコしながら集まってきて、みんなひとつの場所に揃うって、これ、世界広しといえどもあそこだけなんですよね。歴史上でいっても、あそこだけでしょう。ま、「国連」とかそういう会議の場もありますけど、あれは議論の場ですから、みんな笑顔ってわけじゃない。オリンピックのように、ある意味一般の人たちが世界中から集まってきて、別に何か議論するでもない、ケンカするでもない、自国の利益だけを主張し合うでもなく、まったく同じルールのもとで信頼し合い、心を一つにしてニコニコしている場って、他に思い当たります? 私、昔からオリンピックの開会式を見るたびに、心熱くしてたんで、「一度は生(なま)で!」って思っていたというのもあって。
 だから、今回の開会式でね、いろんな演出があったじゃないですか。テレビをご覧になりました? 全体に映画的な演出でしたよね・・・『ハリー・ポッター』だったり、『メリー・ポピンズ』だったりね、ヴァンゲリスの『炎のランナー』のテーマ曲とか、マイク・オールドフィールドの『エクソシスト』のテーマ曲とか、名だたる英国流の映画音楽の曲流して、それに合わせていろんな演出があって、それなりに感動しました。あの〜、女王陛下が天から降ってきた時には、ホントにもう場内大爆笑でしたよ。(笑)ホントに笑った。イギリスらしいユーモアですよねえ。
 どんな演出かというと、007のジェームズ・ボンドがね、宮殿に女王陛下をお迎えに行く映像が会場の大画面に流れて、その中に女王本人が登場するんですよ。007は、ともかく時間がないって感じで、女王を宮殿庭のヘリコプターに案内し、2人とも乗り込んで開会式会場に飛んでくるんです。もちろん事前に撮った映像や、生の映像を編集してるんでしょうけど、画面ではヘリからのカメラでだんだん本物の開会式会場が近づいてくる。やがてその映像が会場上空に来ると、実際の会場上空にホントにそのヘリが現れるんです。で、画面の中では007が下を見下ろしていて、降りるところがない、どうしようって感じで身を乗り出していると、「間に合わない!」とばかりに、彼の横から女王陛下が突然バアッと飛び降りた瞬間の、あの驚きったら! 実際に、上空のヘリからピンクのスーツ着た女王がパラシュートで降りてくるんですよ。どう見ても大きな人形でしたけど・・・もう、ああいうユーモア、ホントにイギリスらしいというか、みんなが心ひとつにして笑いました。
 そのパラシュートは会場の外に降りてっちゃうんですけど、直後に女王本人が会場に現れてスポットライトが当たり、みんな起立し、女王が宣言するんです。「ただ今より、オリンピックを開会します!」・・・じ〜んとするというか、よくやるよというか。みんなが喜んでいる、みんながこれから始まる2週間に期待している、みんながホントに心ひとつにしている、それがただのひとつの国じゃなくて、全世界で、実際に1カ所に集まってやってるっていう、そこに何ともいえない感動と喜びがありました。
 そんな風にいろんな演出があったんですけど、どんな演出よりも、私、あそこで開会式を生で見ていて一番感動したのは「入場行進」でした。あれ、テレビで見てると一番退屈じゃないですか。まあ、それなりに興味深くはあるけど、長時間、次々とずっと出てきてね、「早く日本出てこないかな」くらいな感じですけど、実際に見てると、あれがやっぱり開会式の中心なんですよね。だって、「本当に全員来ました」ってことでしょ。みんな来なくっちゃ話にならないんです。
 ギリシャから始まってね、恒例通り。ABC順に各国選手団が入ってくる。、全世界から、みんなが心一つにしてやって来て、それが一つ、また一つって揃ってくんです。で、最後は開催国であるイギリスが入って来てね。当然大歓声ですけど、その瞬間、とてつもない数の紙吹雪が舞ったんですよ。空からもね、ヘリコプターがドカ〜ンと紙吹雪を撒いて。ホントの雪かと思うくらい。なんとその数が、世界の人口と一緒の数なんですって。70億枚近く。やっぱりこう、感動しちゃいますよ。「ああ、全員揃った」っていう気持ち。人類が家族っていうんなら、わが家の家族がやっとみんな集まれた、みたいな。それが現実に目の前で実現している。
 その時の、なんていうか、心の中に起こった一番正直な気持ちを言えば、「やればできるじゃん!」っていう感じです。「人類、やればできるんだよ」と。なにしろそれが目の前で見えるわけだからね、全員揃っているのが。ただの理想じゃない。現実なんです。まあ、そりゃ、たかが一つのイベントですし、商業主義だとか政治的だとか言われたりして、言うほど清く正しいだけのものではないのは分かってますけども、参加している選手たちはみんな素直な気持ちでしょうし、現実にこうして人類が心を一つにして1カ所に集まって仲良くして、みんな笑顔でいられるわけですから・・・「俺たち、やりゃあできるじゃん!」って思ったわけです。

 こうしてミサをしていてもね、私たちそれぞれ、不平不満はいっぱいあり、問題もかかえていながらも、イエス・キリストのもとに一つに集まっているじゃないですか。素直な気持ちで一つになって。「やりゃ、できるじゃん!」って感じですよ。オリンピックは平和の祭典っていわれますけど、ミサは究極の平和の祭典でしょう、この集い自体が。なにがあろうと結局、神の国はもう来てるんです。私たち人類をホントに一つにしてくれる神の愛、神の命っていうものが確かにもう私たちのうちにあるはずだし、イエス・キリストこそはそれなんだって、私たちは信じてるんです。「わたしが命のパンだ」っていう、その「パン」のもとに、私たちは一つになって、みんな揃って、・・・それ、「やればできる」って思うし、その先に神の国の完成の日があるんじゃないでしょうかねえ。
 あのオリンピックの開会式だって、その極みはイエス・キリストだってイメージしたらいいんじゃないですか? イエス・キリストが、神の国の開会式みたいなもんですから。もう始まってるんです。イエスにおいてみんなが集まっているし、みんなが信頼し合ってるし。「神の国、もう始まったぞ」と、期待して喜びましょう。この後どんな楽しいことがあるだろう、どんな感動が待ってるだろう、どんな一体感が現実になるだろうっていう、その開会式、もうイエス・キリストにおいて始まってるんです。キリスト自身が「神の国の開会式」ですよ。王であるキリストの「神の国を始めます!」という開会宣言なんです。
 新約時代は、もう「神の国は開会した」という喜びの時代ですから。まあ、実際には問題山積みですけれども、ちょっとこう、心を新たにしましょう。第2朗読のパウロの言い方ならば「滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身につけなさい」ということでしょうけど、不平不満をいったん脇に置いて、私たちの心を一つにして、この「神の国」という真の平和の体験を一緒に楽しもうじゃないですか。「やればできるじゃん!」ってやっぱりお互いに思いたい。

 今日、これからご聖体を皆さんにお渡ししますけれども、それこそ、その「一体感」のシンボル。このご聖体のもとに私たちは集まっているっていう神の国のシンボルです。ロンドンの帰りにローマによって、ヴァチカンのサンピエトロ大聖堂で、またヨハネ・パウロ2世前教皇の祭壇前で祈りましたけど、そのすぐ先にある秘跡の礼拝堂、いつも聖体顕示しているとこですよね、あそこにも寄ってお祈りしました。霊的な平和の祭典を夢見て。
 「ご聖体のもとに、全世界のカトリック信者が心を一つにしている」
 「キリストのパンのもとに、全世界のキリスト者が心を一つにしている」
 「命のパンのもとに、全世界のすべての神の子が心を一つにしている」
 ・・・やればできますよ。

2012年8月5日 (日) 録音/8月10日掲載
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