もう着いてるぞ!

2015年11月15日 年間第33主日
・第1朗読:ダニエルの預言(ダニエル12・1-3)
・第2朗読:ヘブライ人への手紙(ヘブライ10・11-14)
・福音朗読:マルコによる福音(マルコ13・24-32)

【晴佐久神父様 説教】

 今聴いたこの福音(※1)を、「私のこと」として、「自分のこと」として、深く味わっていただきたい。
 イエスさまによって「選ばれた人たち」(マルコ13:27)、その人たちが呼び集められる。そのときを、私たちは待ち望みます。いうまでもなく、このような福音をこうして聞いている皆さんは、もう「選ばれた人たち」ですよ。安心してくださいね。そこはもう、全面的に信じてくださいよ。私たちは、「選ばれた人たち」です。
 まあ、もっと言えば、イエスさまが「選ばない人」なんていうものは、あり得ない。すべての人を、イエスさまは、それぞれご自分のみわざに役立つものとして選んで、ご自分の喜びとして「四方から呼び集める」(マルコ13:27)に決まってます。それがこの世界の目的ですから。そうして、「天の栄光の世界で、イエスさまが私たちを、本当に受け入れてくださる」「イエスさまとひとつになっていつまでもともにいる」「神さまの愛に満たされる、完成の日が来る」、これは間違いないこと。問題は、その福音を私たちが、ちゃんと信じているかどうかっていうことですね。
 「この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(マルコ13:30-31)
 すべてが完成するまでは、私たちの時代は、まだまだ続きます。でもやがては、それもすべて過ぎ去ります。そしてすべては栄光に変えられる。「わたしの言葉、わたしの福音は決して滅びない」。
 私は神父ですから、イエスさまと、ある程度、一つになって、イエスさまの言葉を語ります。自分としては、情けない人間だと重々承知していますけれども、・・・でも、たとえば、こんな立派なミサで、こうして朗読台でですね、主の言葉を語るとき、「ああ、私の語ったこの主のみ言葉は、決して滅びないんだ・・・」っていう、なんていうんでしょう、誇らしいというかね、その決して滅びない言葉をみんなで聴いたという、この素晴らしい事実、その喜びは、永遠なることなんだなあ・・・と、なにか胸打たれるような気もいたします。
 皆さんは、間違いなく、もう選ばれた存在。そうでなければ、そもそも、この世に生まれてくるはずもないんです。このことを、もっともっと、みんなにも語りたいし、伝えたいし、そんな安心でね、特に、つらい思いをしている人に希望を持ってもらえたらと、心からそう思う。

 昨日、鎌倉で、精神障害者のための黙想会というのがあって、お話をしてまいりました。
 精神障害者の当事者とご家族の会なんですけれども、年に一度黙想会ということで、昨日、大勢の方が、黙想の家に集まっておられました。
 担当者の方とは、前々から、「タイトルをどうしましょうか?」って話し合ってたんですけど、私、精神障害って、いろんな苦しみの中でも一番つらい苦しみの一つだと、そう、常々思ってるんですね。というのは、確かに、病気がつらかったり、いろんな家族の事情で苦しんだりと、いろんな苦しみがあります。それこそ戦争があったり、天災があったり。でも、どんな苦しみでもね、もしも心が元気だったら、なんとかなるじゃないですか。「頑張っていこう」とか、「忍耐しよう」とか、「これもきっといいことにつながっていくんだ」とか、信じる力、元気な心さえあったら、なんとかなるじゃないですか。
 でも、精神障害、心の病の場合は、そこのところが病んで、心が閉じ込められちゃってるんで、自分の力では希望を持つことができない。どうすることもできずに、闇の底で閉じ込められている状態なんですよね。特にそういう方たちは自分を責めたり、もう希望はないと思い込みますから、出口なしの真っ暗闇になる。・・・ホントに真っ暗闇になる。
 そういう方たちの黙想会だから、「あなたはもう、すでに、救われてるんだ!」っていう、その福音の(かなめ)のところを、まっすぐに、なんとか伝えたいと思って、そういうタイトルにしました。
 「あなたはもう、すでに救われている」
 ・・・「あなたは、もう救われているんだ!」という、決して滅びない福音。
 だって、そこを強調しないとね、みんな、「そうはいっても私はきっと救われないだろう」とか、「どんなに頑張っても、こんな私は無理だろう」とか、「私のような人間は、救いにふさわしくないんだ」とか、そう思い込むんですよ。だけど、もう(・ ・ )救われちゃってたらですね、これはそう思う必要がないわけですよね。もう、すでに救われてるんだから。
 だからこそ、そういうタイトルにしたんですけど、その担当の方が、昨日お会いしたときに、なんと、こう言ったんですよ。
 「神父さま、今回の、このタイトルは、本当にいいタイトルです。今日のお話、楽しみにしております。こういうタイトルに励まされて、私も救われるために、頑張らなくっちゃと思いました」(・・・笑)
 ・・・って、そう言うんです。
 これには、私、ちょっとやっぱり、「さすが」って言っちゃ変ですけど、すごいなあと思いました。「あなたは、もう救われている」っていうタイトルを聞いて、「私も頑張って(・ ・ ・ ・)救われようと思いました」って言ったんですよ。それくらい強烈なんですね、人々を閉じ込めている、「みんなはそう言ってもらえても、この私はきっとダメなんじゃないか」っていう、その恐れの感覚っていうのは・・・。
 もちろん、その感覚にいい面もありますよ、「このまんまじゃダメだから、もっと良くしよう」、それは人間の素晴らしい側面です。でも、一番本質の側面は、・・・「側面」じゃないですね、「正面」ですね、一番の本質の真正面は、
 「私たちは、もう救われている」
 ・・・これを「福音」と呼ぶんです。これを信じます。信じなきゃいけない。というか、「事実」です。受け入れなきゃいけない。それこそが、そして一番、この闇の中で必要なメッセージじゃないですかねえ。

 そこで、昨日の黙想会では、ここの入門講座でもよくお話するんですけど、ノアの箱舟(※2)のたとえをお話ししました。
 ノアの箱舟、ご存じでしょ。大洪水が起こって、船が嵐にもまれたりしながら、漂流していくわけですね。あれって、水が入ってこないように、アスファルトかなんかで、みんな閉じてあるんですね。だって窓なんか作ったら、水が入ってきちゃうじゃないですか。だからもう、暗〜い中で、こう、閉じこもっているわけですよ。・・・「箱舟」っていうか、「密室」ですよね。漂流している密室みたいなもんです。
 で、ノアのお話では、どこか陸地があるかもしれないと思って、鳩を放ったら、オリーブの枝を加えて帰ってきたので、「ああ、どこかに木が生えてるんだ!」っていう希望を持ちました。・・・そんな話ですけど、ここからは、私の勝手なたとえです。
 その箱舟の中で人々は、・・・まあ、大勢の人が乗ってたとしよう、その人々は、恐れてます。
 「もう、この箱舟は沈んじゃうんじゃないか」
 「どこにも漂着せずに、われわれはこの中で飢え死にするんじゃないか」
 「嵐が収まらず、この洪水も終わらず、私たちはこの密室の中で意味もなく死んでいく。それだけだ」
 ・・・闇の底で、そう思い込んでいる。まあ、心の病の方とかの心の中は、そんな様子なのかもしれないですね。閉ざされた心でこの世界を漂流しているわけですから。それはもう、希望のない闇に閉ざされてそう思い込むのは、当然といえば当然ですね。私もちょっと、閉所恐怖っていうのがあるから、閉ざされるとおかしくなりそうになる。よく分かります。
 鎌倉のイエズス会の黙想の家(※3)ですけど、行ってごらんになれば分かりますけど、まあ、この世にこんなに狭いエレベーターがあるのかっていうほど狭いエレベーターで、(笑) 私、着いたときに、係の方に案内されて「さあ、どうぞ」って乗せられたんですけど、「さあ、どうぞ」って言った人と私でいっぱいなんですよ。(笑) もうそれは、怖いというか・・・。閉ざされてるっていうのは、私はもう、ダメ。
 で、緊張してですね、「ずいぶん狭いエレベーターですねえ・・・」って言って、早く着かないかなぁ〜と思って心臓ドキドキさせてたら、しばらくして、その人が、「あっ、ごめんなさい」って。・・・押してないんですよ、行先階のボタンを。(笑) ああもう、降ろしてくれ〜!って叫びたくなった。ですから、その日は、1階が食堂で、地下が面談する所だったかな、3階が講話する所でしたけど、何度も往復しなきゃなんないのを、ぜんぶ階段にしました。(笑)
 「閉じ込められてる」って思ったら、もう動けない状況っていうのは、究極の恐怖ですよ、・・・皆さんはどうなんですか? 結構みんなそうなんじゃないの?って思うんですけど、そうでもない人もいるんでしょうか。私は、もう無理。
 だから、箱舟のたとえに戻りますけど、この箱舟の中で閉ざされて、もうこのまま終わりかと思ってるなんていう状況は、私にとっては最悪の状況であり、まあ、精神の問題を抱えている人の状況って、そんな最悪の状況にあるってことを分かっていただいた上でですけども、この箱舟が、実はもう、アララト山だかどこだかはともかく、箱舟が漂着したといわれている山(cf.創8:4)(※4)、そこにもう到着していて、山上の広〜い地面の上に、この舟が乗ってたとしましょう。
 イメージしてくださいね。もう乗っかってるんです。周りに水はない。だけど、中は真っ暗だから、誰もそれに気づいてない。周りには、もうオリーブの木も生え始めているというのに。
 ・・・この状況が、今の私たちの状況だと、ぼくは思うんです。
 外から見たらね、もう助かってるんですよ。舟は到着してるんだから。後はふたを開けて、はしごだか、縄ばしごだかを下ろして、降りてきゃいいだけなんです。・・・ふたっていうか、底の所の出入り口かな。確か、昔の『天地創造』っていう映画だと、船の底の辺りに入口があって、なんかちょっとした橋みたいのをかけて入って行ったような記憶がありますけど(※5)、それでもいいです。なんにせよ、戸を開けて、後は出て行きゃいいだけなんです。
 この場合、客観的に言えば、外から見れば、この人たち、もう救われてるんですよね。中で、どれだけ「私は救われてない」って思っていても。
 中では、「この舟は、きっと沈むに違いない」「この闇の底で、私は命を落とすに違いない」と、そう思っている。思っているのは勝手にそう思っているんだけれども、事実に即して見るなら、「いやいや、もう、着いてるんですよ。早く降りたらいいんじゃないですか」と言うしかない。
 ・・・この状況なんです。
 この、もう到着している箱舟、旧約、新約にたとえて言うなら、みんなが不安だった旧約の時代を終わらせるために、イエスさまがこの箱舟の中にやって来て、十字架の力でふたをパカーンと開けて、「ほ〜ら、みんな、もう着いたぞ! さあ、みんな、おれについて降りて来い!」って、そう言ってるわけですよね。これが新約の時代です。・・・「もう着いてるんだよ」と。
 私たちは、このメッセージを「福音」として聴きます。
 闇の底で(ひざ)を抱えていた人にとってね、もう死ぬと思っていた人にとって、このイエスさまが、パカーンとふたを開けて、「さあ、もう着いてるぞ! 出ておいで!」って。・・・これ、福音でしょう? こんなうれしいメッセージ、ないと思うんですよ。これを教会は今日も叫び続けてるわけですよね、「もう、着いたぞ、安心して出ておいで〜!」と。
 私なんかは、「えっ? ホント!?」って、ちょっと窓から顔を出して、「本当だよ・・・」って思ったくちですかねえ。だからこそ、みんなに、「いいから、みんなも(のぞ)きにおいでよ、ホントに着いてるよ、もうだいじょうぶだよ」って言ってるわけです。
 まあ、それに背を向けてね、「いや、神父さまはそうおっしゃるけれど、そんなのは、きっとウソに違いない。・・・ほら、船もまだ、揺れてるような気がする」なんて言って、自分の思い込みで、なかなか見に来ない人っていうのが確かにいるけれども、私は、信じない人についても、それほど心配しない。だって、もう救われてるんだし、いずれ必ずそれを見ることになるわけだし、見に来ればもう、「いや、本当だ!」って分かるに決まってるのは知っているし、すでに見に来て、「本当だ!」って喜んだ大勢の人たちをこの目で見てきましたし。
 まあ、もっとも、この世はまだ、箱舟の中ですから、降りて、本当に、それこそ、この今日の言葉で言うならば、「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来て、選ばれてた人たちを四方から呼び集める」(cf.マルコ13:26-27)っていう「そのとき」ですね、まさに「苦難」の後に必ず訪れる「そのとき」、漂流の後に到着する「そのとき」こそは、みんなで祭壇つくって、ノアだったら感謝の儀式を捧げるわけですけど(cf.創8: 20)(※6)、もうまさに、大地に降りて、みんなで「バンザイ!」って言うそのときは、まだなんです。まだなんですけれども、すでにふたは開いてる。・・・「この世」ってのは、そんな感じ。
 だから、そのふたから、「みんな出ていきましょうね〜」ってお誘いしたいし、少なくとも出ていくことを恐れないでほしい。もちろん、出ていくときは神が決めるわけだから、希望のうちにその日を待ちます。まだまだこの世も人生も続くわけですから、この世という箱舟の中で、もうちょっとの辛抱ですね。全員出てくって言っても、なにしろ大勢いるんで、戸口が狭いんだか何だか分かりませんが、順番待ちでず〜っと並んでるって感じですね。順番が回ってこないで、なかなか出られないなっていうのがあるにしても、やがてはこの世の準備期間を終えて、神の世界に生まれ出ていく。
 中には若くして、・・・何でしょう、ディズニーランドの行列でいうなら、なんとかパスみたいに、ヒュ〜ッと出てっちゃった人もいるけど、まあ、いずれにせよ、みんな、最後は必ずそこに出ていくんだし、待ってるときもまた楽しいじゃないですか。みんなで、安心してその日を待つっていうメッセージをね、特に心閉ざされている人には言いたいし、そういう方たちこそ、このミサにいっぱい座っててほしいんですよ。

 昨日のミサの後で、「ある教会で出入り禁止になりました」っていう、精神の障害を背負っている方が来て、「ぜひ、話を聴いてくれ」って言うんで、今度、アポとってね、話をゆっくり聴くことになりました。前も、一度聴いたことがあるんですけど、私のことを信頼してくださってるんで、また来られたようです。
 「出入り禁止になっちゃった」っていうのは、まあ、教会で発作のような症状になって興奮したか、混乱したか、詳しくは分かりませんが、ともかく「みんなの迷惑だから、ここに来ないでくれ」って言われたわけですよね。まあ、いろいろその現場の判断もあるから、その判断は尊重しますけれども、責任能力がない状態でそう言われちゃうのも、ちょっとかわいそう。
 ・・・イエスさまが悪霊に取りつかれた人を叱りつけるとき、その悪霊を(・ ・ ・)叱るわけですよね。その人を叱るわけじゃない。「この人から出て行け」って言う(cf.マルコ1:25、5:8、ルカ4:35)。その人が、イエスさまに叫んだりしてたからです。「お前の正体は分かっている!」とかね、悪霊は叫ぶわけでしょ(cf.マルコ1:24、ルカ4:34)
 イエスは、その悪霊に向かって、「この人から出て行け」って言う。その人に「ここから出て行け」って言ったわけじゃない。そして、悪霊がその人から出ていくと、その人は落ち着いて、イエスさまについて行ったりするわけです。
 私たちは、悪の力、恐れの力、人の心を閉ざす力に、ギューッと閉ざされてしまうことって、確かにあるけれども、イエスさまは、ひとことでそれを追い出すことができる。
 私は、教会はまさにイエスさまそのものですから、同じように悪霊を追い出すことができるはずだと信じて疑わないし、悪霊を追い出さずに、その人を追い出しちゃったら、元も子もないって思う。やっぱり、なんとか丁寧に話を聴き、丁寧に受け入れていけば、やがて落ち着くってことを、私はいくらでも体験してきたし、そういう方にこそ、「あなたは、もう救われてるんだ。安心しなさい」っていうメッセージを、ちゃんと伝えるべきだし、教会がね、ちゃんとそれを宣言し続けるならば、多くの人が救われるんじゃないの? ・・・私はそう思う。
 「心の病で苦しんでいる人たち、大勢、私たちのこの教会にいらっしゃい!」って言い続けてるのも、まずはそういうあなたにこそ、その福音を聞いてほしい、神はあなたを必ず救う、いやもう救われていると知ってほしい、そういうことなんですけれども・・・。

 昨日の黙想会で、象徴的な出来事を、おひとりの方から聴きました。
 その方、信者なんですけれど、精神科に入院して、本当に混乱して興奮して暴れてしまったとき、閉鎖病棟の中で、拘束されたんですね。・・・拘束衣っていうの、ご存じですか? もう、まったく動けなくなる。両手両足を縛られた状態で、動けなくなって、強制的にチューブを入れられて、栄養を与えられ、点滴で落ち着く薬を与えられるんです。だからもう、ホントに、生ける(しかばね)というか、閉ざされた状況。・・・まったく身動きが取れない状況。
 まあ、その方が暴れちゃったのは、病気のためにパニック状態が高じると、み〜んなが、自分を襲ってきて、責めてくる、恐ろしい人たちに見えるんですね。その人たちが、自分を捕えよう、しまいには殺そうとしている、と。それはもう、混乱の中では、そうとしか思えないし、それはものすごい恐怖。だから暴れるわけですよね。そう思っちゃったら、誰だって暴れると思う。現場では仕方なくその暴れるのを、抑える。そして薬で眠らせ、その人の場合は、「3週間以上拘束された」って言ってました。・・・どう思います? 私みたいな閉所恐怖には、もう、考えただけで恐ろしい状況です。・・・身動きが取れないって。
 ・・・だから、もう絶望してたんですね、毎日天井を見て、おんなじ天井だ・・・っていうのも当たり前ですけど、おんなじ無機質な天井を見て、自分はもう、生きているのか死んでいるのか分からない。こんな状態に、何の意味があるのか・・・と思ってた。
 そんな、もうホントに閉ざされた気持ちでいたとき、ある日、ふっと、自分の左腕を見たら、小さな1匹の・・・何ていうんでしょう、・・・羽虫? 「蚊ではない」って言ってましたけど、透明な羽の、ちっちゃな虫、なんかそんな虫がいるじゃないですか。それがフワ〜ッと飛んできて、腕に止まったんですって。で、その羽虫が、ち〜いさな透明な羽を、プルプルッとふるわせているのを見た瞬間に、「あたし、生きよう!」と思ったそうです。
 まさにその瞬間から、力を取り戻し、希望を取り戻し、信仰を取り戻した、と。本人が言うには、その瞬間、「ああ、神は私を生かしているっていうことに気づいた」んですって。・・・まさに、「神に会った」っていう体験なんでしょう。
 で、そこから快方に向かって、もう今は退院して、黙想会にも参加し、「今日、神父さまの話を聴いて本当にうれしかった」って言ってくれてましたけど、逆に私もその羽虫の話を聴いてね、「ああ、すごいな。神さま、すごいな・・・」って感動したんですよ。・・・だって、「羽虫1匹」ですよ。
 神さまは、箱舟の底にいる、一人ひとりの人を救うことができる。
 神さまは、何でもおできになります。
 神さまは、すべての人を救えるし、それはもうすでに実現しています。
 ・・・羽虫1匹で、その救いに目覚めさせることができる神。
 安心して、ぜんぶお任せくださいな、神さまに。
 だって、「羽虫」どころじゃない。私たち、もうすでに、イエスさまをお迎えしたんだから。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)

※1:「今聴いたこの福音」
2015年11月15日の福音朗読箇所
 マルコによる福音書13章24〜32節。
  〈小見出し:「人の子が来る」13章24〜27節、「いちじくの木の教え」13章28〜31節、「目を覚ましていなさい」13章32〜37節から抜粋〉
・・・< 文中へ戻る

※2:「ノアの箱舟」
創世記6章〜9章
〈小見出し:「洪水」6〜8章、「祝福と契約」9章〉
・・・< 文中へ戻る

※3:「鎌倉のイエズス会の黙想の家」
◎イエズス会日本殉教者修道院(黙想)
 場 所:〒248-0001 神奈川県鎌倉市十二所80 (JR横須賀線・江ノ電「鎌倉駅」からバス20分) 
 行き方の詳細は、ホームページの「アクセス」をご覧ください。
 
 (上の地図は、マウスのカーソルで、東西南北へ移動でき、「+」「-」で、拡大縮小できます。また、「拡大地図を表示」をクリックすると、別ページに拡大地図が表示されます)
イエズス会の修道院で、「鎌倉黙想の家」として、提供されており、静かに神との語らいを求めている個人に、団体に、開かれている。
(参考)
・ 「黙想への招き」イエズス会日本殉教者修道院(黙想)
   >「ご案内とアクセス」 
   >「黙想会・研修会のご案内
   >「申し込みの方法
・・・< 文中へ戻る

※4:「実はもう、アララト山だかどこだかはともかく、箱舟が漂着したといわれている山」
 創世記8章4節〜14節には、以下のようにある。
 
「第七の月の十七日に箱舟はアララト山の上に止まった。水はますます減って第十の月になり、第十の月の一日には山々の頂が現れた。(中略)第二の月の二十七日になると、地はすっかり乾いた 」(創世記8:4〜14)
・・・< 文中へ戻る

※5:「昔の『天地創造』っていう映画だと・・・」
 映画『天地創造』(The Bible: in the Beginning)は、1966年公開の映画(アメリカ・イタリア合作)。
 旧約聖書の創世記1章の「天地の創造」から、22章の「アブラハム、イサクをささげる」までを描いている。ジョン・ヒューストン監督で、監督はノア役でも出演。音楽は黛敏郎が担当している。
 下の動画は、ノアの場面。00:15位から動物たちが乗船しはじめ、00:47位には、舟に入っていく動物の様子をみることができる。
 
(参考)
「天地創造」(映画)(ウィキペディア)
・・・< 文中へ戻る

※6:「ノアだったら感謝の祭儀を捧げるわけですけど」
 創世記8章17節〜20節には、には、以下のようにある。
 
「そこで、ノアは息子や妻や嫁と共に外へ出た。獣、這うもの、鳥、地に群がるもの、それぞれすべて箱舟から出た。 ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた(創世記8:17〜20節)
・・・< 文中へ戻る

2015年11月15日 (日) 録音/2015年11月日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英