最期のアーメン

2014年3月9日 四旬節第1主日
・ 第1朗読:創世記(創世記2・7-9、3・1-7)
・ 第2朗読:使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ5・12-19)
・ 福音朗読:マタイによる福音(マタイ4・1-11)

【晴佐久神父様 説教】

 今や、悪魔は離れ去りました。天使たちが来て、皆さんに仕えてますよ(※1)。信じて、安心して、洗礼志願式を受けて下さい。覚悟はいいですか?
 「本気で信じないならば、この場を去れ!」と申し上げたい。
 しかし、本気で信じるならば、皆さんはもう、天国の住人です。

 洗礼志願者の皆さん一人ひとりのね、この教会に来たときのことを私はよく知ってるわけですし、一人ひとりのね、心の思いも聴きましたし、一人ひとりのね、その後福音を信じるに至った歴史を知っていますから、私はその歴史に働いている神さまの働きに信頼して、洗礼許可証にサインをしたのです。サインした者は、今年38名。そうして志願者となった者が、ここに、今、並んでおられます。
 その一人ひとりが、こうして確かにここにいるという事実が、神さまが私たちを愛しているという事実の目に見えるしるしだと、いつもそう申し上げてまいりました。
 信者の皆さん、この洗礼志願者たちを、見てください。「神さまは私たちを愛している」ということの、これほどはっきりしたしるしはないと、私は思っている。洗礼は、神のわざなんです。
 洗礼志願者の皆さん、信者さんたちを、見てください。この方たちが、神に選ばれて洗礼を受け、主と結ばれて、なおも続く試練の中を、永遠の命への希望を持って歩んでいる、皆さんの先輩たちです。
 ・・・もう、ここにおいては、確かに悪魔、離れ去ってますね。イエスがおられるんだから。天使たちが仕えてますよ。

 洗礼志願者の皆さんは、もうすぐ来る洗礼式で、何かこう、「自分が、立派になる」っていうふうに考えないでくださいね。そうじゃなくって、「こんな自分に、神のわざが現れる」んです。むしろ、とらわれていた「自分のわざ」から解放されるんです。
 頑張って自分の力で洗礼を受けるんじゃないんです。自ら努力して、洗礼志願者になったんじゃないんです。
 そういう、「頑張ってきた」「努力してきた」という、自力のとらわれから解放されるんです。
 さっきの第1朗読で、創世記が読まれましたでしょ(※2)? あそこに書いてあったことは、簡単な話です。
 「神さまは楽園を造って、もう最初っから私たちを住まわせてる」って話です。
 ただ、何でかはともかく、そこに「余分」なものが入ってきて、その楽園の喜びを味わえなくなっている。それが、私たちの状態。だから、その「余分」を取り除くと、本来の楽園が回復する。
 「最初、神さまは地獄をお造りになりました。そこから人間が努力して天国を造りました」という話でもないし、「最初、神さまは天国をお造りになりましたが、人間はそこに入れてもらえませんでした。しかし、神さまの恵みによって、やがて入れてもらえます」とかって、そういう話でもないんです。
 もう最初っから、神さまは楽園をお造りになったし、人間はそこの住人だし、本来は何の問題もないんです。ぼくらが「余計」なことを始めて、「余分」なことにとらわれて、その楽園がわかんなくなっちゃってる。その余分こそが楽園だなんて思いこんでるから、余計な努力をして不安になり、しまいにこんな自分は救われないと感じてしまう。・・・そういうことですね。
 神さまがお造りになった人間に、「命の息を吹き込んだ」って、さっき読まれました。人間の鼻にですね、「鼻に命の息を吹き入れられた」(創世記2:7)
 皆さんの鼻は息を吸う所ですけれども、そこで吸っているのは、ただの空気じゃない。・・・神さまの息ですよ、神さまの「命の息」。それがもうすでに吹き込まれていて、それで私たちは、「生きる者」になってる(ibid.)
 神さまの「命の息」ですから、完全なものです。それさえあったら、私たちは「生きる者」となる。その息を私たちは吸って、生かされている者。それさえあったら、もう他に、何にもいらないはず。
 ・・・なのに、私たちは余計なことを考えて、余分なことにとらわれて、「こんな自分じゃだめだ」と思ってる。ぜんぜん、だめじゃないんですよ、皆さん。最高なんです。それに気づいてください。余計なことを考えてはいけません。余分なことをしてはいけません。
 「もう私はこれで十分。最高の存在だ」って気づいてくださいね。それに気づかないようなら、もう、ここからは去っていただきたい。洗礼を志願するってことは、「もう余分なことはいりません」っていう爽やかな覚悟なんだから。

 その洗礼志願式の、ミサの前のリハーサルに、さっき遅れてきた人がいますけど、どういうつもりだっ!?(笑)
 君は、遅れないために前の日教会に泊まったんじゃなかったか。神父さまに前夜祭までしてもらって。(笑) しかもその遅れた理由が、就活の郵便を出しに行くって・・・う〜ん、まあ、いいですよ、就活。どうぞ頑張って、いいとこに勤めてください。だけどそこは、天国じゃないですよ。永遠でもない。もちろん、就職は必要なことではある。頑張って生きていきましょう。働きましょう。だけど、たとえ就職できなくとも、働けなくとも、本来、私たちは完全なんです。自分で生きてるんじゃない、神に生かされてるんだから。ここ、楽園なんです。
 私たち、普段、この世のいろんなこと、楽園から見れば「余計なこと」にばかりとらわれて、頭の中がもうそれだけになっちゃってるから、だからこそ洗礼が必要なんです。・・・「就職するな」って言ってるんじゃないですよ、頑張って就活したらいい。神さまからいただいた知恵と力で働いたらいい。でも、それは洗礼志願式に勝るものでは、決してない。
 神の愛の中を生きていくことだけあったら、もう他に何もいらない。そんな恵みの世界に、皆さんは入っていくんです。

 あとひと月半、よい準備しましょうね。どれほど自分がだめであっても、悪しき思いにとらわれていても、罪深いと思っていても、神さまの恵みは、それに勝りますよ。
 第2朗読で読みました(※3)
 「恵みの賜物は罪とは比較になりません」(ローマ5:15)
 「恵みの賜物は罪よりちょっと大きい」って話じゃない。・・・「比較にならない」。
 皆さんがどれほどこの世にとらわれていても、神さまを忘れていても、自分を責めていても、こんな自分はだめだと思い込んでいても、恵みの賜物は、そういう罪とは比較にならない。
 この場合の「恵みの賜物」っていうのは、もう、イコール、「イエス・キリスト」です。
イエス・キリストの恵み、イエス・キリストが共におられるという恵み、洗礼によってイエス・キリストと一つになるという恵み。その恵みの賜物は、もう、どんな悪も罪も、比較にならない。「罪より多い」じゃないんです。「罪なんかとは、比べものにならない」。・・・格が違う。桁が違う。
 「洗礼を受ける」っていう、その恵みの賜物がどれほどか。そういうこと、洗礼を受けてから、だんだん、だんだん、皆さんわかっていきますよ。
 「あの洗礼志願式の日は、本当に、自分の信じる人生において、素晴らしい出発の日だったなあ・・・」と、後で思い起こしますよ。

 皆さんの、洗礼志願者の先輩で、病に倒れて洗礼式に出られなかった方がいるんですよ。3年前でした。倒れた後、意識のない病床での緊急洗礼になりました。
 背が高くてね、結構イケメンでね、信者のお母さまに連れられてやって来た方です。ちょっと、心に障害というか、さまざまな意味で生きづらさを感じていた方で、集団の中で生きていくのが難しくて、どうしても周囲とぶつかったり、からかわれたりいじめられたりで、もう、集団の中に入っていくことが怖くなっちゃってた。その彼を、でも、入門講座のみ〜んなは大好きでしたし、彼も多摩教会だけは信頼して通ってくれました。
 入門講座に熱心に出てね、「入門講座に行くのが何より楽しみ♪」って感じで、出掛ける前からワクワクしていたそうです。お母さまはそんな息子の面倒をずっと見てきたわけですけど、「うちの息子があんなにワクワクして出かけるの、見たことない」って、おっしゃってました。そうだろうと思います。入門講座では、みんなが受け入れてくれますし、あなたはホントに素晴らしい存在だっていう福音が語られてましたから。
 それは繰り返し、入門講座でお話したはずですよ、皆さんにも。「皆さんは神に愛されている。何の問題もない。神さまが愛してお造りになったんだから」と。
 問題があるとしたら、あなたがその問題を生み出したんです。「こんな自分じゃだめだ」「自分は愛されてない」「もっとこうしなきゃ救われない」って、それは、あなた自身が持ち込んだ、あなたのとらわれです
 イエスさまはおっしゃいました、「人は神の言葉で生きる」(cf.マタイ4:4)
 あるいは、こうおっしゃった、「ただ神にのみ仕えよ」(cf.マタイ4:10)
 今日の福音ですね(※4)。 入門講座では、徹底してその話をしてきたつもりです。あなたは素晴らしい存在だ、本来何の問題もない、ただ神の愛を信じていればいい、と。
 その彼も、それで救われて、安心して、入門講座に通い続けたんです。
 彼はですね、入門講座の後で、お菓子が出ますでしょ、そのお菓子を配るのが自分の仕事だって思っていて、そのお菓子配りが大好きだったんですよ。いつも、私がまだ話してるのにね、フライングでお菓子を配り始めちゃうんです。どうしても配りたいんですね。私もそれを、ニコニコしながら見守ってました。「ありがとう、いつもありがとう」って。
 なのに、病に倒れて意識をなくしたまま、3年間たちました。
 その彼が、おとといお医者さまから、「あと、もしかすると数日です」と言われて、昨日、私、病院に行って、「病者の塗油」の秘跡(※5)をお授けしてきました。見た感じはいつもとおんなじ。もう何度も彼のところに行ってるんですけど、見た目はいつもと同じように寝ていて、何も変わらないように見えるんです。でもお医者さまの見立てでは、「あと数日」かもしれないってことなんですよね。お母さまが「とても信じられない」ってね、枕元にショックで立ちつくしておられましたけど。
 「病者の塗油」の秘跡をお授けして、いつも感動するんですけど、特に意識を失っているような方って、もうその人の恐れとか、思い込みとか、とらわれとかが、ないじゃないですか。だから、ある意味、先週の説教じゃないですけど(※6)、 「過剰なもの」「余分なもの」がないんです。もはや全面的に、神さまの世界に委ねて生きている存在。だから、塗油をお授けしながら、なんかすごく清々(すがすが)しいというか、「ああ、これは神さまがなさっておられることだ」っていうのがすごく感じられて、励まされるというか、そんな気持ちになります。
 昨日の「病者の塗油」もそうでした。だって、意識を失って3年ですよ。われわれは、この3年間、いろいろ忙しく働いたり、働き過ぎて疲れ果て、信じる心を失ったり、そんなことやってきたわけですけど、そんな私たちに、「自分はいったい何やってるんだろう・・・」って思わせるような、まことに尊い、神さまにのみ生かされている3年間でしょう。

 教皇フランシスコが、先日、この「病者の塗油」について説教しておられた。今週のカトリック新聞にそれが載ってましたけれども(※7)、教皇さま、面白いこと言うんですよ、
 「よく、神父が『病者の塗油』を授けに来るのを嫌がる信者とか、その家族がいる」と。なんで神父が来るのを嫌がるかというと、「神父の次に来るのは霊柩車だから」と。(笑)
  「そう思い込んでる信者たちがいる。それは、しかし間違いだ。神父は霊柩車を連れて来るんじゃない。神父が連れて来るのはイエス・キリストだ」
 おっしゃるとおりです。病者の塗油の秘跡は、あるいは、秘跡全般がそうですけど、秘跡は、イエス・キリストを連れて来るのです。
 「洗礼」の秘跡なら、イエス・キリストと一つになる。
 「病者の塗油」なら、一番つらいとき、一番助けを必要とするときに、すべてを救うイエス・キリストが、そこに来られる。
 ・・・これが「秘跡」です。
 教皇さまが、そういうお説教をなさった。
 昨日、「病者の塗油」をお授けしながら、それを思い出しました。
 今、ここに、イエスさまが来られたんだと。

 先週は、他にも「病者の塗油」をいくつもお授けした。
 灰の水曜日なんかは、二人お授けしましたよ。病院、二つ回ってね。どちらも危篤だということで。府中の病院の方も、非常につらそうだった。多摩センターの病院の方も本当につらそうだった。
 多摩センターの病院では、ご主人がその場に立ちつくしておられて、どうしていいかわからないというご様子で。なすすべがない時って、そばにいるご主人もね、つらいですよ。
 私が行った時は、もう意識を失って何日目かでした。医者に今日が危篤だと言われたってことで、「病者の塗油」をお授けしようとしたら、「何も分からないと思います。もう何の反応もないんです」って、ご主人が言うんですよね。でも私は、いつも経験してることですから、
 「いいえ、奥さま、ちゃんと分かってらっしゃいますよ。奥さまは、今、一生懸命祈っていらっしゃいますから、心ひとつにして、一緒にお祈りいたしましょうね」とご主人に申し上げて、病者の塗油をお授けしました。
 初めに、奥さまの耳元で大きな声でお名前を呼び、お話ししました。
 「晴佐久神父ですよ、分かりますね。一緒にお祈りしましょう。今、神さまが最も素晴らしいことをしてくださいますから、ただ信じて、すべてを委ねてください。あなたはいつも、ミサを大切にしてお祈りしてこられたんだから、今こそ、最高のお祈りをしましょう。安心してください、ぜんぶお任せしてください。いいですね?」
 そうお話して、「父と子と聖霊のみ名によって」って十字を切ったら、奥さまが、大きな声で、
 「アーメン!」って言ったんですよ。
 ご主人、腰抜かさんばかりにビックリしてました。
 私は別に驚きませんでしたけど、そういうことは珍しくないので。ただ、あれほど大きな声の「アーメン」を聞いたのは初めてでしたので、感動しました。
 もう、「意識ない」って言われて、「反応ありません」って言われて何日っていう方が、「アーメン!」・・・あれは美しい「アーメン」だった。
 一人のキリスト者の、生涯最後のひと言です。・・・生きている間、本当にいろいろなことをしゃべりますけれど、最後の最後に言うべきことはまさにこれでしょう。ひと言、「アーメン」。
 ご主人はいつも、奥さまをミサに車で送ってこられていたんですね。ずっと長いこと、教会に車で送り続けて、でも、教会には入ったことがないんです。信者じゃないから。だから私、後でご主人に言ったんです。
 「今の『アーメン』、聞いたでしょ?」と、
 「あなたも『アーメン』って言いましょう。あなたも洗礼を受けましょう」と申し上げました。
 奥さまは翌朝、亡くなられました。

 これから、洗礼志願式です。志願者の皆さんは、額に油を塗られたとき、「アーメン」って答えます。今日、はっきり答えてくださいね。
 「アーメン」、すなわち、
 「信じます」
 「すべて委ねます」
 「主よ、あなたがすべてです」と。
 そして、「アーメン」と言ったからには、生涯、神さまにすべてを委ねて、「アーメン」「アーメン」って祈りながら生きてください。
 人は本当に弱い。しかし、神の恵みは、人の弱さとは比較にならないほど大きい。人の弱さ、罪、悪をすべて越える恵み。
 そうして皆さんも生涯最後のとき、いいや、神の国に迎え入れられる最初のとき、
 「アーメン!」と。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます。)

※1:「今や、悪魔は離れ去りました。天使たちが来て、皆さんに仕えてますよ」
この日、2014年3月9日(四旬節第1主日)の福音朗読箇所
 マタイによる福音書 4章1~11節
===(聖書参考個所)===
 
そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。(マタイ4:11)
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※2:「さっきの第1朗読で、創世記が読まれましたでしょ?」
この日、2014年3月9日(四旬節第1主日)の第1朗読箇所
 創世記2章9節、3章1〜7節
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※3:「第2朗読で読みました」
この日、2014年3月9日(四旬節第1主日)の第2朗読箇所
 使徒パウロのローマの教会への手紙 5章12〜19節
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※4:「今日の福音ですね」
この日、2014年3月9日(四旬節第1主日)の福音朗読箇所
 マタイによる福音書 4章1~11節
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※5:「病者の塗油」の秘跡
 カトリック教会の「七つの秘跡」(洗礼、堅信、聖体、ゆるし、病者の塗油、叙階、婚姻)のうちのひとつ。
 『カトリック教会のカテキズム』には、以下のように説明されている。
 「教会は、七つの秘跡の中に、とくに病気に苦しむ人々を励ますことを目指す秘跡があると信じ、そう宣言しています。すなわち、病者の塗油の秘跡です」(p460、1511)
 以前は「終油の秘跡」といわれ、臨終にある者に対してのみ行われていたが、第二バチカン公会議後に見直しが行われ、「危篤の状態にある人のためだけの秘跡ではない」として、名前も「病者の塗油」と改められた。
(参考)
・ 「病者の塗油」(ウィキペディア)<簡略的説明>
・ 『カトリック教会のカテキズム』(カトリック中央協議会、2002年、p457-p465)
・ 「病者の塗油の秘跡 ()、()、この秘跡を受ける者、授ける者この秘跡執行の効果」(ラウダーテ:「カテキズムを読もう」より)など。
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※6「先週の説教じゃないですけど」
・ 「ここが私の終着駅です(「福音の村」2014年3月2日説教)を参照。
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※7:「今週のカトリック新聞にそれが載ってましたけれども・・・」
・ 『カトリック新聞』(カトリック新聞、2014年3月9日 第4233号)一面記事。
  タイトル:「教皇フランシスコ ためらわず『病者の塗油』を」
(参考)
・ 同等記事:「ためらわず『病者の塗油を』」(「カトリック新聞 オンライン2014/3/6
・ 「教皇フランシスコの2014年2月26日の一般謁見演説:病者の塗油の秘跡(カトリック中央協議会)
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2014年3月9日 (日) 録音/2014年3月16日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英