聖堂の鍵、開いています

【カトリック上野教会】

2016年10月2日 年間第27主日
・ 第1朗読:ハバククの預言:(ハバクク1・2-3、2・2-4)
・ 第2朗読:使徒パウロのテモテへの手紙(二テモテ1・6-8、13-14)
・ 福音朗読:ルカによる福音(ルカ17・5-10)

【晴佐久神父様 説教】

 ミサが始まるとき、ふと気づいたんですけれど、10月ごろの日の光は、この上野の聖堂に差し込むとき、こんな感じなんだな~と。皆さんは見慣れてるでしょうけれど、私は4月に来て、春の日、夏の日は見てきましたが、10月ごろの10時のミサは、こんなふうに日が当たって、こんなふうに聖堂内が明るくなるんですね。「ああ、いいなあ・・・」と思って、この祭壇に進んでまいりました。
 9月は、ず~っと雨でしたもんね。なんだか暗~い空の日が多かったので、特別にそう感じるのかもしれない。ここの聖堂のステンドグラスは、黄色が主体ですから、・・・黄色というか、黄金色ですね、だから余計にこう、秋の光というか、神さまの栄光が、われわれの暗がりに差し込んでくるような気持ちになります。
 神さまの栄光が現れる。
 われわれの暗い現実に、光が差し込んでくる。そうすると私たちは、
 「まだここは暗いけれど、向こうには光が差している。あっちに向かっていけば、私たちは明るくなれるんだ。さあ、行こう。・・・希望がある!」
 ・・・そんな思いを持つ。
 まあ、もとより、聖堂は、そういうことを信じて体験する場所ですから、当然こういう造りにもなってるわけですよね。ステンドグラスをはめて、光が差し込むようになっている。それはでも、とてもシンボリックです。つまり、その先は、はっきりとは見えない。ステンドグラスですから、その向こうは直接は見えない。でも確かに、その向こうが明るいことは分かる。
 私たちにはまだ、自分の救いの完成のときがどういうものであるか分からない。分からないけれども、光はもう差し込んできているし、うすうす、私たちはその明かりの中で、「私は、必ずあの光の中に入っていけるんだ」という希望を持ち始める。・・・これが「信仰」っていうことでしょうねえ。
 いや、「うすうす」なんていうもんじゃないね。イエスさまに言わせれば、「からし種一粒ほど」(ルカ17:6)でも信じれば、もうそこに、とてつもない大きな出来事が起こる(※1)。われわれも、「うすうす」どころじゃない、「はっきりと」、今日、「信じる」っていうことを始めるように促されてるんだと思いますよ。
・・・「信じる」ってこと。

 イエスさまが弟子たちから、「信仰を増してください」って言われたときに、「からし種一粒ほどでもあれば、もうそれで十分だ」っていうようなことを答えてますね (cf.ルカ17:5~6) 。面白い答えです。これ、何を言いたいかというと、弟子たちは、まあ、「自分たちは信仰が薄い」と思ったんでしょう。実際、なんだか誘惑に負けてみたり、試練でくじけちゃったり、時には主を疑ったり・・・と、まあ、フラフラ揺れてたんでしょう。だから、「もっと強い信仰をください!」って思う。それは当然ですね。私たちも、そうなんじゃないですか? 「もっと信仰を増してください」って。
 で、主にそう願ったら、信仰なんて、「からし種一粒ほど」(cf.ルカ17:6)でいい、と。
 「からし種」って、ホンットに小っちゃいですよ(※2)。細かく挽いたコーヒーの粉くらい。フッと吹いたらぜんぶ飛んじゃうくらい。そんな種なんですけど、その、ほんの一粒でもあれば、「もうそれで十分だ」と。
 「もっと増してくれ」って言うけど、イエスさまに言わせれば、信仰って、だんだん増していくようなものじゃなくって、「信じるか信じないか、どっちかなんだ」と。だから、「信じようよ」と。・・・イエスさまは、そうおっしゃってるんです。
 信仰指数なんてものでもあってね、「私は5まできました」「私は10まで増やしました」「晴佐久神父は、50もあるような顔してるけど、実は2か3なんだよね」とか、そんな指数でもあれば、増えたとか減ったとか言えるかもしれないけど、そんなのないんですよ。・・・「100」か「ゼロ」なんですよ、信仰って。信じたとき、明るくなれる。疑うと、闇に覆われる。そのどっちかなんですよ。
 イエスさまに言わせれば、「信仰なんて、からし種一粒でもあれば、もう、あなたは安心できる。救われる。喜びに満たされますよ」と。「私たちには、その信仰を、イエスさまがくださってるんだ」と、そんな思いで、信仰を新たにしましょうよ。もう、信じちゃいましょうよ。
 たとえばバスに乗るんでも、「このバスは、目的地まで安全に到着する」と、そう信じて乗るわけですよね。これ、別に疑ったっていいですよ。「この運転手さん、ちょっとアヤシイな。どうも暗い顔をしてるし、疲れてるみたいだし、もしかして、居眠り運転するかもしれない。乗るの止めよう」。・・・別にそれでもいい。それは「疑った」ってことですよね。信じないで、恐れたってことです。乗るときは、たとえ無意識的であっても、とりあえず信じて乗るわけでしょ。
 これ、「半分だけ信じる」ってこと、できないですよ。半分信じて、半分疑って、じゃあ半分乗ろうって、バスに片足だけ乗ったら、怪我しますよ。それが一番危ない。乗るか乗らないかなんです。信じるんだったら、ぜんぶ信じて乗らないと。そうでないと、「バスに乗った」と言えない。
 ぼくらの毎日、いろんな怖いことがあるし、信じられないようなことばかりで、もう疑い慣れしちゃってますけれど、そんな中で、「わたしを信じなさい!」っていうイエスさまが来られて、「神さまは、あなたを必ず救う」と宣言なさって、「わたしがみんなを天国に連れてこう」とまで言ってくださったので、私たちは、からし種一粒でもいい、「信じます!」と申し上げ、光差す方角を仰ぎ見ながら、一歩、歩き出すのです。・・・もちろん、怖いですよ。怖いこと、いっぱいあります。でも、「信じる」っていうのは、その怖さに打ち勝つ唯一の道です。他の道はあり得ません。その怖さを打ち消そうと、どれだけデータを集めても、どれだけ訓練しても、それは、「怖いから」やってる以上、どこまでも怖さは残る。当たり前でしょ? 怖くてやってるんだから。
 でも、本当に信じられるものを、心の中にちゃんと入れて、「信じます」と言うときに、そこに、神の国が始まる。
 世の中では、変な人たちが変な教えを広めて、「これを信じろ」「あれを信じるな」って言ってますけれど、私たちは、世を超えたイエスさまに出会えた者ですから、この「信仰」っていうやつを大切にいたします。そして、なお疑って、つらい思いをしている人たちに、「ここに光があるよ!」「一緒に天の国を仰ぎ見よう!」「今は、確かにつらい。でも、それはいつまでも続くものじゃない。神さまの世界に向かう途中なんだ」と、そういう信仰の世界に皆さんをお招きして、この聖堂に今の2倍も3倍もの人たちを集めて、一緒に輝きを仰ぎ見ようじゃないですか。

 着任以来、「この教会を、人が多く集まる教会にしようよ」と呼びかけてまいりましたけれども、先週の工事で、車が止めやすくなりました。ご覧になって、「いいな」と思いましたでしょ。アスファルトで舗装しました。足元が砂利で、お年寄りには歩きにくかったんですよね、ちょっとの雨ですぐに水が溜まってましたし。私が来た時は、駐車場を近隣に定期で貸し出していて、訪問してきた人が止める所がなかったんですが、先日、契約を解除して、ぜんぶ開放することにしました。そして、その工事に合わせて、1台分余計に車が止められるように工夫もしました。
 「教会」って、神の国のしるしなんです。いろんなことで苦しんでいる、いろんな人が来て、試練の中にありながらも信じる世界に触れ、希望の光を仰ぎ見るとき、「ああ、ここに教会があってよかったな。ここに天国の入り口が開いていた」と、そういう喜びに満たされる。そのようなしるしになっていないと、「教会」とは呼べない。
 上野教会の聖堂の扉は、日中もず~っと閉まっておりましたので、折に触れて開けましょうよと呼びかけてまいりましたが、ついに先週から、「日中は開けておくようにしましょう」という話が出始めました。・・・きっかけになったのは、先週の出来事です。先週の浅草のお説教ではお話ししたことですけど。

 ふだん、この聖堂には鍵が掛かっていますけど、その日、鍵を閉め忘れてたんですね。私が千駄木の病院に、病床訪問でご聖体をお届けするために、ご聖櫃(せいひつ)(※3)からご聖体を取り出そうと、聖堂に入ってきたんです。ただ、司祭館側から入ったので、聖堂の入り口の鍵が開いてることを知らなかったわけです。
 もちろん、だれもいないと思ってますけど、実際には、一番後ろのベンチに40歳くらいの女性が一人、寝てたんですね、横になって。私が入って行ったら、その方がガバッと起き上がって、「すいません!」って言ったんですよ。私、誰もいないと思ってたから、ホントにビックリした。いきなり目の前に人が起き上がったんで、「うわぁぁぁ!でた~っ!」て感じで、ホントにビックリしました。びっくりして、
 「どうなさったんですか?」って言ったら、
 「いろいろあって、いる所がなくって、ここで休んでおります」と。
 「鍵、開いてました?」って聞いたら、
 「開いてました」って。・・・たまたま閉め忘れてたんですね。
 「どうぞゆっくりお休みになってください。ほとんどだれも来ませんから、安心して横になっててくださいよ」って言ったら、
 「ありがとうございます」って、また横になった。
 私、病院から帰ってきてから、その彼女からゆっくりお話を伺いました。
 小さいころから親に恵まれず、家族に恵まれず、人間不信のまま大人になり、今は一人で都内でアパート暮らしをしている。だけど、上階の人があまりにうるさいんですって。深夜もね、掃除したり、洗濯したり。まあ、規約違反なんですよね。うるさくて眠れない。それでなくても、対人恐怖があるから、人のことが気になっちゃう性格なわけで、大家さんを通してお願いしたわけですね、「静かにしてほしい」って。そうするとこう、いわゆる逆恨みってやつですかね、かえっていろんな嫌がらせをするようになった。下に向けておっきな音で、スピーカーで何か流したりとかね。それでもう、ホントにたまらなくなった。
 警察に訴えたら、警察もその音を確認して、厳重注意ってことになったんだけど、それがまた逆ギレっていうんですかね、火に油を注ぐ結果となり、ますますエスカレートして、怖くて眠れなくて、精神的にも参っちゃった。で、「もういられない!」っていうことになって、いよいよ引っ越すことにした。でも、そう簡単に行く先が見つからず、とりあえず、浅草のカプセルホテルで、毎日寝てるんですって。
 だけど、カプセルホテルも、やっぱり出入りがあって熟睡できず、心休まることなく、眠ることもできずで、もうフラッフラ。たまらず、「どこか安心できる静かな所に行きたい」と思って、浅草から近くの教会に来た。そうしたら扉が開いていて、中はなんと静かで穏やかなことか。ようやく、気持ちが落ち着いた。・・・っていうところだって言うんです。
 「ここに和室もありますけど」って言ったら、
 「いえ、もうすぐカプセルホテルが開きますから、もう、帰ります」って言うんですよ。だから、
 「夜には入門講座も始まりますからもうしばらくいてください。お茶もお菓子も出ますよ」(笑)
 「それじゃあ、入門講座、出ていきます」
 ってことで、講座に出てくださったんですよ。そして、つらかった話をみんなにも話したりして、みんなも「大変ね」っていうことにもなり、でも、まあ、そこは入門講座ですから、「神さまは必ず救ってくださる」と、そういう希望をお話しして、彼女はそれを聴いて、すごく安心なさったようです。
 そういう出来事なんですけど、問題はそのあとです。
 その彼女、お帰りになるときに、「明日もお御堂(みどう)で過ごしていいですか?」って言ったんです。
 その瞬間、私、入門係をやってる上野の信者さんたちと、顔を見合わせたんですよね、だって、日中は鍵がかかってるわけですから。顔を見合わせて、目で会話したわけです。「・・・どうする? この人、明日も来るって言ってるよ」・・・「鍵閉まってるよ・・・」
 すると、ある方が、「じゃあ、明日の朝は、私が開けます」と、そう言ってくださったんですよ。「朝教会に来て、開けます」と。
 夜はね、夜回りをしてくださってる信者さんがいて、いつもちゃんと熱心に見てくださってるんで、ちゃんと鍵を掛けてもらえる。
 ですから、その方に、「どうぞ、どうぞ。明日もいらしてください、聖堂の鍵、開いてます」って言えたんです。
 おかげでその方、次の日も来られましたよ。聖堂の二階で休んでたんですけど、こうおっしゃいました。
 「昨日の夜、カプセルホテルで、今までになく、初めてのようにぐっすり眠れました。私、信頼できる人たちに会って、受け入れてもらって、安心したんだと思います」
 「よかったねえ。またいつでもいらっしゃい」って私、申し上げました。
 そんな出来事があったので、みんなで話し合ってくれたんですね。次の日曜日には、教会委員長さんが、「神父さま、教会の聖堂の扉、日中は開けておくことにいたしました」と、そう言ってくださってですね、私はうれしかったです。

 ・・・開けましょうよ。
 いろいろ、大変なことはあるかもしれないけれど、ここは、神さまと出会う場。「恐れる」「疑う」「守る」ではなくて、「信じる」「委ねる」「分け与える」と、そんな思いで。
 まあ、教皇さまも、「教会の門を開けろ、開けろ」って、「閉じたまま死んでしまう教会は嫌いだ」って、もう熱心におっしゃっていることもありますし(※4)、上野教会のみんなでね、工夫して、日中、・・・「日中」でいいですから、いつも鍵が開いていて、そこで初めて安心できたという人が神さまに出会える、そんな恵みの場にしていきましょうよ。
 いろいろ試練はあるけれども、必ず、恵みの日が来る。私たちは、「あんな光に満ちた世界に向かってるんだ」、そんな思いをね、闇の中で眠れずに、恐れて苦しんでいる人たちに、ぜひ伝えてあげたい。「教会は、そういう所だ。『信じる』っていうことを始める場所だ」と。

 第1朗読(※5)で言っておりました。
 「たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず(・ ・ )来る。遅れることはない。」 (ハバクク1:3/強調引用者)
 「遅くなっても、待っておれ」と言いながら、「遅れることはない」って言ってるんですよね。おもしろい言い方ですけど、私たちは、「ああ、もう、私たちの救いは来ないんじゃないか」とか恐れているときに、「ああ、もう来始めてるんだ!」という信仰を新たにしよう。・・・そういう言い方ですね。

 今日、いろいろお悩みの方、いろいろ恐れていることを抱えている方、おられるでしょうけれど、新しい季節、「信じる」っていうことを始めましょう。「からし種一粒」でもいいんです。
 ご一緒に、「信じます!」と宣言いたしましょう。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます。)

※1:「イエスさまに言わせれば、『からし種一粒ほど』でも信じれば、もうそこに、とてつもない大きな出来事が起こる」
この日、2016年10月2日(年間第27主日)の福音朗読で読まれた内容から。
 この日の福音朗読は、以下の箇所が読まれた。
  ルカによる福音書17章5~10節
   〈小見出し:「赦し、信仰、奉仕」17章1~10節から抜粋〉
===(聖書参照箇所)===(ルカ17:5~6)
「使徒たちが、『わたしどもの信仰を増してください』と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」 (ルカ17:5~6/強調・赤字引用者)
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※2:「『からし種』って、ホンットに小っちゃいですよ」
 「からし種」は、以下にも見られるように、それがどんなに小さなものかを表現するために用いられる。
***
 ・
天の国はからし種
に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」(マタイ13:31-32/強調・赤字引用者)
***
 ・
「はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」(マタイ17:20/強調・赤字引用者)
***
 ・
神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」(マルコ4:30-32/強調・赤字引用者)
***
 ・
神の国は何に似ているか。何にたとえようか。 それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」 (ルカ13:19/強調・赤字引用者)
===============
☆ 「からし種」を植物で限定するには諸説ある。
① 
シロガラシ〔アブラナ科シロガラシ属(Sinapis)/種子をマスタードの原料などにする〕、またはクロガラシ〔アブラナ科アブラナ属(Brassica)/種子を香辛料として用いる〕とする説
 双方とも、確かに、種子は小さいが、シロガラシは成長しても1メートル。「枝に空の鳥が巣を作る」 (ルカ13:19) ほど大きくはならない。クロガラシは2メートル以上になるものもあり、先史時代の遺跡からも発見されているため、このクロガラシの種を、聖書の「からし種」とする説が有力とされている。
  左の画像はそれぞれクリックすると拡大します。
 シロガラシとクロガラシの種と、その大きさの感じです。
② 
キダチタバコ〔ナス科タバコ属〕とする説
 種子は、シロガラシやクロガラシの100分の1よりまだ小さく、木も3~7メートルほどに大きくなり、鳥も巣を作れそうで、これが「からし種」という説もある。ただ、南米原産で、イエスの時代には、まだなかったのではないかと言われている。
 左の画像は、キダチタバコの花。
⇒ 種の画像は、こちら(「からし種」/ブログ「詩の友支援」)に掲載がありますので、ご参照ください。
(参考)
・ 「からし種」(詩の友支援
・ 「からし種」「シロガラシ」「クロガラシ」/(ウィキペディア)
・ 「聖書図鑑(からし種)」(バイブル博士の聖書図鑑
・ 「キダチタバコ/からし」(聖書植物園
・ 「キダチタバコ」(GKZ 植物辞典)    他
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※3:「ご聖櫃(せいひつ)」
◎聖櫃 (ラテン語:tabernaculum/英語:tabernacle)
 原義は、「小屋、天幕」。「聖櫃」とも。
 元は、モーセが神から授かった十戒を刻んだ石板を納めた「契約の箱」のことを指している。
 カトリック教会では、ミサで聖別されたパンを「聖体」といい、復活の主キリストが現存すると信じられ、祈りと礼拝の対象になっているが、その「聖体」をチボリウム(ラテン語:ciborium)と呼ばれる容器に入れ、さらに「聖櫃」という箱型の容器に入れて安置している。
 聖櫃は、「人間の間に住まわれる神の家」であり、旧約のマンナの象徴であり、人々の糧である聖なるパンを安置する「新約の箱舟」ともいえる。
 今日に至るまでカトリック教会では、通常は聖堂の中央部に聖櫃を置き、絶えず聖体を安置する習慣があり、聖体が安置されているしるしに聖体ランプと呼ばれるともし火が灯され、信徒が聖堂を訪れ、聖体の前で祈りを捧げることができるようになっている。
 
(参考)
・ 「聖体」「タベルナクルム」(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008年)
・ 「聖櫃(tabernacle)」(キリスト教マメ知識ラウダーテ
・ 「聖体」(ウィキペディア) 他
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※4:「教皇さまも、『教会の門を開けろ、開けろ』って、『閉じたまま死んでしまう教会は嫌いだ』って、もう熱心におっしゃっていることもありますし」(含:既出)
 教皇フランシスコは、絶えず、教会がいつも外に向かって開かれるようにと呼びかけている。
(例)
「人が受け入れられ、愛され、ゆるされ、励まされていると感じることができるために、教会は門を開いていなければなりません。すべての人が入れるためです。わたしたちも門から出て、福音を告げ知らせなければなりません」(赤字引用者)
  ・・・(「教皇フランシスコの12回目の一般謁見演説」 カトリック中央協議会 2013/6/1

***
・ 「
福音に真に従う教会は、いつも扉を開いている、もてなしの家のようになるに違いありません。閉ざされた教会や小教区、教会組織のことを、教会と呼んではいけません。博物館とでも呼ぶべきです」(赤字引用者)
  ・・・(「教皇フランシスコ、2015年9月9日の一般謁見演説(家庭:26.共同体)」 カトリック中央協議会 2015/9/18

***
(他、参考)
・ 「家庭とキリスト共同体の絆を考察、教皇一般謁見」(2015/9/9 15:01「バチカン放送局」)
・ 「教会、排他的なら『博物館』」(2015/9/18 「カトリック新聞オンライン」)
・ 「教会と呼んではいけません」(晴佐久神父:『多摩カトリックニューズ』 2015年9月号‐主任司祭巻頭言)
・ 「教会と呼んではいけません」(「福音の村」:2015年9月20日説教)
・ 「教皇フランシスコ、2015年11月18日の一般謁見演説 (家庭:33.歓待の扉)」(カトリック中央協議会)
・ 「『受け入れ教』をやっていきましょう」(「福音の村」:2015年12月25日説教) など
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※5:「第1朗読」
この日の第1朗読箇所は、以下のとおり。
  旧約聖書続編:「ハバククの預言」1章2~3節、2章2~4節。
   〈小見出し:「預言者の嘆き」1章2~4節から抜粋、「主の答え」2章1~20節から抜粋〉
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2016年10月2日(日) 録音/2016年10月21日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英