究極の普遍主義

2014年3月23日四旬節第3主日
・第1朗読:出エジプト記(出エジプト17・3-7)
・第2朗読:使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ5・1-2、5-8)
・福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ4・5-15、19b-26、39a、40-42)

【晴佐久神父様 説教】

 イエスさまが、「今がその時である」っておっしゃいました。(ヨハネ4:23)
 それはまさに、そのイエスさまのお言葉を聞いている「今」、「今がその時」です。
 皆さんは今、「霊と真理をもって」(ヨハネ4:3)、天の父を礼拝しています。この世のどこかの「あの山」とか「この山」とか、飲んでも渇いてしまうこの世の水とか、そういう話じゃない。霊と真理による、普遍的な礼拝を、私たちは今、しております。それがどんなに素晴らしいことか、今一度、このミサで、改めて「霊と真理による」礼拝をいたしましょう。
 この一週間、「この世のこと」にとらわれて、そんな礼拝を忘れていたんじゃないですか?

 うれしい知らせがあります。
 昨日、39人目の方が、神さまの恵みによって決心して、今年の洗礼志願者となりました。・・・あと一人なんですけどねえ、(笑) 大台まで。何とかなりませんかね?
 39人目の方は、1年半も前から入門講座に通って、熱心に祈って学んできた方です。しかし、ここにきて、この世の恐れにとらわれちゃったんですね。ホントに「この世のこと」っていうのは、いろんな方法で人の心を捕えるし、いつの間にか私たちは、それに支配されてしまう。
 その方も、洗礼志願締め切りのときに、この世のさまざまな言葉にとらわれて、「ああ、私はやっぱり洗礼受けられない・・・」って思い込んじゃった。結果、教会にも来られなくなった何週間かがありました。だけど、入門係の人たち、偉いですよ。彼女とこまめに連絡とってね、「どうなさいました? だいじょうぶですか?」と、「もう1回、神父さまとお話してみましょうよ」と、まあ、いろいろお世話をしてくださり、おかげで再び司祭とも面接して、その後、「この世のこと」を吹っ切って、ついに昨日、「洗礼を授けてください」ということで、洗礼許可証に、私、サインをしてお渡ししました。
 ご本人、昨日の夜のミサに出ておられたんですけどね、ポロポロ泣いておられましたよ、説教壇の目の前で。「よかったねえ、神さまありがとう」っていう気持ちでした。・・・これで、39人目。
 この方、がんを患ったりしましたし、ご主人の急死ってこともありました。いろんな試練を背負って生きてきたんですけど、ついに「今」「この世のこと」じゃなく、「霊と真理による礼拝」に招かれましたし、まさに洗礼式の夜、この世のどんな力も及ばない、普遍的な「霊と真理による礼拝」をなさるんです。素晴らしいことです。
 ・・・イエスさまが、その礼拝に、私たちを招いてくださる。

 このサマリアの女なんか、イエスさまと、これ、5分くらいでしょ? おしゃべりしたの(※1)。でも、もうすでに「霊と真理による礼拝」に招かれてます。それほどイエスさまっていうのは、あらゆるこの世の環境、条件、対立を超えた真の普遍性、すなわち、真理である方なんです。その方に出会えばもう、変な言い方、「一発」なんですよ。一発でコロリと、私たちはイエスの世界に引き込まれて、普遍的な天の父への礼拝に招かれる。
 だからこそ、もっともっと、イエスさまを知らせましょう、イエスさまに出会っていただきましょうと、心から、そう願うわけですよ。
 私は、「普遍性」っていう言葉を、ある意味キーワードのようにとても大切にしてますけれど、それは常に苦闘して獲得していないと、いともたやすく、この世の原理主義的な力にのみ込まれてしまう。39人目の方もそうだったんですけど、この世のいろいろな二元論に迷わされるんですよね。救われる人と救われない人を人間の知性で切り裂く罪です。それを乗り越えていくためには、やっぱり、「イエスさまについて」知るだけじゃなく、「イエスさま自身を」知らなきゃならない。
 そういうイエスさまに、皆さんは出会ってますし、そういうイエスさまに、さらに40人目、41人目を、ぜひ出会わせていただきたいと思う。

 入門講座には、牧師先生も結構来られていて、いろいろ質問をなさる。短い時間じゃお答えできないので、今度ゆっくりっていうことで、先週、ある先生と3時間以上、お話をいたしました。
 「みんな救われる」って、私が言うもんだから、「そうじゃないだろう」と、「イエスさまを信じて、洗礼を受けた者が救われるんじゃないんですか?」と、そこんところを話し合いました。
 だけど、「イエスさまを信じる」って言ったって、皆さん、どうですか? 心に問うてみてください。
 ・・・一体、何を信じているんですか? どれだけ信じてるんですか?
 「信じてます」って思ったところで、「ホントに信じてるか、本当にか?」って問われたら、「いや、ちょっとは疑うこともあります」とか、「正直、よくわからないとこもあります」とかいうのが、誠実な答えじゃないですか? 私だって、そうですよ。信じるとか信じないとか、二元論的に「線」を引くような話だったら、不安や恐れが当然出てくる。
 「イエスさまを信じました、洗礼受けました、もう私は救われました」って、そう簡単に言えない生身の人間としての真実があるはずです。むしろ、「信じてたはずなのに、この世の恐れにとらわれてしまった。罪深い私を憐れんでください」って言うのが、神のみ前に正しい態度でしょう。そして、そんな私でも救われる、すなわち、信仰が薄くても救われるんじゃないと、それこそ救われないんじゃないですか?
 「どんなに信仰薄くても、たとえこの世の洗礼を受けなくても、最後はイエスさまが救ってくれて、永遠の喜びに入れる」と、それを信じたとき、「この世において、救いの喜びを知る」、それが「イエスを信じる」ってことでしょう。
 牧師先生が言うんですよ。確かに、たとえばある奥さまが聖書を学びに来て、「あなたも洗礼を受けませんか」って言うときに、「正直、(ひる)むものがある」と。なぜなら、大抵の奥さんがこう聞くからだと。
 「私が洗礼を受けて天国に行くのはいいけれど、夫は『オレはいいよ』って言ってます。そうすると、夫はやっぱり天国に行けないんですか?」
 それに対して、「・・・それは仕方ありません」って答えるしかない。それで、やはり怯むものがある、と。しかも、「イエスによる救いを知ったにもかかわらず、自分の意思でそれを拒否して、『オレはいいよ』って言っちゃったら、それは知らないよりも罪が重いんだ」って言うんですね。
 もしそうなら、それ、知らせるの、かわいそうじゃないですか?(笑) 「そんなこと、聞かせないでくれ!」っていう話になりませんか。実際、「そういう教えなら、残念ですが私には無理です」と言って去って行く方が多いし、「イエスを拒否したら永遠に救われない」って教えると困惑する人もいる、と。だから、福音を語るときに、どうしても怯む思いが出てくる。・・・って、そんな風におっしゃってました。
 そのような二元論もひとつの信仰のかたちなのかもしれませんけど、私には考えられない。「オレはいいよ」って言う人も救われるんじゃなければ、とうてい福音は語れないし、そういう福音を語ると、逆にみんな、「それならオレも信じる」って言い出すんです。そういう福音を語ることにおいては、私、怯んだことなんて、かけらもない。
 たとえば、あらゆるがんが100%治る薬を私が持っていて、実際に飲ませたらみんな治るし、まして自分もそれで治ったならば、目の前のがん患者に、「あなたも飲みなさい。いいからともかく、だまされたと思ってでも飲んでください」って言うでしょう。そこに、怯む理由は一切ないはずです。だって、100%なんだから。
 「『神はみんな救ってくださるし、あなたも必ず救う。あなたのご主人だって、必ず救う。そういう神さまを、あなたは信じてください』って、そういう福音を伝えたい一心です」って話をしたら、その牧師先生がね、こう言ったんですよ。
 「そのたとえで言うなら、私が勧めている薬は、副作用がある薬なんです」(笑)
 う〜ん、な・る・ほ・ど。これは本質的な問題だぞと、私は思います。
 今、世界が求めているのは、間違いなく普遍主義です。もちろん、細かい点ではいろんな問題はありますよ。でも、そこをみんなが納得できる言葉で支えることこそが神学の使命ですし、そもそも、イエスさまが、異邦人であるサマリアの女に、たった5分で飲ませた「永遠の命に至る水」(ヨハネ4:14)って、ものすごく普遍的なものであったはずです。それを飲んだときこそ、彼女は洗礼を受けたんじゃないですか。「イエスを信じる」って、あらゆる二元論を超えたものであるはずですし、それによってこそ、すべての神の子が救われるんじゃないですか。

 東京新聞、読んでいただけました? 昨日の朝刊に、「下」の方が載りました。(※2)ちなみに、新聞社の許可を得て、ホームページにも載せたので、読んでいただきたいと思います。(※3)
 記事のテーマは「普遍性」。・・・それだけです。
 「上」は、最初の1行と最後の1行が福音宣言になってるんですね、カギカッコの言葉で。
 最初の1行が、「あなたは必ず救われる」です。そしてあれこれ書いてあるんですけれども、最後の1行は、「あなたはもうすでに、救われている」。
 これを皆さんに宣言したかったんです。そこはなんと言っても一般紙ですからね。(※4) 何百万部と出ているわけですから、まあ、それを皆さんに、ぜひ読んでもらいたい。そういう思いで書いたものです。
 「下」の方はですね、これまた、最初と最後がカギカッコになってるんですよ。最初は、「上」の最初の1行と最後の1行が、また並んで出てくるんです。
 「あなたは必ず救われる」
 「あなたはもうすでに救われている」
 で、またあれこれ書いてあるんですけど、最後に、なんと恐れを知らずですね、「神仏ご自身の愛のことばを贈りたい」とまで前置きして、「わたしはあなたを、愛している。すべての人を、必ず救う。安心して、あなたのまことの生みの親である、わたしの親心を信じてほしい」と書きました。
 これ、まるで「神仏になり代わって」と言ってるに等しいわけですけど、実際、こういう言葉っていうのは、別に、私が言ってるんじゃない。イエスさまがサマリアの女に向かって言ってることと、おんなじで、神が語ってるはずなんですよ。
 「そのわたしが今ここにいる」「あなたはもう救われている」(cf.ヨハネ4:26)
 晴佐久神父は、個人的な意見を言ってるんじゃない。神の言葉、イエスさまが語った救いの言葉、イエスさまそのものとして続いてきた教会の言葉を、イエスさまになり代わって言ってるわけでしょう。それをね、救いを求めている人に伝えてあげるっていうことが、どれほど尊いか。

 でも、東京新聞、偉いと思う。これ、載せたんだから。
 これ、後でよく読んでいただければわかりますけど、素晴らしいなと思うのは、これが一般紙に載ってるってことなんです。
 考えてみてください。ある特定の宗教の主張みたいなことが、いくら「生きる」とか「こころ」の欄とはいえ、一般紙にそのまま載るって、なかなかないと思うんですよ。新興宗教や、原理主義的な内容の教えだったら、検閲に引っかかっちゃうんじゃないですか。その点、仏教なんかは、わりと普遍主義的な伝統もあって日本人になじんでるから、伝統仏教として「仏様の教えは、こういう教えです」っていうのは、ありです。ま、大抵は学者さんの学説のようにして載ってるんですけどね。
 今回、よく、これ載せるなって感心するのは、たとえば「『カトリック』とは『普遍主義』ということだ」みたいなこといいながら、「普遍主義は素晴らしい」「普遍主義こそ世を救う」とかって、結局は「カトリックは素晴らしい」としか読めないような文章なんですけど。(笑)それでも検閲に引っかからないのは、逆に言うと、カトリックの教えは、まさに一般紙に載せられる教えなんだってことです。それが今回、うれしかったこと。

 もっとも、どの新聞でもってわけじゃないんですけどね。現に、これ読んだ後、すぐ電話してきた友人が思い出話をしてくれて、「そういえば、晴佐久神父さん、いつか朝日だったか読売だったかから書いてくれって話がきたとき、結局、断ってたよね」って。
 そういう出来事があったんですよ。以前、私にやっぱり「こころ欄」みたいなとこに書いてくれって話が来た時に、「『あなたは必ず救われる』って、二人称で福音を呼びかける文章を書きたい」って言ったら、「いや〜、それは無理ですね」って言われたんです。それで、「それ書けないんだったら私が書く意味ありません」って断っちゃった。私も意地っ張りですから。
 だから、そのときのこと覚えている友人が電話してくれたんですよ。「神父さん、『あなたは必ず救われる』って、ついに書いたね! おめでとう!!」って。
 ・・・東京新聞、偉いよ。皆さん、あの〜、「朝日」「読売」って、大株主に支配されてますし、(笑)自由な報道してませんから、ぜひ、東京新聞にしていただいて・・・。(笑) 今回よく分かったんですけど、なかなか自由な新聞ですよ。・・・そして、安い。(笑)
 そんな風に、読んだ方から電話も来る、手紙も来る、もしかしたら今日も、「あら! 多摩教会ってすぐ近くじゃない」って来た方もいるかもしれない。・・・そんな人がいてくれると、うれしいんですけどね〜。そんな人に伝えたいんですよ。イエスさまの言葉を。
 「あなたは、必ず救われる」「あなたにそう語っている、わたしが救い主だ」「あなたに今、永遠の命に至る水を与えよう。それはあなたの内から湧き出て、あなたを潤し、みんなを潤す」っていうみ言葉。これこそ、普遍主義。・・・「霊と真理による」普遍主義。

 先週、井上洋治神父さまが亡くなって、ご葬儀ミサに行きました(※5)
 井上洋治神父さん、ご存じですか?
 遠藤周作と一緒に、若い頃フランスに渡って、フランスの修道院に入った司祭です。っていっても、6、70年前の話ですから、まあ伝統的で厳しい修道生活を送ってね、もう、永平寺の修行みたいなもんですよ。8年ですかね、修行をして、日本に帰って来られた。
 フランスでキリスト教を極めようとして行ったにもかかわらず、「西欧キリスト教」っていうものの、ある種の固さ、冷たさ、厳しさ、そういうものを目の当たりにし、自分の感覚、日本人の感覚と全然違うキリスト教に違和感を感じたんですね。今、普通の日本人が直感的にキリスト教に感じている違和感です。ですから、日本に帰って来てからは、ホントに日本人の心に響く、それこそ文化とか歴史とかを超えた、「普遍的な」キリスト教を追求して、神学的に、聖書学的に深めて、そのような著作をたくさんお書きになった、有名な神父さまです。
 確かに、そのような「西欧キリスト教」っていうもののある種の偏りとか限界っていうのは、現代のキリスト教に、色濃く残っていると思う。その限界の一番の本質は、さっき言ったように、普遍性における限界なんですよ。西欧的な思考というか、哲学というか、すべてに線を引くような認識の体系ですね。頭で考えて、理解する「イエス・キリスト」とか、「神」とかっていうところに、キリスト教の本丸を置いてしまっててですね、井上神父さんの言葉で言うなら、「イエス・キリストについて知ることと、イエス・キリストを知ることとは違うだろう」と。
 「西欧キリスト教」は、やっぱり、「○○について」っていうことを一生懸命やって、ある種やり過ぎて、だんだん「線引き」が独り歩きしてしまったような、律法主義者の神学のような、そういうキリスト教になってったんじゃないですか。
 わかりますよ、6、70年前のフランスの伝統的な修道院に行った日本人司祭の、何ともいえない違和感っていうのは。彼はそのようなキリスト教と苦闘した末に、より普遍的なあったかい、本来のキリスト教というのを見出していったんです。
 おかげさまでね、ちょうど私が高校出たての頃ですね、井上神父さんの著作を読むことができました。そのころ、自分の教会の高校生会とか青年会なんかをやってたわけですけど、そこに神学校から神学生が、司牧実習として派遣されて来るわけです。お手伝いに。その神学生が、ぼくたち高校生とか大学生とか集めてね、読書会をやってくれた。そのとき、彼は井上洋治神父の『日本とイエスの顔』(※6)っていう本をいっぱい持って来て、みんなに配って読ませたんですよ。

 これは、私はホントに感動したし、影響も受けたし、変な言い方ですけど、「えっ? こんなに勝手に言っちゃっていいの?」みたいな勇気ももらった。だって、もう好き放題に書いてる・・・その時はそんなふうに、ぼくは感じたんですね。ホントに自分の言葉で、自分の感覚で、日本人の言葉で、日本人の感性で、イエス・キリストの素晴らしさを、こんなふうに語っちゃっていいんだって。
 それまで、そういうもの読んだことないですから、「目からうろこ」とはこのことか、と。
 とってもうれしかったし、そんな教えに安心したし、そんな神父に励まされたし、「これならやってける」っていう希望も生まれた。神学校に入る決心をする1、2年前のことです。思い返せば、大きな影響を受けましたし、今私が言ってることなんか、ぜんぶ書いてあります。
 今、もう売ってないですかね。『日本とイエスの顔』、あんまり見かけませんけど、名著ですよ。(※7) 彼の、単独の著作の、初の単行本ですね。これはもう、普遍主義そのものです。前書きのところにすでに、「イエスの教えの中には、時代や文化を超えた、人類に普遍的な何かがある」っていうようなことが書いてあります。今読めば、好き勝手どころか、キリスト教神学の王道だと思うんですけどね。聖書を原理主義的にしか読めない狭さ、固さ、厳しさでは、イエスに出会うことはできません。聖書を普遍主義的に読んでこそ出会える「本当のイエス」に出会わせてくれたことに、どれだけ感謝しても、し足りません。
 井上神父さんのご葬儀で、私は30歳くらい年が若いんですけど、「もう30年以上前から、普遍主義について教えてくださってありがとうございました」って御礼申し上げました。おかげさまで、井上神父さまが「日本人のために」書いてくれた、そのイエス・キリスト像を、私はもう、神父さまのように苦闘せずに、当たり前のようにその実りだけをパクパクと食べて、日本人司祭として堂々と生きてくることができた。
 神父さんがどれほど大変な思いをなさって、そのような神学を発展させるために苦闘なさったことか。日本のあらゆる伝統や仏教思想まで勉強なさって、だから『日本とイエスの顔』には、もう西行(さいぎょう)から、鈴木大拙(だいせつ)から、松尾芭蕉から、(※8) 総出演で出てくる。そういう実りを私はパクパクと食べて、もうそれは当たり前の前提として、この三十数年、次の世代としてやってこれた。
 だからこそ、私なんかは、今や「日本人」とか、「西欧人」とか、もうそんなところにも、あまり関心がない。さらにさらに普遍的なキリスト教のために苦闘することができるんです・・・だって、日本人だって、いろいろいるじゃないですか。沖縄人と北海道人だって違うし、もっといえば、一人ひとり全員違う文化、違う伝統を持ってるわけでしょ。そんな、言うなれば「あらゆる」人に対応する、究極の普遍主義、どこまでも普遍的な「イエスの福音」っていうものに私は今、()かれているし、それをこそ徹底して宣言してきたのは、先輩の草分けがあったからこそです。
 同じように、30年後には、さらにそれを超えていく人たちが、いっそうイエスに近づいた福音を語るんだろうなとも思う。
 ご葬儀の時、井上神父さんに申しあげました。「ありがとうございました」と。「私も、神父さまの後を継いでやってまいりましたし、私もその次の世代のために、いっそう本物の普遍主義を極めるために、更なる一歩を踏み出してまいります」と。

 15日の新聞記事が掲載された後、一番最初に来たお手紙を読ませていただきますね。この方、信者かどうかもわからない。ずっと西の方から来たお手紙ですけれど、真っ先に届きました。短い文章ですが、真実味が(あふ)れていて、うれしかったので。・・・読みますね。
 「3月15日の新聞の記事を読みました。
 それまでのとらわれから解放され、とても幸せになりました。そして自信を取り戻しました。自分はだめだというレッテルが取れました。
 難しい神学は、私にはわかりませんが、この記事を読んで、理屈抜きで幸せになったことは確かです。何という希望でしょうか。欲しかったのはこれ! これなんだと思います。どんな宝にも勝るものを得ました。」
 ・・・実名が入ってるお手紙です。うれしかったです。
 普遍主義について何十年も苦闘してきた者として、たとえたった一人でもこんなふうに思っていただけるんなら、もうそれは、私にとっても、どんな宝にも勝る喜びです。


【 参照 】

※1:「このサマリアの女なんか、イエスさまと、これ、5分くらいでしょ? おしゃべりしたの」
・本日(2014年3月23日<四旬節第3主日>)の福音朗読箇所を参照
  ヨハネによる福音書(ヨハネ4・5-15、19b-26、39a、40-42)
  (ヨハネによる福音書4章1〜42節〈小見出し:「イエスとサマリアの女」〉[新共同訳聖書]より)
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※2:「東京新聞、読んでいただけました? 昨日の朝刊に、「下」の方が載りました」
・「東京新聞」:中日新聞東京本社が発行する日刊一般新聞(一般紙〔「一般紙」については、※4参照〕)。
・「下」:
「宗教の普遍性」(下)- 「すべての人を救う宗教:共感、共生する道へ
      (中日新聞・東京新聞 2014年3月22日付 p.25に掲載)
         →(「福音の村」掲載 :〈 PDFファイル 〉〈 JPEGファイル 〉)
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※3:「新聞社の許可を得て、ホームページにも載せたので」
・「福音の村」・・・ご案内ページ
(印刷には、PDFファイルが便利ですが、PDFファイルでご覧になれない方は、JPEGファイルをご覧ください。)
 
※「宗教の普遍性」(上)- 「すべての人は救われる:分け隔てなく愛す
   (中日新聞・東京新聞 2014年3月15日付)
  〈 PDFファイル 〉〈 JPEGファイル 〉)

 ※「宗教の普遍性」(下)- 「すべての人を救う宗教:共感、共生する道へ
    (中日新聞・東京新聞 2014年3月22日付)
  〈 PDFファイル 〉〈 JPEGファイル 〉
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※4:「一般紙」
・一般紙(一般紙誌)
国内外の幅広い分野の記事を掲載し、不特定多数の読者を対象にしている新聞や雑誌。新聞では全国紙や地方紙がこれにあたり、雑誌では一般週刊誌、総合月刊誌があてはまる。(広告用語Weblio辞典より)
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※5:「先週、井上洋治神父さまが亡くなって、ご葬儀ミサに行きました」
・井上洋治神父(1927年3月28日-2014年3月8日 86歳)
 カトリック教会司祭(東京教区) 神奈川県出身。
 1950年東京大学文学部哲学科卒業と同時に渡仏し、カルメル修道会に入会(後に退会)。フランスへの船上で遠藤周作と出会い、終生にわたり、交流を深める。60年司祭叙階。世田谷、洗足、豊田の各教会で司牧。70年〜73年、東京カトリック神学院(当時)のモデラトール(学生指導)。76年、東京の真生会館理事長となる。86年から日本人の心情でイエスの教えをとらえようとする「風の家」主宰。
 フランスでの修道生活体験から、キリスト教の普遍的開花という課題に生涯をかけ、活発に執筆活動なども行い、晩年の「南無アッバ」という言葉に結んでいった。
 著書に、『日本とイエスの顔』(北洋社のち日本基督教団出版社 1990.6)、『人はなぜ生きるか』(講談社 1985.12)など。
 通夜は3月17日午後6時、葬儀は18日午後1時から、東京カテドラル関口教会聖マリア大聖堂で行われた。
(参考) 
・「井上洋治」 (ウィキペディア)
・「特集 新春インタビュー 井上洋治神父に聞く」(東京教区ニュース199号 2003年1‐2月)
・「教区司祭紹介 第13回 十字架のヨハネ 井上洋治神父」(東京教区ニュース281号 2011年4月)
・「まことの自分を生きる」(Tips Books Words Poem Songs Photos Others Memo Link Siteより)
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※6:『日本とイエスの顔』
著者:井上洋治
単行本:256ページ
出版社:日本基督教団出版局;2版(1990/06)
ISBN-10:4818400572
ISBN-13:978-4818400573
発売日:1990/06
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※7:「今、もう売ってないですかね。『日本とイエスの顔』、あんまり見かけませんけど、名著ですよ」
(参考)
・「amazon」では、中古本なら、出品者から入手可能・・・6件〈2014.3.29現在〉
・「スーパー源氏」(日本の古書検索サイト)では、古書店から入手可能・・・8件〈2014.3.29現在〉
・「楽天ブックス」では売り切れ。
・「写楽堂」(楽天市場加入)という古書店では、状態「やや難」の古書1冊あり。〈2014.3.29現在〉)
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※8:「西行から、鈴木大拙から、松尾芭蕉から」
・「西行」 (ウィキペディア)
  「あの人の人生を知ろう〜西行法師」(「文芸ジャンキー・パラダイス」より)
・「鈴木大拙」(ウィキペディア)
 「鈴木大拙館
・「松尾芭蕉」(ウィキペディア)
 「あの人の人生を知ろう〜松尾芭蕉」(「文芸ジャンキー・パラダイス」より)
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2014年3月23日 (日) 録音/2014年3月29日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英