蚊帳の中

【カトリック浅草教会】

2016年5月15日 聖霊降臨の主日
第1朗読:使徒たちの宣教:(使徒言行録2・1-11)
第2朗読:使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ8・8-17)
・ 福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ14・15-16、23b-26)

【晴佐久神父様 説教】

 聖霊降臨の主日(※1)に、今読まれたとおりのことが(※2)、ちゃんとここで実現しているんだという驚き、感動を、共にしようではありませんか。それがこの、聖霊降臨の主日の喜びです。
 「今読まれたとおりのこと」っていうのは、私たちがこうして集まっていると、聖霊がゴゴゴゴゴ・・・!と、音を立てて、私たちの内に注がれる。今、音こそ聞こえないように思うかもしれませんけど、確かに、今ここに、聖なる霊の働きは、まるで嵐のように、大風のように、皆さんの心を満たしております。・・・それを感じますでしょうか。

 私は、自分で言うのも変ですけど、「聖霊系の神父」とでも言いましょうか。つまり、自分の考えとか、人間の判断とか、今までの常識とか、そういうものも大事ですけれども、「一番(・ ・)一番大事なことを一番大事にする」、これが、「聖霊系」の特徴です。
 その「一番大事なこと」を大事にしなかったら、(あと)のことが全部そろっても意味がない。そういう、「一番大事なこと」、たぶん、聖霊は、そこのところを私たちに語り掛けて、私たちを内から燃やして、変えようとしてくださっている。
 ・・・「一番大事なこと」、すなわち、
 「神が私たちを愛している」
 「神さまのその愛が、私たちの内に、今、ある」
 「私たちは、永遠なる存在だ」
 こんな福音を「一番大事なこと」として、私たちは今日、聖霊降臨の主日に、心に刻みます。

 弟子たちが大勢の人を前にして語りだしたのを見て(cf.使徒2:4)、みんなびっくりして、「神の偉大な(わざ)を語っているのを聞こうとは」 (使徒2:11) って言っておりますけれども、私も「神の偉大な業」を、今日ここで語れることを、ホントに喜びといたします。・・・いや、「私」が語るんじゃない。「聖なる霊」が、「神の偉大な業」を語ります。
 神は、すべての人を望んで生み、愛して育て、永遠なるご自分のもとに導いてくださる。
 神は、主イエス・キリストを通して、それを実現してくださった。
 この偉大な業を、こうして語れることを、私は本当に誇りに思います。私は、聖霊の働きを信じて、・・・まあ、いろいろ恐れること、悩むこと、失敗すること、たっくさんあるけれども、聖霊の働きを信じて、「聖霊、あとはよろしく!」っていう気持ちで生きてまいりましたし、遣わされる所には、どこでも出かけてまいります。

 先週は、徳之島と加計呂麻島(かけろまじま)っていう所(※3)に行ってきました。
 徳之島、ご存じですか? 沖縄と奄美大島の間にある島ですね。徳之島の信者さんから、「ぜひ、ぜひ来てください!」と、かねてより何度も何度も依頼されていたんですけど、このたびついに応えることができて、うれしかったです。奄美群島(※4)へは、奄美大島、加計呂麻島、与路島(よろしま)請島(うけ)沖永良部島(おきのえらぶじま)与論島(よろんじま)、ぜ〜んぶ行ったことがあるんですけど、徳之島だけ行ったことがなかった。「なんで神父さん、徳之島には来てくれないんですか?」と、そういう信者さんからの熱〜い要望に応えて、ついに行ってまいりました。
 ところが、飛行機で、奄美大島経由で徳之島に行くんですけど、天候不順で、飛行機が奄美大島に降りなかったんですよ。もうちょっとで空港っていうときに、グ〜ンとまた雲の上に上がって、「当機は引き返します」って、羽田に引き返しちゃった。奄美大島経由で徳之島には一日一便ですから、戻っちゃったら、もう行けない。「じゃあ、明日」っていうわけにもいかないんですよ。一日ずれると、もう徳之島から奄美に行くフェリーに間に合わない。奄美の加計呂麻島で、今年の夏のキャンプの準備をする予定になっていて、いろんな方のお世話になるので、キャンセルできない。
 私を含め4人、この夏のキャンプのスタッフで動いてたんですけど、「徳之島には、もう行けないのか・・・」と、すごく残念に思いましたし、戻っていく飛行機の中で、「なんとかならないのか・・・。聖霊、来てください!」と、まさに祈るような気持ちで、客室乗務員をつかまえて、「かくかく、しかじかです。なんとかなりませんか」と聞いてみた。
 ・・・結局、3人の乗務員が、時刻表を持ってきて顔寄せあって、「ああでもない、こうでもない」って話しているうちに、私、気が付いたんです。「この飛行機が羽田に戻ってすぐに、鹿児島行きの飛行機がある。鹿児島行きの最終便。これに乗って、鹿児島に泊まり、早朝、徳之島への便に乗れれば、・・・まあ、これも天候不順で飛ばない可能性が高いとは言ってましたけれども、朝、徳之島に着いて、午後のフェリーにも乗れる。だから、午前中に徳之島でミサができる!」
 「それだっ!」ということで、ただし、払い戻しの行列が大行列になるので、一番先に行って、すぐに手続きをして、鹿児島行きに乗らなきゃならない。それで、私はもう、荷物抱えて、みんなをかき分けてですね、最後、飛行機が止まったときには一番先にカウンターに行って、手続きして。・・・で、乗れたんですよ〜。
 それで、鹿児島で一泊したんだけど、早朝の便、やっぱり条件付きなんですよね。「天候不順ですから、鹿児島に戻ることはあり得る」って言う。でも、出てみたら、途中まで厚い雲だったのが、急に徳之島の上がパ〜ッとね、晴れてきて、「フッフッフッ、聖霊、よくやった! 後は任せたぞ」 (笑) みたいな感じで、ちゃんと降りることができた。
 後で分かったんですけど、前日もし奄美大島に降りてたら、徳之島行きは欠航になってたんですよね。で、次の日も、どうなるか分からない。・・・午後になっちゃったらね。私たちは鹿児島に来てたから、朝一便の、そのつかの間のパーッと晴れたときに、降りることができた。
 まあ、徳之島の信者さんの喜んだこと! ・・・ミサができました。で、私、ミサで聖霊の働きについて語りました。
 「何も心配はいらない。今、目の前で何かがあっても、それは大した問題じゃない。神さまの偉大なるご計画の、ほんの一部なんだから。・・・聖霊の働きはすごい。どんな力も邪魔できない。ぼくらは、それを信じて前に進むのみ」

 この夏は、その徳之島の隣の加計呂麻島っていう所で、心の病で苦しんでいる青年たちのためのキャンプ、通称「ここヤシキャンプ」(※5)、もう3回目になりますけども、それを今年は、よりいっそう天国的なキャンプにしようと。
 うつで苦しんでいるとか、さまざまな障がいを抱えているとか、神さまの助けをホントに必要としている若者たち、特に、これからの日本の教会を支えていくような若い世代の信者たちに、求道者たちに、ホントに聖霊の働きを感じてもらいたい。そういう思いで、私が毎月やっている「ここヤシの集い」の、夏のキャンプです。
 その話を徳之島でもして、「皆さん、協力してください」って言ったら、「私、手伝います!」って言う人が現れて。・・・うれしかったですねえ。また、以前から「加計呂麻島の中を動く車が必要だ」っていう話をしていたら、一人の信者さんが、「私、車、提供します!」って。で、車をくださったんですよ。だから、今回はその車に乗って、フェリーに乗って、加計呂麻島に渡ったんです。こういう聖霊の働きに促される人たちに支えられて、今回の準備合宿も、すごくうれしいこと、感動することが、たくさんあった。

 一つは、奄美大島の郷土料理の研究家で、お料理の本も出しているカトリック信者の方が、「ぜひ、その活動を応援したい」と言って来てくださった。「ともかく、おいしい郷土の旬の食べもので、心は癒やされる。元気になれる。特に、つらい思いをしている若者たちに、この太陽の島の恵みを食べさせたい」と、そのような思いで、今回わざわざ、その食事を作る準備のために、加計呂麻島の合宿所に来てくださったんですよ。そして8月の本番では、「一緒に食事を作ります」「指導します」って。・・・実力も人望もある、有名な方なんですよ。帰りの奄美空港の棚でも、その方の本を売ってました。・・・聖霊の導きで、こういう方が応援してくれる。

 また、青年たちの体験として、何か農作業が必要だなと思って、収穫できる夏野菜を植えに行こうかと思ったんだけど、行きの飛行機の中に『奄美新聞』っていう新聞があって、その新聞に、「加計呂麻島で、30年も前からコーヒーの木をたくさん植えて、コーヒー豆を収穫し、自分で焙煎して飲んでるコーヒーおじさんがいる」という記事があった。地元で聞くと、いつもポケットにコーヒー豆を入れて、飴ちゃんみたいに、みんなに配ってるとか。
 私、「会いたいな、この人に・・・」って思って、その人が住んでる集落に行ってみたんですよ。会えるかどうか分からないけど。行ってみたら、お宅は分かったんだけど誰もいない。ああ、会えないのかなと思って、集落の中をぶらぶら歩いてたら、たまたま車に乗ったおじさんが通りかかって、「何してるんだ、見学に来たのか?」みたいに声を掛けてくれた。なんと、その人、コーヒーおじさんでした。
 このコーヒーおじさん、さっそく少し離れたところにある農園に案内してくれて、いろいろ丁寧に教えてくれました。で、結局今回、そこの農園の3年ものの苗木を5本、合宿所に植えることができました。コーヒーは5年目に実るので、3年ものを植えると、再来年にはね、実が実り始める。楽しみでしょう? みんなで、コーヒーの豆を採って、焙煎して、海を眺めながらいただく。・・・「コーヒーの木が2本あれば、二人で半年飲める」って言ってましたけど、5本植えてきましたから。・・・こういう楽しみっていいですよね。「再来年はみんなで収穫するぞ」って、今回植えてきました。
 このコーヒーおじさん、ホントに面白い人で、何事にも前向きで、大自然の中で悠々と生きている。「夏にはこの人呼んで、青年たちにお話ししてもらおう」って思いましたけど、これも聖霊が出会わせてくれた人。

 また、合宿所の隣にはマンゴー農園があるんですけど、ビニールハウスでマンゴー作ってる夫婦がいるんですよ。まだ小さな子どもがいる、この夫婦のマンゴー農園を、ぼくは応援しています。若い夫婦でね、ご主人の本職は漁師なんだけど、産業のない島でなにかチャレンジしたいと、頑張ってる姿にいつも励まされる。ちゃんと実るかどうか分からないんだけど、この夫婦、前向きなんですよ。「加計呂麻でマンゴーは無理だ」って言われているのを、チャレンジして、ついに今年、行ってみたら、ビニールハウスの中で、そのマンゴーが実り始めてました。・・・初めての収穫なんですよ。去年は草取りも手伝った仲なんですけど、7月、8月になったら、収穫も手伝わせてもらえばありがたい、と。そういう作業が、青年たちにとってもすごくいい体験になる。
 「形が悪いやつは売れないんですよ」って言うから、「形の悪いのは、私が買い取ります!・・・ちょっと安く」(笑) ・・・もしよろしかったら、形の悪い、でも安くておいしい加計呂麻マンゴー、みんなで買ってくださいな。この夫婦と子どもたちと、今回は二晩、語り合って、一緒に飯を食って、夢を語り合って。これも聖霊の働き。

 それでいうなら、隣の民宿のおやじは、われわれのために、いつも魚を突いてきてくれるんですけど、今回、24キロのロウニンアジ(※6)っていうのを、水中で突いて、苦労して船に揚げて、それをさばいて、食べさせてくれました。ホントにおいしかった。
 私が去年のキャンプの記録のDVDを渡したら(※7)、それを見て、もうメチャメチャ感動して、「こういう活動を手伝うために、俺はこの民宿をやってきたんだ。こういう仲間たちを応援するために、この合宿所をつくるのを、手伝ってきたんだ。お前と俺とは、心が一緒だ。今回それが、このDVDでよく分かった」と、そんなことまで言ってくれて。
 今まで、このおやじのおかげで、どれほど素晴らしい体験ができたか。
 これからもどれほど多くの青年たちが教会体験をすることができるか。
 いろんな人が、「応援します!」「応援します!」って言ってくれる。・・・私が頼んだわけじゃないのに、向こうから、「一緒にやりたい!」って言ってくれるんですよ。・・・聖なる霊の働きによって。

 神さまは、すべての人を(・ ・ ・ ・ ・ ・)救いたいんです。・・・「すべての人」を。
 だから、キリストをつかわし、聖霊を注いで、教会という恵みの場を通して、あらゆる人に、とりわけ、次の教会を背負っていくような、今、つらい思いをくぐり抜けようとしている、これから、神の国の喜びに満たされようとしている青年たちに、大きな恵みを与えてくださっている。
 教会の未来は明るいですよ。救われた彼らは必ず、救われた喜びを、次の人たちに伝えようとしますから。現に多摩教会でも、救われた青年たちが、「他の青年たちを呼び集めよう!」って頑張っております。
 聖霊の働き、すなわち、神さまの、「ど〜〜しても、今つらい思いをしているわが子(・ ・ ・)を救いたい!」っていう、その働きのお手伝いをする。これが教会の働き。私たちの使命。これはもう、誰も止めることはできない。

 今週の『カトリック新聞』に、教皇の一般謁見の説教が載っていた(※8)。その記事のトップに、
 「永遠に失われてしまう魂など存在しない」と。
 ・・・教皇の発言ですよ。
 「永遠に失われてしまう魂など存在しない」・・・当然です。だって、「永遠に失われてしまう魂」っていうのは、語義矛盾だから。「魂」っていうものは、神が「永遠に喜ばせるために」創造なさったものであって、失われるようならそんなの、魂なんかじゃない。・・・あり得ない。でも、みんな、そのことを知らない。だから、キリストの弟子である教皇は、なんとか知らせたい。
 それで、99匹の羊と1匹の羊の話、イエスさまのたとえがあるでしょ(※9)、あれを持ち出して、教皇さまは、「神さまは、とりわけ(・ ・ ・ ・)、『今、試練のうちにあるとか、救いを求めている人』、そして、とりわけ(・ ・ ・ ・)、『見捨てられ、排除された人』を大切にしてくださる。その1匹を、必ず(・ ・)見つけ出す。決して(・ ・ ・)見捨てることがない」とおっしゃった。「全能の神が、見つけられない」・・・そんなこと、あり得ない。
 で、記事の最後は、教皇のこういう言葉でした。
 「たとえ、99匹が思いとどまらせようとしても、この牧者は、その1匹を探すために出掛けていく。その囲いの中に、この牧者を閉じ込めておくことはできない」(※10)
 まさに、あの教皇さまらしい発言ですよね。
 「永遠に失われる魂など、この世に存在しない」
 すべての人が、神によって見いだされ、救われて、永遠の喜びに(あずか)る。
 われわれキリスト者は、そういう福音をみんなに伝えることができるんです。なんという気高い奉仕でしょう。キリスト者は、聖霊に満たされて、主と共に働くことができる。・・・こんな喜びはないです。ホントに、神父やってて、聖霊の働きのお手伝いができるのはうれしいし、信者やってて、聖霊と共に協力できるのは、どれほど恵まれていることか。・・・大きな喜びです。

 神の国はね、もう始まっております。
 今年の夏、キャンプ、二つやりますけどね、大きなキャンプを。あの合宿所で。・・・お祈りくださいね。生きづらいこの世界の片隅に、小さな、しかし希望に満ちた天国が、今年も実現します。
 病院の精神科の閉鎖病棟に入っていた青年、ず〜っと家から出られずに苦しんできた青年、何度も死のうとした青年、さまざまな青年が、聖霊に導かれて、この夏も集まってきます。彼らの上に、大きな祝福がありますように。
 合宿所に、20畳くらいの屋根付きのテラスがあるんですけど、今年、そのテラスに、10畳の蚊帳(かや)()ったんですよ(※11)。「蚊帳」ってご存じですよね? 若い人は知らないかもしれない。ジブリのトトロに出てきますよ。・・・蚊帳を吊って、その上に五つ、裸電球をぶら下げて、その蚊帳の中で、みんなで晩御飯を食べた。食文化研究家の作った郷土料理を、マンゴー農園の一家とか、隣の民宿のおやじとか、無人島にいつも渡してくれる船の船長さんとかと、みんなでおいしく食べて飲んでね、夢を語り合った。
 ・・・蚊帳の中で、ふっと、「ここ、天国だな」って、ホントに思った。
 この天国、神の国に、み〜んなを招き入れたいとも思った。
 そういや、自分だけ仲間外れにされて、部外者扱いされることを表す、「蚊帳(かや)(そと)」っていう言葉があるけれど、「蚊帳の外」くらい寂しいことはない。
 この世に蚊帳の外はあっても、神は、そんなことを決してなさらない。
 「神さまは一人残らず、蚊帳の中に入れてくださるんだ」と思うと、ワクワクしました。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)

※1:「聖霊降臨の主日」
 聖霊が使徒たちの上に降ったこと(使徒2:1-11)と、教会とその宣教活動の始まりを記念する聖霊降臨の記念は、ユダヤ教の五旬祭(ペンテコステ)の日にこの出来事が起こったことに基づいて、復活祭から50日目の日曜日に行われる。現在は、この日をもって、復活節が終了する。
 典礼色(教会の伝統に従い、典礼暦や、各祝日などの意味を視覚的に表現する色で、その日の意味に従って、祭服や、朗読台掛布のなどの色が変わる)は
を用いる。
 3世紀ごろから東方教会で祝われ、4世紀末のエルサレムではイエスの昇天も、この日に記念されていた。かつては、前晩から始まる復活祭で洗礼が授けられ、復活祭と同様に8日間の祝いが続いていた。
 現在、日本のカトリック教会の多くは、続唱「聖霊の続唱」(>YouYubeがこの日の典礼で歌われている。
 (続唱「聖霊来たりたまえ」〔Veni Sancte Spiritus/ヴェニ・サンクテ・スピリトゥス〕 (>ウィキペディア:歌詞翻訳付き)や、賛歌「来たり給え、創造主なる聖霊よ」〔Veni Creator Spiritusヴェニ・クレアトール・スピリトゥス〕 (>YouTube:歌詞翻訳付き-後半) も、この日の典礼で歌われる聖歌だが、歌詞がラテン語のせいもあって、日本の教会では、あまり歌われていない)
(参考)
・ 「聖霊降臨」(一部): 『岩波キリスト教辞典』(岩波書店、2008)
・ 「聖霊降臨」(「ひとくちメモ」<「カトリック中央協議会」)
・ 「C年 聖霊降臨の主日」(「教会カレンダー」<「ラウダーテ」)
・ 「典礼色」の参考: 
  =「奇跡が起こりました」(「福音の村」2014年8月17日説教「※参照1:カズラ」)
  =「ローマ・ミサ典礼書の総則 (暫定版)」[PDFファイル](2004年4月8日)
    - p.73 「Ⅳ 祭服」の「346[=308]」祭服の色について 
  =「祭服」(ウィキペディア) など
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※2:「今読まれたとおりのこと」
この日、2016年5月15日(聖霊降臨の主日)の第1朗読箇所に書かれていたこと。
 第1朗読の箇所は、以下のとおり。
  使徒言行録2章1〜11節
   〈小見出し:「聖霊が降(くだ)る」2章2〜13節から抜粋〉
☆該当の箇所:
 
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」 (使徒2:1-4/赤字引用者)
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※3:「徳之島と加計呂麻島っていう所」

(<< 画像はクリックで拡大表示)

← ① 加計呂麻島(かけろまじま)
← ② 徳之島

詳しくご覧になりたい方や広域地図をご覧になりたい方は、
 「Google Map」や「国土地理院地図」をどうぞ。


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※4:「奄美群島」
 2010年2月15日に、それまで「奄美諸島」とされていた地名が、国土地理院と海上保安庁によって、新たに「奄美群島」が決定地名(地図に表記する地名)とされた。)
 その奄美群島は、鹿児島市の南西約370〜560kmの範囲に広がる有人8島(奄美大島、喜界島、加計呂麻島、与路島、請島、徳之島、沖永良部島、与論島)の総称。総面積は1,239平方キロメートル(大島本島は約720平方キロメートルで沖縄本島、佐渡島に次ぐ面積)となっている。
(参照)
・ 「『奄美群島』を決定地名に採用」(国土交通省「国土地理院」広報誌第501号)
・ 「奄美市」(奄美市役所ホームページ
・ 「奄美群島」(ウィキペディア)
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※5:「心の病で苦しんでいる青年たちのためのキャンプ、通称『ここヤシキャンプ』」
 正式名称は、「こころのいやしのための青年キャンプ」。通称「ここヤシキャンプ」。
2014年夏に完成した、奄美大島の南にある加計呂麻島の合宿所で行われる。晴佐久神父が二十数年来続けている無人島キャンプのベースキャンプ隣接地に建てた。
 精神的な病気、障がいなど、心にさまざまな問題を抱えて苦しんでいる青年たちに、良い環境で過ごし、良い仲間と出会い、良い知らせ(「福音」)に触れてもらうため、その場所を利用してキャンプなどを行う。昨年(2015年)夏には、「福音の村」でも読者の皆さまからのご協力を仰ぎ、小聖堂も完成した。
(下の画像は昨年の「ここヤシ」キャンプ。画像はクリックで拡大)
ここヤシの家 ここヤシ聖堂 ここヤシミサ 
(参考)
・ 「ここヤシキャンプ」(『多摩カトリックニューズ』2014年8月号:主任司祭巻頭言)
・ 「奇跡が起こりました!」(「福音の村」2014年8月17日説教/説教全体)
・ 「トンネルの向こうには」(「福音の村」2014年8月31日説教/説教全体)
・ 「皆さんが居場所になるんです」(「福音の村」2014年9月28日説教/最後の段落のこの辺から)
・ 「失ったのではない、お返ししたのだ」(「福音の村」2014年10月19日説教/説教中盤、上から5段落目から)
・ 「ここヤシの家に小聖堂を!」(『多摩カトリックニューズ』2015年6月号:主任司祭巻頭言)
・ 「浸礼、やっちゃいました」(「福音の村」2015年8月16日説教)
・ 「ぼく、残るよ」(「福音の村」2015年8月30日説教)
・ 「驚かせるのも愛」(「福音の村」2015年9月6日説教) など
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※6:「24キロのロウニンアジ」
◎「隣の民宿のおやじ」さんと、「水中で突いて、苦労して船に揚げて」くださった「24キロのロウニンアジ」
 (<< 画像はクリックで拡大)
*****
◎ ロウニンアジ(浪人鯵)
 スズキ目アジ科ギンガメアジ属の海水魚。大きくなると群れを作らず、単独で泳いでいることが多いため、その姿が浪人のようだと、この名前が付けられた。日本では、鹿児島県、沖縄県が主な産地。ギンガメアジ属の最大種で、成魚になると全長180㎝・体重80㎏にもなる。釣りや定置網で捕獲されるが、風格もあり、引きも強いので、釣り人には絶大な人気を誇っている。
 調理は、特にメッキと呼ばれる若魚が美味といわれている。刺身もいいが、熱を通しても硬くならず、皮に独特の風味があるので、塩焼きにしてもおいしい。開きを天日干しにして焼いても、また、いい出汁がでるので、煮付けにしてもいいとのこと。他、ソテーや唐揚げにするなど、用途は多い。 (画像はクリックで拡大)
(参考)
・ 「ロウニンアジ」(釣り百科)
・ 「ロウニンアジ」(ぼうずコンニャクの市場魚介類図鑑)
・ 「ロウニンアジ」(WEB魚図鑑)
・ 「ロウニンアジ」(ウィキペディア)
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※7:「私が去年のキャンプの記録のDVDを渡したら」

 昨年(2015年)、小聖堂献堂を記念して作成されたDVD。
 自然に恵まれた場所で、青年たちのイキイキとした姿が眩しい。

  (<< 画像はクリックで拡大)


約17分ほどのDVDです。ドローンも使って撮影。
興味のある方は、まだ10枚ほど在庫がございますので、「福音の村」までご注文ください。(’16/6/5現在)
1枚千円(定形外郵便送料込み)でお送りいたします。
売り上げは全額「熊本支援」として募金させていただきます。
 (「福音の村」メールアドレス: fukuin25@yahoo.co.jp )
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※8:「今週の『カトリック新聞』に、教皇の一般謁見の説教が載っていた」
 教皇フランシスコは、バチカンにおける5月4日の一般謁見で「永遠に失われてしまう魂など存在せず、ただ見いだされたいと願っている人々がいるだけだ」と強調し、次のように語られた。
 「神は人間の『使い捨て文化』にはくみせず、罪びとや困窮している人を閉め出したりはしない。
 また、神はあらゆる人を途方もなく愛しているので、厳しい荒れ野に信者を残してでも、見失った一人を捜し回るという理屈に合わない行動に出る。
 ただの一人でも失われるのを見過ごすことのできない方で、あらゆる人を愛し、あらゆる人を一人ひとり、捜し回る」
(参考)
・ 「教皇 一般謁見講話/神は一人も失いたくない」(『カトリック新聞』2016年5月15日 (1))
・ 「教皇フランシスコ、2016年5月4日の一般謁見演説」(カトリック中央協議会)
・ 「神は決して誰も見捨てない」(「カトリック新聞オンライン」2016/5/13)
・ 「『見失った羊のたとえ』をテーマに、教皇一般謁見」(バチカン放送局 2016/5/4 16:12)
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※9:「99匹の羊と1匹の羊の話、イエスさまのたとえがあるでしょ」
ルカ福音書15章1〜7節の「『見失った羊』のたとえ」
 (並行箇所:マタイ福音書18節10〜14節)の「『迷い出た羊』のたとえ」
*******
 教皇は、同じ一般謁見で、
「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで探し回らないだろうか」(ルカ15:4)というイエスの言葉から、イエスの罪びとへの心づかいと、決して誰も見捨てない神の姿勢を語られた。
*******
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※10:「たとえ、99匹が思いとどまらせようとしても、この牧者は、その1匹を探すために出掛けていく。その囲いの中に、この牧者を閉じ込めておくことはできない」
 カトリック新聞の「教皇 一般謁見講話/神は一人も失いたくない」の記事の翻訳本文では、以下のようになっている。
 「神のすべての子どもたちを救いたいという願いは、とても『止められるものではなく、99匹の羊さえも羊飼いを思いとどまらせ、囲いの中に閉じこもらせることはできません』」。(『カトリック新聞』2016年5月15日 (1))
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※11:「10畳の蚊帳を吊ったんですよ」
 ① 実物                   ② 蚊帳の中
  
                   (画像はクリックで拡大)
*****
◎ 蚊帳(かや)
 
蚊などの害虫から人などを守るための網。1ミリ程度の網目となっており、虫は通さず風は通すため、麻などの繊維、のちに化学繊維でも作られている。


(参考)
・ 「蚊帳」(ウィキペディア)
・ 「蚊帳のいろいろ」(画像)
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2016年5月15日 (日) 録音/2016年6月5日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英