押入れから出て「なれかし!」

2012年3月11日四旬節第3主日
・第1朗読: 出エジプト記(出エジプト20・1-17,または20・1-3,7-8,12-17)
・第2朗読: 使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント1・22-25)
・福音朗読: ヨハネによる福音書(ヨハネ2・13-25)

【晴佐久神父様 説教】

 皆さんはもう、自分のお墓、決まってますか? どこに入るかとか。
 昨日納骨式をやったんですけれど、亡くなってから10カ月経っての納骨式で、少し時間かかったのは、どこのお墓に入れるかということで、いろいろ考えていたようで、結局、多摩教会の共同墓地ということになりました。
 どこのお墓に入るかって、皆さん、いろいろお考えがあるんでしょうけど、実はどこだっていいんですよ。天のからだが復活して、永遠の命に入る。これは私たちの信仰の基本ですから、この世で遺骨をどこのお墓に入れるかっていうようなことはあまり気にせず、われわれの考えをはるかに超えた神さまのご計画のうちに永遠の命が用意されていることを信じて、自由に、軽やかにとらえるべきです。
 洗礼志願者たちが目の前の席に並んでますけど、志願者たちと今、「使徒信条」を一緒に学んでいるところです。あの「使徒信条」、今日もこの説教の後で信仰宣言として唱えますけれど、最後の一行は、「からだの復活、永遠のいのちを信じます」なんですね。この信仰から離れて、われわれの信仰はないんです。教会でいろんなこと学びます。いろんな解釈もお互いに分かち合います。だけどすべて、この最後の「からだの復活、永遠のいのちを信じます」に、ちゃんとつながっているのでないと、結局はこの世の話になっちゃうじゃないですか。お墓はどうするかとか、とりあえずどこかに入れなきゃならないから準備もし、納骨式もしますけど、そういうことは実は全部この世のことであって、究極的にはすべてが「からだの復活、永遠のいのちを信じます」っていう、その信仰にちゃんとつながっていないと。
 洗礼志願者の皆さん、皆さんは洗礼式でいったん死ぬんです。そして後は、「からだの復活、永遠のいのち」です。それを信じますっていう、その信仰が、あらゆる(・ ・ ・ ・)恐ろしいこととか、つらい出来事とかを超えていく、本当に、最高に美しい希望になっていくんです。

 イエスさまが、「このような物はここから運び出せ」っておっしゃったでしょ。お金とか、商売の道具とか。なぜそういうことを言うかっていうと、「ここは父の家だ。神と人がひとつに結ばれる、聖なる現場だ。ここに、商売の道具やお金は必要ない。そういうものがここにあると、そういうこの世の思いに支配されて、天の父のみ心が分からなくなってしまう。だから、この世のものはここから運び出してくれ」・・・イエスさまはそう思っておられるからです。「ここから」というそれは、皆さんの心のことですよ。特に洗礼志願者の心のことですよ。まあ、いろいろとこの世の心配はあって、お金のこととか、商売のこととか、この世の思いから完全に離れることは難しいですけど、洗礼を受けるにあたってはともかくそれを心から運び出して、心の中を神さまのみ心でいっぱいにしたい。「このような物はここから運び出せ」って言ったイエスさまは、本当にあらゆる人間的な考えから離れて、ご自分を神さまのみ心でいっぱいにして、不条理なる十字架を背負い、この世の体から天の体へと復活していきます。そうか、まことの神殿とはイエスさまのお体のことだったんだ、そのイエスさまの体と連なる教会、この私たちのことだったんだ、・・・そう今日の聖書は教えてくれます。
 皆さんは、運び出せますか? 何が今、皆さんの心を支配しているんでしょう。

 お金っていえばね、この前も「ヒューマン」っていうテレビ番組のことをお話ししましたけど、あれの最終回が「お金」だったんですよ。お金というものが、どうしてこの世界に生まれてきたか。そのお金が、人間の心にどのような影響を与えたか。それを解き明かす番組で、これがまたすごく面白かった。
 なかでも印象深かったことをお話すると、そもそも昔は、物々交換だったんですよね。まあ、ひと言でいえば「その日暮らし」だったんです。とってきたものを交換しても、取っておけません、腐っちゃいますから。だから、その日食べるわけです。明日獲物がとれるかどうか分からないし、あさって交換できるかどうか分からない。その日消費して、それで終わり。明日のことはまた明日っていう時代。
 ところが、お金っていうヤツが生まれると、これはいつでも交換できるし、取っておけるわけですよ。そうすると人類に何が起こるかっていうと、「未来の計画」っていうことが起こるんですって。分かりますか。なるほど、言われてみるとそうなんですよ。もしお金がなかったらその日暮らしなわけで、明日以降の計画なんか立てようがない。でも、お金は貯めておけるし、いつでも好きな物に交換できるから、それじゃあこのお金をいつかこういうことに使おうとか、貯めておいて老後はこう暮らそうとか、やがては子どもにこれを残そうとか、そういうことが可能になってくると、私たちは「未来」を考えるようになり、そして未来を計画できると思い込んだ。思い込んでお金に支配されるようになってしまった。
 でも実は、思い込んでるだけです。だって、未来は本当の意味では決して計画できませんから。ほら、あの「ルカ福音書」のたとえにあるように、ある金持ちが「財産がたくさん貯まったぞ、これでこれから好きに遊んで暮そう」って計画立てたけれども、神さまはこうおっしゃる。「愚か者。今夜、お前の命は取り上げられる」。・・・それが真実です。明日のことはぜんぶ神さまのみ心のうちですから。いや明日どころか今日だって、ぜんぶ神さまのみ旨のうち。
 なのに、明日以降のことをある程度計画できるようになると、私たちの心に、ああもしたい、こうあってほしくない、こうしなけりゃならん、・・・とまあ、いろんな人間的計画ってものが出てくる。それ自体はね、好きに計画すればいいことで、それほど悪いことじゃないかもしれないけれども、そのせいで「神さまのみ旨」というものから、だんだん離れていっちゃう。これが、お金がもたらした現実だ、と。
 なるほどね、と思いました。お金、いいもんですけれど、自分の未来を自由にできると思ったら、実はそれが間違いの始まりなんだってことです。「明日を思い煩うな。明日のことは明日自らが思い悩む」。そう言ったのはイエスさま。「今日、神のみ旨を行う者だけが永遠の命に入る」。そう言ったのはイエスさま。お金、いいもんですけど、それにとらわれていると神のみ心が見えなくなる。イエスさまは「このような物はここから運び出せ」って言うけれど、現実は「このようなもの」で、頭いっぱい。
 教会の墓地だって、お金なきゃ買えませんからねえ。ちなみに、まだまだいっぱい空いてますから、どうぞ皆さんお買い求めください。(笑)以前いた教会で、「なかなか教会墓地が売れないねぇ」っていう話になって、来年5万円値上げしますって言ったら、ドッと売れたっていう(笑)出来事がありましたけど、結局頭の中はいつも、お金ですからね。5万円は大きいから、じゃあ先に買っておこうとか思うのは当然でしょうけど、じゃあ明日買いに行こうって思っていたら、その夜召されちゃったとかね。・・・たぶん人間の頭の中に「お金」というものが入ってきてから、頭の中はそのことでいっぱい占められちゃって、神さまのみ心を思う余裕がなくなっちゃったんじゃないですかねぇ。

 東日本大震災から、今日でちょうど1年。この1年間、いろんな人がいろんなこと言って、いろんな言葉を聞いてきたけれど、どれも結局「この世の言葉」っていう気がする。「この世の言葉」で「この世のこと」は救えません。この世を救うのは「神の言葉」ですから。どれほど不条理な「死」に見えても、どれほど恐ろしい災害に見えても、そこに神の言葉を読み取り、「からだの復活、永遠のいのちを信じます」っていう信仰を語らなければ、救いなんてありえないでしょう。「からだの復活、永遠のいのちを信じます」って言ったとき、初めて、「永遠の別れじゃないんだ」「不条理の死じゃないんだ」「この世界は(むな)しい苦しみに満ちてないんだ」「すべてプロセスで、これから素晴らしいことが始まるんだ」っていう信仰を生み出せるんじゃないですか。・・・もちろん「天のからだ」ですよ。真に自由で、神さまと交わって、本当にこの「私」を表現できる、「復活のからだ」が待ってるんだと、そしてもう亡くなった方こそは、もうその体を生きているんだという信仰がなかったら、なかなか・・・。

 昨日、私の大切な方のご葬儀でした。ちょうど納骨式だったんで葬儀ミサに出られなかったんですけど。私の母の親友でもありました。いい方でね、この教会にも、最近はご病気でしたから歩行器を押しながら一生懸命来られてました。・・・先週亡くなりました。寂しいねえ、とも思います。でも、今、もう自由に動ける、自由に飛び回れる、天のからだで神さまに感謝と賛美捧げてると思うと、良かったねえっていう気持にもなる。
 25年前、私が神父になって最初に赴任した教会の方です。その頃、ご主人を亡くして5年目でしたか。もともと信仰あつい方だったんだけれども、愛するご主人亡くして引きこもりになっちゃったんですよ。もともとはお料理上手でね、ご主人が仕事から帰って来るのを、お料理いっぱい並べて待ってるのがとても楽しみだったっていう奥さまでしたけれども、まだ50前後で急にご主人亡くして、彼女は絶望しました。信仰があっても、やっぱり「この世のこと」に巻き込まれちゃうんですねぇ。絶望して、教会にも来なくなり、みんなが心配しても「ほっといて」という感じになり・・・。
 まあ、その気持ちは分かります。「こんなに愛していたのに、神さま、なぜお召しになるの? どういうこと? いったいこれは何のため? 私にとってどんな意味があるの?」それは、彼女の偽らざる叫びだった。私は、縁あって彼女に最初に会った時がそういう状態でしたので、これは、なんとかしてこの死の世界から引きずり出さねばと、そう思った。
 で、合言葉は「押入れ」だったんです。「押入れ」って、真っ暗いとこでしょ。私は彼女に言ったんです。「あなたは生きているつもりでも、生きてない。あなたは今、押入れの中に入って閉じこもっている。生涯、押し入れで生きていくつもりですか。今、天国の扉であるイエスさまがあなたの押入れを開けてくれるから、そこから出てきなさい。あなたは今、死んでいる。しかし、神が生かしてくださる。出てきなさい。私を信じて出てきてください」。あのころ、そうして熱心に彼女に関わったこと、よく覚えてます。
 極め付きは、そんなころちょうど彼女が大きな病気をして、手術前に「病者の塗油」の秘跡を授けに行った時、「私は神に見捨てられている」とか、「もう私は、パパのところに行きたい」とか、そんなことしか言わないから、「あなたに今、信仰宣言をしてもらう。それを宣言しなかったら、この秘跡は授けません」、そう申し上げた。
 「あなたを、天地創造の初めから準備していた神さまを信じますか。あなたが生まれる前からあなたを知っていて、あなたを愛して生んで、今もあなたを生かしている神を信じますか。その神を信じなければ、この秘跡を授けません」
 彼女は「信じます」と涙こぼして言って、秘跡を受け、手術に向かいました。手術は成功して元気になってから、彼女は生まれ変わりました。後々、よく言われましたよ。「神父さまのおかげで、押入れから出してもらった。そして、私が生まれる前から私のことを知っている神さまを、信じることができるようになった。あの『生まれる前から』っていう言葉に、私は衝撃を受けた」
 それからの彼女はすごかったですよ。まったく生まれ変わってですね、第二の人生始めたんです。私は、「もういったん死んだから、後は教会のために働きなさい」って言ったんで、私の活動を、全部手伝ってくれました。この25年間。
 渋谷教会の地下で10年間ライブハウスやった時も、一番奥のキッチンで、おいしいものいっぱい作って、みんなに出してくれた。若者たちが集まってきたのは、あの料理のおかげでもあった。「初金クラブ」でも、やっぱり青年たちが集まる時に、もうせっせと、いろんなおいしいものを作って、・・・もちろんボランティアですよ、しかも、持ち出し。そして後片付けをするわけでしょ、洗い物まで。何にも言わないで全部やった。青年たちなんて食いっ散らかしじゃないですか。だけどそれを彼女が支えたおかげで、どれほどたくさんの人たちが救われたか。互いに交わりを持てたか。あのころの青年で、その後神学校入って、今神父になってるのもいますからねぇ。「スピリットソング・フェスティバル」も手伝ってもらった。「天国映画村」始めた時も最初の「村民」になってくれた。あらゆる集まりを彼女は支えてくれて、そして私の母も、すべての活動を一緒にやっていたので、まあ、何より一番うれしかったのは、私の母の親友になってくれたっていうことです。
 彼女は、死から命へと出てきたんです。生まれる前から自分を知っていた神さまにすべて委ねたんです。彼女はマリアさまの言葉をいつも口癖にしておりました。昔教会でよく使った「なれかし」っいう言葉です。文語体ですけれども、「お言葉どおりになりますように」っていうその聖母の言葉が彼女の口癖でした。病気になって、つらくなっても、「神さまのお言葉どおりになれかし」と言い続けて、そして、・・・先週亡くなりました。ご葬儀のためのカードに、ひと言だけ「なれかし」って書いてあるのを見て、私、すごくこう、・・・嬉しかったです。
 彼女の娘さんがそのカード作ったんですけど、娘さんは「『なれかし』って、一般の人に分かるかしら」って心配してるんですね。確かに知らない人には、一緒に配った包みのお菓子の名前かって(笑)思われるかもしれないので、司式する神父さまにお説教で説明してくださいってお願いしておいた方がいいよって言っときましたけど、皆さんは分かりますよね。「お言葉どおりになりますように」っていう聖母の美しい信仰。自分の考え、未来の計画、そういうことじゃない。そのようなものは心から運び出して、神さまの(・ ・ ・ ・)み心が行われますように、という。私の母も、葬儀ミサの時配ったカードの言葉は「み心が行われますように」でしたから、まあ親友同士、「み心が行われますように」と「お言葉どおりになりますように」で、聖書の中でもとりわけ輝く二つの言葉が並びました。「み旨のままに」と「なれかし」。
 だから、一昨日お祈りしにお訪ねしたとき、娘さんが、もうショックで落ち込んで泣いているのを見て、「なれかし」でしょうって、お話ししました。すごく苦しんでるんですよ。お母さまとずっと暮らしていて、いっつも一緒にいた娘さんでしたから、全部終わっちゃったような気になってるんですよね。それで、もう家も売り払って住んでた街を離れるとまで言うんですよ。どうしてかっていうと、家にいても思い出すことばかりでつらいからって。これはママの好きだったお茶、これはママと一緒にむいた甘栗、これはママが大好きだったケーキ、・・・もうそんなことで頭いっぱいになる。街に出れば、ここはママと一緒に入ったレストラン、ママとコロッケ買った精肉店。・・・それらは彼女にとっては、すべて終わってしまったっていうシンボルになっちゃってる。その思いはもちろん分かりますけど、はっきり申し上げました。
 「お母さんは、夫の死を乗り越えて押入れから出てきて、第二の人生を始めた。あなたも、今のその絶望から出てきなさい。時間はかかるだろうけれど、必ず出てこれる。むしろ、お母さまが生きたこの街を誇りに思い、お母さまと共に過ごしたことが、すべて良いことだったと信じよう。今はつらいだろうけれど、『なれかし』でしょう。あなたも信者でしょ。『からだの復活、永遠のいのち』を信じなさい」

 洗礼を受ける皆さん、素晴らしい先輩方がいっぱい、皆さん方に信仰の模範を残してくれています。今、お話したこの方も、皆さんに会わせたかったけれど、もう彼女は今、天で、本当の自由を、復活のからだを生きている。皆さんも、洗礼から先は、第二の人生ですよ。いったん死んで、そこから神さまのみ(わざ)が始まる。この世のさまざまなものを、全部いったん、運び出していただきます。「そのようなものを」全部運び出したらなら、洗礼において、そこにいったい何が入ってくるか、ど〜ぞお楽しみに!

2012年3月11日 (日)録音/3月12日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英