苦しむあなたの近くに行きたい

2012年3月4日四旬節第2主日
・第1朗読: 創世記(創世記22・ 1-2,9a,10-13,15-18)
・第2朗読: 使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ8・31b-34)
・福音朗読: マルコによる福音書(マルコ9・2-10)

【晴佐久神父様 説教】

 共同回心式です。回心いたしましょう。共同司式のお二人の神父さまと私の3名で「ゆるしの秘跡」をお聞きいたしますので、溜まりに溜まった罪を、しっかりと告白してゆるしていただきましょう。ご覧のとおり優しそうな神父さま方でしょ。全部ゆるしてくださいますから、安心して。いやいや、神父がゆるすんじゃないですね、神さまが、すべてゆるしてくださるんです。神さまがすべてゆるしてくださる。まさに、福音ですよ。こんなうれしいことはない。私たちいつも、罪に苦しんでますから、神さまから離れて孤独ですから、イライラしてますから、不安ですから、神さまから離れているこの罪の状態から救っていただきましょう。神さまがそれを望んでおられます。
 今朝だって、何か不安だったことないですか? イラついたことはないですか? 神さまの愛から離れて、自分の脳みその中のことだけでいっぱいになってなかったですか? 朝起きてからミサに来るまでのちょっとの間だって、もう私たちの中に罪がある。神さまから離れている、悪しき心がある。でも、こうしてミサに来ると、イエスさまが確かに共におられて、「あなたの罪をすべてゆるす」と宣言し、神さまのゆるしをちゃんと私たちに与えてくださる。それで私たちは、安心して、喜んで、感謝の念に満たされます。
 振り返れば1週間、ずいぶんイラついたなあ、自分、不安だったなあ、いろんなことで愛が足りなかったなあ・・・って、やっぱり思います。
 先週雪が降りましたでしょ。雪かきしなきゃならないじゃないですか。・・・でも誰も手伝いに来ない。(笑)なんだかちょっとこう、・・・イラつくわけですよ。「教会はわが家です」とかね、「みんな家族です」とか言うのは簡単ですけど、皆さん、自分ちの前の雪かきはしても、真のわが家である教会の前は・・・。もっともね、日中は皆さんお仕事中でしたから、そしてお仕事のない方は雪かきなんかとてもできない年代の人たちですし、(笑)まあ、若い人たちでやりましょうということで、高校生とか、電話で呼び出した求道者の青年とかで、なんとかやりましたけど、雪かきひとつするんだって、何だかイライラしたりする、これ、罪でしょう。
 しかも、雪かきしてる横を車がビャ〜ッて通る。融けた雪をバァ〜ッとはねてくんですよ。こっちは一生懸命雪かきしてるのにね、ジャジャジャッとこう、水をかけられて、私、す〜ごいコワい顔してにらみましたよ。(笑)キッと振り向いてね、「なんだっ!」て顔をして。余裕があるときだったらそういうとき、私、こう思うようにしてるんですよ。「ああ、きっとあの車の中には、産気づいた奥さんがいて、(笑)ご主人は必死に病院に連れていく途中なんだ」。(笑)・・・でもねぇ、イライラしていると余裕がなくなって、コワい顔でキッと振り向く。
 ささやかなエピソードのようでいて、実は私たちの日常、すべてそんなもんです。神さまがこんな私をゆるしてくださるとか、だから私もみんなに少し優しくしようとか、ね〜、説教ではいくらでも言えるけれども、実際には、そうもいかない。だから、私たちには、ホントにキリストが必要なんです。私たちのうちに宿ってくださるキリストが必要なんです。いつも一緒にいて、いつもゆるしてくれて、いつもそのゆるしの中でゆるし合える、そんな恵みをもたらしてくださるキリストが必要なんですよ。

 今、入門講座で、ちょうど「使徒信条」を学んでいるところです。「信仰宣言」ですね。この前の洗礼志願式で、志願者の皆さんにその「使徒信条」をお渡ししましたし、これを洗礼式のときには宣言するんですよ、と。
 その「使徒信条」、簡単に言うと「父である神を信じます。ひとり子イエス・キリストを信じます。聖霊を信じます」っていう、その三つのことですよね。で、入門講座では、洗礼志願者たちにこう、お話してるんです。
 父である神を信じること、大事です。神の愛はもう、すべての始まりですから。そして聖霊を信じることも大事です。その働き、導きなくしては私たち、ここに来ることすらできなかった。しかしやっぱり、この「使徒信条」の中で、ある意味頂点であるのは、やはりこの「イエス・キリストを信じます」です。それが、キリスト教。キリスト教の中心は、この「イエス・キリストを信じます」なんです。その天の父の愛を私たちにちゃんと教えてくれた、その聖なる霊の働きを私たちにちゃんと与えてくれる、この「イエス・キリスト」。ここから離れるな。このキリストをこそ信じ、このキリストとひとつになる洗礼を受けてくれと、まあ、そういうお話をしているところです。
 「父のひとり子、ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、復活して天の父のもとにおられる、そのイエスを信じます」と宣言すること。私たちの罪を背負って、救ってくださったイエス・キリストの十字架と復活、それさえ私たちの心の真ん中に置いておけば、私たちの罪はすべてゆるされるし、またお互いにゆるし合う恵みもいただける。優しい心でね、お互いに親切にすることもできる。ひどいことされたり言われたりしても、「まあでも、私も一緒だ。私はイエスさまに救われたんだし、この人も神さまが救ってくださる。今はこの状況を受け入れて、優しい笑顔をひとつプレゼントしよう」って思えたら、それこそキリストの勝利なんですよ。
 「主イエス・キリストを信じます」っていう、その「信仰宣言」こそは、回心の日に最も必要な宣言です。

 私たち、いつも心の中に怒りの種みたいなものを抱えているわけですけど、そのことを、この前のテレビの番組では脳のホルモンで説明してましたよ。
 私たちの脳に、闘争本能のホルモンがあって、「テストステロン」っていうんだそうですけど、それが出ると攻撃的になるんですって。もともと人間も動物ですから、そういう攻撃するホルモンが備わっている。そういうのがないと、獲物を追っかけてって捕まえるパワーが出ないですからね。われわれ、もとは狩猟民族だったわけですから、そのテストステロンが脳の中でピュ〜ッと出て獲物を追いかけてたんです。
 で、その攻撃性が、そのころは同胞には向かわなかったんですね。狩猟民族っていつも移動してますから、お互いにあんまり出会わなかったので、お互いの攻撃本能がぶつかり合うことがそれほどなくて、バランスとれてたんですよ。ある程度、脳の中がちゃんと調節できてた。
 しかし、農耕民族になると自分の土地を持って定住しますから、隣の土地の人と境界線をもっていつも顔を合わせるようになり、こっちは俺の土地だ、ここは譲れんなどなど始まると、いつも衝突するようになって、そのテストステロンが、しょっちゅうぶつかり合うようになっちゃった、っていう説明でした。
 だから、こうして人口が増えて、お互いに顔を合わせて、隣の家とか、隣の企業とか、隣の国とかをいつも意識しなければならなくなると、そのテストステロンをコントロールしないと、ちょっと雪かけられただけで、もうキッと振り向くみたいな、そんな感じになっちゃう。ちょうどあの〜、恋人時代は時々しか会わないからすごく親しかったのに、夫婦になって毎日顔合わせるといがみ合うようになった、みたいなね。人間の脳に、そんなコワ〜いホルモンの働きがあって、まあこれが神さまのみ(わざ)なのか何なのか、ともかくそれがわれわれの現実なんですよ。
 でも、人類の歴史の中で、そんな現実がだんだん高まって、国と国が争ったり、人と人がぶつかったりするようになったら、ちゃんとイエスさまが現れて、私たちに「一緒にいても平和である」っていう道を与えてくれたわけです。
 その番組では、テストステロンがピュ〜ッと出て、コワい顔になったりするのに対し、それを抑制するホルモンもあって、それが出てくると、私たちは平和な気持ちになって、優しくお互いに受け入れられるんだそうです。こちらはですね、「オキシトシン」っていうホルモンで、これは「信頼のホルモン」で、人の心と心が結ばれると出てくるんですって。受け入れ合ったり、共に食事したり、優しい気持ちでおしゃべりしたり、ゆるされたり、信じ合ったりするとき、このオキシトシンがいっぱい出て、私たちの心に平和が満ちる。
 ある研究では、結婚式の時の新郎新婦が、誓いを立てる前と後では、劇的にこのオキシトシンが増えていたとか。で、また面白いのがね、その結婚式の参列者も、全員平均18パーセントも、オキシトシンが増えていましたって。
 なるほど、なんでこう、みんなミサに集まったら優しい顔になるのか、脳科学的にも多少は説明つくってことです。来る時はなんとなく、寂しそうなイラッとした顔してても、帰りは、平和なあったか〜い顔になって帰る。それは、このオキシトシンがいっぱい出たからじゃないですか? そういう恵みを山のように与えてくれるのが、救い主イエスさまなんじゃないですか? オキシトシンどころか、素晴らしい神さまの恵みを、愛を、優しさを、喜びを、神の平和を、イエスさまはちゃんと与えてくださって、ゆるし合えない私たちに、大きな安心、ゆるし合う喜びの感覚をちゃんと与えてくれる。だから、回心のときは、何をおいてもまずはこのイエス・キリストを、心に迎えないと。このキリストと、つながらないと。

 この後、御聖体をいただきますけれども、「ゆるしの秘跡」とか「聖体の秘跡」とか、それらはまさに、このキリストとつながって、私たちが神のゆるしの内にあるという信仰によって、お互いにゆるし合える、そんな恵みに導く秘跡です。
 ぼくらには、十字架と復活のイエスが必要です。どうしても必要です。イエスさまが高い山の上に弟子たちを連れて行ったのは、それはもう、「私が救いだ」ということ、天から遣わされて天に導く私こそが救いの道だということを、ちゃんと弟子たちに教えるためです。イエスにしてみれば、私はもう殺されるという予告をした直後ですから、その十字架がこのような栄光に変えられる道なんだということを、山の上の輝きで弟子たちにちゃんと見せた。この争い合う時代、罪深い私たちに、イエスが、「私が全部背負ってあなたたちを天に導くから、このゆるしを受け入れて、あなたたちもゆるし合え」ということを、弟子たちに教育してるんです。聖なる山の上で。神さまは、そこで宣言なさいました。イエスさまのことを「これは私の愛する子。これに聞け」と。
 ね〜、世の中にいろんな声がいっぱいありますけど、政治家の声とか、教育者の声とか、さまざまな声がいっぱいあるし、ま、それなりに私たちも聞きますけど、聞くべき声は、ただただ、イエス・キリストの声。イエス・キリストの(わざ)
 「これに聞け」
 「これに従え」
 「これを見つめてここから離れるな」
 神さまのその宣言を、今日も、福音書でちゃんと私たち聞きました。ここから離れないようにします。そうして、イエスさまの十字架が、ちゃんとすべての人の救いになるんだということを「信仰宣言」で、私たちはっきりと宣言いたします。
 皆さんのどんな苦しみも、どんな罪も、イエスが対応できない苦しみ、罪、ありませんよ。すべて、その安心、喜びを知っていただきたい。どんなに罪を犯してもだいじょうぶなんです。どれほど苦しんでいても、その先があるんです。

 おととい来られた薬物中毒のお二人は、「ダルク」っていう薬物中毒者の支援活動で救われて、その活動を私にも応援してくださいって頼みに来たんですけど、話聞いてて、ホントに薬物中毒がどれほど恐ろしいかっていうことを、つくづく感じさせられた。それは罪でもあり、苦しみでもあり、まあ、この世でいろんな罪や苦しみがあるけど、薬物中毒ほど恐ろしいものはないって言っていいくらいですよ。これは、怖い。
 お一人は、何もかも失って絶望したこともあったけれど、救われて今こうして生きていられることがどれほど幸せかって、そう言った。もうお一人は、その中毒のせいで事故にあって、右手を失って義手でした。でもお二人とも、仲間はみんな死んでいったけれど、自分たちは「ダルク」のおかげで救われてうれしい、生きていることだけで奇跡だ、一日一日が本当に大切だ、そうおっしゃるんですよ。
 キリスト教系の、薬物中毒者の支援グループ「ダルク」。応援してくださいね、皆さん。素晴らしい、尊い働きをしてますよ。その「ダルク」のロイ神父さんなんかね、おととい教わったんですけれど、一人ひとりの薬物中毒に寄り添って、「とにかく今日一日薬物をやめよう、明日は使っていいから」って、そう言うんですって。ぎりぎりの現場で、必死に寄り添って、なんとかこの一日生き延びさせようとする、そのロイ神父さんのお働きなんかは、もうキリストそのものでしょ。
 「わたしは、あなたのために十字架を背負っている」
 「わたしは、苦しむあなたの近くに行きたい」
 「その苦しみを救おう」
 これが、イエスさまの思いです。十字架を背負って復活なさったイエスに、あらゆる苦しみに近づいていくイエスさまのお姿を見ます。そうして、すべての苦しみと罪をちゃんと救って復活させて、天の父のもとに導いてくださる、そのような救い主のお姿を見ます。私たちは、このキリストから離れません。
 「これに聞け」という神さまのお声に信頼して、「イエス・キリストを信じます」と、ご一緒に信仰宣言をいたしましょう。お立ちください。

2012年3月4日 (日)録音/3月7日掲載
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