福音漬けにしましょう

2015年1月25日年間第3主日
・第1朗読:ヨナの預言(ヨナ3・1-5、10)
・第2朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント7・29-31)
・福音朗読:マルコによる福音(マルコ1・14-20)

【晴佐久神父様 説教】

 さて、今日も、福音を()べ伝えましょう。
 それが司祭の務めであり、キリスト者の務めであり、「説教」というものは、そういうものですから。
 イエスさまは、福音を宣べ伝えました。私たち、弟子たちは、そのお仕事をお手伝いする仲間たちです。一にも福音、二にも福音、福音、福音、また福音。キリストの教会は福音を宣べ伝える教会です。他にすることなどないと言っていいくらい。やっていることはすべて、福音を宣べ伝えるためであって、われわれが信じているこのキリスト教は、いうなれば「福音教」なのです。
 イエスさまは福音を宣べ伝えましたし、イエス・キリストご自身が福音です。「キリスト」イコール「福音」ですから、「キリスト教」イコール「福音教」。「福音を宣べ伝える」ということをやっていれば、われわれは「キリスト者」です。福音を伝える者として生きている喜びがあるし、福音と結ばれて生まれてきたかい(・ ・)があるし、まあ、ともかく、福音を中心にしていれば何もかもうまくいくんです。
 もしもキリスト者なのに心に喜びがないとか、教会が元気ないとか、仲間が増えないとか、いろいろ問題があるならば、これはもう、ただただ、福音をちゃんと聴いていないか、聴いているのに信じていないか、信じているのに伝えていないか、その辺に問題がある。そう考えれば、ほぼみんな解決しますよ。
 ・・・「福音」なんです。すべて福音。
 にもかかわらず、今の教会がちゃんと福音の話をしていないのは、どういう(わけ)か。福音を語らずに信者が増えないとか嘆くのは、商品並べずに客が来ないと嘆くようなもの。私は、「福音がすべてだ」「福音宣教に人生かけよう」、そんな思いで神父になりましたし、ず~っと福音を語り続けてきたし、今日もまた、それを語ります。

 それとも、どうなんでしょう、もういいですか? 福音、もう十分聞きました?
 だいじょうぶですか、皆さん。ホントに福音、聴いてます? そして信じてます? そして語ってます? ・・・だいじょうぶですか?
 晴佐久神父の話なんていうのは、これ、本質的には何度聴いても一緒ですからね、金太郎(あめ)みたいなものです。・・・福音を語っているだけ。「神の国は来た。おめでとう、もうあなたは救われた」って。もういいですかね、多摩教会の信者さんは。そろそろ。
 このたび、東京教区人事異動が発表になりましたけど、晴佐久神父の名前は載っておりませんでしたので、最低でもまた1年間、この福音聴かされるんですよ、皆さん。(拍手👏🏼♪)
 あれ、拍手していただけるんですか? でもそれが、「まだ聴き足りない」っていうことであるならば、ある意味、がっかりですよ。そろそろ、「もう分かりました、もう十分聞きました。あとはお任せくださって、神父さまはまだ福音を聞いていないところでお話しください。多摩の地では、私たちが福音を告げ知らせます」と言っていただかないと。
 「そうだ、福音こそすべてだ。福音のためなら命も捧げよう。福音で大勢の人々を救えるんだから。『神はあなたを愛してる』『あなたを必ず救ってくださる』って目の前で苦しんでる人にちゃんと伝えれば、もうそこに神の国は実現しているんだ」って言っていただかないと。・・・もういいですか? これ。もしかして、うんざり?
 「福音の村」の前にやっていたのは「福音の森(※1)」っていうホームページですけど、この「福音の森」を始めたメンバーの一人が、隣の高幡教会(※2)からたまたま(・ ・ ・ ・)やってきて、今、このミサに出ていらっしゃるので、懐かしく思い出します。ねえ、あなたならわかるでしょうけど、晴佐久神父、ず~~~っと同じ話してますよね、福音、福音って。・・・思いますでしょ? 「あっ、また言ってる」と。
 もちろん、ちょっと切り口は違いますよ。福音を強調するためのネタは毎回違うかもしれない。でも私は、イエス・キリストがそうであったように、「福音こそすべてだ。今、神の国は、もうここに来ているんだ。心を開いて福音を信じてほしい」って語り続けてきたし、なおも語り続けていくし、語り続ける仲間たちを求めているし。
 もしも、まだ必要なら、なおも福音を語りましょう。()むことなく。何度でも。

 今日の福音の箇所(※3)、マルコ福音書の、一番最初の所なんですよ、これ。
 一番最初の最初はと言えば、1章1節に、「神の子イエス・キリストの福音の初め」(マルコ1:1)って書いてある。
 これ、世界最初の福音書ですよ、マルコの福音書。「福音書」という究極のテキストを、この世界にもたらしたのは、マルコです。その1章1節に何て書いてあるかっていうと、
 「神の子イエス・キリストの福音の(・ ・ ・)初め」(マルコ1:1/強調:引用者)
 そうあるんです。
 その一行にすでに、「福音の世界が始まった! もうだいじょうぶだ、安心しろ!」と、そんな喜びがあふれてる。
 「もうここに救いは実現した」っていう、そんな素晴らしい知らせの始まりっていう福音書。この福音書から、とてつもない救いの恵みの世界が始まったんです。この二千年間を振り返れば、それはもう、どれだけ言っても言い足りないくらい。皆さんが、今日ここに集まってるのだって、その実り、その恵みでしょ。
 そうして、イエス・キリストの第一声が、この1章の15節に書いてあるんですよ。
 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)
 ここには、四つのことが書いてある。
 最初の二つは宣言ですね。「時は満ちた」と、「神の国は来た」。
 「時」っていうのは時間でしょ。「国」っていうのは空間でしょ。
 「時間も空間もすべて、いまや神さまの恵みのうちに、救いの世界として実現した」
 そんな宣言です。もっとも、この世の時間、空間じゃない。時計で計るような時間、歴史に記録するような時間ではなく、すべてを超えた「神さまの時」の話。いつ洗礼を受けたらいいかとか、あと何年生きてるんだろうとか、そんなこの世的な時を超えて、「今、決定的な神さまの時、永遠なる救いの時が始まった。もはや私たちは救われている!」っていう、そういう宣言です。
 「神の国」っていうのも、この世の空間じゃない。神の支配下に置かれた、神の場所です。救いの現実です。イエスにおいて、この世界という場所の意味が本質的に変えられた、と。まあ、まだ「天国」として完成はしていないけれども、もうすでに始まった。これは、このミサにたとえるなら、もうさっき、入祭の歌(※4)を歌ってミサは始まってるでしょう? 確かにここに集まって、安心、喜び、ワクワクする希望があるじゃないですか。でもまだ、ご聖体いただいてないでしょ。いただいてないけれども、「ああ、もう安心だ。このミサに集まっている私たち、なんて幸いか!」って、そう思って座ってるでしょう? やがて必ずご聖体がやってくるからです。
 神の国は、もう始まっています。
 ・・・このひととき、あなたが生きている今、ここがもう、「神の時」であり、「神の国」だっていう宣言なんですよ。イエスさまご自身が福音ですし、イエスさまご自身が「神の国」だから、イエスさまはもう、ご自分が来られたことそのもので、みんなに救いを宣言します。
 「もうだいじょうぶだ。あなたは救われた」と。

 後半の二つは、その宣言を受け入れなさいっていう命令ですね。
 だって、いくら宣言しても、受け入れてくれなきゃ意味ないですから。だからまず、
 「耳を開いて、この福音を聴いてくれ」と、
 「時は満ちた。神の国は始まった。さあ、心を開いて、受け止めて、信じてくれ」と、
 イエスさまは、そう宣言し、命じている。
 そこからすべてが始まって、今日にも至っている。これは神の宣言、命令ですから、この世の全空間、世界中に伝えなくっちゃ。それに全時間、今もいつも伝えなくっちゃ。だって、次々と新しい人が生まれてくるんだから。その人たちは生まれて来たときにはまだ知らないはずでしょ。だから、ずっと伝えなきゃならないんですよ。そもそも日本なんか、まだ99パーセント知らないんで、まあ一生懸命、これは伝えなきゃならないですね。
 神の国はもう来ている。
 イエスの救いは始まっている。
 だれが何て言おうと、どう反論しようと、それは事実なんであって、それを変えることはできないし、否定することもできないし、現に、多くの人が救われて、喜んでいる。

 福音を宣べ伝えていることで、感謝のお便りとかメールとか、いっぱいもらってるんですよ。ホントに、こういうの、贅沢ですよね。
 手紙とかね、宛名書きの文字で、もう中身が分かりますよ。「福音を聴いて救われました」って書いてあるのが、「晴佐久昌英神父様」って書いてある封筒の文字見ただけで分かりますもん。
 メールは直接受けていませんが、先日、「福音の村」に来たメールを転送していただいたのを読んで、励まされました。
 その方は、うつの症状で苦しんでいる方ですけど、かつては「死のう、死のう」と毎日のように思っていた。だけど数年前に、この「福音の村」に出合ってから、3年間福音を読み続けた結果、今では、もう「死にたい」とか「終わりにしたい」とか思わなくなった、と。
 そのことで、お医者さまもびっくりしてるそうです。お医者さまには、宗教のことはなかなかよく分からないようだけど、現実にその人が救われたことに驚いているようです。
 でも、本人はよく分かっている。その原因は、「繰り返し」福音を聴いたからだ、と。
 「たぶん、千回は読んだと思う」と、そう書いてありましたよ。
 ・・・「千回」って、すごい数字ですよね。「福音の村」、週に1回ですから、これ、1年読んだって50回でしょ? 3年読んだって150回でしょ? 「千回読んだ」っていうことは、ひとつを10回近く読んでるってことですよ。それだけ読んでいると、もう、変な言い方、「福音漬け」になるんですよね。・・・これ、すごく大事なことです。繰り返し、繰り返し、ず~っと聞き続ける。
 あれと一緒ですよ、ほら、「スピードラーニング(※5)」。(笑) あれなんか、頭を英語漬けにするわけでしょ。それで英語がしゃべれるようになる。ホントかウソか知りませんよ。でも説得力はある話ですよね。だって、ぼくらが日本語しゃべるのは、ず~っと日本語を聞き続けたからでしょ。日本語聞いたことない人に、「さあ、日本語しゃべれ」って言っても、そんなの絶対に無理ですからね。
 福音を聴いたことのない人に、「救いの喜びを知れ」って言っても、そりゃ無理だ。
 福音を聴いてないのに、「福音語れ」って、そりゃ無理だ。
 ・・・まずは、福音を伝えてあげないと。しかも、1回じゃなく、繰り返し繰り返し、何度も何度も。
 その「千回読んだ」っていう方も書いてました。「繰り返し読んだ」って。
 「神はすべてのわが子を必ず救う」
 「こんな愚かな自分でも、神さまは必ず導いてくださる」
 そう、繰り返し、繰り返し読んだ、と。
 それによって、彼の言い方だと、
 「自分は、今まで自分の力で何とか救われようと頑張ってきた。でもだめだった。だからもっと頑張ろうと思った。でもやっぱりだめだった。この繰り返しだった。でも、福音を繰り返し聞いて、神さまが(・ ・ ・ ・)私を必ず救ってくださると信じられるようになったし、そう信じれば信じるほど、実際に救われて、ますます、神さまにすべてを委ねる気持ちが深まっていく。そういうループ(loop)に変えられた」と。
 これはぜひですね、皆さん自身も繰り返し繰り返し聞いて、救いを体験してほしいです。
 「福音の村」なんか、やっぱり読んだ方がいいですよ、皆さん。「私は(なま)で聴いてるからいいわ」とか思うなら、ちょっともったいないと思う。やっぱり文字で読むとね、分かりにくいところを、ちゃんと直したりもしてありますから、整理もされているし。
 ・・・それこそ、「福音漬け」になるまで読んでみてくださいよ。そうすると今度、「知らずと」ですよ、「あれ? 私、口をついて英語がでてきた」みたいな、・・・まあ、何とかラーニングで、ホントにそうなるのか知りませんけど、福音はまさにそうだと思う。救いを求めている誰かに、知らずと、「だいじょうぶ。もう救いは始まっている。信じましょう」って、ひと(こと)口をついて言ってあげられる。それで大勢の人、救われるんじゃないですか? どんどん救ってあげてくださいよ。
 この福音書に出てくる弟子たちだって、イエスさまが、そういう福音宣言のお役に立てるために選んで、「ついて来い」って言ったわけでしょ。一人で語って歩いても、全空間、全時間には届かないし。やっぱり、大勢の仲間に福音を語ってもらいたいからこそ、ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネを選んで、「ついて来い」って言ったら、「はい!」と言ってついていって、この後、語りまくったわけでしょ、この4人は。イエスさまが復活なさった後に、どれだけ福音を語りまくったか。
 しかも、語ったことは非常にシンプルだったと思いますよ。複雑な神学の話じゃない。
 「神さまは本当に、イエス・キリストを通して、あなたを救ってくださったんだ。もう神の国は始まっているんだ。あなたは何も恐れる必要がない。私は救われた。・・・あなたも信じてくれ」と。
 ここにお集まりの皆さんも、そのような弟子になって福音語りまくったら、神の国がまた少し近づいてくる。完成の日が近づいてくる。

 先週は二人の方のご葬儀があって、寂しい、悲しい思いもしましたけれども、でも、お二人とも信じて生きた方ですし、神さまから本当に特別に恵みを頂いて教会に出会い、神さまからさらに大きな恵みを頂いて天に召されたわけですから、「悲しいけどうれしい」ご葬儀でした。
 月曜日のご葬儀の方は、長くご病気で苦しんで召された方ですけれど、ご主人がね、ぜひ「ごらんよ空の鳥(※6)」を歌いたいっておっしゃったので、葬儀ミサの入祭の歌が「ごらんよ空の鳥」で始まったんです。でもこれ、明るい歌でしょ? 「ごらんよ、空の鳥。野の白ゆりを」っていうね、あの歌です。言うまでもなく、マタイ福音書の、山上の説教(マタイ5~7章)の歌ですよね。
 イエスさまが、「鳥をごらん。神さまが生かしてるよ。花をごらん。神さまが育ててるよ。まして、あなたたちを、本当に、愛して、生かしてくださっているから、明日を思い悩むな」って言う説教ですよね。(cf.マタイ6:25~34)
それを歌にした明るい、元気な歌ですから、葬儀ミサですけど、何か明るい気持ちになりました。いいですよね。ですから、福音朗読も、急きょその箇所を選んでお読みしました。
 「野に咲く小さな一輪の花を見なさい。あの栄華を極めたソロモン王でさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。明日はもう(しお)れてしまう、こんな小さな花でも、これほど愛されて美しく咲き誇っている。ましてあなたたちは、何も心配いらない」(cf.マタイ6:28~30)
 ・・・そういう信仰に支えられて、病の中を生きて、そして、天に召されていったキリスト者。ご主人は、悲しみの中にも、奥様がそのような福音に生かされてきたことに改めて感謝して、あえてこの明るい歌を歌ったわけですよ。

 金曜日のご葬儀の方も、長く病気で苦しみましたから、私、ご葬儀では、ヨハネ福音書のね、「女は子を産むとき苦しむものだ」っていう、あの箇所(※7)を選んで読みました。ご存じでしょ。ご葬儀のとき、時々読まれるところです。
 イエスさまのお言葉ですね。
 「子どもを産む時はつらい。しかし、生まれちゃったら、もう、一人の子どもが世に生まれ出た、その喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」(cf.ヨハネ16:21)
 ・・・「思い出さない」
 そんな日が来るんだったら、苦しみなんて、別に大したもんじゃないって思えるじゃないですか。亡くなられたその方が、ホントに苦しんで、試練を背負って生きてきたことを知っているからこそ、「ああ、この箇所はどうしても読みたいな」と思ったわけですよ。
 ちょうど、その前日、木曜日の「おやつの会(※8)」に、子どもを産んですぐのお母さんが、子どもを連れて来てたんです。生まれてまだひと月なんですけどね。お乳飲ませたりしてて、私たち、「おめでとう!」って言って、すごくうれしい気持ちになりましたけど、そのお母さんが、まさに、そう言ってたんですよ。
 「陣痛はつらかったけれど、でも、不思議なことに、生まれた瞬間に、ぜんぶ忘れちゃった」
 ・・・そういうもんなんですか? 生んだことある方は、ご存じなんでしょうけれど、どんなに苦しくても、生まれた瞬間にそんなのは、子どもが生まれた喜びのために、どうでもよくなっちゃう。あれほど苦しかったのに、「生まれた瞬間に、ぜんぶ忘れちゃった」って。
 ・・・そんな話を前の日に聞いたんでね、すごく私、その金曜日の葬儀ミサでも、そこ読みながら、なんだかうれしい気持ちになりました。だって、ホントに苦しんでいたからね。病気でつらい思いをなさいましたから。だけど、天に生まれていった今は、そんな生みの苦しみを、「ぜんぶ忘れちゃってる」んです。それほどの喜びがある。「ホント、よかったね~」ってことでしょ。
 神の国そのものに入ったんですよ。この試練の日々を越えてね。
 「そんな神の国が、もう始まってる」っていう信仰に、私たちは支えれてるわけです。「やがては完全なる神の国へと誕生して、喜びのあまり、もはやこの苦しみすら思い出さない」(cf.ヨハネ16:21)っていう。そんな日がホントに来ると思ったら、まあ、この世の苦しみなんて、大したもんじゃないというか・・・。
 「福音」っていうね、この不思議な力は、人々をそのような喜びにお招きする力です。

 その方ね、最初の「心の病で苦しんでいる人のためのクリスマス会(※9)」にいらしてたんですよ。さまざまなつらい思いを抱えている日々の中で、ご家族に連れられていらしてくださいました。
 最初にこういう集まりをやる時って、やっぱり心配じゃないですか。「果たしてうまくいくのか」とか、「みんな喜んでくれるのか」とか、「かえって傷つけることにならないか」とか、いろんな恐れがあるわけですけれど、実際にやってみたら、ホントにみんな喜んでくれました。普段、心の病を抱えてとってもつらい思いをしている人が、ほんのひと時でもね、希望をもってくれたら。
 「だいじょうぶだ。神はあなたを愛している。その試練は喜びに変えられる。・・・信じよう」
 そういう福音を私は宣べ伝えましたし、その後でお食事会もして、同じように試練を抱えている人たちが互いにひと時分かち合いましたし、それはある意味で、「神の国、ここにあり」っていうような、神の国、ホントに始まってるなと思わせるような、そういう集まりでしたよ。
 ちなみに、「教会」の定義って、いうなれば「神の国のしるし」ですから。
 「教会を見れば、神の国が確かに来ているのが分かる」っていう話ですから。
 だからそういう集まりをするわけですね。
 その集まりに、その方が来てくださったんですけど、帰り際に「帰りたくない」って涙こぼされたんですよ(※10)
 私はそのひとことに、すごく励まされた。やってよかったと思った。だって、「帰りたくない」っていうことは、「ずっとここにいたい」っていうことですし、「この集まりは、それほどにいい集まりなんだ」ってことですから。「これは福音の満ちている場所、真の教会であり、確かに神の国のしるしになってるんだ」って確信して、またやろうって思えたんです。
 だから、その後この集まりのことを話すとき、私いつも、その彼女のひと言を紹介させてもらってました。「『もう帰りたくない』って、涙こぼしてくれた方もいたんです」と。
 福音をね、なんとかして、多くの人に伝えたいっていう、そういう熱意っていうのは、こういう方に支えられていますし、だから続けていけるんですよ。
 その方には「ありがとう」っていう思いを持っていましたし、だから、葬儀ミサの時は、私としては「よかったね。まさに、もうこれ以上ないっていう神の国に入れて」って思ってましたし、そう思って安心したし、うれしかったし、うらやましかった。彼女は、今、まさに神の国に入って、「帰りたくない」って言ってるでしょうし、そしてもちろん、帰らなくていいんだから。ずっといていいんだから。

 ひとたび生まれちゃったら、もはや「思い出さない」。
 そんな、「試練から喜びへ」っていう福音を、私たちで、何とか、もう一人の誰かに宣べ伝えようじゃないですか。試練のうちにある人を、福音漬けにしましょう。繰り返し、繰り返し、
 「時は満ち、神の国は始まった。あなたは救われた。心を開いて、この福音を信じよう!」と。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます。)

※1:「福音の森」
 晴佐久神父の、前任地(高幡教会と高円寺教会)での説教集。
  ・ 高幡教会での説教は、2000年4月2日~2003年4月27日まで。
     ・・・「福音の森」@高幡教会
  ・ 高円寺教会での説教は、2003年5月4日~2007年9月30日まで。
     ・・・「福音の森」@高円寺教会
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※2:「高幡教会」
◎カトリック高幡教会
  住所: 東京都日野市程久保4-7-14
      (京王動物園線、多摩モノレール「多摩動物公園駅」より、徒歩10分。)
  電話: 042-592-2463
  主日のミサ: 日曜日 9:00 / 11:00
  ホームページ:
   ・ カトリック高幡教会(カトリック東京大司教区版)
   ・ カトリック高幡教会(高幡教会作成版:教会の画像をクリックして進んでください)
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※3:「今日の福音書の箇所」
本日(2015年1月25日〈年間第3主日〉)の福音朗読箇所は、
 マルコによる福音書1章14~20節。
  〈小見出し:「ガリラヤで伝道を始める」、「4人の漁師を弟子にする」〉(小見出しは、新共同訳聖書による)
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※4:「入祭の歌」既出
◎「入祭の歌」
 通常、ミサの始めには、この「入祭の歌」が歌われる。
 「入祭の歌」は、司祭が奉仕者と共に聖堂に入堂するとき始められ、司祭(および奉仕者)が祭壇の前で合掌して深く礼をし、会衆に向き直るまで続けられる。
 「入祭の歌」に合わせて、神がご自分の民のもとを訪れるという意味を持つため、会衆一人ひとりは、まず、この歌によって、祈る心を準備していく。また、訪れてくださる神を招き入れるため、民は一致するよう促されている。
祭儀を開始し、歌によって、司祭と奉仕者の行列を飾るという意味も持つ。
(参考)
・ 「ローマ・ミサ典礼書の総則 (暫定版)」〈pdfファイル〉 (カトリック中央協議会)
・ 「1-入祭の歌」(カトリック武庫之荘教会)
・ 「ミサ司式第」(2006年『ともにささげるミサ 改訂版』) ほか
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※5:「スピードラーニング」
 CMや新聞広告などでもおなじみの、辞書もテキストもいらず、英語を聞き流しているだけで、耳が慣れ、英会話が身につくという英語(英会話)教材。
(参考)
・ 「スピードラーニング」(公式ホームページ)
・ 「スピードラーニング」(Amazon)・・・カスタマーレビューなどが参考になるかもしれません。
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※6:「ごらんよ空の鳥」
 カトリックの典礼聖歌集、391番。
 マタイ福音書6章25~34節(山上の説教で、イエスさまが空の鳥や野の花を引き合いに出され、神さまの愛を語られた箇所。新共同訳の聖書による小見出しは「思い悩むな」)を歌にした、明るく美しい聖歌。子どもから大人まで、多くの人に親しまれている。
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※7:「『女は子を産むとき苦しむものだ』っていう、あの箇所」
(該当箇所)
ヨハネによる福音書16章21節
 (女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない)


 これは、ヨハネによる福音書6章16~24節の「悲しみが喜びに変わる」(新共同訳聖書による小見出し)という箇所からのもの。
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※8:「おやつの会」
 カトリック多摩教会で、2011年12月に始まった会。毎週木曜日、午後3時から、年中無休で開いています。テーブルにはお茶とお菓子が用意してあって、自由に会話を楽しむ会です。
 会員、会費などはなく、信者、信者でない、元気、病気など関係なく、老若男女も関係ありません。来たい人が、来たい時に集まります。どなたでも、いつでも大歓迎ですので、ミサや講座、教会も、敷居が高いと思っておられる方、ぜひ一度、いらしてみてください。お待ちしております。
(参考)
・ 「おやつの会」(『多摩カトリックニューズ』〈カトリック多摩教会月報〉2012年1月号主任司祭巻頭言)
   ・・・ スタートした経緯、内容などが分かります。
・ 「おやつの会」(「カトリック多摩教会」ホームページ)
・ 「さあ、スタートです」(「福音の村」2013年1月6日〈主の公現〉)
   ・・・説教後半(下から2段落目)に、様子の一部が掲載されています。
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※9:「心の病で苦しんでいる人のためのクリスマス会」
 カトリック多摩教会で、2012年12月25日にスタートしたクリスマス会。
 「クリスマス会なんて、経験したことがない」「心がつらくって、元気な集まりに出ていけない」「自分なんかはそんな幸せなクリスマス会にふさわしくない」、そんな一番つらい人のために始まりました。
 多くの方に喜んでいただき、その後、毎年開かれています。
(参考)
・ 「心の病で苦しんでいる人のためのクリスマス会」(「福音の村」2012年12月30日〈聖家族〉)
   ・・・説教後半、下から2段落目から、スタートの経緯などが語られています。
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※10:「『帰りたくない』って、涙こぼされたんですよ」
 以前も、説教で紹介されました。
・ 「心の病で苦しんでいる人のためのクリスマス会」(「福音の村」2012年12月30日〈聖家族〉)
   ・・・説教後半、下から2段落目の下から3行目
・ 「さあ、スタートです!」(「福音の村」2013年1月6日〈主の公現〉)
   ・・・説教後半、下から2段落目の下から5行目
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2015年1月24日 (土)録音/2015年1月30日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英