安心のため息

2013年7月28日 年間第17主日
・第1朗読:創世記(創世記18・20-32)
・第2朗読:使徒パウロのコロサイの教会への手紙(コロサイ2・12-14)
・福音朗読:ルカによる福音(ルカ11・1-13)

【晴佐久神父様 説教】

 昨日、おとといと、楽しい楽しい教会学校のキャンプを、この教会でやりました。
 キャンプの参加者が、今日もミサに来ておられますが、どう? 楽しかったでしょう? ホントに、よく準備もしてあったし、子どもたちにとっては天国のような日々だったと思いますよ。
 私も子どもいませんから、キャンプのときくらいは、ちょっと子どもたちと戯れたりして。まあもっとも、すぐ面倒くさくなって逃げ出すんですけど。(笑)それでも子どもたちは、「神父さまぁ、あそぼうよ〜♪」ってすがりついてくるし、「神父さんは、もういいよ〜」って逃げようとすると、2人、3人と、すがりついてきて、それをずるずる引っ張っていくと、その子たちに、さらに別の子たちがすがりついてきて、ぞろぞろ引っ張ってると、だれかが「ぶどうみたい」。(笑) いいでしょう? それこそ「わたしにつながっていなさい」っていうぶどうの木状態で、ぞろぞろ。

 子どもたちと一緒にいると、「童心に帰る」って言葉があるけれど、素直になれますよね。子どもたちは何でも思ったこと口にするし、要求するし、遠慮がないわけでしょ。「あれが欲しい」「こうしてくれ」「もっと遊ぼうよ」って。
 大人はなんだか、そういうことを控えちゃって、素直になれないっていうところがあるから、こういう、むき出しの子どもの要求みたいなのがうらやましくもありますね。それこそ、今日の福音書の「魚が欲しい」っていう子どもみたいに、「欲しい」「欲しい」「欲しい」って、もっと言っていいんだよねって思わされます。
 キャンプではなぜかピクルスが人気でね、「ピクルスもっと!」「こっちにもちょうだい!」って。なんでピクルス好きなんですかね、子どもたちは。結構酸っぱいのにって思うけど、「ハンバーガーの味!」って言ってた子もいたから、ハンバーガーのおかげで好きなのかもしれないですね。甘酸っぱいピクルスを、「もっと」「もっと!」「もっと!!」って、もらうまで言い続ける。
 この「もっと、もっと!」っていうのを、どうして大人は、素直に言えなくなっちゃうんでしょう。そんな子どもじみたこと言っちゃいけないって思ってるんでしょうね。
 子どもたちとスイカ食べながらふざけてたら、「神父さま、子どもみた〜い」って言われちゃいました。そのときある子どもが、「神父さまは子どもなの? 大人なの?」って聞くから、「そりゃあ、神父さんは大人だよ」って言ったら、「じゃあ、子どもと大人って、どうちがうの?」って聞くから、「そういう質問をしなくなると、大人なんだよ」って答えておきました。
 実際、大人は、そういう素朴なことは聞かないでしょ。何で聞かなくなるんだろう。

 「大人と子どもの違い」って、でもね、そこはやっぱり、実は答えははっきりしてるわけですよ。いろいろ経験するうちに素直じゃなくなっちゃうってことなんですよね。
 例えば、誰かに裏切られる。そうするともう、相手を素直に信じられなくなる。あるいは大失敗する。そうするともう、自分を信じられなくなる。あるいは大災害が起こる。そうするともう、世の中を信じられなくなる。
 大人になると、そう簡単に素直には人が信じられない。自分も信じられない。まして世の中が、世界が信じられない。これ、信じられないっていう経験をしたからなんですよ。
 その点、いろんなつらいことを、子どもたちはまだ知らないからね、平気で「遊ぼうよ〜♪」なんて、すがりついて来る。これを、「うるさいっ!!」って、一度でもひっぱたけば、子どもたちもびっくりして、素直には寄ってこなくなるはず。現に、怖い顔した大人には、「遊ぼうよ〜♪」って、寄ってかないじゃないですか。まあ、その意味では、すがりつかれるうちが花みたいなね、(笑)ところがあるかもしれないですけどね。
 つらい経験して、素直さを失う。それが「大人」ってことでしょうね。裏切られて、失敗して、大変な災難に遭って、・・・信じる力を失っていく。でも、それって、悲しいよねえ。そんな経験をして、なおも素直に信じることが、救いなんだから。
 子どもたちはそこを、素直に信じる。「子どものようでなければ神の国に入れない」ってイエスさま、言いましたけど、そういう素直さっていうのが、神と人の関係にあっては「かけがえがない」っていうことなんでしょうね。

 鶴牧西公園でね、「カナの婚宴ゲーム」をしたんですよ。ゲームっていうか、聖書のカナの婚宴のところを紙芝居で子どもたちに読んで、そして実際に、「さあ、やってみましょう」っていうのを、やったんです。
 「水がめに水をいっぱいに入れなさい」って、イエスさまが命令するでしょ。そこも、実際にやりました。私がイエスさま役ですけど、水がめ出して、「さあ、これに水をいっぱいに」って命じます。「水がめ」って言っても、水がめの絵が描いてある箱なんですけど、箱の上には小さな穴が開いてて、そこから中にちゃんと水を入れられるようになっていて、みんなで水を入れるんです。イエスさまの言うとおりにしましょうってことで、みんなで協力して、交代に少しずつ水をコップで()んできて、どんどん、どんどん入れていく。
 で、入れ終わると、イエスさまがその上に手をかざして、「ぶどう酒になれ〜!」って感じに、お祈りをしてから、「さあ、それを宴会係のところに持って行きなさい」って言うんです。で、箱の下の方に蛇口がついてるんですけど、宴会係がコップを用意してその蛇口をひねると、蛇口からなんと、ぶどう酒が出てくるんです!(笑)ホントに出てくるんですよ。
 まあ、そのときの子どもたちのビックリした顔! 「え〜!? あれ!? ホントに出てきた〜!!」って。
 あれは・・・あの顔はいいね。まさに素直な顔。これ、あの、もちろん、晴佐久神父さまが奇跡を行ったっていう話じゃないですよ。そのうち、子どもたちもなんだか怪しみ始めてね、上の穴をのぞき込んで、「あ〜! ぶどうジュースのペットボトルが見える〜!」とかって、バレちゃいました。上から水入れると、下からぶどうジュースが出てくるっていう仕組みの箱を作ったわけですけど、まあ、みんなをちょっとびっくりさせて、楽しく印象付けようっていう、聖書のお勉強です。・・・でも、子どもたち、10秒くらいはビックリしてたよね。
 あれが大人になると、0.1秒なんですよ。(笑) 一瞬はアッ!って思うけど、「なんだよ、変な手品やってんなあ」って、すぐに気づく。その点子どもは、10秒驚いてくれるからいいよ。「え〜!? あれ〜!? ホントに出てきた〜!!」ってね。ねえ、みんな、楽しかったよね。その後、みんなでそのぶどうジュース、おいしくいただきました。

 素直に信じられたらいいんですけどね。大人たちは0.1秒で「そんなこと、あるわけない!」って思うんですよ。いっぱい経験してきて、何でもわかったつもりになってるんです。実は、ちっとも、大した経験してないんですけどね。
 「あるわけない」って言うけど、神さまのみ手のうちにあっては、水がぶどう酒に変わるなんて、何も不思議じゃないんですよ、言っときますけど。水つくったのも神、ぶどう酒つくったったのも神なんですから。何も不思議はないはずなんです。
 でも私たちは、もう大人の頭でしか、ものを考えられないので、「そんなこと、あるものか」「人なんか信じられるものか」「自分なんか、うまくいくはずがない」「やがて世の中は悪くなる」、そんなふうにばっかり考えてしまって、「神さまに素直に祈る」とか、「神を全面的に信頼して、神とつながる」なんていう喜びを、見失ってるんですよ。子どもみたいに、10秒でいいからそれをやってみたら、きっとなにか、とてつもなく素晴らしいことが起こるんじゃないですか?
 「祈るときは『父よ』と祈れ」と、イエスさま、教えてくれた。「父よ!」そんな、素直な、真っすぐな、疑いを知らぬ思いで、10秒、いや、5秒でも、0.1秒でもいい、祈れたら。

 第1朗読の創世記で、アブラハムが神さまにお願いするとこなんて、それこそ子どもみたいでしょ。「あと5人!」とかやってますけど、これって、この前の、「グラデーション理論」の話でもありますね。神さまのゆるし、神さまの憐れみ、それは、線の引きようがない。アブラハムは、それをちゃんとわかってるから、50人が45人、45人が40人、40人が30人。30人が20人。これ、なぜが10人で終わってますけど、じゃあですよ、これ、10人がその「線」かっていうと、もうわかりますよね、そんなはず、ないですよね。
 ここで、もしアブラハムが、さらに、「あと5人!」って言ったら、さすがに神さまも、堪忍袋の緒が切れて、「ええい、しつこい! そんなこと言うならやっぱり50だ!」なんて、そんなこと、あるわけないですよ。
 これ、あと5人でも、神さま、「わかった」って言うでしょうし、さらにさらに、アブラハムが、もう恐る恐る、「言うだけ言ってみますけど、ゼロっていうのは、無理ですかねえ」って言えば、「わかった。ひとりもいなくても、わたしは滅ぼさない」、そう言ってくれるんじゃないですか。「甘える」って、そういうことですもんねえ。まったく無力な私たちですから、ひたすら甘えて、甘えて、神さまを信頼して、信頼して。・・・「神は愛だ、絶対だいじょうぶだ!」っていう、それが信仰です。
 だって、「絶対に(・ ・ ・)救ってくれる神さま」のもとで神の子であるって信じる以外に、本当の安心なんて、あるはずないでしょ? 「いつかキレる親」だったら、本当の安心にならないじゃないですか。

 上智大学の神学講座で、私、数日前、お話してきました。「夏期神学講座」(※1)なんですけど、偉〜い先生が十数人、ダーッと並んでね、順番に講義していくんです。何日にも渡って、一日三講義ずつね。(※2) 通しで聴いてる人もいて、偉いですよ。結構高いお金出して、申し込んで聴講するんです。単位も取れるんですね、上智大学の。
 で、そこでお話している人たちはみんな、講師一覧を見ると、上智大学教授とか、何とか大学准教授みたいな、全員日常的に大学で教えている先生方なんですよ、十数人。その中にひとりだけ、「東京教区司祭」っていう肩書きの人がいて、異彩を放っておりました。(笑)
 私なんかは、講義っていっても、難しい神学の話、よくわかりませんから、素朴な話しかできません。まあ、最初っから難しい話は期待されてないでしょうし、子どもみたいな話をするわけですよ。・・・「神さまの愛が、この部屋にも満ちていま〜す!」って。
 「こんな単純な話だけれども、聖なる霊が働いて、皆さんの心を救います。でもあえて言えば、それがホントの『神学』ってことでしょう。そして、その『救われた』という聖霊体験こそが、今度は他の人にも、『あなたも救われる!』って宣言する自信につながります。今日はそれを学んでくださいね」っていう話をしてきました。

 で、そのとき最初に話したのが、「実は昨日、歯医者に行ってねえ」っていう話です。
 歯の詰め物が、取れかけたんで歯医者さんに行ったら、「ああ、中が少し虫歯になってますね」ってことで、そこをまた削って、新しく詰め換えるっていう治療ですけど、まだ途中なんで、今もここに仮歯が入ってます。
 で、その削るときのね、何とも言えない、あの、イヤな恐怖心の話をしました。皆さんもわかりますよね? その恐怖。私は、実は苦手です。非常に苦手です。普段はこう、神は愛だ、すべて委ねるんだっていう説教をしながら、歯医者さんの椅子の上では、恐れのあまり、ほとんど、もうなんか、・・・信仰を失ってますね。(笑)
 いや、「信仰を失って」じゃないか、ある意味本当の信仰に立ち返ってるのかな。だって、椅子の上にすわったら、心の中で、ず〜っと、(早口、棒読みで)「めでたし聖寵(せいちょう)()()てるマリア、主御身(おんみ)と共にまします。御身は女のうちにて・・・」(笑)って、「アヴェ・マリアの祈り」を祈ってるんです。 あれ、なぜかそういうときは、「めでたし」なんですよね。やっぱり子どもの頃からの、文語体で祈っちゃうわけですけど。
 でも、麻酔なんか打たれてね、ウィーン、ウィン、ウィンッ・・・とかって削られてるうちに、どうしても疑いの心が起こってきてね。このお医者さん、ホントに腕は確かなんだろうかとか、つい手が滑って、神経をガガガガッて削られて、「ギャー!」って叫ぶんじゃないだろうかとかね、いや、実際、それに近い体験あるんですよ。もう、あれやこれや余計なこと考え始めるんで、そんなときは、私はさらにこう祈ります。歯医者さんの椅子の上で、「神さま、すべてを委ねます。もう、ここで死んでも構いません」(笑) 「今までありがとうございました。本当に、いい人生でした」。(笑)
 そうでも祈ってないと、心が落ち着かないんですね。でもまあ、「もういいや、死んでもいいです」とかって祈ると、なんか急に安心して、少しドキドキが収まって、握りしめていた手を少しほどいて、リラックスできる。極端って言われるかもしれないけど、私はいつもそうです。そもそも、洗礼受けた人は、もうとっくにキリストと共に死んでるんだしね・・・「もう、死んでも構いません!」って、神に命預けちゃうのが楽ってことですよ。
 歯を1本削るんでも、弱っちゃって、恐れちゃって、ビクビクする。だけど考えてみると、そんなふうに、いつもの強い信仰を失っているようなときこそが、ホントの信仰に立ち返るときっていう意味では、「恵みのとき」なんですよね、これがやっぱり。
 イエスさまが言ってるとおり、「父よ」っていうとき。日頃の立派なかっこいい祈りじゃなくって、「パパ助けて〜!」っていう、「お願い、ママ〜!!」っていう、なんかそんな祈りにおいて、人は最も神さまとつながってるんでしょうね。
 これ、でも、神さまを知らない人は、「助けて〜!」って、誰に言うんだろう。・・・謎ですね。これこそ、謎。信仰なんていらないっていう人は、誰に言うんでしょうね。それとも困ったときだけは、一応、言うんですかね、「神さま!」とか、「仏様!」とか。
 私は幸い、イエスさまに教えられました。・・・「『父よ』と祈れ」
 で、私は祈ります。「父さん、信じます!」
 祈って実際に助かるか助からないか以前に、この、祈りでつながっているときっていうのが、救いのとき、恵みのときなんじゃないですかねえ。

 まあ、そんなような話で、だから「今日は特に、ホントに弱っている人のことを思いながら話します」なんて言って話しました。もっともこんなこと、神学講座で話すようなことでもないんですけどね。でも、そんな素直な信仰を失っちゃったら、どんなに立派な学問積み重ねても、いざというとき、本当に救いを求めて悲鳴を上げているようなときに、私たちは神の愛を見失うんです。
 やっぱりね、親元にいる安心っていうものを、私たちは何よりも大事にしたいし、そのためにこそ、このイエスさまの教えてくれた祈りを、何度でも祈るべきですよ。
 「父よ、あなたの国が来ますように。あなたの愛が満ちた世界が来ますように。
 私たちに必要な(かて)を、勇気を、愛を、必要な信仰を、毎日毎日、毎時間毎時間、絶えることなく与えてください」
 ・・・やっぱり、そう祈り続けるべきですよ。
 「弱い私を癒やしてください。
 いつも間違えている私をゆるしてください。
 私たちを、恐ろしい悪、あなたから離れることへの誘惑、さまざまな苦しみの元になるものから遠のけてください」
 ・・・そう必死に祈る。
 この祈りをね、大切に祈りましょう。
 イエスさまがステキなたとえを話してくれたじゃないですか。「しつこく頼めば、起きて来て必要なものを与えてくれる」と。だから、「求めなさい。そうすれば、与えられる」。
 これ、正確に言うと、「求めなさい。そうすれば、与えられてることに気づく」でしょうね。
 「探しなさい。そうすれば、すでにここにあることに目覚める。門を叩きなさい。そうすれば、すでに開かれていると、あなたは知るでしょう」と。
 子どもみたいに、素直に求めましょう。

 今日はちょうど、ワールドユースデー(※3)ですからね。半日の時差があるから、今頃、徹夜祭やってるときですね。何百万っていう青年が「パパ」のもとに集まって、そしてパパは「わが子よ」っていうふうに語りかける。そして全員野宿して、翌日はパパさまと一緒にミサを捧げる。
 この教皇さまを「パパ」って、子どもたちは呼びます。
 「パパ」、それは、天の父のひとつのシンボルです。「みんな、パパの所に集まれ!」って、先々代の教皇が言って始まったワールドユースデー。若者たちはそれに応えて、何百万人と集まってきて、「パパ!」「パパ!」、「Viva(ビバ)Papa(パパ)!」「Viva!Papa!」って叫んだりするんですよ。素直に、真っすぐに、天の父のみ元に集まるっていう姿ですよね。教皇さまは、そのシンボルなんです。
 どうぞお祈りくださいね。全世界の青年たちが、本当の「パパ」に、ちゃんと気づくように。目覚めるように。

 私の所には、いろんな方が相談にいらっしゃいますけど、つい先日の、ある女性の相談が印象的でした。彼女は、今まで自分がとらわれていたこと、ずっと気にしていたこと、苦しかったこと、それは打ち明けるには、なかなか勇気のいる内容なんですけど、それをぜんぶ話してくれました。
 私はもちろん、福音を語りました。
 「あなたが心配している、その『罪』は、もうぜんぶゆるされている。あなたがずっとこだわってきたこと、自分を受け入れられないでいるその思いも、神さまはちゃんと知っていて、ぜんぶ受け入れている。神は愛です。あなたはもうそのままでゆるされているし、救われています」
 まあ、これ、いつもの私のメッセージですよね。この方にそれを語ったら、目の前でですね、大〜きなため息をついたんですよ。何度も。このため息が、非常に美しくってですね、私、すごく感心して、「美しいため息だね〜」って、変な褒め方しちゃったんですけど、忘れられないため息。世の中には悪いため息もありますけど、これは、ホントに安心したときのため息なんです。
 こんな感じ。(肩の力を抜いて)「ふぅ〜。よかったぁ・・・。安心しました。そうなんですね。そうだったんですねえ。ふぅ〜。よかったぁ・・・」。
 ・・・見ほれました。こんな安心のため息、真の親元じゃなきゃ出ませんよ。
 皆さんも、今日は安心して、ため息ひとつ、ついてくださいな。


【 参照 】

※1: 「夏期神学講座」
神学講座(夏期集中講座) <御挨拶> →  http://goo.gl/Vq4SOZ 
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※2:1日3講義ずつ
「2013年度 第60回上智大学夏期神学講習会」 詳細 (PDFファイル)
→ PDFファイル : http://goo.gl/g3hwl0
→ jpegファイル : 1ページ目
→ jpegファイル : 2ページ目
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※3:ワールドユースデー

2013年ワールドユースデー リオデジャネイロ大会 公式日本巡礼団 運営委員会
→  http://goo.gl/o4C3Zg (「ワールドユースデーとは」他、紹介)
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2013年7月28日 (日) 録音/2013年7月31日掲載
Copyright(C) 2013 晴佐久昌英