キリシタンの信仰に学べ

2014年2月2日主の奉献
・第1朗読:マラキの預言(マラキ3・1-4)
・第2朗読:ヘブライ人への手紙(ヘブライ2・14-18)
・福音朗読:ルカによる福音(ルカ2・22-40)

【晴佐久神父様 説教】

 ご心配をお掛けいたしました歯の痛みも、先週2度、歯医者に行き、だいぶ治まってまいりました。・・・って、別に心配もしてなかったですか?(笑)
 先週、こうやって説教してる時も、すっごく痛かったんですよ。親指と人差し指の間をギュ―ッと押すと痛みが取れるって教えてくれた人がいたんで、こうやって押さえながらしゃべってたんです。ギュ―ッて。
 あのつらさったらないですけど、あのときお話したとおり、「この痛みを、洗礼志願者のために捧げます」って祈りましたし、「特に受洗を迷っている人のために捧げます。迷ってる人のために痛みをこらえてます」って、その本人を見ながら話したら、その人が顔をちょっとこう、伏せたって話、(笑)先週しましたけど、その方が、その後、「もう一度面談してください」って言ってきたんですよ。さあ、今度は何ていうか、皆さん、お祈りしてくださいね。「やっぱり洗礼、受けます!」って、言ってくれるんじゃないかと期待してるんですけれども。

 洗礼の恵みがどれほど素晴らしいかっていうこと、本人は知らない。だけど、授ける方は知ってるっていう、何ていうか、ギャップがあるんですよね。こ〜んな素晴らしいものは他にない、それを授ける側は知っている。しかし、受ける側は、まだよくわかっていない。もどかしいです。それをちゃんと伝えるのが私の仕事ですから、まあ、怠慢と言われれば仕方ありませんけど、どうにも力不足で、皆さんを迷わせてしまって。  
 今日、改めて、これがどれほど素晴らしいかっていうことをお話ししたいです・・・洗礼の恵み。
 今日の福音書だって、これ、イエスさまが幼児洗礼を受けるような話ですよね。(※1a) 赤ちゃんが神殿に奉献される、お宮参りっていうことですから。もちろんイエスは後に洗者ヨハネから洗礼を受けるわけですけど(※2)、ある意味、こうして生まれてすぐに尊い教えが与えられ、その中で育てられていくという意味では、このイエスの奉献は、信仰が世代から世代へちゃんと伝わっていく、幼児洗礼のような現場ですね。洗礼は、個人的なことじゃなくて、大きな救いの流れの中での出来事ですから。
 シメオンは、信じていたこと、 聖霊に示されたことがちゃんと実現して、これからホントに真の救いの歴史が始まるんだっていうことを目の当たりにして、「これでもう、私は去っていける」って言います。信仰がちゃんと次の世代に実現していくっていうことほど、われわれにとって素晴らしいことはないし、そのシンボルが「洗礼」なんです
よ。

 先週、「神父がミサに少し遅れても待っておれ」とか言って、長崎の隠れキリシタンが200年以上ミサを待っていた話をしましたけど、(※3a) そうしたらですね、たまたまおととい、長崎県東京事務所(※4)って所の次長さんっていう人が、「ぜひお話したい」って教会に来られて、「長崎の教会群を世界遺産にしたい。そのために活動しているんで、ぜひ教会でも応援してくれ」ということでした。「教会でも」って、ホントはこっちがお願いする側ですけどね。当然応援したいと思いますが。
 ただですね、その方の説明をいろいろ聞いていて、 (あっ!そうか)って気づいたことがある。それは、これが単なる建物の話じゃないってことです。
 「長崎の教会群を世界遺産にする」っていう話は、まあ、長崎付近に古い教会がいっぱいありますでしょ。平戸と、外海(そとめ)と、島原と、天草(あまくさ)と、五島(ごとう)。特にその5地区の13カ所を、世界遺産に登録したいっていうことです。(※5) そこには、古くて美しい、建造物として価値のある教会が建ってるわけで、それを大切な遺産として保存しましょう・・・ってまあ、そんな話だろうと思ってたら、実は建物そのものの価値ではなく、それらの遺産を「隠れキリシタン」という宗教史上例のない歴史的な出来事のシンボルとして、「文化遺産」として登録するって話なんです。
 つまり、あれと一緒ですよ、富士山と。富士山も、美しくて立派なお山だから登録しようと思って申請したら「それじゃ駄目だ」って言われたんでしょ? ゴミが多いとか、自然破壊が進んでるとかで。それで、「あの山は日本人の山岳信仰のシンボルである」、「多くの文化に影響を与えた日本人の心のよすがである」っていうことで、文化遺産として申請したら、今度は登録になって、世界遺産になったわけですよね。あれとおんなじなんですよ。
 立派な建物だからっていう以前に、「隠れキリシタンのシンボルとして」っていう、つまり、「私たち日本のカトリック教会の原点でもある信仰のシンボルを、世界遺産にいたしましょう」っていう、そういう話なんですよ。・・・(これは、ちょっと、応援しなきゃね)って思いました。
 さっきもお話ししたとおり、先週、「隠れキリシタンたちは200年以上ミサを待ってたんだから、3分、5分、ミサ遅れても文句言うな」みたいなことを冗談めかして言いましたけど、(※3b) その後で、ある方から、「じゃあ、その間、ミサはどうしてたんですか?」って聞かれたんですよ。「200年以上ミサがなかったこともあるんだから、5分くらい」って言ってるのに、「その間ミサ、どうしてたんですか?」って聞き直すなんて、つまり隠れキリシタンについてのリアリティがないんですね。
 ああ、やっぱり、特に新しい信者さんなんかだと、よくわかってない方も多いのかなって、思わされました。

 ということで、ざっとおさらいするなら、まずは「以後よく(1549)広まるキリスト教」から始まる話ですよ。1549年にキリスト教伝来。そして、「広い世に向け(1614)禁教令」ですから、1614年にはもう迫害です。
 つまり、ザビエルが来てキリスト教を伝えてから、たった65年で、もう禁教令なんですよ。その間に、すでに何十万というキリスト者が誕生しているでしょう? それだけ魅力があったし、日本人は新しい本物をスッと受け入れる力を持ってるんですね。いっぱい受洗しました。
 でも、「広い柵して(1639)鎖国令」ですから、1639年には、宣教師が全追放です。その5年後、1644年に最後の(・・・)神父が、殉教。(※6) これで、日本の地に司祭はひとりもいなくなった。1644年です。
 だからその後、「ミサはどうしてたんですか?」って、ミサはないんです。
 ご存じのとおり、彼らはひそかに隠れてですね、(へき)地に、あるいは離島に渡って、そ〜っと山奥のような所で、信仰を守り続けたんですよ。それは大変な苦難だった。でも、何世代にも渡って洗礼を授け続けた。洗礼を受けた子どもが大きくなって子どもを産んだら、また洗礼を授けて、その子どもが大きくなって子どもを産んだら、また洗礼を授けて、・・・と何代にも渡って。
 でも、その間、ミサはなかったんですよ。ただの一度も。
 考えてみてください。ある隠れキリシタンが、生まれて幼児洗礼を受けて、80歳で亡くなったとしよう。その人、一生に一度もミサに与かってないんです。1枚もご聖体を頂いてないんです。・・・こうして皆さんを見ながら、「あんたたち、もう少しありがたくミサに(あずか)りなさいよ」って、(笑)言いたくなりますよね。だって、彼らは「一生に一度も」ですよ、しかも何世代にも渡って。
 ところが、そこにまた神父がやって来るわけですよ。
 「いやあご苦労(1859)、国開く」、1859年ですね、開国して外国人居留地ができて、神父がやってきて、居留地の中に大浦天主堂が建ったんです。(※7) ついに。あの美しい聖堂が建ちました。これは、1865年に献堂式です。
 多摩教会はコルベ神父に捧げられた「聖コルベ教会」ですけど、 大浦天主堂は誰に捧げられたかわかりますか? ・・・当然、二十六聖人に捧げられました。
 というのは、この献堂式の3年前に、ローマで二十六聖人の列聖式があったんです。1862年です。(※8)
 その二十六聖人の日本、しかも長崎に、プティジャン神父さん(※9)が、宣教再開第一号としてやって来て、大浦天主堂を建てたわけですから、当然、この地で殉教した二十六聖人に捧げられた教会として、その聖堂を建てた。その献堂式のひと月後の3月17日に、何人かの日本人がプティジャン神父さんのとこに恐る恐るやって来て、突然こう聞きました。
 「サンタ・マリアのご像はどこ?」
 (なんでこの人たち 「サンタ・マリアのご像」を知ってるんだろう?)と、プティジャン神父さん、本当にびっくりしたわけですども、彼らはこう言ったんです。
 「私たちは、隠れて信仰を守っておりました。私どもは、あなたさまの心とぜんぶ一緒です。
 もう、びっくり仰天ですよ。(※10)
 これ、なんで「サンタ・マリアのご像はどこ?」って聞いたかっていうと、この隠れキリシタンたちはですね、3つの伝承をず〜っと伝え続けてた。
 ひとつは、「7代過ぎたら、またローマから神父さまがやって来る」。・・・「7代」ですよ。
 そして、「その神父さまは独身である」。
 そして更に、「サンタ・マリアのご像を持って来る」。
 この3つの伝承は、いかにも、最後に日本を去る時に、あるいは殺される前に、宣教師が言い残したことらしいですね。
 「また、神父が、必ず来るよ」と。それが本物の神父だとわかるしるしがある。それは、「ローマから来る」、そして「独身である」、そして「サンタ・マリアのご像を持って来る」。
 「神父であれば、必ずそうだ。何代過ぎたって、絶対そうだ。必ずローマから派遣されて、サンタ・マリアのご像を持った、独身の神父が来る」と。
 だから、その聖堂が建った時に、 プティジャンっていう外人が来たけれども、それが伝承で言われている本物かどうか、確かめに来たんですよ。・・・サンタ・マリアのご像はあるか、と。
 ご像はもちろんあったわけですし、その時のご像は、「信徒発見のマリア像」として、今も大浦天主堂に、ちゃんとありますよ。(※11) ご存じですよね?・・・皆さん、知っててくださいよ。
 外国の方から、「あの有名な信徒発見のご像はどこですか?」って聞かれて、「はい??」って(笑)言ったら、「あなたは日本人の信者ですか?」って聞かれますよ、たぶん。フランスに行って、信者さんに「ルルドのマリアのご像、どこにあるんですか?」って聞いたら、「それはルルドの(いわや)にある」って、だれもが答えるのと一緒です。
 私も何度も行って手を合わせましたけど、(ああ、これが「信徒発見」のご像か)と。その前で、ついに伝承の聖母像を仰いだ数名の信者たち、どれほどの感動、安心、誇り、喜びを感じたか。
 洗礼によって信仰が伝えられるっていうことは、そういうことなんです。ミサが一度もなくっても、信仰、伝わってるんですよ。・・・それは、洗礼の「秘跡」に支えられてるっていうこと。

 なんと、 先々週の教皇の一般謁見で、教皇様が、そのことを褒め讃えてくださったんです。
 1月15日の一般謁見でのお説教ですけど、中東のキリスト者が、今、迫害にあって苦しんでるでしょ? その人たちを励ますために、「日本の隠れキリシタンの信仰に学べ、あれが模範だ」って言ったんですよ。・・・うれしいじゃないですか。(※12)
 「日本の隠れキリシタンたちは、孤立し、隠れていたけれども、彼らは何世代にも渡って、絶えず神の民、教会の一員だった」「その日本のキリスト者たちは、洗礼の恵みによって耐え忍んだ。司祭はいなかったけれども、洗礼を受けた親が、生まれてくるすべての子に洗礼を授けた」とお話になって、信仰を生き生きと保っていくためにどれほど洗礼が重要かと強調なさったんです。困難の中で信仰をちゃんと守り伝えることができたのは、洗礼によって守られていたからだ、と。洗礼の秘跡こそが、あなたたちの信仰を守るんだ、と。
 教皇様の説教ですよ。日本の、隠れキリシタンの歴史について、詳しく語ってくださったんです。ありがたいことです。
 「当時日本にいた司祭は一人残らず追放され、何千人もの信者が殺害され、生き残った共同体は潜伏し、ひそかに祈りと信仰の実践を続けた。そのほぼ250年後に宣教師たちが日本に戻って見出したのは、数万人のキリスト者で、そこから教会の再生が始まった。彼らの歴史から多くを学ぶことができます」と。
 「世界宗教史上の奇跡」と呼ばれるこの史実は、しかし、そんな昔の話じゃない。ちなみに来年、2015年は、この「信徒発見」150周年なんです。250年の禁教の年月から比べたら、まだつい最近っていえるんじゃないですか。
 その150周年に、教皇様をお呼びしようじゃないかと、司教団が招待状を出しております。どうぞお祈りくださいね。「教皇フランシスコをお呼びしようじゃないか」ってことですけど、教皇様が日本に来て、福島を訪ねたり、長崎の信徒発見のご像の前でお祈りしたりなんて、ねえ、夢のようじゃないですか。キリシタンの歴史は、私たち日本の教会の誇りなんだから。
 洗礼が信仰を守る。
 教皇様、こんな言い方もしてました。
 「親は子に命を伝えるように、恵みのたまものも、洗礼によって受け継がれていく」。
 私たちも次の世代に、信仰の命をちゃんと伝えていきましょう。そのためには、何はおいても、洗礼によってキリストのからだの一部となることが大切なのです。
 今、そのような信仰を必要としている日本だと思いますよ。この美しい奇跡、尊い秘跡に励まされてですね、私たちも信仰を伝えていこうじゃないですか。

 おとといの金曜日の聖書講座で、この、今日の福音書の箇所(※1b)を読んでいて、シメオンがね、「これで私は死ぬに死ねる」って言ったでしょ? 「今こそ、私を安らかに去らせてくださる」(ルカ2:29)と。
 それは、ちゃんと、すべての人の救い主が現れたことを見届けたから。自分の信仰が次の世代に伝わっていくのを見届けて、彼は、「これでもう、私は死ぬに死ねる」と。
 で、「どうですか、皆さんは死ぬに死ねますか?」みたいな話を聖書講座でしていて、その時に、「私はもういつ死んでもいい」って言ってる人のこと、思い出したんですよ。
 近くのホームに入っておられるご高齢の信者ですが、「私はもういつ死んでもいい」って口癖の方がおられるんです。
 「いつ死んでもいい」っていうことは、「やるだけやった」っていう誇りというか、それこそ「救いを見た」、みたいなのがあるからですよね。それは素晴らしいと思うし、シメオンの言葉でその方を思い出して、「『いつ死んでもいい』って、ステキですよね〜」なんて、その方のことをお話した途端に、講座に出ていた方が、「神父さま!」って、ビックリして、「私、つい先日その方をお訪ねしたんですけど、『神父さまにぜひ』」って、その方からお手紙預かってきたので、ちょうどお渡ししようとしていたところです」って。
 まあ、「宗教史上の奇跡」とまでは言わないが、「いやあ、それは不思議なタイミングですね」って言って、その場でお手紙いただいて、読んだんですよ。
 それがいいお手紙なんで、皆さんにも、ぜひ読んでいただきたい。お読みしますね。

 私、94歳という高齢になり、急に体の動き不自由となり、我ながら驚いています。目はしょぼしょぼ、耳は一年中蝉が鳴き、覚えようとした言葉がどうしてもすぐ忘れてしまいます。いら立たしいこと、限りありません。足は大腿骨骨折のため歩けないのは仕方ありません。ただ、幸せなことは、頭がどうにか働くこと、手の力と食欲が普通のことです。
 老衰が、病気ではないということがやっとわかりました。
 94年前、神さまがこの世に私の命を置かれ、それから瞬時も目を離さず見守っていてくださったことを、自分が『つらい』と泣いた逆境のとき、自分に打ち勝って喜んだとき、すべて神の温かいまなざしを感じました。
 老いは病気ではありません。
 夜ベッドに入り、神さまとマリアさまと話し合います。い〜いお返事をくださいます。何が寂しいことがあるでしょう。
 先日、それほど親しくないケアさんが訪ねて来て、『あなたは死ぬって、少しも怖くないんでしょう?』と、突然聞かれました。私は、『そうよ、一番私をかわいがってくださる天のお父さまの所に帰るのですもの』と言うと、彼女は、『いいわねえ』と、羨ましそうに小声で言い、黙って行ってしまいました。私が彼女のために祈ったことは当然です。
 老衰は病気ではありません。まだまだ神さまは、私に何かせよと言われている気がします。
 いつも、病者、老人のための心遣いいただき、ありがとうございます。
 晴佐久神父さま、私、今、幸せです。

 第2朗読で、ヘブライ人への手紙にありました。(※13)
 「イエスは悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態であった者たちを解放なさるためでした」(ヘブライ2:14b-15)
 「死の恐怖にとらわれている奴隷」・・・このケアさんもそうなんでしょう。
 「あなたは、死ぬって少しも怖くないんでしょう? いいわねえ・・・」
 94歳の祈りが、このケアさんを、洗礼に導くような気がいたします。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)

※1a、1b:「今日の福音書」
・ 本日(2014年2月2日〈主の奉献〉)の福音朗読箇所は、ルカによる福音書の2章22節〜40節。
新共同訳では、内容区分ごとの概括的な理解を助ける趣旨で、「神殿で捧げられる(2:22〜38)」および「ナザレに帰る(2:39、40)」という小見出しが付いている。
・・・1a : < 文中へ戻る
・・・1b : < 文中へ戻る

※2:「もちろんイエスは後に洗者ヨハネから洗礼を受けるわけですけど」
・ マタイによる福音書   3章13節〜17節
・ マルコによる福音書   1章9節〜11節
・ ルカによる福音書    3章21節〜22節
・・・< 文中へ戻る

※3a:「先週、(中略)、長崎の隠れキリシタンが200年以上ミサを待っていた話をしましたけど」
 3b:「先週(中略)冗談めかして言いましたけど」
・ 「あなたには魂がありますよ」(「福音の村」2014年1月26日〈年間第3主日〉説教)
・・・3a< 文中へ戻る
・・・3b< 文中へ戻る

※4:「長崎県東京事務所」
・ 首都圏における長崎県の総合的な窓口で、県の施策立案にまつわる業務、魅力のPR、旅のサポート、物産紹介など、さまざまな活動を行っている。
 詳細は、公式ホームページをご覧ください。
 >>> 長崎県東京事務所 (東京事務所観光物産センター)
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※5:「平戸と、外海と、島原と、天草と、五島。特にその5地区の13カ所を、世界遺産に登録したいっていうことです。」
・ 候補地の、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」リスト
#1.大浦天主堂(旧羅典(らてん)神学校等を含む)、#2. 出津(しっつ)教会堂と関連遺跡(旧出津救助院を含む)、#3. 大野教会堂、#4. 日野江城跡(ひのえじょうあと)、#5. 原城跡(はらじょうあと)、#6. 黒島(くろしま)天主堂、#7. 田平天主堂(たびらてんしゅどう)、#8. 平戸島の聖地と集落、#9. 旧野首(きゅうのくび)教会堂と関連遺跡、#10. 頭ヶ島天主堂(かしらがしまてんしゅどう)、#11. 旧五輪(きゅうごりん)教会堂、#12. 江上天主堂(えがみてんしゅどう)、#13. 天草の﨑津(さきつ)集落

遺産分布地図
遺産分布地図
(クリックすると大きく表示されます)
(「長崎から世界遺産を」HPより)
詳細は、公式ホームページをご覧ください。
  >>> 「長崎から世界遺産を。『長崎の教会群とキリスト教関連遺産』
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※6:「1644年に最後の神父が、殉教」
・最後の神父 : 小西マンショ
 慶長5年(1600年)〜正保元年(1644年)
 江戸時代初期のキリスト教カトリック司祭。小西行長の娘の子に当たる。
 小西行長が処刑された後、その娘である母は離縁され、共に九州に追放される。母の影響でセミナリオでキリスト教を学んだが、1614年のキリシタン追放令でマカオに追放。ゴアに渡るが、日本人への偏見のために受け入れ拒否され、ポルトガルのコインブラ大学で学ぶ。その後ローマに渡り、1624年にイエズス会に入会を認められ、聖アンドレ修練院で学ぶ。1627年司祭叙階。
 1632年に海路から日本に帰国。畿内で布教活動。1644年に捕縛され、高山右近の旧領音羽で殉教。殉教地は飛騨高山という説もある。
 彼の死によって、日本国内に正式に叙階されたカトリックの司祭は存在しなくなり、以後明治時代まで日本人司祭は誕生しなかった。(「小西マンショ(マンショ小西)」<ウィキペディア〈フリー百科事典〉>より概略)
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※7:「大浦天主堂」

大浦天主堂(クリックすると大きく表示されます)
大浦天主堂
(クリックすると大きく表示されます)

詳細は、公式ホームページをご覧ください。
>>> 「国宝大浦天主堂
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※8:「ローマで二十六聖人の列聖式があったんです。1862年です。」
・ 「日本二十六聖人」は、1862年6月8日、ローマ教皇ピオ9世によって列聖され、聖人の列に加えられた。 
(日本二十六聖人については、「日本二十六聖人記念館ホーム・ページ」や、「日本二十六聖人<ウィキペディア〈フリー百科事典〉>など参照)
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※9:「プティジャン神父さん」
・ ベルナール・プティジャン(仏:Bernard-Thadée Petitjean, 1829年〜1884年)
 フランス出身のカトリック司祭宣教師。パリ外国宣教会会員として日本を訪れ、後半生を日本の布教に捧げた。1865年、大浦天主堂での隠れキリシタンの発見(信徒発見)の歴史的瞬間に立ち会ったことで有名。(詳細は、「ベルナール・プティジャン<ウィキペディア〈フリー百科事典〉>など参照)
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※10:<信徒発見>
(参考)
・ 「大浦天主堂の創建と信徒発見【復活】」(「長崎市ホームページ」より)
・ 「日本キリシタン物語-30.信徒発見」 (女子パウロ会「Laudate」より) など
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※11:「信徒発見のマリア像」

信徒発見のマリア像
信徒発見のマリア像
信徒発見のマリア像(化粧直し後)
信徒発見のマリア像(化粧直し後)

(信徒発見のマリア像(化粧直し後):長崎の教会 写真集「もうひとつの長崎」より)
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※12:「1月15日の一般謁見でのお説教」
(教皇フランシスコ一般謁見(第32回):2014年1月15日)
・ 「日本のキリシタン模範に」:教皇 (「カトリック新聞オンライン」より)
・ 教皇フランシスコの32回目の一般謁見演説 (「カトリック中央協議会」より)
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※13:「第2朗読で、ヘブライ人への手紙にありました。」
・ 本日(2014年2月2日〈主の奉献〉)の第2朗読箇所は、ヘブライ人への手紙2章14節〜18節。
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2014年2月2日 (日) 録音/2014年2月8日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英