見よ、兄弟が共に座っている

【カトリック上野教会】

2017年12月10日 待降節第2主日
・ 第1朗読:イザヤの預言(イザヤ40・1-5、9-11)
・ 第2朗読:使徒ペトロの手紙(二ペトロ3・8-14)
・ 福音朗読:マルコによる福音(マルコ1・1-8)

【晴佐久神父様 説教】

 先週のお散歩の話からいたしますね。せっかく上野教会にいるんだからと、先週、浅草方面に散歩に行ってきました。私、こんな近くにいながら、浅草界隈(かいわい)っていうのをちゃんと歩いたことがなかったんですよ。それで、浅草寺(せんそうじ)の方をぐるっと回ってきました。皆さんは、もう当たり前なんでしょうけど、私は初めてなんでびっくりしました。もう、遊園地ですよね。なんか、風情のあるお店がたくさんあって、食べるものがたくさんあって。
 一番びっくりしたのが、外国人の多さ。これはもう、ここはどこの国かっていうくらい、いろんな言葉が飛び交っていて。でも、いいことですよ、多様な文化の人たちが集まってるのって。なんだかうれしくなって、私も海外からの観光客になった気分で、浅草寺の前でお香の煙を浴びて、本堂の前で十字を切って、(笑)お参りしてまいりました。
 外国人といえば、ちょっと象徴的な体験をしました。帰り道、なんか食べようって思ったら、ネパール料理のお店があったんですね、ネパールの国旗が掛かってて。珍しいなあと、入ってみました。まあ、カレーですけどね、ネパール料理っていっても。ただですね、そこのお店の人たち、日本語がほとんどしゃべれないんですよ。ネパール人なんですけど。
 ちょうどそこにやってきた納入業者も、言葉が通じないんで、すっごく困ってました。その業者さんが言いたいことは、本来、今日は納入しない曜日なんだけれども、今日指定のファックスが入ってたんで、この店は初めてだから仕方なく来たけれども、次回からはこの曜日の指定はしないでほしいってことなんですね。そのことを、最初はゆっくりと日本語で説明して、やがて片言の英語で説明する。でも、お店の人は分からない。それで、しまいには身振り手振りで、カレンダーに丸を付けながら、なんとか伝えようとするんですよ。でも、結局は、理解したんだかしないんだかわからないまま、納入業者の人、もうほとんどあきれて帰っていきました。
 そこに、今度はイスラム教徒の人が入ってきて、「ハラルの食事はあるか」って聞くんですね。ご存じでしょ? イスラム教徒は豚肉を食べませんし、また、鶏や牛だって、ちゃんとイスラム教徒がお祈りして殺したやつじゃないと食べられないんですよ。そういう基準を満たした食事のことですね。私は、彼らがハラルを求めてるっていうのはわかるけど、ネパール人は全然わからない。なのに、「オッケー、オッケー!」とか言って座らせてるんで、ああこれ、やばいなと思ってたら、案の定、メニューを選ぶ段になって、店員ともめてるんですね。で、奥から店主と(おぼ)しき人が出てきて、面倒だと思ったのか、「アイムソーリー、ソーリー」とかって、(笑) 帰しちゃった。イスラム教徒の人たち、残念そうにお店を出ていきました(※1)
 でもね、これ、いいことですよ。国際都市東京の中でも、この上野、浅草界隈、今、とても、私に言わせれば、「恵みのとき」を迎えていると言っていいと思いますよ。多様な人たちが集まってきて一緒にいるっていうくらい、素晴らしいことはないでしょう。それこそキリスト教の本質ですから、大いにぶつかって、大いに仲良くなったらいい。
 「多様なものが、あれこれ言いながら、しかし、共にある」、これくらい素晴らしいことはない。

 イエスさまの準備として、洗者ヨハネが来た。そのことが、預言者イザヤの書ではこんなふうに言われてるっていうとこを、さっき読みましたけども(※2)
 「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」 (マルコ1:3/イザヤ40:3の引用)
 第1朗読(※3)のイザヤの書には、そのことがちゃんと載ってますね。「呼びかける声がある」っていうとこですね。
  呼びかける声がある。
  主のために、荒れ野に道を備え
  わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。
  谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。
  険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。
  主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る。 (イザヤ40:3-5/強調引用者)
 「広い道」、そして「平らな道」をつくれって言ってるんですね。それは主を迎えるため。だけど、よく考えてみれば、さすがに「主」ですから、別にデコボコしてたって、狭くったって、ちゃんと来られるはずでしょう。ですから、この「広くて平らな道をつくれ」っていうのは、もちろん主を迎えるためですけど、その主と私たちは一つになるわけですし、これはある意味、「私たちみんなだれでもが歩ける、広くて平らな道をつくれ」って言ってるんじゃないですか。・・・それこそが、主を迎える準備でもあり、主と共に、私たちが歩む道だと。・・・バリアフリーですね。ダイバーシティ(※4)ですね。「だれでもが」です。「ある選ばれた人は通れるけれど、ある特別な人は通れない」っていうことがない。
 昔はよく、教会でも、・・・まあ、今はもう、さすがにそんな野蛮な所はなくなりましたけど、こういう議論があったんですね。「障害を持っている人のために、スロープを造りましょう」とか「車いすのためのトイレを造りましょう」とかいったときに、「いや、うちには障害者はいないから必要ないでしょう」って意見が出たという。でも実際は、スロープがなくて、トイレがないから、障害を持ってる人が来てないだけであって、「うちにはいませんから」っていうのは、それはあまりに想像力のない、貧困なセンスだってことですね。
 「だれでもが通れる、広くて平らな道をつくる」っていうことが、ホントに、だれも除外せず、排除せず、みんなが共にいられる神の国をつくる絶対条件なんですよ。
 もちろん、完璧には無理ですよ。たとえば、私、今、中国語のミサで説教をしてますけど、通訳がついていて、逐語訳(ちくごやく)でやってるんですね。でも、それは中国の(かた)はいいけれど、じゃあ、ネパールの方が来たら困るだろうから、ネパール語の通訳もつけましょうって、それは無理でしょう。やっぱり、完璧には難しい。でも、少なくとも、「そのネパール人のために、通訳は無理でも、せめて何かできないか工夫してみよう」っていう、その気持ち、「広くて平らな道にしよう」っていう目的意識、モチベーション、その思いがこそが、主を迎える準備なんじゃないか。やっぱり、教会はそういうところであるべきだと思う。

 先週も、いろんな方が相談に来ましたけど、ちょっと遠い教会から来られた方がいました。「私の通っている教会は、まともな人しか受け入れてくれなくって、私みたいな変人は受け入れてもらえない」っていう、そういう悩みを相談に来たんですね。よく言われるんですって、「あんた、変わってる」と。あるいは、「もっとちゃんと、みんなに合わせてくれないと、一緒にやっていけない」と。そういう現場ではよくある話ですけど、まあ、いじめみたいなこともされてるんですね。
 だから私は、その方に申し上げました。
 「そんな教会に、毎週つらい思いして行くよりも、ちょっと遠くても、月に一度でいいから上野教会に来る方がいいんじゃないですか。安心してください、上野教会は変な人ばっかりですから。(笑)ここでだったら、みんなヘンテコリンだから、ぜんぜん目立たないんで、あなたらしく好きにしていて、だいじょうぶですよ」と。そう聞いて、すごく喜んでましたよ。
 教会は神の国のしるしですから、「神さまが、こんなふうに一人ひとりをおつくりになった。そんな私たちが共にいることは、ホントに素晴らしいことだ」っていうことの、目に見えるしるしであるべきなんですね。神の国なんて、多様じゃなければ、もはや神の国じゃないわけですから、教会こそは、なるべく変な人、なるべく変わった人を集めるべきなんですよ。浅草なんか、あらゆる国の人がいるからね、ほんと、いい眺めでしたよ。「ああ、東京も、みんなを迎えるいい国になってきたねえ」っていうしるしになってるわけですよ、浅草が。
 わが上野教会も、もちろん浅草教会もそうですけど、そういう、いろ~んな人たちが一緒にいられる教会を究めていきましょう。それこそが、神の国の一番のしるしですからね。
 ノーベル文学賞をもらったカズオ・イシグロ(※5)が、おととい、そんなこと言ってましたね。スウェーデンでの講演会(※6)、ノーベル文学賞をもらった記念講演です。彼も子どものころ、イギリスへ外国人として行ったわけじゃないですか。だから、イギリスの地で、いろんな複雑な思いをしてるわけですけれども、最近の排他的な世の中を、やっぱりすごく問題視してるんですね。それで、欧米の政情不安とか、テロが頻発するとか、こういう世の中になってくると、一番大事なのは「多様性」なんだと、講演でそういうお話をしてました。
 ・・・多様性。いろいろな人々、多様なものが、そこにそろっているっていうこと。その多様性を受け入れていくっていうことが、これからの世界の希望なんですよ。それにはやっぱり、覚悟と意地、チャレンジが必要。
 教皇フランシスコも、この前、ミャンマーに行ったとき、おんなじことを言ってましたよ。ミャンマーでは、諸宗教の人たちを集めて、そこでお話ししたんですね。プロテスタントはもちろん、イスラム教、ヒンズー教、仏教、みんな集まっているところで。・・・ちなみに、ミャンマーはカトリック1パーセントなんですね、仏教国ですから。その意味では日本に近いものがありますけれど。そういう、さまざまな人たちが集まっている所で、教皇さまは、「一致は画一性ではない」っていうお話をした。「一致する」っていうのは、画一性じゃない。みんな同じになるっていうことじゃない。それぞれに意味があって、それぞれに良いところがあって、もちろん、それぞれに欠点もあって、でも、その多様なものが一緒にいることが「一致」なんだ、と(※7)
 「一致」っていうと、ついつい、全員がこれを守れとか、みんなこれに従えとか、これに合うように自分を変えてから来いとか、そんな話になるんだけれど、そうじゃない。一致というのは、多様であるということと同じこと。画一性じゃない。
 うれしかったのは、そのお話の中で、教皇さまが、詩編133を引用なさったんですね。
 「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」 (詩133:1)
 この一節を引いてね、「私の心に、今、それが湧き起こっている」って。
 「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」 (ibid.)
 ・・・ねえ、まさに今、われわれのこの姿ですよ。ご覧ください、変人がい~っぱい!(笑)でも、バラバラじゃない。兄弟として、「共に座っている」。なんという恵みでしょう。なんという喜びでしょう。「あなた、おかしいから、変わりなさい」なんていうことじゃない。
 「おかしな私だけれども、おかしなあなたと一緒にいられて幸せだ」
 ・・・そんな思い、この気持ち、神の国に相当近いですよ、これ。

 先週、山口さんがお亡くなりになりました。
・・・と聞いて、今、ビックリなさっている方もおられると思います。先週、この主日のミサに出ておられましたから。心不全っていうことです。ご自宅で倒れて、亡くなりました。
 山口さん、この前の信徒展のバザーでね、ご自分の宝物のようなLPレコードをいっぱい寄付して並べていてね、私も端から端までぜんぶ見て、こんなのがあるね、あんなのがあるねって楽しくお話ししました。今にして思うと、大切なものを全部バザーに出しちゃって、なんだか天に召される準備をしていたみたい。
 山口さんっていう方は、とても個性的で、ユニークな方でもありましたから、まさに、この上野教会がピッタリの方だったと思いますけど、私、あの方が大好きだったんですよ。だって、邪気がない。「邪気がない」って、人として一番の美徳じゃないですか? 心に(よこしま)なものがない。ホントに無邪気というか、素朴というか。一緒にいて本当に心が穏やかになる。向こうも、なんだか私のことを気に入ってくれているらしく、ご自宅ではよく私の話をしてくれていたようです。二人だけの秘密の会話もあって、忘れられない。彼は、先週の日曜日、人生最後のミサに(あずか)ったわけです。
 といっても、彼の最後のミサは、主日ミサ後の、もう一つのミサです。
 その日の夕方、「ごごヤシの集い」のミサがあって、そこにも出てたんですね。これは、心の病を抱えている方たちの集いです。毎月集まってますけれども、彼はよく来て、手伝ってくれていました。「ここヤシの集い」が35歳以下、「ごごヤシの集い」っていうのは36歳以上。先週やったのは「ごごヤシ」のほうで、いろ~んな病気の、それこそ実に多様な仲間たちが集まって、一緒にミサを捧げ、一緒におうどんを食べました。おいしかったですよ。山口さん、うどんを作るの手伝ってくれて、とても楽しいひとときを過ごしました。
 その「ごごヤシ」のミサで、必ず歌う歌があるんですね。それが、先ほどの、詩編133の歌です。まあ、テーマソングなんですね。「ここヤシ」や、「ごごヤシ」のミサでは、必ず歌います。
 「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」 (詩133:1)
 曲、知ってますか、皆さん。 (歌う) 「見~よ、兄弟が~、共に~、すわ~っている~♪ なんと~いう恵み~、なんと~いう喜び~♪」、これだけを、繰り返し、繰り返し歌うんです。
 心の病を抱えている方たち、あるいは、発達障害を抱えている方たちは、元気な人たちのさまざまな集いに居づらくって、そこでいろいろと言われてつらい思いをしたという体験を、み~んなしておられます。全員です、間違いなく。だから、そういう傷ついた仲間たちが集まって、「兄弟」として「共に座っている」、これは「なんという恵み」だろう、「なんという喜び」だろうっていう瞬間を持てたら、これは本当に、まさに「教会」、まさに、神の国の目に見えるしるしです。
 山口さんにとっては、そのような恵みのミサが、最後のミサとなりました。
 彼は今、第2朗読(※8)にあるように、「新しい天」と「新しい地」に入っています。「義の宿る新しい天と新しい地」 (二ペト3:13) です。「きずや(けが)れが何一つなく、平和に過ごして」 (二ペト3:14) いた山口さんが、今、この「義の宿る新しい天」に入っておられることを、私ははっきり宣言したい。
彼が、地上での最後のミサで、「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」 (ibid.) って歌って、そうして天に召されたことは、私たちにとって励ましであり、希望であり、美しい模範です。
 いま彼は、天で、本当に安心して、本当に彼らしくしてるんじゃないですか。なにしろ、天は多様ですから。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます)

※1:「ハラル」のこと
◎「ハラル(ハラール)」 Halal
 イスラムの教えで、「許されている」という意味のアラビア語。「ハラール」ともいう。
 そこから、特に、食べることが許されている食材や料理を指すことが多い。
 (逆に、「禁止されている」という意味のアラビア語は、「ハラム(ハラーム)Haram」といい、やってはいけないこと、食べてはいけないものを指す)
 ハラルやハラムは、物や行為が「ハラル:神に許されている」のか、「ハラム:神に禁じられている」のかを示す考え方で、イスラム教徒(ムスリム)の食品や製品、サービスなど、生活全般に及んでいる。   (文中へ戻る
===(もうちょっと詳しく)===
 「ハラム(禁止)」以外を、「ハラル(許可)」と考える方が分かりやすい。
 ハラムなもの(禁止されているもの)に混ざったり接触したりすると、ハラルなもの(許されているもの)でも、ハラム(禁止)と解される。
 しかし、食品加工技術や流通が発達するにしたがって、目の前の商品がハラルなのか、ハラムなのか判別しづらくなってきた。そこで、宗教と食品科学の二つ面から、専門家が、ハラルであることを保証する「ハラル認証」という制度ができた。認証されたものはマークを付けて判断の基準にする動きだが、それでも、世界的統一基準があるというわけではなく、国や地域、宗派や指導者、また、個人によっても詳細な解釈や見解が違うため、絶対的な基準にはなっていない。
*****
✖ 代表的な「ハラム(禁止)」なもの
 豚: その派生物を含め、すべてが禁止。糞が肥料に利用された野菜や穀物も禁止。
 豚以外の肉: イスラムの教えに則った方法で屠畜・加工処理されなかった肉はハラム。
 (殺し方、処理方法、輸出保管などが規定されている)
 犬、かぎづめのある動物
 酒: 飲料用のアルコールは避ける人が多い。
 工業洗浄用、手指の消毒用などのアルコール、発酵過程で自然にアルコールが醸造される食品(しょうゆや味噌など)を避けようとする人の割合は下がる。
(参考)
・ 「ハラル(ハラール)について」(一般社団法人 ハラル・ジャパン協会)
・ 「ハラール」(ウィキペディア) など
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※2:「イエスさまの準備として、洗者ヨハネが来た。そのことが、預言者イザヤの書ではこんなふうに言われてるっていうとこを、さっき読みましたけども」
この日、2017年12月10日(待降節第2主日)の福音朗読箇所のこと。
 マルコによる福音(マルコによる福音書)1章1~8節
  〈小見出し:「洗礼者ヨハネ、教えを宣べる」〉
===(聖書参考個所)===
 
預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。 (マルコ1:2~4/強調引用者)
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※3:「第1朗読」
この日、2017年12月10日(待降節第2主日)の第1朗読箇所は以下のとおり。
 イザヤの預言(イザヤ書)40章1~5節、9~11節
  〈小見出し:「帰還の約束」40章1~11節から抜粋〉
(イザヤ書の第二の部分〈40~55章〉はバビロン捕囚時代のイスラエルの民に、神による解放を告げる預言である。この個所はその冒頭のことば)〔当日の『聖書と典礼』(オリエンス宗教研究所)欄外の説明より〕
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※4:「ダイバーシティ」
◎ダイバーシティ(英:diversity)
 「多様性」などの意味を持つ英語。もともとは、アメリカにおいてマイノリティーや女性の積極的な採用、差別ない処遇を実現するために広がった。そこから、「多様な働き方」を受容する考え方として使われるようになった。
 日本においては、人種、宗教等より、性別、価値観、ライフスタイル、障害等の面に注目した多様性として捉えられている傾向がある。
(参考)
・ 「ダイバーシティ」(コトバンク)
・ 「ダイバーシティ」 (weblio辞典:『実用日本語表現辞典』)
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※5:「カズオ・イシグロ」
◎カズオ・イシグロ (1954- )
 日本名は、石黒一雄。1954年長崎市に生まれ、5歳の時に、海洋学者の父の英国立海洋研究所招致に伴い、両親とともに渡英。1979年(24歳)ごろから小説執筆を始めた。
 1982年(27歳)で、戦後の長崎を舞台にした小説、『女たちの遠い夏』(日本語版は、のちに『遠い山なみの光』に改題、原題:A Pale View of Hills)で英国文壇にデビュー、王立文学協会賞を受賞し、同年の新鋭イギリス作家ベスト20にも選ばれた。
 1983年、イギリス国籍を取得。
 1989年、『日の名残り』(原題:The Remains of the Dayで、世界的に権威がある文学賞、ブッカー賞を受賞。1993年、アンソニー・ホプキンス主演で映画化もされ、一躍世界に知られるようになった。
 2005年、『わたしを離さないで』(原題:Never Let Me Goは若い世代にアピールした作品で、同年のブッカー賞、最終候補になり、映画化もされた。2016年には、日本でもTBSがドラマ化している。
 2015年、長編『忘れられた巨人』(原題:The Buried Giantをイギリス、アメリカで同時出版。アーサー王の死後の世界で、老夫婦が息子に会うための旅を、ファンタジーの要素を含んで書かれている。
 2017年、ノーベル文学賞を受賞。スウェーデン・アカデミーは、授賞理由を「人と世界のつながりという幻想の下に口を開けた暗い深淵を、感情豊かにうったえる作品群で暴いてきた」としている。Embed from Getty Images
(参考)
・ 「カズオ・イシグロ」(トピックス<朝日新聞 DIGITAL)
・ 「カズオ・イシグロ」(ウィキペディア)
・ 「カズオ イシグロ」(コトバンク:『現代外国人名録2012』日外アソシエーツ)
・ 「カズオ・イシグロの『信頼できない語り手』とは2017/10/10(「ベストセラーからアメリカを読む」渡辺由佳里/ニューズウィーク日本版)ほか
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※6:「スウェーデンでの講演会」
 2017年12月7日(日本時間8日未明)、スウェーデン・アカデミーで、同年のノーベル文学賞を受賞した日系英国人作家、カズオ・イシグロさん(63)が、約45分にわたる記念講演を行い、約500人の聴衆が、総立ちで拍手を送った。
 そのスピーチの中で、欧米の政情不安や、相次ぐテロにも言及。「前進し続けていると信じていた人道主義的な価値観は、幻想だったかもしれないと思う」とした上で、「まだ文学が重要だと信じている。不確実な未来に重要な役割を担うためには、私たちはより多様にならねばならない』と述べ、文学者としての決意を示した。さらに「私たちを鼓舞する若い世代の作家に注目している。今は彼らの時代だ」と、次世代へのエールで締めくくった。
(参考)
・ 「ノーベル文学賞 イシグロさん記念講演 原点は想像の日本2017/12/8(「毎日新聞」)
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※7:「教皇フランシスコも、この前、ミャンマーに行ったとき、おんなじことを言ってましたよ。(中略)でも、その多様なものが一緒にいることが『一致』なんだ、と」
 教皇フランシスコは11月27日から12月2日まで、ミャンマーとバングラディシュを訪問された。
 ミャンマーでは、バプテスト教会や聖公会、仏教、ヒンズー教、ユダヤ教、イスラム共同体の代表やキリスト教超教派の指導者と会談。「違いを恐れないようにしましょう」と呼び掛け、また、「画一性は一致ではない」と強調された。
 教皇は、詩編133の「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」を引用。
 「『共にいる』ということは、皆が『同じ』という意味ではありません。たとえ同じ信仰の中でも、一致は画一性ではありません」とし、「あらゆることに価値があり、豊かさがあり、また、欠点があるのです」と付け加えられた。
 さらに、何でも同じにしようとする画一性への世界的傾向は人間性を殺すことで、それは文化的植民地主義であると警告。違いの豊かさを理解し、この違いから対話し、相手から学ぶべきと話された。Embed from Getty Images(両国訪問の折の画像)
(参考)
・ 「教皇、ミャンマーとバングラディシュ訪問」(『カトリック新聞』2017/12/10号)
・ 「教皇、ミャンマーの諸宗教の指導者らとお会いに2017/11/28(バチカン放送局)
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※8:「第2朗読」
この日、2017年12月10日(待降節第2主日)の第2朗読箇所は以下のとおり。
 使徒ペトロの手紙(ペトロの手紙)二 3章8~14節
  〈小見出し:「主の来臨の約束」3章1~18節から抜粋〉
===(聖書参考個所)===
 
しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい。 (二ペト3:13~14/強調引用者)
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2017年12月10日(日) 録音/2018年1月8日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英