それでもお前を信じるよ

【カトリック上野教会】

2016年10月8日 年間第27主日
・ 第1朗読:イザヤの預言(イザヤ5・1-7)
・ 第2朗読:使徒パウロのフィリピの教会への手紙(フィリピ4・6-9)
・ 福音朗読:マタイによる福音(マタイ21・33-43)

【晴佐久神父様 説教】

 昨日も私の若い友人が一人、教会に泊まっていきましたけれども、ミサに出てますか? 泊まるなら、ちゃんとミサには出ろよと申し上げたんですが、いませんかね。・・・あっ、いた、出ておりました。(笑)
 教会には、いろんな人が泊まりに来ます。おととい浅草に泊まった別の青年は、ホントは昨日上野に来るって言ってたのに、日にちを間違えて、おととい来ちゃったんですよ。遠く、北海道から来たんですけど、家族にいろいろ問題を抱えていて、心も苦しくて、どうしても晴佐久神父に会いたいってことで、有り金全部はたいて、東京までやって来た。だけど、日にちを間違えてるから、私、いなかったんですね、上野教会に。で、ちょうど居合わせた信者さんが、晴佐久神父は、今日は浅草だよってことで、親切に車で浅草まで送ってくれて、浅草に泊まることができました。
 心にいろんなものを抱えている若い友人たち、・・・私の周囲には多いんですけど、彼らはいろいろ悩んで、行き詰まると、最後はね、なぜか教会に来るんですよ。・・・まあ、でも、いいですね。そういうところがあるって。駆け込み寺じゃないですけど、最後は教会。弱ったとき、力をなくして、自分ではどうすることもできないっていうとき、一人聖堂に座る、神父さんに話を聞いてもらう、ミサに(あずか)る。そうして仲間たちと出会って、教会家族という大きなつながりの中で癒やされる。そこにはイエスさまがおられるし、そこは神さまの愛に包まれているし、・・・最後は、教会。
 まあ、普段元気なときは、みんな自分一人でもうまくやっているような顔をしてますけど、なんか、人間の本質って、もう限りなく無力ですし、そもそも、自分で自分を造ったわけじゃないという意味では、本来、無に等しいものだったわけですから、最後の最後は、神から与えられた恵みに立ち戻るところにしか、救いなんてないわけですよ。
 自分で自分を救えない。
 当たり前のことなんだけど、ぼくらは、なんかちょっと、一人で頑張りすぎてんじゃないですかね。それに目覚めるところ。神さまに甘えるところ。・・・最後は、教会。

 もちろん、そう思ってもらえる教会でなければ誰も来ないわけですから、こうして来てくれるっていうのはうれしいことです。
 昨日泊まった彼は東京の人間ですけど、夜になってふらりと現れたんで、どうしたんだろうと思ったけど、顔見てすぐに分かりました。何かあったっていう、ど~んよりした顔。私、開口一番、「ふられたんでしょ」って言ったら、「・・・当たり」って。(笑)
 まあ、恋というか、パートナーシップというか、その人にとってのかけがえのない信頼関係が壊れていくっていうのは、やっぱり、つらい出来事です。はたで見てる方はね、人ごとですから、「ほかに35億いるよ」とか思っちゃったりするんですけど、その人にとっては、世界が消えるくらいのショックですからね。彼の場合は、「今日、分かれてきた」っていうことでしたので、ショックの真っただ中だったんでしょう。そんな夜を一人で過ごすのがつらくって、教会へ来た。
 でも、そんなときに来てくれるのって、うれしいですよ。信頼されてるってことですから。昨夜は、やけ酒、・・・やけワイン? みたいなのに付き合いましたけど、つらい胸の内も語ってくれました。私も、「だいじょうぶ、苦しみは長続きしないよ。すっきりして、爽やかな気持ちになれるときが必ず来る。今は、弱い自分、傷ついてる自分、後悔いっぱいの自分、そういう自分を体験するときだから、現実を静かに受け止めて過ごしましょう」と、そんなようなことを申し上げました。
 今朝、「少しは落ち着いた?」って聞いたら、まあ、だいじょうぶそうでしたけど。
 今も、このミサに出てるので、こういう説教をしながら、励ましてるつもりなんですけどね。「そのつらさ、分かるよ」って言いたいし、「私も弱いんですよ」って共感もしてるし。・・・私だってふられたこと、あるんですよ、(笑) 詳しくはお話ししませんが。(笑) 大いに共感しますし、できます。
 あのね、君だけじゃない。人は本来、どこまでも弱い存在なんですね。それはもう、ホントに弱い。だけれども、じゃあ、なぜ弱いかって言うと、実は、神がある意味、弱くつくったからです。なぜ弱くつくったかって言うと、弱さゆえにこそ神を求めるし、神は、どんなに弱い私たちでも、一人残らず、必ず救えるからです。「必ず」です。つまりは、神は、変な言い方、自信に満ちて弱さを与えてるんですね。これ、そこに気づけば本当に安心できる、信仰の基本なんですよ。
 神は、ぼくらを信頼して、弱さを与えてるんです。
 そこはね、弱い皆さん、よくよく胸に手を当てて考えてみてくださいな。
 私も、自分は非常に弱い人間だと思う。でもそれは、神から与えられた弱さでもあるわけだから、堂々としたもんです。堂々と、弱い。弱いからこそ、必ず救ってくださるキリストを必死に信じてますし、弱いからこそ、神の全能にすがりついています。堂々と。

 弱いといえば、先週、歯が割れて大変な思いしたんです。私の歯、とても弱い。で、おととい歯医者に行って、15年前に別の歯医者で入れたブリッジを外したんですね。ブリッジしてる歯が割れちゃって、根っこの骨もグラグラし始めちゃったんで、外さなきゃなんなくなったんです。ところがそれが、なかなか外れない。削ったり砕いたりして外すんですけど、一部に悪い金属を使ってたせいもあって、なかなか割れなくって、結局1時間以上、ウィーンウィーン、ガンガンガンガンって・・・。もちろん麻酔はしてますけど、頭蓋骨に響くじゃないですか。先生がね、「少し休みますか?」とか言うんだけど、こちらは、「@*+/&%$#X!!」みたいな感じ。(笑) なんかもう、生きた心地がしなかった。
 そうすると、こんなに長い間お世話になってる歯医者さんなのに、「この人、もしかして下手くそなんじゃないかな・・・」とか、(笑) 「もしかして、失敗してとんでもないことになるんじゃないかな・・・」とか、恐れが恐れを呼び始めるんですね。「少し響きますよ~」とか言いながら、金づちみたいなので、カンカン、カンカンって叩かれながら・・・。
 なるべく平常心でいようと思いながらも、心臓はドキドキしてくるし、体は硬直してくるし、もう、心の中では、「神さま助けて~!😱」「イエスさま救って~!😫」「マリアさまぁ~!😭 ・・・めでたし聖寵(せいちょう)()()てるマリア、主、御身(おんみ)と共にまします・・・+」って祈り始め、「あれ、なんで昔のお祈りが出てきたんだろう・・・」って、(笑) 子どものころからお祈りしてた文語体のほうが、なぜか出てきた。その日はちょうど、父の命日だったんで、もう38年も前に死んだ父にまで、「父さ~ん、お願い~!🙏🏼」って祈ったり。これ、もう自分ではどうしようもないわけですから。まな板の上の鯉とは、まさにこのこと。・・・でも、どうしようもないときこそ、ようやく神さまのことを思い出したり、マリアさまの祈りに頼ったり、死んだ父母にまで、「助けて~!」なんて祈るわけです。
 ・・・この、弱さ。なんでこんなに人は弱いんだろう。何か、わけがあるはずですよ。みんながとっても強くて、自分だけが弱いっていうんじゃないんだから。みんな、弱い。そうでしょう? あれ、平気な人っているんですかね、歯をギンギン削られるの。・・・いないでしょう? みんな、弱い。これほどまでにみんなそろって弱いっていうのには、やっぱりとても大切なわけがあるんですよ。まさに、神さまがそうしてるとしか、言いようがないでしょう。そこには、本当に愛にあふれた、深い意味が秘められているはず。

 今日の第1朗読(※1)でしたっけ、神さまが、「わたしがぶどう畑のためになすべきことで、何か、しなかったことがまだあるというのか」(イザヤ5:4) って言うんですよ。つまり、「わたしは、全部、ちゃんとやっている。なのに、なぜ、ちゃんと実を結ばないのか。それは、わたしのせいじゃない。あなたたちの問題だ」って言うんですね。
 何が問題かっていうと、やっぱり、ぶどう園を作ったその主人への全面的な信頼、そして、その神から頂いた恵みの世界への全面的な愛、そういうものを、ぼくらは弱さと恐れの中で、やっぱり、見失ってるんですね。私たちは実りをもたらすために、この世界に生まれているというにもかかわらず、「実り」、すなわち、「神を信じ、人々を愛する」、そういうことができないでいる。それはやっぱり、神さまの信頼に応えていないってことなんですよ。
 神さまは、私たちを「信頼」してるんです。弱いわたしたちを信頼して、すべてを任せてるんです。どれほど弱くても、神は、私たちを「信頼」してます。だから、ぼくらは、その弱さを恐れちゃいけないんです。「弱さこそ力」くらいに思って、「弱い私を神は信頼してくれている。だから、この弱いままでもだいじょうぶなんだ!」っていう、大事なのはそこですね。
 イエスさまのたとえではね(※2)、神さまがすべてを私たちに任せてくださってますでしょ。「垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て」 (マタイ21:33) って。すべて用意して、全部農夫たちに貸しちゃうんですね。全面的に信頼してる。この世界、この私という体、この環境、私たちの家族、すべて、何もかも、神さまは私たちを信頼して、・・・まあ、変な言い方、丸投げですよ。すっかり任せてくださってるんです。「あなたたちを信じるよ」と。・・・なんという信頼!
 だから、私たちは、この恵みの世界を生きているわけですけど、それはすべて、神への信頼や人々への愛、そして、「神の国」という素晴らしい恵み、すなわち、「実り」をね、神さまにお返しするため。なのに、その神が受け取るべき実りを「自分たちのものにしよう」って言う。・・・まあこれ、信頼を裏切る私たちの姿ですね、「相続財産を我々のものにしよう」 (マタイ21:38) って。
 私たち、体も心も環境も、命そのものも、それこそ歯の1本1本も、ぜんぶ神から頂いているものなのに、それはすべて神にお返しするものなのに、まるで自分のものであるかのように所有しようとするでしょ。その感覚が、「我々のものにしよう」 (マタイ21:38) っていうその利己主義、その欲得、それが、神さまにしてみたら、裏切りなわけですね。でも、われわれが何度そうして裏切っても、神のほうは信頼して、なおも恵みを与え続けてくださってる。
 私、今は仮歯を入れて、なんとか腫れも収まってきたとこですけど、つくづくとね、今、思ってるんですよ。歯になんにも問題なく、おいしく噛んで食べてたときに、もっと感謝しなきゃいけなかったなあと、つくづく思いますよ。つまりね、歯を1本失って、あるいは削られて、そんなんで、いちいち文句を言ってる場合じゃないんです。だって、今までどれだけおいしいものを食べてきたか。何百万回噛んできたか。もうそれは、神さまは私たちに全面的に恵みを与えてくださっているんだから、これ、1本割れても削れても、それも恵みのうちって信じなきゃいけないんですよ。
 ・・・信じる。

 この聖堂で、数日前、講演会をしたんですけど、「リーダー養成のためのリベラルアーツ講座」っていうやつで、さまざまな分野の人たちが、「リベラルアーツ」、すなわち教養ですね、哲学とか、宗教とか、芸術とか、なんか、そういうことについて講義する講座です。私は、宗教の普遍主義について講義しました。
 何年か前からお手伝いしているもので、去年までは都内でやってたんですけど、先方と相談して、「リベラルアーツっていうくらいだから、体験学習も必要でしょう。教会の聖堂でお話ししましょう」っていう話になったんです。いつもはオフィスビルの会議室とかで話すんですけど、なんだかアウェー感があるから、今回はホームでしゃべれて、よかったですよ。
 企業がお金を出して、幹部候補生をリベラルアーツで養成するっていう、まあ、そうでもしないと企業がもたない時代になってるんですね。だから、結構なエリートたちが来るわけですよ。リストには、有名な一流企業の名前がずらりと並んでいました。それぞれ、部長さんとか、企画室長さんとか、マネージャーとか、なんか、そういう人たちが、将来の会社を背負っていく幹部候補生としてやって来る。
 今の時代、宗教にも目配りしなきゃいけないし、しかも原理主義的な宗教じゃなく、普遍主義的な宗教の本質を学ばなきゃいけない。で、「晴佐久神父、お願いします」って頼んでくださるので毎年お手伝いをしてるんですけど、まったく宗教と縁のない一般の企業のエリートたちに、好きなだけ福音を語れる得難いチャンスとして、私は結構楽しみにしてるんですね。今年も、さまざまなところから集まってきた人たちに、好きなだけ福音をお話ししました。
 たとえば、JTの方も来てました。日本たばこの方ね。さすがに、休憩中にたばこ吸ってました。(笑) 外の喫煙コーナーで。だけど、私が通り過ぎたら、ハッとした顔をして、たばこ隠すんで、(笑) 「どうぞご心配なく。ここ、喫煙所ですから」って言ったら、「いや、教会さんは、絶対たばこは無理だろうと思ってたら、灰皿があったんで、ホントにうれしかったです」って言うんで、「ええ、カトリック教会は、迫害されている人に優しいですから」と、(笑) 申し上げました。
 彼らは、普遍主義的宗教っていうものを、あんまりよく知らないんですよね。だから、私みたいなのが、仏教、神道にまで通じるような、普遍主義なるキリスト教の本質を語ると、目を丸くして、輝かせて、聞いておられます。
 「神はすべての人の生みの親なんだから、み~んなわが子と思ってるんですよ。ってことは、私たちは神の子として、みんな家族なんですから、お互いに、どれだけ見知らぬ相手でも、『このひとも家族だ』って受け入れたらいいんです。そういうチャレンジをしているのが、教会っていうことなんですよ。マザー・テレサなんかは、会う人みんなを家族だって思ってたから、娘が倒れているように助け、母親が傷ついているように世話をする。
 『いや、そうはいっても、現実には難しいでしょう』って、やっぱり思うでしょうけど、少なくとも、たとえなかなか実現できなくても、そっちが答えだから、そっちに向かっていこうっていう気持ち、・・・『それが生きる目的、人類の目的だ』『そこだけはブレずに目指して生きていきたい』『ほんのちょっとでも実現させてみよう』と、そういう熱い思いだけは持っていましょうよ。
 企業だって、家族経営みたいな企業が、結果的に伸びたりしてるじゃないですか。『うちの社員は全員家族だ』なんて言っているトップが、社員の幸福度を高めたりしますでしょ。『大企業でそんなことは無理だ』なんて言わずに、社員同士、あるいは客との関係、そして社会全体に対して、『家族だったらどうするか』って言う気持ちで、何か少しでも工夫をしていきましょう」と、まあ、そんな話をしました。
 でも、そうすると、参加者の中から当然のように、「いや、そうは言っても、家族同然に思おうとしても、そう思えないような、・・・要するに、嫌いなやつとか、攻撃してくる相手とか、あるいは、自分たちの利益にそぐわないものとか、そういうものは、どうしても排除しなきゃなりませんよね」っていう質問が、やっぱり相次ぐわけですね。だから私、
 「だけど、家族って、嫌いな家族もいたりするけども、それでも一緒にいるじゃないですか。いやなことを言うやつもいるけども、それでも一緒にご飯食べるでしょ。家族っていうのは、無条件だから家族なんです。そして、結果的に、そうして一緒にいるからこそ生まれて来る価値とか未来がある。都合のいい人とだけ集まったり、相手していても、決して未来は生まれません。それこそ、自分の未来のためにも、他者と家族であろうとする、そのベクトルだけは忘れないでほしい。それにあたっては、やっぱり互いに信じることです」と。
 すると、ある方から、
 「でも、裏切られることがあるじゃないですか。そんなときには、どう対応したらいいんですか?」って質問されたので、お答えしました。
 「まさに裏切られたときが、最高のチャンスです。たとえば、わが子が、親の信頼を裏切るようなことをしたりしたら、まあ、ショックですよ。ショックだけど、実はそれこそが、得難いチャンスなんです。『それでもお前を信じるよ』って言えるチャンス。それによって、子どもは成長するからです。子どもは、親がこんな自分を、なおも信じてくれたっていう、その体験によって成長するんです。たとえ、そのときはすぐにそれに気づかなくとも、いつしかその体験が実を結びます。私も、親から信頼されたことで、このままの自分を信じることができるようになった。どんな相手でも、神の子だし、信頼に値する存在です。いろんな意味で裏切られ、苦しめられても、『それでも、あなたを信じるよ』と言うひと言で、世界が変わっていく。人間関係に苦しむときこそ、真に信頼し合う家族をつくっていくチャンスとして、『家族同然』っていうことにチャレンジしてほしい。これが普遍主義の(かなめ)です」

 ・・・考えてみたらですね、キリスト教なんてね、裏切りをゆるす宗教なんですよ。・・・でしょ? 弟子たち、みんな裏切った。それを、イエスはゆるした。そこからキリスト教が始まっている。
 神は徹底して、私たちを信頼しています。
 ぼくらは、たとえ何度裏切っても構わない。っていうか、もうすでに、何度も何度も、裏切ってる。神の信頼を裏切って、神から預かった恵みを自分勝手に無駄遣いしている。でも、何度裏切ろうが、神はわれわれを信頼し続けています。決してあきらめない。排除しない。見捨てない。そして、なおも、恵みを与えてくださっている。この神からの信頼の中で、私たちは、ようやく少しずつ成長できる。「そんな親を信頼しよう!」っていう幼子の思いが、だんだん増えてくる。
 一番傷ついたとき、一番弱っているとき、それこそ失恋して寝付かれないような夜を過ごすときにこそ、こんな私を、なおも信頼して恵みの日を用意してくださっている神さまに、感謝と信頼を捧げます。

 昨夜つらかった君には、「まあ、神さまはきっと、いい出会いを用意していますよ」と最後に付け加えて、説教を終わらせていただきます。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます)

※1:「今日の第1朗読」
この日、2017年10月8日(年間第27主日)の第1朗読箇所。
 イザヤの預言(イザヤ書)5章1~7節
 〈小見出し:「ぶどう畑の歌」〉
===(聖書参考箇所)===
1 わたしは歌おう、わたしの愛する者のために
 そのぶどう畑の愛の歌を。
 わたしの愛する者は、肥沃な丘に
 ぶどう畑を持っていた。
2 
よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。
 その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り
 良いぶどうが実るのを待った。
 しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。

3 さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ
 わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。
4 
わたしがぶどう畑のためになすべきことで
 何か、しなかったことがまだあるというのか。

 わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに
 なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。 (イザヤ5:1-4/赤字引用者/文頭小さな数字は節)

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(注)
神を農夫に、イスラエルやユダをぶどう畑にたとえている。
1(1節)の「わたし」は預言者自身。「わたしの愛する者」は神。
3(3節)4(4節)の「わたし」は神ご自身。
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※2:「イエスさまのたとえでね」
この日、2017年10月8日(年間第27主日)の福音朗読箇所。
 マタイによる福音(マタイによる福音書)21章33~43節
 〈小見出し:「ぶどう園と農夫」のたとえ〉
===(聖書参考箇所)===
「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。 さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕(しもべ)たちを農夫たちのところへ送った。 (マタイ21:33-34/赤字引用者)
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2017年10月8日(日) 録音/2017年11月11日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英