今年もさくらは、同じように咲く

2014年4月6日四旬節第5主日
・第1朗読:エゼキエルの預言(エゼキエル37・12-14)
・第2朗読:使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ8・8-11)
・福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ11・3-7、17、20-27、33b-45)

【晴佐久神父様 説教】

 さて、満開の桜の話から。・・・美しいですねえ。
 聖堂の周りに桜の咲いている教会はいくらでもあるんでしょうけど、日本一に近いんじゃないですか、この教会。満開の桜並木を歩いてくると教会があるなんてね。・・・ホントに美しい。(※1)
 多摩地区は都心より開花が遅いんで、まだまだ今日、満開の桜が咲き誇っていて、花に包まれてのミサってことですが。
 私、ふさわしいと思う。「桜」と「ミサ」っていうのは。

 桜って、まあ、ちょっと変な言い方ですけど、「死の香り」がするじゃないですか。「願わくは花のもとにて春死なむ」と()んだ歌人がいましたけれど。(※2)
 花はすぐに散っていきますからね。日本人は、「もののあわれ」じゃないですけど、今咲き誇ってるけど、やがて散ってしまうこの花に、そこはかとない風情を感じてですね、ときに死の香りも嗅ぎ取ったりするわけですよ。
 私は、それはある意味、真実だと思う。思うけれども、しかし、キリスト教で「死」っていうと、これはすなわち「復活」のことですから、その意味では、まさに死の香り立つこの桜満開のひとときは、死を超えた復活の栄光を感じ取るときでもあるんです。

 昨日、五日市霊園で、納骨式でした。(※3)
 死と復活ってことでいうなら、昨日は桜が満開で、納骨式にピッタリでしたよ。・・・あそこ、ご存じでしょう? 桜、きれいなんですよ。まだお墓を買ってない方、ぜひカトリック五日市霊園に、(笑)お買い求めくださいな。あそこ、桜に囲まれてて、いいですよ。
 私の両親の墓もありますけど、墓を買う前だったか後だったか、親父が「見に行こう」とかって、子どもたち連れて見学に行って、「ここはいいね〜。桜の木がいっぱいで。日当たりもいいし、ここはいいね」って言ってたのを思い出しますけど。
 満開の桜に包まれて、お墓がある。これ、ピッタリでしょう。桜は、「死から命へ」っていうシンボルなんですよ。死の香りがするのを、暗いことだと思っちゃいけない。キリスト教徒は、死の香りにむしろワクワクしなきゃいけない。永遠の香りなんだから、それは。この世では「死」と呼ばれている、「永遠の命への誕生」の香り。
 (そうだ!)と思って、納骨式ではマタイ福音書を読んだんですよ、「山上の垂訓(すいくん)」。(※4) イエスさまが、「空の鳥を見なさい」(cf.マタイ6:26)、「野の花を見なさい」(cf.マタイ6:28)って言ってますけど、(※5) まさに、「この桜の花を見なさい」って言っているようで。
 神様が(・・・)、永遠に命を生かしておられる。
 それは、一見、明日は「炉に投げ込まれる」ような命です。(マタイ6:30)(※6) 桜で言うなら、明日はもう、花吹雪になって散ってしまうような命に見える。
 そう見えるけれども、神は、見えない力であなたを生かしている。それは永遠なることであって、恐れるな。思い悩むな。この花にも増して、神様はあなたたちを愛しておられるのだからと、イエスさまが優しく教えてくださる箇所ですよね。(cf.マタイ6:30)
 桜満開の納骨式で読むのにピッタリでしょう。昨日、読んでいてうれしくなって、説教もしました。
 「思い悩むな。命っていうものは、そもそも永遠なんだから」と。
 私たちが、花びら一枚散るのを見て、(ああ、命ははかない)なんて思うこと自体が、何も見えてないってことです。
 よく考えてみてくださいよ。「花びら一枚が散っていく」って言うけど、花びら一枚散ったって、まだそこに桜の木は生きています。「いや、桜の木も枯れるだろう」って言ったって、すべての桜が滅びることはない。「いや〜、そのうち、桜も植物も、この世のすべての命も滅びる時があるだろう」と言っても、神様が与えてくださった霊の世界で、いのちは永遠に咲き誇る。
 いいですか? 皆さんは自分が一枚の桜の花びらだなんて思ってるから、はかなく感じるんです。しかし、花びらが突然、虚空から生まれてくるわけじゃない。大いなるいのちの、大いなる神秘の中に一枚の花びらが生かされているんであって、その花びらが、(ああ、私はこの大いなるいのちの一部なんだ)と気づいたとき、そこにまことの愛と安らぎが生まれるんです。
 間違えないでほしいのは、小さな花びらが大いなるいのちに入ってくんじゃなくて、大いなるいのちが小さな花びらになって自らを現しているんです。小さな花びらは、自分は大いなるいのちそのものだと気づくために存在する。「私」とは、「神のいのち」の現れなんです。そのような神秘に目覚めたとき、もうその人は、永遠のいのちのうちにあると言っていいでしょう。
 それはイエスの気づきでしたし、それこそはイエスの開いた永遠への扉です。復活のいのちです。イエスとひとつになるとは、その気づきです。それに気づかないでアタマだけで考え、目に見える世界だけを生きることこそが、死なのです。
 あなたは決して(・・・)滅びません。
 散ったかに見える一枚の花びらの方が幻なんであって、むしろ、それが美しく散っていくときにこそ、私たちは天における満開の桜となることができるのです。

 この世の桜は、確かにきれいだけれども、どことなく、こう、何ていうんでしょう、「くすんだ」色ですよね。・・・パッと見、きれいです。きれいだけれども、ソメイヨシノのこのピンクは、「薄墨桜」っていうやつですよね。ちょっと墨がかかってるんですよ。ビミョ〜に。見える人にはわかる。それは、言い換えれば「まだこの世の花」ってことでしょう。私には、そんな色に見えますよ。
 しかし、天の桜は、まったく「くすみのない」色であるはず。その清らかさ、汚れのないその輝きがどれほどかって、まあ、人間の貧しいイメージで、ちょっと思い巡らしてみてくださいね。
 「この世のすべては天国の入り口なんだ」っていうことです。
 今日のミサの帰り道、今年の満開の花を眺めながら、歩いていただきたい。すぐに永山駅の方に行かず、遠回りでも川沿いの道を歩いて、「これが天国の入り口か」と。
 なかなかね〜、この世のことばっかりにとらわれていると、そういう清々しい思いになることができないですからね。先週もいろいろあって、皆さんの相談聞いたり、悩み聞いたりしましたけど、私、正直、心の中で思ってました。
 (何やってんの? みんな、何やってんの? そういうこと、いつかはぜんぶ過ぎ去っちゃうんだよ。ちゃんと心を開いて、天の満開の花でも仰ぎなさいよ。あなたは永遠なる存在なんだから)。

 ある方、よく相談を受ける方ですけど、どうしても止められない悪い習慣にとらわれてるんですよ。何度も、「もう止める、止める」って誓うんですけどね。私も、「そんなことしてるとあなた自身も傷つけるし、周りも傷つけるし、もう止めましょうね」って言うんだけれど、やめられない。
 でも、先週、その方は、私の目の前で、感動的な体験をしました。
 「こんなに、私は何度も神父さんを裏切ってしまって、申し訳ない」とか、「こんな私はもう神父さんに嫌われてしまいましたね」って言うんですよ。まあ、「嫌われてしまいましたね」っていうのは、「嫌わないでね」って言ってるわけですから、(笑)まあ、「はい、もう嫌いになりました」なんて言えっこないし、(笑)まあ、そもそも嫌いになったら相談なんか受けないわけですし、もちろん「だいじょうぶですよ」ってお話ししました。
 「いえ、いえ、嫌いになったりしませんよ。安心してください。そうして、何度も自分に負けてしまう、それがあなたの現実なんだから、それはもうそのまま受け入れます。ただ、私が信じてるのは、あなたの中に働いている神の霊なんです。それはもう、全面的に、私は信じている。
 神に愛され、救われているあなたをこそ受け入れるんだし、あなたが何度負けようが、神はそんなあなたを赦して、導いて、やがて、たとえこの世では一度も勝てなかったとしても、ちゃ〜んと天の栄光に招き入れてくださる。あなたも、自らの内に働く、そのような神の霊だけは信じなさい。まず、『信じる』っていうことを始めましょう」と。
 するとね、その方、私の目の前でね、急にふっと表情が変わった。そして、「なんだか不思議な気持ちです」「この気持ち、何だろう?」って言うんです。そして突然言ったんです。
 「・・・あっ、これが『信じる』ってことか」。
 私、その瞬間を見てて、すごく面白い体験したなと思った。
 その方ね、小さいころからずっと人から嫌われる、捨てられるっていうことを恐れて生きて来ているんですよ。根本的に他人を信じてないんです。まあ、親が自分勝手だったり、学校でいじめられたり、そういう過去がある。だから「自分はまたこんな失敗をした、当然嫌われるに違いない」、「自分はこんな欠点がある。やっぱり他者は受け入れてくれないだろう」、「いずれ自分は見捨てられる」。そう恐れて、緊張して、周りをうかがいながら生きて来た。
 それが、「私はあなたの中の神の霊を信じてる。あなたがどうであろうと、何をしようと、ぜんぜん関係ない。神があなたを愛して与えている、その愛の霊を私は信じてます」っていうことを精いっぱいお伝えした時に、その方、ふっと安心して、何かを感じたんですね。
 顔がね、目の前でふっと変わって、「あっ、これが『信じる』って感覚なのかも」って言ったんです。つまり、生まれてから今まで、一度も「信じる」って感覚なしで生きてきたんですよ。
 そのとき、何を「信じ」たのか。それは、自分がどうであろうと、必ず自分を救ってくださる方を信じたんです。だから自分は生きていけるんだって信じたんです。だから他人もこんな自分を愛してくれるんだって信じたんです。
 決して見捨てない方の腕の中で、ホッと安心して、何も思い悩むことがない瞬間。・・・「あっ、この不思議な感覚、これが信じるってこと?」
 これまでも繰り返しお話を重ねてきた方ですけれども、そういう瞬間が目の前であるっていうのは、私にとっても面白いというか、(これはいいもん見たな〜)と思いましたね。
 もちろん、また恐れにとらわれるでしょう。でも、一度でも「ああ、信じるって、この感覚ね」っていうのをつかんだら、ほら、スキーでも、自転車でも、一度「あっ、この感覚ね」ってわかったらできるようになるっていうのがあるでしょ? これはやっぱり偉大な瞬間ですね。
 その瞬間があれば、もうこの人、これから少しずつでも、信じる人生をやってけるんだろうなって思うと、うれしかったというか。

 え〜、聖書をちょっと思い返していただきたいんですけど、第1朗読をね、ご覧ください。(※7)
 エゼキエルでいえばですね、真ん中の14節。これは心に刻んでおきましょう。
 「わたしがお前たちの中に霊を吹きこむと、お前たちは生きる」(エゼキエル37:14)
 ・・・神の言葉ですよ。「主なる神はこう言われる」(エゼキエル37:12)っていう。
 「わたしがお前たちの中に霊を吹きこむと、お前たちは生きる」。「お前たち」って複数形ですけど、これ、全宇宙のことだとでも思ってください。被造物の話です。こうして宇宙は生きるものとなる。
 すべてのいのち、地球も桜の木も、生きるものとなる。ましてあなたたち、その霊に目覚めることのできる人間は、真の意味で生きるものとなる。
 私たちはそのようにして、永遠なる神の霊を吹き込まれて、永遠に生きるものなんです。ただ、一枚の花びらはそれに気づいていないから、恐れて風に震えている。
 しかし、自分が枝につながり、いのちにつながり、永遠なる宇宙の源につながってると気づいたとき、「あっ、そうか。自分がなにかにつながろうとしなくても、もともとの命の源が、自分になってるんだ」とわかる。
 ここに気づいたときに、ふっとね、ホントの意味で「信じる」っていうことが、できるようになるんですよ。「私は花びらじゃない。私はいのちの源そのものだ」と、そう気づくと、花びらなんかはいくら散ってっても、ぜんぜん平気なんです。

 第2朗読でいうと、そのような霊は「キリストの霊」だって言ってる。(※8)
 10節、「キリストがあなたがたの内におられるならば、体は死んでいても、“霊”は命となってる」。(cf.ローマ8:10)
 「体は死んでいても、“霊”は命だ」。・・・さて、仮にどっちかっていうなら、どっち取りますか、皆さん。体がいいですか、“霊”がいいですか?
 私は“霊”の方にする。体の方は散ってっちゃうしね。私もう、断然、“霊”です。皆さんも、“霊”になりましょう。幽霊になれって言ってんじゃないですよ。(笑) 体を生きながら“霊”になる。
 「霊そのものが私だ」、「霊によって生かされてる」。
 「イエスを復活させた方の霊が(・・)、あなたがたの内に宿っているなら、あなたがたのその霊によって(・・・・・)、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」。(cf.ローマ8:11)
 ・・・「キリストを復活させた方が、死ぬはずの体を生かしてくださるでしょう」。
 まあ、イエス自身が、そういう霊そのものですから、だからイエスは、福音書で、「私を信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11:25)って言った。・・・すごいねえ。「死んでも生きる」ですよ。もう、言葉の意味としては成立してないじゃないですか、「死んでも生きる」なんて。しかし、そう言うしかないですねえ。・・・永遠なる命を語るなら。
 ですから、「(イエスは)心に憤りを覚え、興奮して、言われた」(ヨハネ11:33b-34)とか、「涙を流された」(ヨハネ11:15)っていう意味も、そんな命を前提に読んでほしい。お手元の「聖書と典礼」に、その説明が書いてありますけど、私、時々ちょっと、この解説が気に入らない。(笑)まあ、いろんな読み方があっていいわけですけど、33節の解説が載ってますね。
 「心に憤りを覚え」:ここで用いられている言葉は、激しい感情の動きを表す言葉であるが、その感情が憤りであるとすれば、ラザロを死に追いやった悪の力(悪霊)に対する憤りということになろう。(「聖書と典礼」2014.4.6 福音朗読の解説より)
 ・・・う〜ん、でも、みんなどうせ死ぬのにねえ。いちいち憤るってのもイエスっぽくないでしょう?
 「死に追いやった悪の力に対する憤り」ってのも、まあ、わからないでもないけれど。これ、「悪霊がラザロを死に追いやったから」っていうよりは、本当のいのちに目覚められないでいる人々の状態を見て、「悪霊が人間をそのように閉ざしているから」じゃないですか。そうとしか読めないんですけどねえ。
 ちなみに、省略してありますけど、最初の33節の「憤りを覚え」っていうところ、その前の箇所で、マリアやユダヤ人が泣いてるんですよ。人々は、もうラザロは死んでしまった、取り返しがつかないって思いこんで、ただ悲しんでる。38節の憤りのところも、その前の箇所でユダヤ人が「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」って言ってる。その無理解。目が開いてないのは自分たちなのに。
 確かに、この世的には、死は悲しいものだけれども、死を超えた永遠のいのちの世界を知らずに、みんながただ悲しんでる、そんな「罪の状態」に、イエスは憤ってるんだし、そして今、天の父が自分を通して、まことの霊の世界、永遠なる世界を現そうとしておられることに、イエスは心ふるえて感動の涙を流してるんじゃないですか。
 ユダヤ人たちは勘違いして、(ああ、愛するラザロが死んで泣いてるのね)って思ってるけど、変でしょう? イエスが、他の泣いてる人と一緒にね、「ああ、愛するラザロが死んじゃった」って悲しんでるって、なんか情けない気がしませんかねえ。
 これが「悲しみの涙」とは、到底思えない。
 ホントにこう、とらわれてる人たちが、今、解放されていく、神様が本当に人々を愛して命を与えておられる、その真実を目の前にして高揚し、心ふるえる涙。・・・私にはそうとしか思えない。
 「死んでも生きる」(ヨハネ11:25)って言うイエスがですね、まさに、今、そうして墓の石を取りのけさせる。皆さんの心を閉ざしている石です。

 日本カトリック映画賞(※9)を、今年も選びました。『先祖になる』っていう映画です。(※10)
 これなんか、私に言わせれば、まさに大いなるいのちの世界、まことの「霊」の世界に触れている、ひとりの老人の話ですけれども。
 ドキュメンタリー映画です。陸前高田市の佐藤直志さんっていう、撮影時77才の方を追った作品です。この方は、小学校を卒業してから木こりになって、60年以上林業に携わってきた。二男一女をもうけて、まだ現役で働いています。3・11の時に、被災しました。ご存じのとおり、陸前高田市は、もう、「すべて」と言っていいくらいに、津波に流されました。
 私も、3・11の数カ月後に陸前高田に行きましたけれども、まあ、あの頃に回った中でも、特に南三陸と陸前高田は、忘れられない光景として目に焼き付いてます。がれきに埋め尽くされた、最悪の状況でした。ただ、そんな中でも、奥の方に、なんとか流されずに残った家もあって、佐藤さんの家はその内の1軒ですね。2階まで水に浸かったんで、1階は使いものにならないけど、なんとか2階では暮らせるっていうような感じで。
 直志さんは助かりましたけれども、消防団員だった息子さんは、高齢の女性を背負って避難中に流されて、亡くなりました。
 ところが、そんな状況の中でも、佐藤さんはへこたれないっていうか、動じないっていうか、大地に足を着けて前向きに生きている、その姿がですね、とってもカッコよくって、希望に溢れてるんですよ。
 何しろ、震災のその3日後にはですね、「このままだと食う物がないから、米を育てなきゃいかん」ってことで、田植えを決心してるんです。あの状況で、3日後に。そして、ホントに田植えを始めた。まだ息子さんの遺体も見つかってないときにですよ。
 で、「種をまいとけば、土地がなんとかしてくれる」って、荒れ野にソバの種をまき始める。とにかく、今出来ること、なすべきこと、次の世代のことを第一にして生きてるんです。
 で、「俺はここで暮らす」と言って、自宅の2階で生きてる。行政が、「避難所に行ってください」と言っても、「私はここで先祖の霊を守る。息子の霊を守る」って言って、人間が生きるってのはこういうことだみたいな感じで、孤独に耐え、忍耐して工夫して、住み続ける。
 その思いには、行方不明者がまだいるんだから現場に残るという気持ちや、だれかが住み続けることで、みんなが戻って来やすくしたいという気持ちもあって、ともかく「みんなのこと」を考えてるんです。とてもそこまではできないという人の分まで、そうして背負ってるわけです。
 で、結局、行政に掛け合って許可を取り付け、わが家を取り壊し、自ら木を切り出してきて、自分で家を建てちゃったんです、1年後には。まさに希望のシンボルのような家。
 当たり前のことを当たり前にできているところがめちゃめちゃカッコよくって、私は何かこう、彼の信じてるもの、生きていることのうちに、とっても普遍的な「本当のいのち」の世界を感じました。
 昔っからず〜っと伝わっている生きる知恵、いのちに生かされている人間の真実。ご先祖さまたちが、何があっても助け合い、どんなときも工夫して、一生懸命生きて伝えてきた文化の尊さを、地に足が着いた生きかたで守っているその姿に、とても励まされて、(ああ、こういうカッコいい生き方、羨ましいな)って、つくづく思った。これ、見ていただければわかります。人間は弱くて、はかない。しかし、だからこそ、そこに働く霊の力は強くて、永遠。
 映画賞上映会のチラシに私、映画評書いて、「こんなカッコいい親父、見たことがない。こんなカッコいい家見たことがない」って書いてますから、ぜひ、読んでいただきたい。(※11)
 この彼をどうして映画にしたかというと、監督さんが被災地に行って、対象になる人を探してたときに、陸前高田の小高いお寺さんの境内で、お花見が始まってたそうです。震災直後ですよ。
 あの年、東京でお花見、自粛したじゃないですか。覚えてます? ところが現地では、お花見をやってる。周囲はあまりにも悲惨な状況なのに、お花見やってるの見て、この監督びっくりして取材したら、そのお花見の呼び掛け人が、この佐藤直志さんだった。
 「こんなときこそ、希望を持たなきゃいかん。こんなときこそ、明るく過ごさなきゃいかん」ってことでしょう、避難所のみんなを励ますため、そして亡くなった人の供養のために、お花見をしてるんだということで、そこに集まった人たちに、この佐藤さんが語りかけてたんですって。
 「今年もさくらは、同じように咲く」と。
 まあ、その言葉を聞いて、この監督は、この人を撮ろうと思ったそうです。
 いや〜、励まされますよね。「今年もさくらは、同じように咲く」。
 その、いのちの営みの、一番奥に何があるのか。
 目に見える、一枚の花びらだけ見ていてはいけないんです。彼は、息子さんを流されてる方なんですよ。花は散り、流れて行く。それでも、「今年も、さくらは、同じように、咲く」。
 ものごとの奥底に、永遠なるものを見たとき、人は何をするべきかが、はっきりわかってくる。・・・それを信じて、行動する。カッコいいんですよ、これが。

 いつかね、私たちも、永遠なる天での花見をしようじゃないですか。聖人たちが、みんな集まっている、本当に美しい、永遠なる花見をしようじゃないですか。
 そこに向かっての希望の日々なんだから、もう、流れ去るこの世の、どうでもいいことにとらわれるの、やめなさい。
 (毎日、いったい私は、何してるんだろう・・・)って、思っていただきたい


【 参照 】

※1:多摩教会と桜の様子
下の写真は、今年4月初めに撮った写真です。画像をクリックすると、大きくご覧いただくことができます。

多摩教会と桜
多摩教会と桜
教会を見上げて
教会を見上げて

また、これらの写真を含め、多摩教会のホームページのフォトアルバムに、教会周辺の桜を掲載しました。宜しければ、ご覧ください。>>>フォトアルバム : 「 4月:桜の季節
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※2:「『願わくは花のもとにて春死なむ』と詠んだ歌人がいましたけれど」
 「願わくは花のもとにて春死なむ その如月(きさらぎ)の望月の頃」(西行法師)
(参考)
・ 花と月をこよなく愛した漂泊の歌人あの人の人生を知ろう〜西行法師」(「文芸ジャンキー・パラダイス」)
・ 「西行」(「やまとうた」-「千人万首」)
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※3:「五日市霊園」
(参考)
・ カトリック五日市霊園
(管理)カトリック五日市霊園管理事務所 : 東京都あきる野市伊奈1 TEL:042-596-2330
    ・・・(宗教法人カトリック東京大司教区の墓地と納骨堂
(墓前教会)カトリックあきる野教会 :  カトリック東京大司教区HP ・ フェイスブック
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※4:「山上の垂訓」
・ 「英」Sermon on the Mount
キリスト教文化圏が、イエス・キリストが山上で弟子たちと群衆に語った教え(マタイによる福音書5章〜7章)に対して与えてきた伝統的な呼称。
新共同訳聖書では、「山上の説教」。
(参考)
・ 「山上の垂訓」(ウィキペディア)
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※5:「空の鳥を見なさい」、「野の花を見なさい」
・ 「空の鳥を見なさい」(マタイ福音書6章26節)
空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」
・ 「野の花を見なさい」(マタイ福音書6章28節)
「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。
野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない」
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※6:「『炉に投げ込まれる』ような命です」
・ マタイ福音書6章30節
「今日は生えていて、明日は
炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ」
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※7:「第1朗読をね、ご覧ください」
・ 本日(2014年4月6日<四旬節第5主日>)の第1朗読箇所
   エゼキエル書 37章12〜14節
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※8:「第2朗読でいうと、・・・」
・ 本日(2014年4月6日<四旬節第5主日>)の第2朗読箇所
   使徒パウロのローマの教会への手紙8章8〜11節
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※9:「日本カトリック映画賞」
「日本カトリック映画賞」は、前々年の12月から前年の11月までに日本で公開された映像作品の中から、カトリックの世界観と価値観にもっとも適う作品にSIGNIS JAPAN(カトリックメディア協議会)から贈られる賞で、今年(2014年)で38回目を数える。(「SIGNIS JAPAN」より)
(参考)
・プレスリリース「2013年度「第38回日本カトリック映画賞」決定(SIGNIS JAPAN事務局)〈pdfファイル〉
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※10:「『先祖になる』っていう映画です」
(参考)
・ 池谷薫監督最新作『先祖になる』オフィシャルサイト
・ 映画『先祖になる』公式ツイッター
・ 映画『先祖になる』最新情報Facebook
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※11:「映画賞上映会のチラシに私、映画評書いて、・・・」
チラシ(画像をクリックすると、大きくご覧いただくことができます)

『先祖になる』チラシ(表)
『先祖になる』
チラシ(表)
  
(裏)晴佐久神父の映画評掲載
(裏)晴佐久神父映画評掲載

 ※(PDFファイルで、更に大きくご覧になりたい方は、>>>こちら をクリックしてください。映画評はこちらの方がお読みになりやすいです)
【 ご案内 】
「日本カトリック映画賞」に、池谷薫監督、蓮ユニバース製作・配給の「先祖になる」(カラー118分)が決定したことを受け、5月5日(月/休日)に授賞式&上映会が行われます。
上映後には、池谷監督と晴佐久神父(カトリック多摩教会主任司祭/シグニスジャパン顧問司祭)の対談も行われます。
 ・ 授賞式&上映会 2014年5月5日(月) 休日
 ・ 12:10  開場
   13:00〜 開会・授賞式
   13:30〜15:30 上映
   15:45〜16:30 池谷薫監督・晴佐久昌英神父 対談
 ・ 場  所 : なかのZERO・小ホール  (東京都中野区中野2-9-7)
 ・ チケット : 1,000円 / 高校生以下、障がい者(介助者1名を含む)800円
 ・ チケット販売 : 聖イグナチオ教会案内所、スペースセントポール、
            サンパウロ書店(四ツ谷駅前)、高円寺教会天使の森
 ・ インターネットでのチケットお申し込みは、シグニスジャパンが対応しています。
   メール(アドレス:info@signis-japan.org)に、お名前、連絡先電話番号、チケット枚数を記入して、お申し込みください。
(当日精算)
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2014年4月6日 (日) 録音/2014年4月11日掲載
Copyright(C) 2011-2015 晴佐久昌英