だいじょうぶ、私を食べなさい

2014年6月22日キリストの聖体
・第1朗読:申命記(申命記8・2-3、14b-16a)
・第2朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント10・16-17)
・福音朗読:(ヨハネ6・51-58)

【晴佐久神父様 説教】

 先週は、ちょうどワールドカップの日本初戦の時間と同時にミサが始まったんで、説教で「必勝祈願ミサにしましょうか~♪」なんて一瞬口走ったけれど、でもミサで一国の必勝祈願なんて、いくらなんでもおかしいよねっていうことで、まあそれは止めておきましょうなんて説教をしたら、なんだか負けちゃいました。(笑)
 で、おとといの金曜日、第2戦も、ちょうど朝のミサだったんですよ。ミサが終わった時に、ちょうど試合が始まるっていうことで、だから説教で、「初戦は、必勝祈願しなかったら負けちゃったねえ。仕方ない、今日は必勝祈願しましょうか」なんて、また口走っちゃいまして。でも、やっぱりそれはできないですよね~。一国の勝利のために、ミサで祈願だなんてね。だからまあ、「半分くらい、お祈りしましょうか」みたいなこと言ったら、・・・引き分けたんですよね。(笑)
 ということは、え~、今日は第3戦のために・・・いや、やっぱりやめとこう。(笑)


 でもまあ、ワールドカップみたいなお祭り、私、好きです。やっぱりみんなが心合せるチャンスだし、さまざまな人たちに出会うチャンスだしね。教皇さまは先週もお話したとおり、「敵を尊敬するチャンスにしよう」みたいなこと言ってますし(※1)、まあ、自国を応援する以上に、まずはみんなの幸せ、平和をね、やっぱり祈りたいですよ。
 もちろん教皇さまだって、アルゼンチン出身ですから、アルゼンチン戦を見てて、メッシがゴールした瞬間は、思わず「うっ♪」と、こう喜んじゃうんじゃないですか?(笑) 当たり前ですよね。しかし、だからこそ、教皇さまは、そんなときこそ「敵を尊敬するチャンスにしようじゃないか」と。

 それにしても、なんでこんなに突然、みんな愛国者になるんだろう。(笑) そんなにみんな、自分の国、好き? それほどに国家を愛してるってこと?
 ・・・どうも本当のところは違うんじゃないかって気がする。もちろん故郷を愛する気持ちは自然だけど、故郷や民族イコール国家じゃないですよね。時代によって分裂する国もあれば合併する国もあるし、結構、国家なんて枠組みには、幻みたいなところがありますよ。
 実はみんな、国そのものが好きだっていうんじゃなくって、国が、自分のプライドとか自分の喜びを肩代わりしてくれてるように思い込むんでしょうね。そういうことじゃないですか? 自分の国が優勝すると、まるで自分が優勝したかのように思い込む。それによって、自分が他より優れた者、幸福に(あずか)ってる者だって思い込みたい。普段不満や劣等感を持ってるから、たまには得意な気持ちになりたくて、国と自分を同一視して、思い入れを増幅させる、みたいなね。
 で、またさらに思う。「であるならば」ですよ、なんか同じような思いを、もっとこう、人類全体でイメージすることができないかな、と。国なんかでもできるんだから、できるはずじゃないですか?
 たとえばまあ、ファンタジーですけど、星別対抗戦だったらね、「火星チーム」と「金星チーム」と「地球チーム」でワールドカップだったら、地球上の全人類、みんな国連の旗でも振って応援するんじゃないですか。それこそ、優勝でもしようものなら、みんな、「やったぞ~!」って、民族が違っても、宗教が違っても、地球人同士、肩抱き合って喜び合うはず。・・・そういうことでしょ?
 なにもね、国家なんていうあいまいなものに、命預けるみたいなことしないでも・・・。聞いた話ですけど、ブラジルで前回開催されたワールドカップの時には、決勝戦で、ブラジルが勝ちそうだったのに逆転負けしちゃって、スタジアムで二人の人が自殺したそうですよ。・・・変な話ですよね。そこまで、「国家」っていうものと自分を同一視しなくても。
 もしするんだったら、この地球とか、人類とか、そういうものに同一視して、みんなが喜べるようなことに胸熱くしたり、一緒に祝ったりっていうこともあり得るはずだって、イメージするんです。みんなで工夫すれば、できるんじゃないの?って。

 第2朗読を今読んでましたら(※2)、パウロが、「みんな一つだ」っていうことを言ってますね。で、その秘密は、
 「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体だ。皆が一つのパンを分けて食べるからだ」(cf.一コリ10:17)
 これなんか、地球上で生きていれば、いろんなものを私たち食べますけれど、食べ物の本質には、なにか、大いなるいのちの源から与えられた恵みっていうような本質があって、「み~んなで、その一つの恵みを食べているから、私たちはこの地上で大勢でも一つの体だ。皆が一つの恵みを分けて食べてるからだ」っていうような、そんなイメージでいいんじゃないですか?
 逆に言えば、「そのような一致をもたらす恵みをこそ、キリストと呼ぶ」っていうの、どうでしょうね。普遍主義っていうのは、そういう大らかな憧れを持っていていいんじゃないですかね。
 バラバラのパンを、バラバラに食べて争い合うとか、あるいは、自分の所にだけパンを集めて、他の所にパンを渡さないとか、そんなことしてて、「一つだ」なんて言えっこない。
 「一つのパン」
 全人類が一つになるために天から与えられた「一つのパン」、一つの恵み、イエス・キリスト。
 それを、全人類が味わえるような日。そのときに、もう、「イエス・キリスト」という言葉すら、もしかしたら使わなくてもいいかもしれない。全人類が、ホントに一つになるんであれば。
 「そのときキリストは食べ尽くされて、みんなの栄養になる。そんな、みんなを一つにする天からの恵みを食べて、人類家族が成長し、一致し、互いに犠牲を捧げ合う」みたいなね、そういうことに奉仕するキリスト教って、あり得るような。・・・そんな、第3バチカン公会議とか、第4バチカン公会議で語られるようなこと、目指したいな~と。・・・ちょっと先走った考え方でしょうかね。
 私なんかは、普遍主義の「けもの道」を、手探りで歩いてるんで、第3バチカン公会議とか、第4バチカン公会議っていうものに、わくわくする憧れを持ちますが、どうなんでしょう。ぼくが生きてる間に、そんな兆しが表れたら、どんなにうれしいか。・・・ちょっと早く生まれ過ぎたのかな。(笑)

 今日、初聖体受ける子どもたちは、いいね。これから、きっとね、第3バチカン公会議とか、ありますよ。「ああ、初聖体の日に、なんかそんな話してたな」って思い出してくださいよ(※3)
 「全人類のために食べられるイエス・キリスト、みんなが食べて一つになるパン」
 そんな憧れを持って、今日、ご聖体食べてくださいね。最高の食べ物ですよ、ご聖体。・・・究極の食べ物。
 皆さんも今まで、おいしい物、いっぱい食べてきたでしょ? 皆さんは何が好きなんですか? カレーとか? きっと何か、いろんな好きな物があるでしょう。パクパクパクパク、いっぱいいろんなおいしい物食べてきた。これからもいっぱい、おいしい物、食べるでしょう。だけど、あなたたちが生涯食べる物の中で、今日、これからいただくご聖体は、最高の食べ物なんですよ。永遠のいのちの(かて)。全人類が一つになるための、すべての人が喜びに満たされるための、最高の食べ物。神さまが(・ ・ ・ ・)与えてくださった、天からの食べ物です。・・・しっかり食べてくださいね。
 これは、皆さんが立派だからもらえるんじゃない。信仰が豊かだからもらえるんじゃない。何にも分かってなくても、何もできなくても、神さまがあなたたちを選んで、与えてくれるパンです。・・・悪い子でも、弱い子でもいいんです。
 さっきから見てたんですけど、初聖体受ける子供が、もじもじ指をいじってると、すぐ後ろの席からお母さんが手を伸ばして、「ダメよ!」って、(笑) 止めてるんですね。お母さんにしてみれば、わが子にいい子であってほしい。当たり前のことです。ミサ中はちゃんと手を合わせて、マジメにしててほしい。子どもの方も、叱られたくないし、もじもじしないようにがんばってる。でも、どんなに我慢しても、君は結局また、もじもじ指いじってましたよね。(笑) そうするとお母さんは、また「ダメよ」って言おうかどうか、後ろの席でヤキモキしながら迷ってる。
 そんな様子見ながら、実は私も「もじもじ君」でしたから、ものすごく共感するんですよ。落ち着きがない子で、どうしても、もじもじ、もじもじ動いちゃう。
 小学生のころ、少年少女合唱団に入って歌ってたんですけど、虎ノ門ホールでの発表会の日、後で何度も、みんなに言われた。・・・「ステージの上で、昌英君だけ動いてた」(笑)
 みんなピターッとね、じ~っとしてこう、歌うでしょ。ぼくだけ、こう、なんか、もじもじ、もじもじ。じっとしてられないんですよ。まあ、多動児の傾向があったんですね。いつもウロチョロして、いつももじもじして、みんなと同じにできなくって。

 昨日も一人、「ぼくは発達障害だって言われました」っていう青年が相談に来て、私、すごく共感したんですよ。二十代なんですけど、今大学受験がんばってる青年。
 彼は子どもの頃から、いつも「そんなんじゃだめよ」と言われ、「ちゃんとやれ」って叱られ、みんなと同じようにはうまくできなくて自尊心が低くなり、だから「子どもの頃からイライライライラしてきた」って、そう言いました。がんばっても、うまくできないんですよ。ちゃんとやろうと思っても、うまくいかないことがいろいろある。そんな自分がいやで、イライライライラして生きてきた。そんな自分がどう思われてるか、いつも人の目が気になって。
 で、相談に来たわけですけど、彼が一番気にしてるのはこうだって言うんですね、
 「自分は親に迷惑ばかりかけて、ちゃんと恩返しできてない。ずっと忍耐してくれてる親に甘えるばかりで、ちゃんと感謝できてない。愛を返していない。そんな自分にすごく苛立(いらだ)って、つらい」って言うんですよ。
 驚きですよ。・・・こんないい子、いないですよね。
 だから私、その彼にね、
 「いや、君はそんなふうに思ってるなら、じゅうぶん親を愛してるし、じゅうぶん親に感謝してる。だいたい、本当に親に感謝していないとか、親を愛してない子どもは、自分がそうだなんてこと、カケラも思ってません。そういうもんでしょう。たとえば、自分を偽善者だって言う人は、偽善者じゃない。なぜなら、本当の偽善者は、自分を偽善者だなんて思ってないから。
 自分が「できていない」って謙遜に思えるなら、「実はちゃんとできてるんだ」って気づいてください。「自分に足りないものがある」って、いつも自分を責め、「こんな自分じゃだめだ」って思ってきた人は、むしろ、「そんな自分でもぜんぜん大丈夫だ」ってことに気づいてほしい。
 あなたは、じゅうぶん親を愛せているし、何の心配もない。もう自分に何か足りないと思わないでくれ」と、昨日はこんこんと、まるで自分に言い聞かせるかのように、お話ししました。
 なぜなら、親はそんなこと求めていないから。
 いい子に育ってほしいとか、いつかは恩返ししてほしいとか、親は究極的には、そんなこと思っていません。あなたがどんなあなたでも、本当に自分を受け入れて、「こんな自分が存在していることは素晴らしい!」って実感してくれれば、それが何より親の喜びなんです。
 もちろん、「まだダメだ、もっとこうならなきゃならない」って、親はそう言いますよ。だけど、「もしそうならなかったら、もううちの子どもじゃない」って言うかっていったら、そうでもないんです。たとえ何もできなくても、親は子どもを愛し続ける。むしろ、結局できない子どもを、「やっぱり私の子ね」くらいに思って、ホントに受け入れる。
 神と人との関係の原点も、そこにありますよ。
 ど~んな悪い子にでも、ご聖体はやって来る。・・・これはなぜでしょう。
 神としては、「このご聖体を食べていい子になれよ」っていう、まあ、そういう思いもちょっとはあるけれども、それ以前に、「あなたを愛しているから」「あなたが悪い子でも、大好きだから」、ご聖体を食べさせる。ご聖体を自分の体として分け与える。・・・これが神の思いです。
 だから、ひと言で言えば、私たちはそれを、ただ食べればいいんです、神からの愛として。
 ご聖体の主日のキーワードはですね、まあ、私の言い方で言えば、
 「いいから、黙って食え」
 ・・・これです。ごちゃごちゃ言わず、まず食べろ、と。
 さっきのヨハネの福音書では(※4)、ユダヤ人たちが、「どうして体を食べさせることができるのか」とか、なんか議論してますけれど(cf.ヨハネ6:52)、「ご聖体」と「議論」は似合わない。
 ご聖体は、黙って、感謝して、最高の恵みを神が与えてくれているということに感動しながら、何も分からなくてもいいから、黙って食べる。

 昨日の入門講座に来た方、講座が終わるやいなや、私に相談したんですよ。
 「私の母は認知症で、施設に入っている」と。「その母の所にご聖体を届けてほしいと、ある神父さんに頼んだら、『何も分からない人にご聖体をあげてもねえ』と渋い顔をされた」と。だから、「カトリックの教えでは、そうなんですか?」と。
 周りの方もちょっと心配そうにね、晴佐久神父はどう答えるかって感じで聞いてたんですけど、私、お答えしました。
 「『何も分からない』って言うけど、意識より深い魂の世界では分かってるんじゃないですか。そもそも、「分かってるか、分かってないか」なんて線の引きようがないし、むしろそういう方のために、『理屈抜き』のご聖体があるんじゃないですか。第一、じゃあみんなは『分かって』いるんでしょうか」
 どうですか、皆さん。もし今、仮に、私が、「今日はご聖体の主日ですから、『私はご聖体の神秘をすべて理解しているし、このパンはキリストそのものであると信じていますし、キリストの犠牲と一致して生きています』という方は、前に進んでください」と言われたら、誰か出てきます?
 ・・・もし出て来たら、「帰れ!」って言いたい。(笑) それで出て来る方がおかしいでしょう。
 私だって分からないですよ、神秘の「すべて」は。ただ、イエスさまが、命を捨てて殺される、その前の日に、「これがわたしの体だ。これを食べよ(※5)」と、そして復活の主が弟子たちに現れて、「世の終わりまで、わたしはあなたたちと共にいる」(cf.マタイ28:20)と、そう言ったイエスのお言葉を、「ちゃんと理解はできなくても、信じよう」と、そう思って、もう半世紀、ご聖体を食べ続けてきました。それでも、ちゃんと「分かった」と言えるかどうか。
 「何も分からない人にご聖体をあげてもねえ」ってことなら、たぶん誰も食べられない。神も、そんなことは重々承知。
 むしろ、むしろ(・ ・ ・ )ですよ、分からないからこそ、「黙ってこれを食え」なんじゃないですか。もう最後の最後は理屈の世界じゃない。ホントにつらいとき、「神も仏もあるものか」と絶望するようなとき、もはやどうすることもでないときこそ、医者も政治家も科学者も教育者も、この世の親ですら、もうどうすることもできない、そんなときにこそ、
 「だいじょうぶ、わたしを食べなさい」
 イエスさまが命がけで残した、その遺言を、私たちは最後の( ・ ・ ・)砦として、こうして守ってるんですよ。
 「何も分からないけど、これさえ食べれば、もうだいじょうぶ」と、そういう信仰で、まことの親の愛を頂いたらいいんじゃないですか?
 ダメな自分だ、足りない自分だ、そんなことは当たり前のことです。それを責めるんじゃなく、そもそもそうなんだというのを大前提にして、生きていきましょう。今からその足りない所を埋めようったって、まあもう、ほとんど無理なんじゃないですかねえ。だんだん、残された時間も少なくなってるし。むしろ「足りない」っていうことが当たり前で、その足りない所を、「私が」満たすんじゃなくって、「神さまが」満たしてくださる。それがご聖体だっていう、そういう信仰を、今日は新たにしてほしい。
 私たちは弱いし、貧しいし、欠けている。だからイエスさまは、「わたしが満たそう」と言って、ご自分を渡してくれた。私たちは黙ってそれを受け入れ、完全な者に、だんだん近づいていくんです。

 さあ、子どもたち、いよいよね、最高のパンを食べますよ。
 さっき、一緒にお御堂(みどう)に入堂するときに、「うわ~、緊張する~っ」なんて言ってたけど、今はぜんぜん緊張しているように見えないね。(笑) でもね、いよいよ頂くときは、ちょっとドキドキドキってしますよ。
 その手、そのちっちゃなお手々にのっかる、そのご聖体は、神さまご自身です。
 皆さんもね、これからきっと、「ああ、自分は足りないなあ」と、「また叱られちゃったなあ」と、「また、なんかみんなから嫌なこと言われたなあ」と思う、そういう時がいっぱいあるでしょう。そういうときに、思い出してください。
 「私はもうご聖体を頂いている、本物の神の子だ。
 誰も私を滅ぼすことはできない。裁くこともできない。
 イエスさまが私の中に宿っていて、いつでも私を守ってくださっている」
 ・・・そう、思い出してくださいね。
 そして、ホントに悲しいこと、つらいことがあったら、次のミサを楽しみにしてください。
 「またミサに行ってご聖体をいただくぞ」と、「神さまを食べたら、もう何にも怖くない」と、そう思ってください。

 次はいよいよ第3戦。(笑)・・・これまで見てて、「これじゃ勝てんな」と思う。
 っていうのは、選手たち、本音では「自分たちは、まだまだだ」って思ってるから。
 「まだここが足りない、だから負けちゃった。もっとこうしなくっちゃ、勝てるはずない。本当を言えば、まだまだ私たちは足りない」って思ってるんですよ。いや、実際足りないでしょって皆さん思ってるかもしれないけど、それじゃ勝てない。私に言わせればそうです。見てて分かりますもん。もっとがんばらなくっちゃ勝てないぞって、みんな、「自分で」そう思っちゃってる。
 あれくらいの短期決戦のお祭り騒ぎの、究極の勝負になったら、「私はすでにすべて持ってる」「天から必要なものはもう与えられている」「このチームが世界一で、だれも対抗できない。何も怖くない」っていう信仰がなくっちゃ。その信仰から生まれる安心、喜び、感動、平和、そういうものがなければ、トップまでいけないですよ。
 「まだまだ足りない」なんて怯えて、「もう後がない」だとか、「勝つしかない」とか、「崖っぷち」とか、なんかそんなこと思ってるうちは、全然だめでしょうね。
 私、あの人たちみ~んなに、ご聖体食べさせたいんです。(笑)
 ご聖体は、「自分はこれで万全だ」っていう安心、喜びですよね、それを与えたい。・・・呼んでくれないかな、メンタルトレーナーみたいにして。(笑)
 みんなを祝福して、「あなたは何一つ足りないところがない。すべて、やることはやってきた。あとは神が守ってくれると、そう信じて、好きにやれ!」と、そう言いたいよ。
 人生、恐れたら負け。
 さあ、子どもたち、ご聖体頂いた人は、人生、優勝できますよ。(笑)


【 参照 】

※1:「教皇さまは先週もお話したとおり、『敵を尊敬するチャンスにしよう』みたいなこと言ってますし」
・ 先週(2014年6月15日〈三位一体の主日〉)説教「金色の光に包まれて」参照
その中で、教皇さまがワールドカップに向けてのビデオメッセージを出され、「このワールドカップで、われわれの内に、利己主義を超え、差別や偏見を捨て、敵を尊敬する心を育てようではありませんか」という趣旨で呼び掛けられたと話された。
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※2:「第2朗読」
・ 本日(2014年6月22日〈キリストの聖体〉)の第2朗読箇所
    「使徒パウロのコリントの教会への手紙一」10章16~17節
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※3:「ああ、初聖体の日に、なんかそんな話してたなって思い出してくださいよ」。
・ カトリック多摩教会では、この日、4人の子どもたちの初聖体の式と記念のお祝いがありました。
(下の画像はクリックすると、それぞれ大きく表示されます)
初聖体-記念写真初聖体-お祝い
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※4:「さっきのヨハネ福音書では」
・ 本日(2014年6月22日〈キリストの聖体〉)の福音朗読箇所
    「ヨハネによる福音書」6章51~58節
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※5:「これがわたしの体だ。これを食べよ」
(参考)
・ 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。
「取って食べなさい。これはわたしの体である。」 (マタイ26:26)
・ 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。
「取りなさい。これはわたしの体である。」 (マルコ14:22)
・ それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。
「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」 (ルカ22:19)
・ 感謝の祈りをささげてそれを裂き、
「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。 (一コリント11:24)
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2014年6月22日 (日) 録音/2014年6月29日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英