永遠の命に復活する

2014年4月20日復活の主日
・第1朗読:使徒たちの宣教(使徒言行録10・34a、37-43)
・第2朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント5・6b-8)
・福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ20・1-9)

【晴佐久神父様 説教】

 改めて、ご復活のごあいさつを、申し上げます。
 ご復活、おめでとうございます。
 特に、昨夜受洗した新受洗者の皆さんには、本当に心から、「おめでとうございます」と申し上げたい。今日はお披露目ということで、新受洗者は前列に並んでおられますが、新鮮な気持ちで(あずか)るミサ、どうですか? 新しい朝、キリスト者となって、カトリック信者として、聖なるミサに与る気持ちはどうですか?
 こうして見ると、もうすでに感動して涙を流しておられる方が、何人もおられますね。・・・新受洗者としての、新鮮な喜びに満たされておられるんでしょう。
 後ろの席の人たちの中には、もう泣いている人は誰もいない。(笑) まあ、毎週のことですからね。ミサはあって当たり前になってる。でも、本当を言えば、たとえ何百回目でも、涙こぼしていいんじゃないですか。
 これが、どれほど聖なる出来事か。
 神さまは、どれだけ私たちを愛しておられるかということを、イエスの死と復活においてすべて表したし、それを、ミサはこれ以上ないというほど美しく表しています。
 主の復活は、神の愛の現れ。ですから、その意味ではミサは毎回、復活祭です。そして今日、復活の主日は、特にそれをお祝いする聖なるミサですし、昨夜受洗した皆さんは、今、そのような神の愛のミサに与っているのだということを、お忘れなく。
 この尊いミサという神秘は、主の復活祭であり、同時に私たちキリスト者の復活祭でさえあります。私たちは、復活するため、すなわちミサに与るために生まれてきたと言ってもいい。実際、一度でもミサに与ったら、これはもう、天国に入ったも同然なのです。
 あとは、本当に天で捧げられる、永遠のミサを心から待ち望むばかり。
 ・・・これ以上に素晴らしいこと、ありますか。

 昨夜の洗礼式でキリスト者として誕生した39名が、こうして新受洗者として心から喜んでミサに与かっている、それは、カトリック教会全体の喜びですし、神の喜びですらある。
 39人の洗礼式、これ、多摩教会始まって以来、最高記録じゃないですか? ギネス認定してもらってもいい。(笑) まあ、過去には私、一度に80人とか90人っていう洗礼式をやったことありますけど、今年に限っていえば、一人の司祭が一度に授けるっていう意味では、カトリック界では一番多いんじゃないですかねえ、・・・日本で。世界一とはいかないでしょうね。(笑) 上には上があるでしょうから。実に悔しい。(笑) でも、日本一だって、すごいじゃないですか。
 昨日は、鹿児島県の奄美大島からも、見学に来てたんですよ。わざわざ前日にやって来て、ホテルに泊まって、「多摩教会の洗礼式を見学したい」って。奄美も信者さんの多い島で、その方の教会も信者数の多い大きな教会だそうですけど、今年は洗礼式、ないんですって。いや、実際、驚くべきことに、一年間洗礼式がないって教会が、現実にあるんです。
 復活徹夜祭に、洗礼式がない。
 私は司祭生活27年目ですけど、まだ一度もそんな経験をしたことがないので実感がわかないんですが、なんて寂しいこと、なんて悲しいこと!
 大勢のキリスト者が、心をひとつにして一年間ミサを捧げ、祈り、活動し、福音を語っても、一人も仲間が増えない。・・・そんなこと、ありうるんでしょうか。そんなことが決してあってはなりません。多摩教会に、絶対にそんな日が来ないように、この仲間で、また心新たにして、来年の復活祭に向けて出発いたしましょう。

 本当に、いい洗礼式でした。
 洗礼式の準備をしてくださった方々に、この場をお借りしてお礼申し上げたい。
 いつも、なんだか不機嫌そうな顔してるって言われるんですけど、(笑)心の中では感謝してるんです。あの、これ、不機嫌じゃないんです。心の中は普通なんですけど、単に愛想がないっていうか、まあ、周りに気を使わずにぼ~っとしているだけです。夢中になって頭の中で、あれやこれや考えてるだけで。
 まあともかく、素晴らしい洗礼式のために奉仕してくれた人たち、さらには、新受洗者たちをこうして現実に洗礼に導いた、多摩教会の仲間たちに心から感謝したいのです。教会全体が心をひとつにして秘跡に奉仕して、求道者一人ひとりのお世話をして、そうして新しい仲間が増えていく。これは、まさしくキリストの働きですし、神さまのみ(わざ)です。
 「不機嫌そう」じゃないですけど、一人ひとりやっぱり、欠点もある。弱さがある。失敗もある。だけれど、そういう仲間たちがみんな、心ひとつにして福音を語り、新しい家族を迎え、こうして永遠の復活祭である聖なるミサを共に捧げる。これこそが、教会です。
 この教会の喜び、安心に、一人でも多くの人を迎えようと、さらに一年間呼び掛け、迎え入れ、そしてまた来年も、新受洗者を囲んで共に主のからだをいただく。・・・やっていきましょうよ、また一年。まさに、今日から出発ですよ。
 新受洗者も、「おめでとうございます」って言われるのは、今日まで。(笑) 明日っからは早速、今度は、今はまだ見ぬ新しい仲間に「おめでとうございます」って言う側になるために、働いていただきますよ。
 新受洗者は、自分がこれほどの恵み、これほどの喜びに与っているんだっていう自覚を持って、「これはもう、黙ってはいられない」という思いで、福音を語ってください。それはやっぱり、「鉄は熱いうちに」じゃないですけど、洗礼を受けて間もない、あなたたちの仕事、あなたたちの特権ですから。あなたたちが証しする受洗の喜びが、どれほど大きな働きをするか。正直、後ろの人たちは、なかなかもう・・・。(笑)
 いや、後ろの人たちこそ、新受洗者の初々しい喜びに心を合わせ、その新鮮な感動に刺激を受けて、気持ちを新たに、一年、福音を宣言してまいりましょう。
 それこそは、今の多摩教会の使命でもありますし、カトリック教会の希望なんだと思っていただきたい。私もまた、今朝はすでに、来年の復活祭に向けて、新しいスタートを切る気分でおります。

 昨夜はね、若い新受洗者と飲んじゃったりして、はしゃいじゃいました。おかげでちょっと寝不足ですけど、たまには、はしゃがせてください。なんかちょっと、よくがんばったなって、自分に言ってあげたい気分だったんですよ。あの、ほら、マラソンの名言があるでしょ、「自分をほめたい」(※1)。(笑) いや、皆さんがほめて(・ ・ ・)くれないからっていうわけじゃないですよ、(笑) いろいろ応援してもらってますし、別に神父一人で頑張ってるわけじゃないんですけど、昨日はなんか、すごくそんな気持ちだった。ね、昨日一緒に飲んだ人、ぼく、深夜、独り言みたいにつぶやいてましたでしょ、「いやあ、はれれ、よくやった!」って。(笑) 「一年間、よく頑張った!」って。
 まあ、年に一度くらい、自慢させてくださいよ。(笑) 自慢じゃないか、なんて言えばいいのかな、こういうの。自分に向かって「お疲れさま~」って言ってあげるみたいな気持ち。
 あの・・・、ホントに大変なんですよ、一人ひとりを受洗に導くのって。みんなでやってるとはいえ、やっぱり最後は司祭が責任を持って洗礼許可証にサインするわけですし。・・・一人ひとりをお迎えし、お話を聴き、こころの悩みや恐れに寄り添い、共に祈り・・・。事実、ここに並んでる人たち、なかなかみんな、大変な人なんですよね。もっとも、大変な人ほど、また、かわいいんですけどね。・・・難産の子ほどかわいいっていうでしょ。
 でも、どれほど大変であっても、徹夜祭に水をくぐりぬけ、復活祭の朝目覚めると、もうカトリック信者。その人たちが、前列にこうしてズラッと並んでいる。生まれたてのかわいい赤ちゃんたちです。後で紹介しますね。ミサの最後に全員のお名前を呼名(こめい)して、立っていただきます。・・・あれ、呼名のリストは? 朗読台に置いておくことになってたはずですが・・・。業務連絡です、(笑) 担当者は呼名リストを朗読台まで持って来てください。
 ミサの最後に39名、一人ひとりの名前を呼びますから、その時は、「はい」って立ち上がり、後ろを向いていただきましょうね。「ああ、この人が○○さんね」っていうように、先輩信者のみなさんに顔を覚えてもらいたいですから。
 それはもう、単に紹介するためだけじゃなく、昨日の洗礼式の再現としてという意味もあります。神さまに名前を呼ばれて、立ち上がって、前に進み出て、聖なる水を受けた、あの恵みの再現です。昨日、洗礼式に来られなかった方々のためにも、ぜひこの人たちを紹介したいのです。この人たちこそ、神さまの喜び、神さまの誇りなんです。

 皆さん、今もなお試練はもちろんありますし、これからもあるでしょうけれども、この聖なるミサをお忘れなく。特に新受洗者には、「すべてのミサは再洗礼だ」「復活そのものだ」くらいに思っていただきたい。
 さっきの集会祈願がね、私、ああ、いいなって思って。今日の集会祈願(※2)の後半部分。
 「この神秘にあずかる私たちが、神さまからの霊によって新たにされて、そして、永遠のいのちに復活できますように」って、そんなような内容だったですよね(※3)
 この、「永遠のいのちに復活する」っていう言い方が、ああ、かっこいいなって思いました。
「復活」っていうと、いったん死んで元に戻るっていう、「蘇生」みたいなイメージがありますでしょう。日本語だと、そうなる。「敗者復活戦」みたいに、一度ダメになったけど元に戻るって、そういうイメージ。でも、実はそんなんじゃないんです。
 翻訳では「復活」っていいますけれど、本来言いたいことは、まさに、「永遠のいのちに誕生していく」っていうイメージです。全く新しい段階に入るんです。今まで閉ざされていた所から解放されて、今まで一度も体験したことのない安心と自由、人類が本来、自分の力では絶対に得ることのできない、そのような神の国に、私たちは入ります。・・・これが「復活」。
 だから、「ご復活おめでとう」とか、「主の復活を信じます」って、まあ、口で言うのは簡単だからひと言で言ってますけど、そこで一番思うべきこと、感ずるべきことは、「私は永遠のいのちに復活するんだ。主の復活は私の復活だ。主と共に私もすでに、復活し始めてるんだ」っていうような、ものすごく神秘的な、感動的なこと。その神秘、その事実、その真実を、このミサが表している。このミサにおいて、それが実現している。
 新受洗者の皆さんは、昨夜洗礼を受けて、そのミサを生きている仲間に入りました。
 そして今日は、そのミサを、信者として初めから参加するという意味では生涯最初のミサとして、全世界の信者たちとまったく一緒になって捧げている。
 今日から、カトリック信者として、「聖なるミサを生きる日々」というのが始まるのです。
 生涯、絶対に、ミサから離れないでくださいよ。カトリック教会には、「少なくとも年に一度、復活祭の頃には必ずご聖体をいただくこと」っていうルールがあります(※4)。ちょっと甘すぎるね、このルールは。(笑) 年に一度のミサじゃね。少なくとも「月に一度」、それを目標にしましょう。どんなに忙しくても。で、もちろん可能ならば、「毎週」。これは当然です。・・・毎週です。カトリックの掟の第一です。
 新受洗者の皆さん、ちょっと意地張ってみたらどうですか? 毎週、毎週、永遠の命への復活を体験するのです。もう、「()ってでも与る」みたいな意地。「私は洗礼を受けてから、まだ一週もミサを欠かしたことがありません」なんていう、そんな意地をどこまで張り続けられるかチャレンジ、みたいな。やってみてくださいよ。たまたま日曜日に、どこかの地方に出かけていても、そこにも必ずカトリック教会があり、ミサがありますから、そのミサを探し出して、そこで与ってほしい。何があろうとも。
 朝、どうしても起きれないっていう人は、教会に泊まること、できますよ。(笑) いいじゃないですか。そうすれば、仮に起きれなかったとしても、神父がご聖体持って、部屋に行きますから。(笑) ・・・「意地張る」って、そんな感じでしょ? 「なんとしてでも、聖なるミサに、這ってでも出る」と。
 信じる者の喜び。もう天の国、神の国に入り始めてるんだから、この世のことはいろいろ犠牲にしてでも、「この聖なるミサさえあれば・・・!」と信じる者の喜び。そのような信仰さえあれば、やがて聖堂には来れなくなっても、さみしくない。神の国においてつながっているという、究極の安心がある。

 たとえば、今日は信徒館でもミサに与ってる方、おられるんですよ(※5)
 復活祭はご覧のとおり、到底聖堂に入りきれないので、信徒館のモニターにミサの映像が映るように準備したんです。ちゃんと画面前に椅子が並べてあって、祭壇みたいに、画面の前に花も飾りました。・・・さっきのぞいたら、もう結構来られていて、今ごろはあちらの席もいっぱいになってるんでしょうか。カメラは、あそこ、聖堂後ろの天井付近にあるんです。
 (カメラに向かって)「見えますか~? そこも聖堂ですよ~。みんな一緒で~す!」
 カトリック信者は、このミサにおいて、全世界つながっています。部屋は違っても、聖堂は違っても、国は違っても、一つのミサなんです。
 もしかすると、そのうちに私たちも、家から出られない、部屋から出られないってこともあるかもしれない。でも、秘跡の力を信じて洗礼を受けたならば、どこにいようとも聖堂ですし、魂の世界でミサに与ることさえできるんです。
 こうして、今日は何とか車椅子で来られた方もおられますけれども、さきほど、すぐそこの聖ヶ丘病院に入っている方が危篤だっていう電話をいただきました。このミサが終わったらすぐに私、行きますけれども、その危篤の方に、「ここに来い」とは言えないでしょう。部屋から一歩も出られないんだから。でも、言いたい。
 「聖ヶ丘病院の病室、そこも聖堂ですよ~!」
 「信じましょう、祈りましょう、神の国はもう始まってますよ~!」
 私たち、神に呼ばれて、洗礼の秘跡を頂いて、聖なるミサに集まっている者たちは、永遠の宴、天のミサに与る準備をしてるんです。
 来れるんであれば、毎週毎週、ぜひぜひ、この聖なるミサに与り続けてください。
 「何かのために」ミサを捧げてるんじゃないんですよ。
 「ミサのために」世界があるんです。
 「ミサのために」人生がある。
 「ミサのために」私たちの信仰、希望、愛がある。
 ミサを捧げているのはキリストであり、私たちは主と共に感謝と賛美を捧げるために生まれてきたのですから。
 ミサに与っている、この時間、この事実は、もちろん、ここで力もらって出発しようっていう意味もありますが、実を言うと、ここが目的地なんです。家庭って、そこで癒やされて、そこから出発したりもするけれど、結局、最終的には、家庭が天国でしょう?
 ミサが天国の入り口なんです。・・・天の国は、もう始まっている。それを共に味わう。そのことさえ、本当に信じられたら、だれだって「這ってでも」行きたくなるでしょうし、ついに這うこともできなくなり、ベッドから降りられなくなったときこそは、祈るのです。
 「天の神さま、ここが聖堂です。このベッドが私の祭壇です。今こそ、主キリストと共に、私のすべてをお捧げいたします。どうか、永遠の命に復活させてください」と、そう祈るのです。
 ・・・そんな日、やがて来るんでしょうね、私たち、みんな。
 そのとき、洗礼式を思い出してください。
 「ああ、あの2014年の洗礼式、本当に大きな恵みを頂いたなあ」と。
 聖なる水をかけられて、天の国へと第一歩を踏み入れたあの日、神さまが、本当に私たちを、永遠のいのちへと招き入れてくださったんだという、その神秘を前にして、私たちはもう、言葉もいらない。聖なるミサでご聖体をいただいた者として、ベッドの上でひとつ十字を切ったら、それでいいんじゃないですか? それ以上の安心はどこにもないんじゃないですか?
 信じる者にとっては、もはやどこにいても、ミサのうち。

 今日はいよいよ、ご聖体2枚目ですね。信者として最初からミサに参加して聖体拝領をするのは初めてですから、ああ、ついに自分も信者になったんだなあっていう実感がありますよ。
 さっき、「ってことは、今日からはもう、聖体拝領の代わりの祝福はしてもらえないんですね」って、さみしそうに言ってた人がさっきいましたけど、(笑)確かに、長い人は、もう何年もず~っと祝福を受け続けてきたわけで、洗礼を受けても、つい癖で頭下げそうになる人、いるんですよ。(笑)
 でも、正直、やっぱり祝福とは格が違いますから。イエス・キリストから手渡される神の愛、永遠のいのちの糧、それを、自分の手にいただいて、自分の口で食べる。それがどれほどの恵みであったかは、たぶん、天国に行ったら分かります。
 司祭としても、ついこの前まで、ず~っと祝福を与え続けてた人が、堂々とご聖体を前にして手を差し出すときって、司祭にとっても、大きな喜びなんですよ。事実、毎年の復活祭で、一気に祝福の人が減るんです。今年で言えば39人、祝福のために頭を下げる人が減る。でもまた、一年かけて、だんだん溜まってくんですよ。そしてまた、復活祭、一気に減る。
 今日、祝福を受ける方、来年はパンを食べましょう。・・・よろしいですか?
 「そのために生まれてきた」、そう思っていただきたい。
 そのパンひとつ食べたら、「これで死ぬに死ねる」と、そう思っていただきたい。

 今まで、大変な思いをしてきた新受洗者の上に、生涯、大きな喜びがあるように、先輩の信者さん方、皆さんで祈っていただきたい。
 そしてまた、これからも、どんな試練があっても、もう復活の栄光は始まってるのだ、私は永遠の命へと復活し始めてるんだ、神の赤ちゃんとして、オギャ~と生まれていくところなんだという、この感動をすべての人に伝えていただきたい。
 さあ、それでは、聖堂の方も、信徒館の方も、・・・あ、すいません、「両方聖堂」とかって言っときながら・・・。(笑) え~、こちらの聖堂の方も、そちらの聖堂の方も、皆さん、立って、信仰宣言を唱えましょう。
 お立ちください。


【 参照 】(ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがありますので、ご了承ください)

※1:「自分をほめたい」
 元女子マラソンの選手、有森裕子(1966-)さんが、1996年アトランタ五輪、女子マラソンで力の限りを尽くして3位でゴール。その後のインタビューで語った言葉から。
 涙ながらに、「メダルの色は、銅かもしれませんけれども……、終わってから、なんでもっと頑張れなかったのかと思うレースはしたくなかったし、今回はそう思っていないし……、初めて自分で自分をほめたいと思います」と語る姿は感動を呼んだ。
 1992年のバルセロナ五輪では銀メダルを獲得し、続くメダル獲得への期待が高まる中、監督やチームとの軋轢やスランプ、重なる故障で苦しんでいたが、かかとの手術成功できっかけを得、五輪選考会の北海道マラソンで復帰を果たした。
 そのような苦労を背景に手にした銅メダル後の言葉なので、感動も大きく、その年の流行語大賞に選ばれた。
 この「自分で自分をほめたい」という言葉は、フォークシンガーの高石ともや氏が書いた詩の一節で、初めて聞いたときの感動から、いつかこの言葉を言いたいと温めていたものという。
 なお、「自分で自分をほめてあげたい」は誤記で、一部の新聞がそう書いてしまったため、誤って広まってしまい、批判をされることもあった。
(参照)
・ 「有森裕子」(ウィキペディア)
・ 「初めて自分で自分をほめたいと思います」(五輪コラム:名言はこうして生まれた
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※2:「集会祈願」既出
 カトリック教会におけるミサは、大きく、「開祭」、「ことばの典礼」、「感謝の典礼」、「閉祭」から構成され、式が進行していく。
 この「集会祈願」は、最初の「開祭」中、最後に行われる。
(「開祭」: 1.入祭の歌、2.あいさつ、3.回心、4.あわれみの賛歌、5.栄光の賛歌〈待降節、四旬節以外〉、6.集会祈願
(「集会祈願」の内容)
 司祭が会衆を祈りに招き、一同は司祭と共にしばらく沈黙する。それは自分が神のみ前にいることを意識し、自分の願いを思い起こすためである。それから司祭は、「集会祈願」と呼ばれる祈願を唱える。この祈願によって、祭儀が聖霊において、キリストを通して、神なる父に向けられるという性格が表現される。会衆は、心を合わせ、「アーメン」という応唱によって、この祈願を自分のものとする。
(参考)
・ 「ローマ・ミサ典礼書の総則」[PDFファイル](「カトリック中央協議会「公開文書」 -「典礼秘跡関連」)
・ 『ともにささげるミサ-ミサ用式次第 会衆用-改訂版』2006年,オリエンス宗教研究所
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※3:この日の「集会祈願」 (2014年4月20日「復活の主日」)
 「全能の神よ、あなたは、きょう御ひとり子によって死を打ち砕き、永遠のいのちの門を開いてくださいました。主イエスの復活を記念し、この神秘にあずかるわたしたちを、あなたの霊によって新たにし、永遠のいのちに復活させてください。
 聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン」
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※4:「『少なくとも年に一度、復活祭の頃には必ずご聖体をいただくこと』っていうルールがあります」
カトリック教会には主に、以下の5つのおきて(ルール)がある。
 ① 日曜日と守るべき祝日にミサ聖祭にあずかり労働を休むこと
 ② 少なくとも毎年一度罪を告白すること
 ③ 少なくとも毎年一度復活祭のころに聖体を受けること
 ④ 定められた日に償いの務めを果たすこと
 ⑤ おのおのの分に応じて教会の維持費を負担すること
(参考)
・ 「第34課 教会のおきて(「心のともしび」:カトリック要理の友より)
・ 「信徒として守るべき『5つの掟』は今も生きているのか?(「カトリック甲子園教会」:信徒のQ&A より)
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※5:「今日は信徒館でもミサに与ってる方、おられるんですよ」
 この日は、「復活の主日」ということもあってか、ミサに参加された方は400人を超していました。
 聖堂入り口付近のエントランスホールもいっぱいで、そちらにも入りきれない方々は、信徒館で、モニターを前に、ミサに与っておられました。
 以下の画像は、その時の様子で、左側が信徒館、右は聖堂のエントランスホールです。
 (画像はクリックすると、それぞれ拡大表示されます)
信徒館 エントランスホール
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2014年4月20日 (日) 録音/2015年2月19日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英