もういいよ、ゆっくりおやすみ

2016年1月24日 年間第3主日
・第1朗読:ネヘミヤ記(ネヘミヤ8・2-4a、5-6、8-10)
・第2朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント12・12-30)
・福音朗読:ルカによる福音(ルカ1・1-4、4・14-21)

【晴佐久神父様 説教】

 マイクの調子、どうですか? 聞こえますか? 昨日、この朗読台のマイクが大変調子が悪くって、私、司祭席側で説教したんですよ(※1)。・・・だいじょうぶですか? 今日は調子いいみたいですね。なんかね、昨日、接触が悪いのか、ガガガガ! ブバババ!って、すごい音が入っちゃって、使えなかったんです。
 だから、昨日、説教でこんなこと話しました。
 「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ1:21)っていう、この福音、素晴らしい箇所ですね(※2)。イエスさまが福音を語ったら、その言葉がみんなの耳に入って、みんなの心に届いたとき、「もう救いは実現した」っていう、こんな素晴らしい箇所は、ないんですけれども、そこを読んでたら、雑音が入って邪魔された。
 司祭がイエスの言葉を朗読し、神の言葉として福音を語って、それがちゃんとみんなに聞こえたときに、・・・それをもう、ちゃんと理解できたかどうかはともかく、み言葉がみんなの心に届いたときに、福音は実現している。私たちが実現させるんじゃない。神さまが実現させる。これはもう、「み言葉が届いた今、もうここに実現している」っていう、最高の宣言なんです。
 その福音を語っていると、ガガガガッ!ブバババッ!と。(笑) だから私、その時、「悪霊、来たな!」(笑)って話しちゃった。あれこそ悪霊の仕業ですよ。なにしろ、悪霊にとって、一番怖いのは、「福音」なんですね。福音を人々が聞いちゃったら、聞いて信じちゃったら、もうアウトなんです。悪霊なんて、やってることは、人々をただ恐れさせるだけですから、恐れを越える福音が最大の敵なんです。だから、悪霊は、なるべく、救われない可能性に目を向けさせます。
 「この世界は悪い世界だ、救われない人もいるかもしれない」
 「だとしたら、私こそは救われぬ罪びとだ」
 「地獄で永遠に苦しむんじゃないか」
 そう恐れさせる。そんな教えがあるとしたら、それこそ悪霊のしわざですね。
 しかし、人々がそんなふうに恐れているときに、「だいじょうぶだ、イエスさまのおかげで、もう救いは、あなたたちのうちに実現した!」という宣言が響き渡る。福音ですね。
 今だって、ここに、心が暗い人、いるでしょ。救われないかも知れないと思って苦しんでいる人が現にいるじゃないですか。でも、それって、悪霊がそう思わせてるだけですよ。本当は、私たちは全員神に愛されているんだし、みんな必ず、全能の神の愛の御手によって救われているというのに、それを邪魔する言葉とか、疑わせる出来事とかに触れると、私たちはもう、それで心が閉じちゃう。
 ・・・そこに、福音が語られる。
 「あなたたちは、もう、救われている!」って、福音を聞いて、聞いた人々の内にそれが実現しちゃうことを、悪霊は一番恐れるんですね。だから、聞かせまいとするんですよ。
 だから皆さん、聞いてください、信じてください。「もう、こんな自分はだめだ」とか、「(ゆる)されないんじゃないか」とか、すごくつらい思いをしている人に、神さまは今日も、救いの言葉を語っているし、救いのわざを実現している。これは、「福音」ですね。・・・福音です。
 この世の悪しき言葉に、とらわれてはいけません。この世の言葉は、ホントに、人を恐れさせる言葉だったり、苦しめる言葉だったり、対立させる言葉だったり、傷つける言葉だったり。そういう言葉ではなく、主の言葉を聴いてください。
 「捕らわれている人に解放を、神さまの愛が見えなくなっている人に、神さまが本当におられるということを、はっきりと見せる」(cf.ルカ4:18)
 こういう福音をね、聴いてください。
 「圧迫されている現実から自由になる」「主の恵みの年を実現させる」(cf.ルカ4:18-19)
 こういう言葉を聴いてください。

 昨日、「ど――っしても赦せない人がいるんです。どうしたらいいでしょう」って、面談を申し込んできた方がいて、話を聴いたんですけど、その方、座った途端に、「4人います」って。(笑)
 で、その時は面談時間が1時間しかなかったんですけど、最初の一人の話で30分使っちゃった。(笑) だから私、「あと3人、10分ずつでお願いします」って。(笑)
 でね、なんで赦せないかっていうと、結局その4人が、いずれも「私を傷つけることを言った」ってことなんですね。だから、私、最後の5分で申し上げました。
 「よく分かりました。でもね、この世の言葉は、基本的にあなたを傷つける言葉だと、もう、あきらめてください。そういう言葉は無視して、反応しないに限る。あなたを傷つけるような言葉を聞いても、それはもう意味のない声、たとえばセミの声だとでも(笑)思ってください」と。
 夏になると、セミ、鳴いてますでしょう、ミンミン、ミンミン、鳴いている。これ、別に意味はない。ただ鳴いてるもんなんです。「鳴くな!」って言ったって、しょうがない、そういうもんなんであって、聞こえちゃう。ミンミン、ミンミン・・・。だからもう、みんなあきらめて、どんなにうるさくても、反応しないでしょう。いちいち、「このセミうるさいな」「あのセミうるさいな」って反応してたら、外を歩けませんよね。みんな、聞こえてはいるけれど、「ああ、鳴いてるな」と思って、通り過ぎる。人の言葉も、そんなようなもんだと思って、通り過ぎましょうってこと。しょせんは、この世の言葉なんだから、相手にしない。1匹、1匹、「このセミめ〜っ!」とか、「うるさくて赦せん!」とか言ってたらきりがない。
 「そんな言葉は聞き流して、福音をこそ、聴いてほしい」と、そう言いました。福音をひと言聞けば、実現しちゃうんだから。・・・「あなたを愛している」っていう神の言葉を聞けば。
 「貧しい人に福音」
 「捕らわれている人に解放」
 「見えない人に視力の回復」
 「圧迫されている人に自由」(以上、ルカ4:18)
 ・・・そのような、神さまのなさっておられるわざが、「今日、聞いた時に実現した」(ルカ4:21)っていう、この福音を聞けば。
 ・・・「実現した(・ ・)」ですよ、完了形なんです。
 「もう、あなたたちのうちに実現してるんだ」「実現し始めてるんだ」、これを聞く。セミの声に傷ついてる場合じゃない。

 特に、この「主の恵みの年」(ルカ4:19)なんていうのは、これ、「ヨベルの年」(※3)っていうんですけど、50年に一度、借金がチャラになるっていう年なんですね。昔のユダヤ社会の工夫ですよ。借金で首が回らなくなって、すごくつらい思いをしてる人、それが、50年に一度はぜんぶがチャラになる。こうして社会が安定するっていう工夫ですね。古来の知恵ですよ。
 どこかに富が集まって、どこかはどんどん貧しくなって借金せざるを得なくなって・・・っていうような不公正が高まったときに、いったんチャラにして、もう一回、ホントにみんなでね、助け合って、一つひとつ、また積み重ねていこうよっていう、まあ、そういう工夫。
 それで言うなら今の時代こそ、「ヨベルの年」、必要なのかもしれないですね。
 数日前の新聞を読んでたら、世界のお金持ちを順番に上から62人並べると、その総資産が、下から並べた何人分かっていう、そういう記事があった(※4)。分かります? 一番のお金持ちから数えて、・・・なんで「62人」なのか、よく分かんないですけど、62番までの資産をぜんぶ足すと、下から何番目までの人たちの資産と同じ額になるかっていう。「国際援助団体の推計」っていう記事でしたけど、これ、何番目の人までいくと思います?
 ・・・約36億番目ですって。62人分が、36億人分ですよ。これ、ど〜う考えたって、「ヨベルの年」、必要じゃないですか? やっぱりこれ、チャラにしましょうよ、と。債務チャラ。そこからまた始めりゃいいじゃないですか。
 世界36億人分の富を持ってるって、これ、幸せなんですかね。穏やかに眠れないんじゃないですか。・・・こういう人ほどよく眠るって聞いたことありますけどね。(笑)
 でもね、金持ちが悪いんじゃないんですよ。昨日、入門講座でその話をしたときに、ある人が、「神父さま、ぜひその62人に福音を伝えに行ってください!」って言うんです。(笑) 気持ちは分かるけれども、私、答えたんです。「この62人が回心しても、世界は変わりません」と。だって、次の「62人」が現れるだけですから。
 ・・・これ、システムが悪いんです。だから、「お互いに、持ってるものを分かち合いましょう」っていう、福音的システム、それこそ「ヨベルの年」を実際にやるシステムみたいなことを、私たちが、ホントに始めなきゃならない。でも、それには、福音の力が絶対に必要です。
 なぜなら、福音こそが、恐れから人を自由にするから。人って恐れるから集めるんですね。不安だから、「もっと集めよう、手放したら最後だ」なんてことになるけれど、そんなの、妄想に過ぎない。福音をちゃんと聴いていれば、恐れがなくなって、集めなくても平気になるし、持ってるものさえいらなくなっちゃうんですよ。そういう自由。・・・まさに、それこそが「自由」なんです。
 「圧迫されている人を自由にし」(ルカ4:18)っていうんなら、まさに、トップ「62人」の方が、圧迫されているのかもしれない。最も解放されるべきは、持ってる方かもしれない。・・・それには、やっぱり「福音」が必要です。
 「もう、私たちのうちに救いが実現している」(cf.ルカ4:21)っていう、この安心、喜び、自由があったら、この世の、人を傷つける言葉なんかね、もう、セミの鳴き声くらいにしか聞こえない。それに対して、「この世の富をかき集めなくっても、神の愛に目覚めることができて、もうじゅうぶん幸せだ」っていう福音を、イエスさまは、もう宣言しているんだし、それは実現しているんだから、われわれは、「やってけるんだ」っていう希望を持ちたいですよ。
 ・・・多摩教会、そういう教会であってほしい。教会家族においては、もっともっと解放されて、自由に、助け合って、持っている人が持っていない人のことを考える、そんな教会。そうだったら、それを見て、だれもが「これがホンモノだね」って分かるだろうし、それこそが、「神の国の目に見えるしるし」である教会の使命なんじゃないですか。
 「もう、われわれのうちに福音が実現している」っていう、そんな喜びに励まされて、新しい世界を始めましょうよ。

 先週、高槻(たかつき)に行ってきたんですけど、高山右近(※5)の城下町でしょ。・・・高槻市。
 高山右近、ようやく福者(※6)に認定されることになりました(※7)。日本のキリスト者にとって、ホントにうれしい、誇りとするべき出来事だと思います。
 高山右近なんか、キリシタン大名としてね、すごく人徳があって、みんなから慕われて、本当に素晴らしいお殿様だったわけですけれど、キリスト教が禁教になって、「教えを捨てろ」と言われたときに、「教えを捨てるくらいなら、領地を捨てます」と言って、領地を手放して、お城を手放して、逃れて隠れ住んで、最後にはフィリピンに流されて、そこで病死したんですね。これは殉教だとバチカンが認めて、このたび福者に認定ということになったわけですけど。
 高山右近にしてみたら、どれだけの富とか、名声とか、お城とか、領土とかを持ってても、そんなの何でもないんですよ。手放したって、ぜんぜん構わない。「福音」こそがすべてだから。
 神さまの愛の教え、すべての人を救う神さまの恵みの力を信じているから、それがこの私のうちに実現しているという喜び、誇りがあるから、この世の消えていくものにすがりつくなんていうことは、しないわけです。・・・まさに「福者」です。
 この世の人々は、もう、この世に洗脳されきってますから、この、「福音を第一に」っていう感覚が、なかなか身に着かないっていうことはあるかもしれない。でも、多摩教会の皆さんは、「教会家族」を目指して、一週、また一週と、福音を信じて微調整し続けるこの現場を誇りに思って、「ここでホントに『神の国』やるぞ!」っていう希望を持って、歩んでいっていただきたいなあと願います。
 ・・・もうお気づきでしょうけど、もう、毎週の説教が、遺言ですからね(※8)。(笑) ・・・ぜひそうあってほしいと、心から願います。

 「もう、福音が実現している」っていうことで言えば、先週の成人式ミサで、私の同居人もついに成人ってことで、ちゃんとスーツ着て、頑張って出てきたんですけど、お気づきのとおり、倒れちゃいました。答唱詩編は、なんとか歌ったんですけど。・・・ちゃんと歌えてませんでしたでしょ。あのとき、もうフラフラで、あの状態でよく歌いましたよ。
 私、見てて、すぐに分かりました。「ああ、眠剤(睡眠剤)飲んじゃったな」と。前日、明日は成人式だし、ちゃんと歌わなきゃならないしで、緊張したんですね。うつを患ってると、そういうとき不安になるし、眠れない。深夜、眠剤を飲んじゃったら、効き過ぎて、頑張って起きたけど、フラッフラ。
 『聖書と典礼』(※9))も開けられず、それでも頑張って歌いましたよ。・・・その後、座り込んじゃって、説教中にバッタリと、私の目の前のベンチで横になって、寝ちゃったんです。
 彼、青年会長ですけども、副会長がね、彼の横に行って介抱してくれましたけど、私、説教中だったんで、ついつい目の前の彼に説教しちゃいました。
 「だいじょうぶ! 19歳から20歳、20歳から21歳、必ず、よくなっていくよ。必ず、いい自分になっていく。いい世界になっていく。いい教会になっていく。・・・安心してほしい。困難はあっても、主のみわざは、かけがえのないもので、もう、あなたはそのみわざのうちにあるんだ」
 ・・・って、本人は聞こえてないんですけどね、あれ、目の前の彼にしゃべってたんですよ。・・・覚えてますでしょ、そんなようなこと言ってたの。後で、「福音の村」で、読んでみてください(※10)
 ただ、そのときに、ふっと、「この光景、見たことあるぞ」って、思った。
 「あれ? ・・・これって、去年の暮れにi(アイ)プラザホールでやった聖劇(※11)のワンシーンと、まったくおんなじだ」って気づいたんですよ。
 第4場のラスト、多摩教会の聖堂の中で、彼が演ずる「健太」が、信者たちが見守る前で必死に歌うシーンです。眠くて倒れそうになりながら・・・健太、一週間寝てないんですね、必死に歌って、歌い終わったら、バッタリと倒れちゃって、そのまま寝ちゃう。そうすると、副会長が演ずる「神父」が、駆け寄って寄り添うんです。そして、「もういい、もういいよ。ゆっくり、お休み。明日のために」と言って、信者さんたちに、「みんなに相談がある」って言ったところで暗転して、第5場にいくんですけど、何の相談かと言えば、教会家族のみんなにね、「この彼を受け入れよう!」っていう、まあ、そういう話(※12)
 これ、私の脚本ですけど、去年の暮れに、青年会長の彼が主役で、副会長が神父役で、実際にそういう芝居をしてるんです。そうしたら、三週間後に、目の前でね、彼がフラフラになりながら必死に歌った末に、バッタリ倒れて眠っちゃって、副会長がそばに来て寄り添って、神父が、「もういい、ゆっくりお休み」みたいな説教をしてる。(笑) 不思議ですね〜。実現しちゃった。

 私たち、教会家族をやってますけど、これ、聖書の出来事と、ぜんぜん無縁じゃないです。おんなじことなんです。あの教会家族をテーマにした聖劇も、神のみわざなんです。
 神さまは働いています。神さまは、「現実の中に」働いています。
 だから、どんな現実でも(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)、救いのうちにあるんですよ。・・・お忘れなく。
 「あなたの」考えじゃない。「神さまの」お考えなんです。
 私たちのすべての(・ ・ ・ ・)現実が、救いのうちにあります。
 福音は、実現するんです。

 副会長、ミサの後、彼を部屋まで運んでね、芝居で自分が言ったセリフを、現実世界で言ったそうですよ。(笑)
 ・・・「もういい、もういいよ。ゆっくり、お休み。明日のために」って。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)

※1:参考画像
 
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※2:「この福音、素晴らしい箇所ですね」
2016年1月24日(年間第3主日)の福音朗読箇所
 ルカによる福音書 1章1〜4節、4章14〜21節
 〈小見出し:1章1〜4節「献呈の言葉」、4章14〜15節「ガリラヤで伝道を始める」、16〜30節「ナザレで受け入れられない」から抜粋〉
==聖書該当箇所==
 (安息日、イエスは故郷ナザレの会堂で、聖書を朗読しようとお立ちになった。)
 
預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある箇所が目に留まった。
 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。
 主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(中略)そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。(ルカ4:17〜19、21/赤字強調引用者)
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※3:「ヨベルの年」
 イスラエルにおいて、7年目の年を安息年(安息の年)と呼んでいたが、この7年目が7回巡った(7×7=49年)後の第50年目を「ヨベルの年」としていた。(「ヨベル」の原意は「雄羊の角笛」)
 レビ25:8以下によれば、この年はイスラエルの農閑年(畑を休ませ、植えたり育てたりすることができない年)であり、その「贖罪日」に雄羊の角笛が国中に吹き鳴らされて、売却地はもとの所有者に返還され、すべての貸借関係は解消され、イスラエル人奴隷は解放されなければならなかった。
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===(もうちょっと詳しく)===
 この「ヨベルの年」は、古代メソポタミア(紀元前3千年ごろ)において王が発布した徳政令に似ているが、バビロニア捕囚(紀元前597~538年)前のイスラエルで、実際に施行された記録はない。
 しかし、第二神殿時代(紀元前516年〜紀元後70年)には安息年の実施がネヘ10:32、Ⅰマカ6:49、53などに示唆されているので、ヨベルの年が現実味をもった可能性も否定できない。
 カトリック教会の「聖年」は、この「ヨベルの年」が背景にある。
(参考)
・ 2008年『岩波 キリスト教辞典』岩波書店
・ 「ヨベルの年」(「キリスト教マメ知識」:ラウダーテ)
・ 「聖年」:「神と人とのバリアフリー」(「福音の村」2015/12/6説教)の「参照※7
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※4:「世界のお金持ちを順番に上から62人並べると、その総資産が、下から並べた何人分かっていう、そういう記事があった」
 国際非政府組織(NGO)のOxfamが世界経済フォーラムのために調査したところによると、現在、世界の富裕層上位62人の資産合計は、世界の下位50パーセントにあたる36億人の資産と同等であることが分かった。
 世界の下位半分の資産に匹敵するのは、2010年では上位388人、2012年は159人、2014年は80人だったのが、2015年には62人となり、この5年で貧富の格差は加速していることが明らかになった。
(参考)
・ 「世界で最も裕福な62人の資産は、世界の下位半分(36億人)の資産と同じ…広がる格差に対する海外の反応2016/1/20(らばQ/海外ニュース)
・ 「Sixty-two people have the same amount of wealth as half the world, says Oxfam2016/1/18(THE AGE BusinessDay)
・ 「世界の最富裕層1%の保有資産、残る99%の総資産額を上回る2016/1/20(時事ドットコム)
・ 「富裕層トップ62人の資産は下位36億人と同じ額…世界の貧富の格差がひどすぎる2016/1/20(NAVERまとめ)
・ 「近事片々:ラクダを針の穴に通すごとし?2016/1/20(デジタル毎日(スマホ版)/毎日新聞)
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※5:「高山右近」
◎高山右近 (1552-1615)
 代表的なキリシタン大名。飛騨守(ひだのかみ)・高山友照(たかやま・ともてる)の長男。
 1564年キリシタンの洗礼を受けた。洗礼名は「ユスト(ジュスト)」(ポルトガル語で「正義の人」を意味する)。
 73年荒木村重の支援を得て摂津高槻城主になった。村重が織田信長に叛いた際、信長はキリシタンに迫害を加えると脅し、右近は抗したが、結局、イエズス会の宣教師、G・オルガンチノのすすめで降伏。信長の武将となり、85年播磨明石6万石を与えられた。
 87年豊臣秀吉はキリシタン禁令を発布したが、右近は棄教に同意せず、信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選んだため、改易〔かいえき/身分を平民に落とし、家禄や屋敷を没収する罰。切腹よりは軽いが、蟄居(ちっきょ)より重い〕に処せられ、小豆島や肥後などに隠れ住んだ。
 88年、右近は前田利家の招きで客将のかたちで金沢に行き、おそらく1万5千石を受けたとされる。そこで26年間、天と地のために働いた。
 1614年、徳川家康による幕府の禁教令、キリシタン国外追放令により、一族と共にマニラに追放され、到着後、約40日後の1615年2月3日、同地で熱病のため帰天。63歳。生涯を通して敬虔な信仰生活を貫いた。
 茶人としても著名で、南坊と号し、利休七哲の一人と称された。
 右近の列福運動は戦後本格化され、2011年に、申請理由を証聖者(しょうせいしゃ:殉教によらず、信仰を証しする生涯を送った聖人)から、殉教者に改めることが認められた。2014年、ローマの申請代理人が正式な列聖申請書を教皇庁列聖省に提出。さまざまな審査を終え、本年(2016年)1月21日、教皇フランシスコが列福を承認、バチカンが翌22日に発表した。
(参考)
・ 2008年『岩波 キリスト教辞典』岩波書店
・ 「高山右近について」(カトリック高槻教会/大阪府高槻市野見町)
・ 「ユスト高山右近」(カトリック金沢教会/石川県金沢市広坂)
・ 「高山右近」(ウィキペディア) ほか
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※6:「福者」
 カトリック教会において、徳のある行為あるいは殉教により、その生涯が聖性に特徴づけられると宣言された者の称号。調査段階で神のしもべ「尊者」と称され、その調査が問題なく通ると、「福者」として列せられる(列福)。その後、さらに詳細に調査されて、列聖への段階に入り、「聖人」と称せられる場合もある。
(参考)
・ 2008年『岩波 キリスト教辞典』岩波書店
・ 「列福、列聖」(キリスト教マメ知識ラウダーテ
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※7:「ようやく福者に認定されることになりました」
(参考)
・ 「教皇フランシスコ、ユスト高山右近の列福を承認」(カトリック中央協議会)
・ 「【速報】高山右近、列福へ2016/1/22(カトリック新聞社)
・ 「高山右近、『福者』認定=国外追放のキリシタン大名‐バチカン2016/1/22(時事ドットコム)
・ 「高山右近関連のニュース一覧」(Yahoo!ニュース)
・ 「高山右近、福者に-教皇、列福承認の教令に署名」(『カトリック新聞』2016年1月31日付 -(1)
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※8:「毎週の説教が、遺言ですからね」
 晴佐久神父は、カトリック多摩教会の主任司祭の任期を終え、復活祭(2016年3月27日)後、上野教会、浅草教会の兼任として赴任することが決まった。
(参考)
・ 「これからよくなる」(「福音の村」2016/1/17説教)
・ 「東京大司教区司祭人事について(第一次)」(カトリック東京大司教区)
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※9:「聖書と典礼」既出
 『聖書と典礼』(発行:オリエンス宗教研究所)は日本のカトリック教会共通の小冊子で、主日のミサ、また、一部の祝日のミサのときに用いられる。
 第1朗読の後、信徒は「答唱詩編」を唱えたり、歌ったりするが、その楽譜や歌詞も、この『聖書と典礼』に記されている。
(参考)
・ 「聖書と典礼」(「ああ、かわいい、おお、いい子だ」「福音の村」2016/1/10説教【参照】※3)
・ 「答唱詩編」(「何を語るかではない、なぜ語るかだ」「福音の村」2015/11/29説教【参照】※10)
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※10:「『福音の村』で、読んでみてください」
・ 「これからよくなる」(「福音の村」2016/1/17説教)の終わりから2段落目 >この辺~
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※11:「去年の暮れにi(アイ)プラザホールでやった聖劇」
◎ 聖劇ミュージカル『みんなの家』」
2015年12月27日(日)開催(於:稲城市立i(アイ)プラザ ホール)
(参考)
・ 「12/27(日)聖劇ミュージカル「みんなの家」☆チケット完売御礼(カトリック多摩教会HP)
・ 「ミュージカル『みんなの家』」(「信じ合う教会家族」「福音の村」2015/12/27説教【参照】※2)
・ 「先週の聖劇」(「一瞬の勇気で、一生の家族」「福音の村」2016/1/1説教【参照】※1)
・ 「教会のご公現」(「福音の村」2016/1/3説教)説教中盤・上から8段落目(この辺〜)
☆ 「DVD予約販売☆聖劇ミュージカル「みんなの家」
   記録DVD、限定販売決定。(2月中旬完成予定)
   ただいま、予約を受け付けておりますので、ご興味のあるかたは、ぜひお申し込みください。
   1枚1700円(税・普通郵便送料・梱包費用等すべて込み)
   詳細は>> こちら です。
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※12:劇中画像:
(倒れ込む「健太」を中心に)  (みんなに呼び掛ける「神父」さま)
  
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2016年1月24日 (日) 録音/2016年1月31日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英