暗闇の聖人

2014年10月26日年間第30主日
・第1朗読:出エジプト記(出エジプト22・20-26)
・第2朗読:使徒パウロのテサロニケの教会への手紙(一テサロニケ1・5c-10)
・福音朗読:マタイによる福音(マタイ22・34-40)

【晴佐久神父様 説教】

 いつもの、「先週こんなことがありました」って話で言うならば、まず思い浮かぶのは、先週22日、私は57歳になりました。
 とはいえ、誕生日っていうのもね、どうなんでしょう、若い頃はそれなりにうれしかったような。でも、もう57ともなると、誕生日っていってもねえ・・・っていう感じになりますよね。
 島のキャンプの仲間たちが集まって、お祝いしてくれたんですけれど、お祝いしてくれるといっても、結局買い出しに行くのは私。(笑) 豚しゃぶをやったんですけど、結局、鍋を用意するのもお皿並べるのも私なんですが。まあでも、集まってくれてやっぱりうれしかったし、本当を言えば、誕生日、もっと素直に喜んで、もっとちゃんとお祝いしなきゃならないんでしょうね。この世でひとつ年を取るってことは、すごい出来事ですからね、本質的に言えば。

 「今日」っていう日を迎えられるっていうのは、やっぱり神秘ですよね、神秘です。
 皆さん、たとえば、今ここに座ってますでしょ。当たり前の顔して座ってますけれど、もし昨日天に召されていたらですよ、今のこの体験はないわけですよね。これ、いつもの、毎週繰り返しているミサだから特別に新鮮味はないとか思うかもしれないけれど、現実にこのミサを体験しているって、かけがえのないことのはずですよね。
 今、確かに、晴佐久神父のこの話を聞いてるとか、今日、幼児洗礼の子どもたちが8人もいるわけですけど、これから(はる)かな未来を生きようとしている子どもたちを迎えてミサをしているとか、不思議な気がしませんか? 新鮮に思いませんか?
 もしかしたら、ないかもしれないのに、この「今」がある。
 だから、実はこの「今」というのは、「いい今」だろうが、「悪い今」だろうが、そんなことはどうでもいいんですよ。人は、あるものを「いい」と言い、あるものを「悪い」と言い、「こういうことは、あった方がいい」「こんなことは、ない方がいい」と勝手にいろいろ言うけれども、いずれにしても、「今」というこのひと時を経験している、そのこと自体はやっぱり素晴らしいことだし、神からのものだし、もっとそういう意味で、神を身近に感じたいです。「今」があるってことは、イコール「神はいる」ってことだし、「神はこの私を愛してる」ってことだから。善かれあしかれ、この「今」という日を与えてくださっている私の神とですね、もっと親しくしたいです。
 幼児洗礼の子どもたち、57歳になる頃、どんな人生を生きてるんでしょうねえ。私はもう、その頃はいないでしょうが。・・・いたりして。(笑)
 これから、いろんな経験しますよ、この子どもたち。いいこともある、悪いこともある。いろんな経験します。輝く日々もあるでしょうし、時に「闇」も体験します。けれど、それらは、ぜんぶ、素晴らしい経験です。「経験する」っていうことほど素晴らしいことはない。いいことでも、悪いことでも、神が「今日」という日をくださって、経験させてるんです。こんな素晴らしいことはないんですよ、この地上での「経験」ほど素晴らしいことはない
 57年生きてくると、ホンットにいろんなこと経験してきましたけれど、思い起こせばすべての経験が、恩寵(おんちょう)のうちにあったわけですし、今も確かにそのうちにあるっていう、そういう思いに胸は熱くなるわけですよ。そして迎えた、(よわい)57。さらにこうして一日、また一日と頂いて、もしかすると58はないかもしれないけれど、少なくとも、この「今日」がある。その今日がどんな今日でも、・・・たとえ闇の底にあったとしても、すべては神からのもの。だから、その経験は、必ず何か素晴らしいことに向かっているのです。

 イエスさまが、今日の福音書(※1)で、一番大事な(おきて)は、「心を尽くして、精神を尽くして、思いを尽くして」、つまり全身全霊で、「あなたの神を愛せ」って言ってます(cf.マタイ22:37)
 私は、この一節で一番肝心な所は、「あなたの」だと思うんです。
 ・・・具体的なんです。「あなたの(・ ・ ・ ・)神」。抽象的な、一般的な「神」の話じゃない。「あなたを」今日、愛している、「あなたに」今日、その体験をさせている。・・・その神を、「わたしの神」として、もっと身近に感じてください。信じてください。
 あなたは、確かに今、つらい思いをしているかもしれないけど、非常に暗い気持ちになってるかもしれないけど、あなたの(・ ・ ・ ・)神がいるんです。あなたを望んで生み、愛して育て、今、あなたの経験すべてを共にしている神がいる。
 ・・・この、「あなたの(・ ・ ・ ・)神」。これを、観念的な神としてじゃなく、リアルに経験していただきたい。
 洗礼を受ける子どもたちも、そのような「あなたの神」に、人生においてだんだん出会ってほしい。いろんな経験をしながら。それは、いい経験だけじゃない。そのことは、やっぱり親として、子どもに一番教えるべきことですね。「現実には嫌なこともある。確実にある。でも、あなたがそれを経験することは、素晴らしいことなんだよ」って。「どんな経験でも、神の恵みの内にあるんだよ」って。
 もちろん親としては、子どもたちにいい経験をしてほしいって思うのは当然でしょうけど、やっぱりキリスト者は、「十字架のような経験も含めて、神の経験だ。その意味では、悪い経験も、いい経験なんだ」という、そういう信仰が大事でしょう。「いろんなことがあるけれども、ぜんぶ神さまからのものだ、そう信じて受けとめよう」と。イヤな日もある。つらい思いをすることもある。自分の誕生日の鍋を自分で準備するような、そんなさみしい日もあるかもしれない。どんなことがあろうとも、「すべて」です。・・・すべて。たとえ真っ暗な暗闇の底にあったとしても。

 昨日の夜のミサで、この「暗闇さえも恵みの内」っていう話をしてたら、まあ、その暗闇を体験してるか、してた人なんでしょうね、ボロボロ泣いて、すすり泣きをしてる人がいました。すすり泣きって、周囲の人に伝播(でんぱ)するんですね、隣りの人ももらい泣きをしてました。そういうのって理屈じゃなくて、気持ちが通じるわけですからね、「この私も闇を体験してきたよ、暗闇の中で必死に生きてきたあなたの気持ち、分かるよ」なんて感じで、伝播するんですよ。闇の共有体験というか、昨日の夜のミサは、そんなわけでなんだかすすり泣きなミサでしたけれど、私、思いました。ああそうか、やっぱり暗闇の話が一番人を結ぶんだなって。
 いい話、きれいな話、立派な信仰の話もね、まあ、それもいいんですけれども、私たちみんな、結局は、今も暗闇抱えてるじゃないですか。「私は、昔は暗闇でしたが、今は光です」って言い切れる人は、たぶん神を知らない人です。むしろ、「私、本当は今も闇を抱えています」っていうのが真実じゃないですか。だけど、「それでも、私は今、神の恵みのうちにある」ってその闇を受けとめられたら、そのとき本当に、あなたの神になるんです。闇を抱えている「わたしの」神に。

 昨日してた暗闇の話っていうのは、マザー・テレサの話です。
 またか・・・って思わないでください。これ、今までのマザーの話とまったく違う話なんです。ぜひ皆さん、そのような、驚くべきマザー・テレサの真実を書いた新刊が出ましたので、読んでいただきたいと思います。女子パウロ会から出ました。『マザーテレサ 来て、わたしの光になりなさい!』(※2)っていうタイトルの本です。
 いつも私の本を担当している編集者が、この本の担当もしていたので、「今日できました」って、真っ先に届けてくれたんですよ。だから私、たぶん日本語版を最初に読んだ人になると思うんですけど、一気に読んじゃいました。驚きましたし、感動しました。本体価格2600円もする分厚い本なんですけど、もう、「2万6千円でも価値あります」「26万円でも価値あります」って言いたくなるような本ですよ。
 私はもう、共感のあまり、こう、何ていうんでしょう、すごく励まされたというか、なによりも、癒やされました。「そうか、マザーですらそうなら、ぼくの闇なんか、何でもないな」って思えたから。
 ニュースにもなりましたから、もうご存じの方もいると思いますけど、あのマザー・テレサが、活動を開始してから死ぬまで、心の中に暗闇を抱えてたんです。そのことが知れるようになったのは、彼女の手紙と手記が残っていたからで、それは彼女の願いもあって秘密だったんですけれど、死後次第に明らかとなり、そして1冊の本にまとまったわけです。手紙や手記中心なので、著者はなんと、マザー・テレサ本人ということになるわけです。
 これ、英語版はすでに出てたので、ニュースで聞いていたし、断片的なものも読みましたけど、心待ちにしていた本だったので、ついに出て、ホントにうれしかった。・・・心待ちにしていた本を夢中になって読むのっていいですね。「むさぼるように読んだ」とは、このことでしょう。

 本の前半は、ある意味、皆さんがよく知ってる、明るいマザー・テレサなんです。
 信仰熱い、一人のシスターとして、幸せな、満足できる修道生活をしてたんですよ。特に不満があるわけでもない。もちろん、生涯その修道生活をやってくつもりだったんです。ところが突然、イエスさまからの呼び掛けを聞いちゃうわけですよ。
 「来て、貧しい人のあばら家に、私を連れていきなさい。来て、わたしの光になりなさい」
 イエスさまからの声を聞いちゃって、そのことを黙想して祈り続けて、ホントにその呼びかけに応えようとして生き始める。その頃マザーは、とにかく燃えてたんですね。反対されようが、もっと時間をかけて識別しろと言われようが、とにかく主の呼びかけに応えるために、全力を尽くすんです。そのころのマザーは、もう誰にも止められません。そのあたりは、読んでてワクワクします。すごいですよ、そのパワーというか、燃え方というか。なにしろ、主から呼び掛けられたんですからね、もう、こんなうれしいこと、ないじゃないですか。そのころのマザーは、神をホントに身近に感じてたし、マザー自身の言葉だと、「主はご自身を完全にわたしにくださったかのような」、そんな喜び、満ち足りた思いがあった。・・・愛する神が、この私に目を留めてくださった! その至福は、さすが聖人っていうことですよね。
 当然われわれは、「ああ、さすが聖人、そういう至福直観をするんだろうな。だからこそ、ああやって、生涯、徹底して貧しい人に尽くし続けることもできたんだろうな」と、そう思うわけです。
 皆さんも、そうお思いになってたでしょ? 生涯、神と深い交わりを持ち、喜びとほほえみのうちに自らを捧げていたって。

 ところがですよ、本の後半、様相がガラリと変わります。マザーが主のみ声を聞き、実際に修道会を出て、新しい修道会をつくり、貧しい人のために働き始めて間もなく、マザーの心は闇に覆われます。ほんとに、もう、すぐ、1、2年後からです。マザーの心は暗闇に満たされちゃったんです。燃え尽き症候群なんていうレベルじゃない。完全なる暗闇に。
 彼女の手紙や手記を読むと、愕然としますよ。
 「恐ろしい喪失感、未知の暗闇、寂寥感(せきりょうかん)
 「わたしのうちに神は存在しません」
 「神はわたしを望まれない。神が実在しないというその喪失による激しい痛みを感じます」
 「光が心に入って来ません。わたしの心には信仰も愛も信頼もありません。多くの苦痛があるだけです。神はわたしのうちにあるすべてを破壊されました」
 もう、この苦しみたるや、彼女の言葉だと、「もし地獄があるとするならば、この苦しみがそれだと思います」っていう表現もあるくらいです。
 われわれも、時に暗闇を体験しますけど、この、マザーの暗闇の深さっていうのは、これはやっぱりある意味、聖人ならではの暗闇の深さなんでしょうね。恐ろしい、その闇の中で、彼女は信仰すら失います。・・・そう書いているんですよ、本人が。
 「私には信仰がないのです」
 ・・・ちょっと驚きませんか? マザー・テレサが、「私は信じていない」って。「天国。なんという空無。私の心には、天国のかけらもありません」って、そう言ってるんです。しかし、彼女はこれを、決して人に語りませんでした。ニコニコしながら貧しい人に仕え続け、だから周りの人は、マザーを見て、「神が見える」とすら言った。でも、そう言われている彼女の心の中には、暗闇しかない。
 「私に信仰がないのに、人々は私を見て、神に近寄せられると言う。これは、人を欺いていることになりませんか?」
 ・・・そんな手紙もある。
 まあ、これは彼女の秘密だったんですけれども、霊的指導司祭には正直に話しました。それがまた彼女の誠実さです。これを隠すわけにはいかない。だから全部話す。聞いた神父もびっくりしただろうと思いますよ。しかし彼女は、これは誰にも言わないでくれ、この手紙は読んだら必ず焼却してくれと、まあ、そう頼んでいる。
 だけどねえ、マザー・テレサから心の秘密をすべて書き連ねた手紙もらってね、「焼き捨ててくれ」って書いてあっても、焼き捨てます? 私だったらですね、「あ、はい、捨てます、捨てます」って言いながら、そ~っと、缶の底かなんかにしまっとくんじゃないかな。
 実際、相談を受けた神父、数名いるんですけど、あと、司教が一人。その人たちが取っといたおかげで、ほとんど残ってるんですよ、この手紙が。だからこそ、こんな本にもなるわけですけども。そうして知ることになった、マザーの心の闇の深さ。

 私、その心の闇の深さを知って、なぜ「励まされた」とか、「癒やされた」とか思ったかっていうと、まあ、ひと言で言えば、「ああそうか、私も暗闇を感じてていいんだ」と、「マザーですら暗闇を感じてるんだから、私なんかは当然なんだ」と、そう思えたから。そこに、すごく安心します。だって普通は、自分の心の暗闇は、否定したいものでしょう?「こんなことじゃだめだ」と、「まだまだ信仰が薄いからだ」と、「こんな闇を感じてるのは罪のせいだ」と、「なんとかこの闇から救われよう、もっと祈らねば」とかって、自分を責めるんじゃないですか。あるいは、「この闇は、まだ神が私を救ってくれてないからだ」とか、「神は私を愛してないからだ」とか、「神なんかいない、もうどうでもいい」とか思って、(すさ)んだ生活になったりする。
 だけど、マザーのすごいところは、そのような闇を抱えたままでも、なおも神に仕え続けてるんですよ。「それでも、わたしは神に何も拒まない」、そう言い続ける。
 私たちは、自分の闇は嫌なものだと思うし、こんな闇を抱えている自分は、みんなから落ちこぼれてるんだ、こんな自分じゃだめなんだ、そう思う。もう信じたって無駄だ、暗闇を抱えたままで生きていくことなんかできない、意味がない、そう思う。・・・そうじゃないってことなんですよ。

 多摩教会に来た方で、前の教会に居づらくって来たっていう方がいましたけど、なんで居づらかったかっていうと、「み〜んなニコニコして元気いっぱいだったから」って言った人がいるんですよね。で、ただ「元気いっぱい」ならいいんですけど、ちょっと暗い顔してると、「だめよ、そんな暗い様子じゃ。洗礼受けたんだから、イエスさまに救っていただいたんだから、さあもっとニコニコして!」みたいな感じになると、・・・ちょっと居づらいんですよね。
 その点、多摩教会はなんでもありですから、どうぞあの、真っ暗でもいいですよ。メソメソ系でいいんじゃないですか?
 私、昨日のミサでね、なんか、メソメソしている人たち見て思ったんですけど、やっぱり、泣ける教会がいいですよね。泣きながらも、「暗闇抱えたまんまでだいじょうぶ」って言える教会。闇を抱えたままでも、司祭として働けるってとこに私は励まされるし、そのような教会を、神さま、望んでおられるはず。だって、結局は、闇も神の御手(みて)のうちなんだから。
 「あなたの神を愛せ」っていうんだったら、「あなたの暗闇も愛せ」ってことじゃないですか?

 マザーは、この苦しみの中で、ある一人の司祭の指導を受けます。
 苦しみ始めて10年以上たった時ですけど、その司祭は、その闇を聞いてですね、
 「マザー、もうこれは、人間的処方はありません。暗闇の中でなおも神を求める叫び、それがすべてです。ただ一つの答えは、神に全面的に(ゆだ)ねる。これしかないでしょう」というようなことを言います。
 ・・・つまり、もう、こうなったら、そのすべてをですね、そのまま神に委ねちゃう。「暗闇から救われようとするな」っていうことなんです。「神よ、なぜ」とかね、「この暗闇を取り去ってください」ではなくて、神を求め、神を受け入れる。すなわち、その暗闇自体を受け入れる。
 その司祭は言います、「マザー、イエスとの一致のうちに、暗闇をすべて受け入れるしかない」。
 まあ、そのような指導をその司祭から受けて、マザーはそれを完全に受け入れます。その司祭に宛てた手紙が載ってますが、感動的な手紙ですよ。
 「神父さま、ありがとうございます。私は、この11年をとおして初めて、自分の暗闇を愛するようになりました。この暗闇は、イエスが地上で味わった暗闇と痛みの一部分だと信じます。イエスはもはやご自分では苦しむことができないので、地上にいる私のうちで苦しむことを望んでおられることに深い喜びを、今日ほんとうに感じました。今まで以上に、神に自分を委ねます」と。
 ・・・なんと気高い!
 もう、だから、「暗闇のままでいいです」って言ってるんです。救いの喜びを感じて、もう暗闇がなくなったってわけじゃないんですよ。彼女は生涯、自分の孤独とか、心の痛みとか、見捨てられてる感っていうものを抱えながら、もう「そのまんま」で生き続けた。奉仕し続けた。
 今、そういう苦しみ、闇を抱えている人に、「そのまんまであれ」って言うのは(こく)に聞こえるかもしれないけれど、じゃあ、逆に、誰が暗闇なしで生きているか。
 私たちは、暗闇仲間になりましょうよ。私も、暗闇な神父になりますよ。私も、爆弾発言じゃないですけど、マザーと一緒で、信仰、ないんですよね。まあ、何を「信仰」というかっていう話ですけれども、「ああ、自分に信仰なんかあるんだろうか」って思うことが多々ある。でもそれは、皆さんもそうでしょう? 皆さん、信仰者のまねは非常に上手だけれど、さて、自分に信仰があるかと胸に手を当てて「ある」と言い切れる人がいるのか。
 「信仰」なんていうのものは、たぶん、「私の信仰」なんていうものじゃなく、「私の神が、おられる」、それだけなんだと思う。「私の神が、私を生かしている」、それだけなんだと思う。そこにおいては、信仰があるだの、ないだのは、もうどうでもいいんだと思う。
 マザー・テレサの、その本の中にですね、「私は幼い頃からご聖体のイエスに対して非常に温かい愛を持っていましたが、今はそれもなくなりました」とまで書いてあるんですよ。これなんか、普通に考えたら、信者のつまずきになるじゃないですか。だけど、彼女は毎朝必ずご聖体いただいているんですよ。そして、「イエスの前で何も感じませんが、それでも聖体拝領はどんなことがあっても欠かしません」と言ってる。これこそ秘跡の本質でしょう。
 そう言われてみると、皆さん、ハタと思い当たるんじゃないですか? 熱〜い思いで、感動してご聖体、いただいてます? なんだかよくわからないままに、ただ並んでパクッと食べて席に戻って、ミサ終わったころには、「あら私、今日、ご聖体いただいたかしら」とか。(笑) たとえそんなんでも、こんなんでも、ぜ〜んぜん構わないって話です。神はあなたの闇も愛しているから。その愛のしるしを、神さまは、イエス・キリストの闇によって表してくださったし、それに私たちはすがりつきながら、闇のまんまで生きている。「闇、だいじょうぶ!」ってことなんです。

 マザーはやがて、こんなことを言います。
 「もしわたしが聖人になるとしたら、必ず『暗闇の聖人』と呼ばれるでしょう。なぜなら、天国を留守にして、闇に住む人たちの心に、火を灯して歩くに違いありませんから」
 マザー、今、天国を留守にして、皆さんの闇に、火を灯して歩いてるんです。こんな説教ひとつだって、そんなマザーの働きなんじゃないでしょうか。
 「暗闇の聖人」の列聖式、ホントに楽しみです。私も「暗闇の神父」として生きていこう。皆さんも「暗闇の信者」として生きていけばいい。何の問題もない。・・・イエスが「暗闇の救い主」だったんだから。

 今日、幼児洗礼を受ける子どもたちのためにもね、「闇なんかないように」と願うのが普通なんでしょうけれども、しかし、もっと願うべきは、たとえ闇の底にあっても、神の恵みの中にあると信じて生きていく、そんな聖なる道、これを願います。
 子どもたち、闇を恐れるな!
 今日、洗礼を受け、マザーに火を灯してもらいましょう。


【 参照 】

※1:「今日の福音書」
本日(2014年10月26日〈年間第30主日〉)の福音朗読箇所
「マタイによる福音書」
  22章34〜40節
   〈小見出し:「最も重要な掟(おきて)」〉(小見出しは、新共同訳聖書による)
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※2:『マザーテレサ 来て、わたしの光になりなさい!』
 マザー書簡集
著者: マザー・テレサ
編集・解説: ブライアン・コロディエチュック
訳者: 里見 貞代
単行本: 四六版 並製640ページ
価格: 2,808円(税込み)
出版: 女子パウロ会
初版発行:2014年11月30日
“Mother Teresa: Come Be My Light: The Private Writings of the Saint of Calcutta”(2007) の日本語翻訳版
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 「すでに広く知られたマザーテレサについて全面的再考を促す、ある意味で没後の自叙伝ともいえる珍しい作品。それは神と信仰、優れた業績を生んだ原動力、神と人間の愛の強靭さを問い直させる作品でもある。
 それは整然とした意図的な形によるのではなく、明るい陽光のもとで読者にその真実性を確信させるのでもなく、苦悩のどん底にあって無我夢中で書かれた手記の収集である。それはまた、現代的聖人の想像を絶するほどの感動的、真の内的生活から生まれた著作である」 (同本の帯に記された、『タイム誌』の引用より)
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詳細は、女子パウロ会のオンラインショップ、Shop Pauline のサイトをご覧ください。目次なども記載されています。

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2014年10月26日 (日) 録音/2014年11月1日掲載
Copyright(C) 晴佐久昌英