神の愛に「承知しました」

2011年12月25日 主の降誕(夜半のミサ)
・第1朗読: イザヤの預言(イザヤ9・1-3、5-6)
・第2朗読: 使徒パウロのテトスへの手紙(テトス2・11-14)
・福音朗読: ルカによる福音書(ルカ2・1-14)

【晴佐久神父様 説教】

 2011年のクリスマスを迎えました。ホントに今年は大震災もあって、つらい一年でした。それぞれ、個人的につらい思いをした人もいるかもしれません。
 しかし今日、この闇の中にちゃんと救い主がいらして、私たちの心の闇にちゃんと光が宿る。これこそ、神さまのなさる業。この、神さまのおつくりになっている救いの歴史、救いのドラマを、私たちは信頼していいし、感謝していいし、喜んでいいんです。恐れてはいけません。まだ、ドラマは始まったばかりなんですから。「こんな恐ろしい出来事に、もはや救いなどない」、そんなふうに決め付けちゃいけない。むしろ、「この恐ろしい出来事は、素晴らしい栄光の世界へと向かう始まりだ」、そう信じるのが私たちの信仰です。
 あらゆるドラマは、実を言えば神さまのおつくりになっているハッピーエンドのドラマであるのに、私たちの方が、恐れて疑って、つまらないドラマだと思い込んでしまう。これが「罪」ってことでしょうねえ。そもそも、私たちのこの人生のドラマ、これからどうなるか、まだ誰も知らないでしょ。明日どうなるか、2012年どう展開するか、誰も知らない。想像もしなかった素晴らしいことが起こるかもしれないし、またも試練があるかもしれない。でもその先は? 誰も知らない。その先に神さまが何を用意してくださっているか、誰も見ていない。見ていないのにどうしてそれを救いのない悲劇だと断定できるのか。どうか神さまのドラマを信じていただきたい。それは人間の作るドラマとは違います。人間の作るドラマはね、救いのない悲劇で終わったり、安っぽいハッピーエンドで終わったり、いずれにせよ最終回がある。その先は、人には描けない。神さまだけがご存じの脚本。

 こうして話していても、今、気が気じゃない。このミサは9時に始まったわけですけど、今日の9時から「妖怪人間ベム」の最終回なんですよ。(笑)ベムは果たして、人間になれたのか。(笑)あれ、なかなかよくできたドラマです。良くできたドラマっていうのは、やはり、その根幹に救いのドラマがしっかりと描かれている。主人公は一見無意味に見える試練とか、逃れようのない苦しみとか、先の見えない恐れとか、そういう状況にいるわけですけど、やがてそこに救いがもたらされる。無意味な現実に意味が与えられ、苦しみが喜びに変えられ、とらわれから解放されて恐れが希望に変わる・・・。ま、まともなドラマは、みんな同じような構造になってます。
 ベムたちは、かわいそうにね、人間じゃないんですよ。生れて気付いたら、妖怪人間だった。誰が自分をつくったのか分からない。何のために存在しているのか分からない。「無意味」ってことです。だから彼らは「意味」を求めて必死に、自分を造った博士を探すし、自分が存在する意味を見つけようとして必死に、人間にかかわる。過剰に事件にかかわって人を助けてみたりするのは、ぜんぶ「自分は無意味じゃないんだ」って思いたいから。そうして毎週毎週、ベムとベラとベロは、自らの意味を求めて、あらゆる苦難や試練を乗り越えてきた。
 ですから、いよいよ最終回、彼らが人間になることができるのかどうか、それはイコール、彼らが自分の存在の意味を見つけられるのかどうかってことなんです。やっぱり人間になるんでしょうね。これ、ならなかったら、かわいそ過ぎますよね。(笑)きっと彼らは、自分をつくったのは「愛」だということに気づくんじゃないですか? 自分が愛されて生まれてきたんだっていうことを、知ることになるんじゃないですか? ・・・そうあってほしいなあ。ちょうど今9時半ですから(笑)、その辺の伏線が表れるあたりかな。50分過ぎの感動の涙に至るまで、一番面白いところでしょう。

 でも、妖怪人間が自分の意味を見つけて人間になるっていうドラマ、考えてみたら私たち、一緒じゃないですか。「私、何のために生まれてきたんだろう」「私は、愛されているんだろうか」「私に、これから生きていく値打ちがあるのかな」「私、いったい何の役に立ってるんだろう」、そう問いながら、必死に自分の意味を求めて生きてきた。それ、彼らと一緒じゃないですか。ぼくらだって妖怪人間なんですよ。「早く人間になりた~い!」、いつもそう思って生きてきたんじゃないですか。
 そんな私たち、登場人物に意味をもたらすことができるのは、ドラマの「作者」だけです。つまり、プロデューサー、脚本家、監督が、この登場人物たちに意味を与えることができる。じゃあ、私たちの人生のプロデューサーは、誰ですか。監督は、脚本家は、誰ですか。それを私たちは「神」と呼ぶのです。神だけが、私たちに意味を与えることができます。人間同士は与えることができない。人間同士で与え合う意味は、非常に限定的で、壊れやすく、常に変化するものであって、私たちを本当に生かすものではない。真実なる意味を与えるのは、神です。人生のドラマをお書きになるのは、神です。そして、神がお書きになった脚本が、つまらない脚本であるわけないじゃないですか。「妖怪人間ベムは、悪意のある博士の憎悪によってつくられたので、最後は自らの無意味さを嘆きながら消えていったのでした」って、そんなドラマ、人間なら作るかもしれないけど、神においてはあり得ない。
 神がこの世界の創り主であるならば、私たちに、ちゃんと意味を与えているに決まってるし、登場人物はちゃんとその意味を知るようになっています。
 「私たちは愛されて生まれてきた」
 「神の喜びとなり、人の役に立っている」
 「人間は永遠なる意味に向かって生きている」
 神がお書きになったドラマは、そういうドラマでしょう。間違いなくそうです。

 皆さんのドラマ、まだ、途中ですよ。皆さんは病気になったと嘆いたり、大事な人失いましたって泣いたり、自分の生きる意味が見つからないといって落ち込んだりするけれども、それは確かに今現在の現実としてはそうかもしれないけれど、すべては伏線なんですよ。ドラマの伏線。まだお話始まって20分もたってない。10分くらいのところに置かれた伏線なんです。やがて、その伏線が実は…ってことになるわけじゃないですか。そのドラマを10分で見るのやめちゃったら、ホント、つまんないでしょうね。ハリウッドの大作映画なんか、みんなそうでしょ。ヒーローが閉じ込められた最初の10分で見るのやめちゃったら、実につまんないドラマでしょうねえ。
 「ミッション・インポッシブル」の新作が大ヒット中ですけど、予告編でトム・クルーズが世界一高いビルから飛び降りてるじゃないですか。「ミッション・インポッシブル」って、「不可能な使命」ですから、もう絶対無理だっていう状況をトム・クルーズは引き受けるわけでしょ。確かに見てると、これはもう終わりだ、絶体絶命だ、主人公は決して逃げられません、あとは殺されるしかありませんって状況になりますよね。だからみんな、「どうなっちゃうんだろう?」って思うわけですけど、そこで「ああ、もうだめだ、主人公は殺される、これ以上見ても無駄だ」って映画館出て行く人いますか? みんな分かってるはずです、もうすぐ、考えてもみなかった解決法をトム・クルーズが思いついたり、思いもよらない人が実は味方で、助けてくれたりするって。分かってるはず。だから面白いし、感動するし、ワクワクする。だから最後まで見るんだし、2時間見終えたころには、不可能は不可能じゃなくなってるわけです。
 神がお書きになる皆さんの人生のドラマは、もっと感動的で、もっと幸いなドラマですよ。どんな不可能も可能に変えられていく。「神にできないことは何一つない」ってね、ガブリエルが聖母に言いましたけれど、「神にお書きになれない脚本は何一つない」んです。私たちの貧しい想像力で作る「ミッションなんちゃら」とか「妖怪なんちゃら」とかいうドラマより、圧倒的に、神さまのおつくりになるドラマの方がダイナミックで美しく、感動と驚きと喜びに満ちたドラマであるはず。その主人公は皆さんですよ。

 皆さんのドラマ、それはまだまだ始まったばかりです。2011年、どんなドラマでしたか? もう終わったと思った人もいたかもしれない。一番後ろに座っている方、ついこの前死にかけたんでしたよねえ。良かったですねえ。生き延びて今日、この聖堂にやって来られました。あのとき、隣に座ってる娘さんは、「母が死にそうです」って、もうすべて終わったみたいな感じのメール送ってきましたけど、今夜はちゃんと二人並んでこのミサに与っております。2012年はどうなるか。またまた試練があるかもしれない。でも2013年がある。その先に、いったい何が待ってるのか。それこそ永遠なる世界でしょう。神はそれを約束しておられる。
 すべては、神さまが2千年前にお始めになった素晴らしいドラマに始まります。それまでも旧約のドラマをおつくりになってきたんだけれども、いまや物語は決定的な段階に入ったんです。すべての人を救う永遠の救い主、この宇宙を救う究極のヒーローが、ベツレヘムの町で誕生した。すごいドラマですよね。でも、事実ですよ。それ以来この幼子が、2千年間、どんな感動のドラマを生んできたか。もうそれは、語ったら永遠に語っても語り尽くせないくらいのドラマがあるわけでしょ。救いのドラマが。つい最近だって、「2回ミサに出ただけで笑顔になりました!」っていうスマイル君の話がありました。この前は「この2カ月で人生逆転しました!」っていう方の話もしましたよねえ。神さまは救い主を通して無数の素晴らしい救いのドラマをつくっているし、これからも、すべてのドラマを完成に向かって導いてくれている。こんな安心なことないでしょ。私たちのドラマは「無意味」から「意味」に向かってるんです。そういうふうに神さまがおつくりになってるんだから。

 最終回って言えば、おとといの最終回でも泣かされたねえ。「家政婦のミタ」。(笑)泣かされました。主人公は子どもの頃親からいじめられ、結婚しても夫と子どもを失い、絶望して、もはや「自分の人生には意味がない」と思い込んだんですよ。だからもう、「私は、不幸を生むだけだ」「自分の意思はもう持たない」「二度と笑顔にはならない」、そういうふうに決めつけて、完全なる「無意味」になった。そこから「意味」に向かうっていうドラマが、あのドラマでしょ。いったいこの家政婦が笑う日が来るんだろうか。そう思って見てたら、ついに菜々ちゃん、笑ったねえ。連ドラで一度も笑わないっていうすごい役でしたけど、最後の最後に笑いました。「承知しました」と。
 「承知しました」っていう主人公のキメ台詞、流行語になりましたけど、彼女は自分の意思で生きることを捨てたという絶望の中で、人から言われたことだけをやる、家政婦になったわけです。だから、どんな命令に対しても「承知しました」「承知しました」って、ただそう言って生きてきた。しかし、最後の最後に、とてつもない依頼がきたわけですよ。それは「自分のために笑え」っていう。彼女は「承知しました」そう言って笑った。思い出しただけでも泣けてくる。あの笑顔、良かった。なぜ良かったかというと、それまで、「承知しました」、「承知しました」って言ってきたのは、自分の無意味さの中で、ロボットのように空しく「承知しました」って言ってきただけ。でも、最後の「承知しました」は違った。あれは「私にも意味がある」っていうことを「承知した」んです。自分の人生のドラマを肯定したんです。それを受け入れるっていうことが、人生においてどれほど尊いか。
 「ねえ、三田さん、笑って」と、そう言われて、「承知しました」。「無意味」から「意味」へ。皆さんの人生もそうです。キリスト教用語ではこの「承知しました」を「アーメン」という。私たちは神さまに問われます。
 「私はおまえを愛して生んだ。そのおまえという人生をおまえは受け入れてくれるか」
 私たちは応えます。
 「承知しました」
 「私は愛するひとり子、救い主イエス・キリストをおまえに与えた。このキリストをおまえの救い主として受け入れてくれるか」
 「承知しました」
 ・・・アーメンって、そういうことでしょ。私たちは、神の愛に「承知しました」って言ってるんです。無意味に思えるこの人生、無意味に思えるこの試練、その苦難、病、災害の中で、神から「私はあなたのためにハッピーエンドのドラマをつくってる。このドラマの主役をやってくれるか」と、そう言われて、私たちは「アーメン」と答えて生きてるんです。作者である神の愛を信頼して。
 もうすぐ来る2012年、どんな素晴らしいことが起こるか。まだそのページは開いていない。誰も知らない。けれど、信じることができます。

 あの~、昨日12月23日に公開された映画、ぜひ見に行ってください。渋谷のシアター・イメージフォーラムで、「ルルドの泉で」っていう映画が封切られました。フランス映画(オーストリア、ドイツとの共同製作)ですけど、奇跡の聖地ルルドの現実を劇映画としてよく表現している、非常に面白い映画です。単なるカトリック信仰映画でもなく、あるいは逆に信仰にシニカルな世俗的映画でもなく、奇跡について深く考えさせられる映画です。ドラマに出てくる巡礼団の中には、「奇跡なんて」って懐疑的な人もいれば、純粋に熱心に信じている人もいる。そんな巡礼団の中に、首から下の動かない車椅子の女性がいて、それほど信仰深くないんですけど、たまたま参加している。その人に、奇跡が起こっちゃうんですよ。で、周りは戸惑い、本人も「何で自分が」と思い、みんなの中にいろんな思いが起こるっていうような映画です。静かな、味わい深い、信じるってことの本質を考えさせられる映画です。
 で、見に行ったらですね、ぜひ劇場用パンフレットをお買い求めください。そこに私の原稿が載ってるんです。(笑)まあ、じゃあ買わなくてもいい、ここで話すなら、要するに書いてあるのは「ルルドの地が人々に与えているのは、実は病の『癒やし』ではなく、病の『意味』である」。そういうことです。
 「ああ、病が癒やされた。奇跡だ!」、みんなそう思う。でも、癒やされたってまた病気になるかもしれないし、永遠に生きるわけでもない。その後必ず幸福になるわけでもない。あの聖地が人々に与えているのは、実は病の「意味」なんです。苦しみの意味、人生の意味、神さまの恵みのうちに試練を超えていくドラマの意味を、あの聖地は私たちに与えている。絶望的な「無意味」に、「意味」という希望が与えられる。それこそが奇跡でしょう。
 どうでしょう、健康だけど無意味で虚無的な人生と、病を背負いながらも意味ある充実した人生と、どっちを選びますか? 意味がなければ、人は生きていけません。無意味ほど恐ろしい虚無はない。ルルドは、あらゆる苦しむ人に「意味」を与えています。「なぜ私がこんな病気になっちゃったんだろう」「この苦しみに何の意味があるだろう」と、そう思って必死に生きているひとりの神の子に、神さまは、
 「わたしはあなたを愛している」
 「あなたの人生を今、わたしがつくっている」
 「わたしの愛を信じ、わたしのドラマを受け入れて、その試練を超えていってくれ。その先に栄光の世界を用意してあるから」と、
 神さまはそのような「意味」を私たちに与えてくださる。その「意味」を私たちは信じて、「承知しました」と応えます。
 今日、聖なる降誕祭の夜、皆さんの心の中に生まれてきたのは、実は「意味」です。生きる「意味」です。世界の「意味」です。あなたの「意味」です。・・・苦しみの「意味」です。
 イエス・キリストは、私たちを無意味から救うために、この世界にお生まれになりました。「わたしが与えるこの救い主を、生きる意味として受け入れてくれるか?」と、そう問われて、私たちは「承知しました」と答えます。

2011年12月24日 (土) 録音/2014年12月27日掲載
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