安心の涙

2015年6月28日年間第13主日
・第1朗読:知恵の書(知恵1・13-15、2・23-24)
・第2朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(二コリント8・7、9、13-15)
・福音朗読:マルコによる福音(マルコ5・21-43)

【晴佐久神父様 説教】

 昨晩のコンサート(※1)は、成功したんですか? (拍手) お客さん、いっぱい入ったの? (拍手) それはよかった。
 『CARPE DIEM』(カルペ・ディエム)という、急ごしらえのコンサートでしたけれども。
 当教会の作曲家がオリジナルのミサ曲を作曲して、当教会信徒がそれを混声四部合唱で、ホールで歌うという、大変素晴らしい企画。・・・なんですが、なんと、土曜日の夜のミサと同じ時間にそれをやるという、(笑)大変チャレンジングな企画で、当然私は聴きに行けないわけで。・・・それでまあ、今、どうだったか伺ったわけですけど、大成功というんであればね、ホントによかった。
 先週は、説教中にその話をして、「あっちでもミサ曲歌ってるそうだから、こっちでも負けずに歌おう!」ってね、(笑) ハッパ掛けたんですよ。そのとき申し上げました。「後方支援ということで、今夜のコンサートのためにお祈りしよう。福音宣教の助けになるいいコンサートになりますようにって。このミサでの祈りで、ホールのミサ曲を、ホンモノの『ミサ曲』にしよう!」と。
 大成功というんであれば、私たちのおかげ、と、(笑) 思っていただきたいわけですが。

 実を言うと、しかし、私、そのミサ曲聴いたんですよ。
 先週の日曜日、夕方、 「当日神父さんは聴けないから、ぜひ事前に聴いていただきたい」と言って、本番さながらに、この聖堂で歌ってくれた。「神父さんひとりのためのコンサートです」なんて言ってね。・・・行ってみたら他にも大勢聴いてましたけどね。(笑)
 「神父さんが聴けないから、事前に聴いていただきたい」って、まあ、聞こえはいいけれど、正直言えば、単なるリハーサルだろうなと。(笑) 誰が考えたってそうですけど。(笑) まあ、だから私、皆さんのためを思ってね、私なりのハッパを掛けたんですね。そのコンサートの直前に。だって、リハーサルって、やっぱり緩むんですよ。ホールでもないし、聴いてるのがお優しい神父であればなおのこと。(笑) やっぱり本気でね、こう、ギュッと気持ちをひとつにしないと、特にミサ曲なんて、絶対無理じゃないですか。そこをやっぱり、知ってもらおうと思って、ちょっと厳しいことを言わせてもらった。
 「皆さん、わたくし晴佐久神父は声楽が大好きだし、大変お詳しい。世界中の超一流オペラ歌手の歌声を聴いている。その晴佐久神父を前に、『合唱を聴いてくれ』とは、よほどの覚悟があるんだろうね。(笑) しかもそれが『ミサ曲』だ、と。私がどれほどミサを大事にし、ミサに人生を懸け、ミサの言葉を大事にしているか、よく分かっているはず。その神父を前に、ミサ曲を歌う。これまた、よほどの覚悟があるんだろうね。
 私は、歌がうまいの下手の、声がいいの悪いのなんて、そんなことは聴いちゃいない。私が聴いているのは、本気がどうか。本当に神に祈っているか。まごころから感謝し、賛美し、心をひとつにして、今この時を捧げているか。そんなの、歌を聞けば、私には一発で分かる。
 もしも、これは本気の声じゃないと思ったら、曲の途中でも席を立って出ていくつもりだ。それでもよければ聴こう。覚悟はよろしいか」
 ・・・ほとんど脅しですね、これ。(笑)
 まあ、でもこれくらい言ったらですね、さすがにね、本気の気持ちあふれる、素晴らしい歌声でした。考えてみれば、ミサ曲なんて、ホールよりも、聖堂でこそ歌われるべきものですしね。
 この聖堂で、その「ミサ曲第1番」を聴きながらね、私、ホントに不明を恥じたというか、なめてたなあ、と思いました。だってね、まず、本当に美しい曲で、温かい曲で、何より、とても清らかな曲でしたから。それを、信じる仲間が心ひとつにして、美しい祈りの心で、あったかい一致の中で、ホントに清らかに信じて歌っているっていう、これ、私もね、目に見えない世界のプロですから、分かりますよ。
 で、それを感じると、不思議なことに、涙が出てくるんですね。ツーっと涙がこぼれてくる。ふと気づくと、歌ってるほうも泣いてるし、(笑) あらら、作曲した本人も指揮しながら泣いてるよ、って。(大笑)(※2)
 美しい曲だったし、美しい演奏でした。あれをホールで歌って聴いて、またみんな涙こぼしたんでしょうね、きっと。
 それで私、今日は、この不思議な涙について、ちょっとお話ししたい。

 この「不思議な涙」。・・・なんで出てくると思います?
 昨日の入門講座の話ですが、初めて入門講座に来られた方には、「質問権」っていうのがあってですね、何でも質問することができる。1問だけね。
 昨日初めて来られた方は、何度かお話した、若い息子さんを亡くしたご夫妻(※3)。奥さまの方はもう何度もいらしてるんですけど、ご主人がついに来られたんですよ、昨日。うれしかったですね。お二人ともミサにはもう、ずっと来られてますし、今日のこのミサにも出ておられるんですけれども、昨日、入門講座に、ご主人が初めて来られた。それで、「質問権がありますので、どうぞ何でも聞いてください」って言ったら、こうおっしゃったんですよ。
 「神父さまの『十字を切る』(※4)っていう本を読んでいると、なぜか涙が出てくる。これは何ででしょうか?」
 ・・・そう聞くんですよ。だから私、お答えしました。
 「それは、『安心の涙』っていう涙です」
 そういう涙があるんですよ。悲しい涙じゃない。歓喜のうれし涙でもない。うれし涙って、「勝ったぞ〜!!」みたいに、試合の最後に肩抱き合って泣いたりするやつですけど、そういうのとも違うんですね。・・・私は「安心の涙」と名付けてるんですけど。
 たとえば、幼稚園生が遊園地で迷子になっちゃって、もうどうしようって、緊張して、怖くって辺りを見回しているとしましょう。そうすると、たとえば、着ぐるみのキャラクターなんかでも、怖くなったりするじゃないですか。もう不安でドキドキして、でも向こうからお母さんが現れて、「あらあら、こんな所にいたの。ああ、よかった、もうだいじょうぶよ」って言って、手をきゅっと握ってくれたら、突然緊張がほどけて、ポロポロポロッと涙がこぼれる。あの涙です。
 なんで、美しいミサ曲をみんなが信じる心をひとつにして歌っていると、それを聞いて涙がこぼれるのか。なんで、あなたは神に愛されているという福音を伝える『十字を切る』を読んでいると涙がこぼれるのか。
 ・・・神さまに触れているからです。触れて安心したからです。
 私たちが最も必要としている最高の瞬間が、そこにあるからです。
 当然涙もこぼれます。逆に言えば、涙ひとつもこぼれないなんておかしいと言っていいくらい。
 われわれは、いつも緊張しています。迷子のように。
 われわれは、いつも自分を責め、世界を恐れ、未来を不安に思っている。そんなときに、「あらあら、どうしたの、もうだいじょうぶよ」って、神さまが手を握ってくれた瞬間、迷子のようにさまよっていた神の子は涙をこぼす。ホッとして。
 「ああ、よかった。ああ、もう安心だ」
 ・・・神さまに触れる瞬間。

 この、12年間出血症を患った女性が(※5)、治ってよかったねって話ですけれど、治ったその後でイエスさまが辺りを見回して無理やりに見つけ出して、まあ、変な言い方、引きずり出すようにして、自分の身に起こったこと、その真実を、語らせてるんですよね(cf.マルコ5:32〜33)。女性にしてみたら、もう神さまに触れた瞬間、ホントに真の喜びと感動の瞬間があるわけです。だけど、さらにその瞬間を、きちんと、みんなの前で表現するときにこそ、その感動が本物になっていくんです。
 これね、同じ治った話でもね、「触りました、治りました。女は、ああよかったと感謝しながら、そのまま家に帰りました」っていう話でもよかったわけでしょ。ふつう、そうなんじゃないですか? でも、イエスはそうさせない。見つけ出して、人々の前で語らせる。そうすることで、神に触れ、神に触れられて溢れ出す「安心の涙」が、みんなの涙ともなって広がっていく。現にこの話、二千年もたってから、私たちの間で読まれて、私たちにも安心の涙をこぼさせてるじゃないですか。
 教会がやってることって、それですね。
 うちの作曲家もね、「主よ、あわれみたまえ」っていう「あわれみの賛歌」の言葉で「安心の涙」をこぼしたっていう出発点があるってね、聞き及びました。っていうか、それ、先週の『カトリック新聞』にまで載っちゃってます(※6)。でも、その「安心の涙」の源である、神に触れた喜びを、みんなの前で、きちんと証ししたわけでしょう、今回。それって、イエスさまがやっぱりこう、証しさせるために「呼び出す」んですよね。・・・そして作曲すると、「安心の涙」が広がる。
 「そりゃ、あなたは救われたからいいよ。だけど、救われない気持ちでいる人、大勢いるじゃないか。みんなの前で救われた証しを語れよ。せめてそういう曲作って歌えよ。『あわれみの賛歌』で感動して、「安心の涙」で救われたっていうんなら、しかも作曲家だ、オルガニストだというんなら、それくらいやれよ」と。
 イエスさまが、そうさせるんですよね。そうすると、その証しに触れた人たちもまた、「安心の涙」を流す。そうすれば、どんどん感動が広がっていくじゃないですか。

 つらい日々を過ごしてる中で多摩教会に出合って、福音を聞いて「安心の涙」を流している方が、昨日も入門講座に初めて来られました。入門講座で何をしているかっていうと、まさに、みんなで「安心の涙」を流すことを学ぶわけですけれども、さらに、「私は救われた!」というその涙を、みんなの前で語ること、これが大事なんじゃないですかねえ。
 私は「安心の涙」を、もう毎日のように見てますから、ちょっと慣れっこになっちゃってますけど、もっともっと、みんな、そういう瞬間を大切にして、それを、もっともっと証ししていっていただきたい。

 先週は、また岩手県の釜石に行きましたけど、「安心の涙」、見ましたよ。
 もう何回行っただろう。十数回行ってますけれども、行くと、ホントに喜んでくれるんですよ、中でも、カリタス釜石のベース長さんは特に。皆さんからの義援金もお届けしましたよ。
 着いたらすぐにミサをして説教で励まして、夜はスタッフみんなに大盤振る舞いして励まして、翌朝またミサをして励まして、で、帰っちゃうんですけど、なんとか励ましたいっていう気持ちを表しに行くんですね。ホントに喜んでくれるから、こっちが励まされちゃうんですけど。
 ベース長さん、夜の集まりのときに、「神父さん、忙しい中、わざわざ来てくれた。なかなか、みんな来られなくなっている中で、神父さんだけはこうして忘れずに足を運んでくれる」って、みんなの前で涙こぼして感謝してくれました。「いや、そんなに感謝されるほどのことではないんだけれども・・・」って、私も思いながらも、でも、こっちもジ〜ンとする。
 確かに、ここを出てから現地に着くまで、6時間半から7時間かかるんですよ。往復で14時間くらい。大変っちゃ大変ですけれど、行くとね、そういう感動が、やっぱりあるんですよ。
 「最近、いろいろ大変なことや、さまざまな問題があって、それこそ心が折れそうになったりすることもあるときに、神父さんがわざわざやって来て、『がんばれ! だいじょうぶだ!!』って言ってくれる。なんだかホッとして、ああ、だいじょうぶだ、やっていけるんだ・・・って思えて、またがんばろうって気持ちになれる」
 これ、何が起こってるんですか?
 ・・・神さまが、触れてるんですよ。神さま()、触れてるんですよ。
 そうすると、ぽろりと涙がこぼれる。当たり前のことですよね。

 昨日、信者さんがひとり亡くなって、あさってご葬儀ですけど。私、亡くなる少し前の彼の「安心の涙」、つい先日見ましたよ、東京女子医大の部屋で。
 病室に入ったら、彼、「病者の塗油(※7)を受ける前に、ゆるしの秘跡(※8)を受けたい」って言ったんですよ。感動しました。もう危ない状態でのゆるしの秘跡なんて、それこそまごころからの回心ですから。信者ではないご家族がね、「私どもも一緒にいていいでしょうか」って言うから、「いえ、ゆるしの秘跡は本人だけです」と言って、外に出ていただいて、彼の告白を聴きました。それは、彼にしてみたら、生涯の最後にちゃんと言えてよかったっていう本当に清らかな内容でした。
 そして彼は、「安心の涙」を流した。
 「神父さん、ありがとうございます。ああ、肩の荷を下ろせた。ホッとした」と言った。
 ・・・神に触れたんです。
 だって私、秘跡の言葉を宣言しましたから。「私は、あなたの罪を、ゆるします」って。これは、神父の宣言じゃないですね。神の宣言ですよ。神の言葉、神のゆるしに触れて、当然、「安心の涙」がこぼれる。・・・そうして彼は、天の父のもとに呼ばれていきました。あさってご葬儀です。
 私、この教会に来てすぐのときに、彼とご家族をこの教会に結ぶお手伝いをしたし、縁浅からぬ仲で、信頼関係もあるんですね。そんな彼の美しい安心の涙をこうして証しできるのは大きな喜びです。ひとりの神の子が、まことの親である神に触れて、「安心の涙」をこぼす。これ以上のことって、この世界で、私は思いつかない。それ以上のことって、ありますかねえ・・・。

 今日、この後、「ここヤシ」(※9)の集まりがありますけど、だからまた、このあと夕方ミサをするんですね。心の病で苦しんでいる若い仲間たちのミサ。今このミサにも何人も出ていますけど、心の病を抱えている参加者は、ぜひまた夕方のミサにも出てくださいね。・・・最高のミサですから。
 苦しんでいる仲間たちって、このヤイロの会堂長みたいなものでしょう(※10)。娘が病気で死にそうだ。自分にはどうすることもできない。恐れて、苦しくて、もはやアウトっていうときに、イエスが一緒に来てくれて、そして娘の手を取って、起こす。
 「タリタ、クム」って言ってね。・・・「娘よ、起きなさい」。(cf.マルコ5:41)
 これ、ただの言葉じゃない。神の言葉。いのちの言葉。イエスが実際にその口で宣言した聖なる言葉。だから、アラム語でちゃんと残ってる。それは、すぐそばにいた、ペトロとヤコブとヨハネが証人なんですよ。
 「イエスさまが、『タリタ、クム』って言った。そうしたら、娘が起きた。神の言葉には力がある。イエスさまが触れてくださったら、すべてが可能になる」
 その瞬間の証人は、この言葉をいつまでも、ちゃんと取っておいたから、福音書にも載ってるわけでしょ。で、皆さんも聴きました、今日。
 「タリタ、クム」
 私も、心を込めて言いましたよ。
 「タリタ」は、「少女」ですから、皆さんには、皆さんの名前を、そこに入れればいいんです。
 私なら「はれれ、クム」とか、なんか、そんなような言い方でいいですよ。皆さん、自分の名前入れて、「クム」。・・・「起きなさい」。命令形です。
 私たちは起き上がります。聖書の言葉で「起き上がる」と言ったら、復活のことを表すんです。永遠のいのちに、私たち、起き上がっていきますよ。何も恐れることがない。
 問題は、神に触れているかどうか。神に触れられていることに気づいているかどうか。
 ・・・「安心の涙」をこぼすほどに。

 以前、この「ここヤシ」のミサで、「安心の涙」こぼした青年がいる。今、真正面にいますけど。
 彼はうつで苦しんでいますけど、彼が泣いている顔は、滅多に見たことがない。ただ、2年前に父親が死んだときに泣いているのを見たことがある。でもそれは「悲しみの涙」ってやつだ。
 ・・・そうじゃない。君があの日あのミサで流した涙は、「安心の涙」だった。
 あのとき、君は神さまに触れたんだ。
 それまでの君は、君じゃなかったんだよ。神に触れていない自分なんて、本当は「自分」じゃないんです。自分じゃない自分で恐れて、自分じゃない自分で苦しんでる。
 神に触れているときの自分こそが、本当の自分。
 「安心の涙」を流しているときが、本当の自分。
 ・・・それを、覚えといてください。そうして、いつでも、この「安心の涙」に帰ってきてください。清い涙をひとつこぼせば、神さまに触れ、神さまと共にある私が、新たに生まれる。
 「わたしは、あなたに言う。起きなさい!」(cf.マルコ5:41)
 そんなひと言で、イエスさまがね、私たちの手を取って、起き上がらせてくださる。
 ・・・ぽろりと涙をこぼします。その瞬間以上のことなんて、この世にありはしない。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)

※1:「昨晩のコンサート」
 2015年6月27日(土)に開催のコンサート、「CARPE DIEM」(カルペ・ディエム=今を生きる)。
 多摩教会ではなく、外部のホールを借りて開かれた。中心は、多摩教会所属信者の音楽家、小俣浩之(おまた・ひろゆき)氏。
 中世のグレゴリオ聖歌に始まり、現代までの音楽を、解説付きで、共に旅するように導かれていった。出演は、カトリック多摩教会所属の信徒たち。合唱から演奏、ダンスまで、多くを演じ、予想以上に集まってくださった皆さまから、たくさんの拍手や歓声をいただいた。
 演目の中心は、小俣氏作曲「ミサ曲第1番」、初演。
 終演後のアンケートでは、「感激しました」「教会でもぜひ!」「私も歌いたい!」などの声が聞かれた。

(参考)
・ 「『CARPE DIEM』コンサート」(「カトリック多摩教会」ホームページ)
・ 「小俣浩之(おまた・ひろゆき)さん」(『扉をあけて 元気さん』 カトリック新聞6/21付記事
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※2:その前後の様子
晴佐久神父、「ほとんど脅し」中 終わって拍手。ホッとする一同。 (涙、涙)
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※3:「何度かお話した、若い息子さんを亡くしたご夫妻」
(参照)
・ 「天上での宴の始まり」(「福音の村」2015/4/19)
   ・・・最後の段落です。
   〈23歳の息子さんを亡くし、救いを求めてあちこち回り、多摩教会に初めて来られたときの様子が語られています〉
・ 「30年ぶりの聖体拝領」(「福音の村」2015/5/24)
   ・・・最後から2番目の段落です。
   〈毎週ミサに来られるようになったことが語られています〉
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※4:『十字を切る』
◎ 『十字を切る』 (出版社:女子パウロ会)

 著:  晴佐久昌英
 単行本: 218ページ
 ISBN: 978-4-7896-0716-2
 発売日: 2012年10月25日
 価格: 1,404円(税込)
 紹介: 「特に今、つらい思いを抱えている方、病床にある方、魂の救いを求めている方にこの本が届き、この世に十字の祈りが一つでも増えるならば、何よりの喜びです」(晴佐久神父:「あとがき」から)
―――――――――
「福音の村」でも、別途目次などを含め、ご紹介しております。>>> こちらです。
(参考・お求め)
・ 『十字を切る』 (Amazon) (ショップパウリーネ) 他
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※5:「この、12年間出血症を患った女性が」
2015年6月28日〈年間第13主日〉の福音朗読箇所
 マルコによる福音5章21〜43節〈小見出し:「ヤイロの娘とイエスの服に触れる女(下線強調:引用者)
 この「イエスの服に触れる女」というのが、「12年間出血症を患った女性」。
  >>>
「さて、ここに12年間も出血の止まらない女がいた。 (中略)イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた」(マルコ5:25〜27)
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※6:「『カトリック新聞』にまで載せちゃってね」
>>> 「小俣浩之(おまた・ひろゆき)さん」(『扉をあけて 元気さん』 カトリック新聞6/21付3面記事
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※7:「病者の塗油」〈もう少し詳細は既出
 七つの秘跡(キリストによって制定され、教会に委ねられた、秘められた神のわざを示す感覚的しるし)の一つ。司祭が病者に油を塗って祈る式、また、その秘跡のこと。
 重病あるいは高齢のために困難があるとき、死の危険が迫っているときに、病人の額と手に司祭が祝福された油を塗り、神の癒やしといつくしみ、聖霊のたまものを祈る。
 12世紀ごろから次第に臨終の病人のみに限られるようになり、「終油の秘跡」と呼ばれるようになっていったが、第二バチカン公会議を経て、現在では臨終の時に限らず与えられ、「病者の塗油」という名称に改められている。
 教皇フランシスコは、2014年2月26日の一般謁見演説の中で、この「病者の塗油の秘跡」について言及し、「人間に対する神のあわれみに、手で触れることを可能にしてくれる」と述べ、改めて「この秘跡が、イエスが病者や高齢者に寄り添ってくださることを確かなものとすること、また、65歳以上の人ならだれでも受けることができること」を伝え、「慰めと、前に進むためのイエスの力を与えて」もらうようにと勧めた。
(参考)
・ 「病者の塗油の秘跡」
   『カトリック教会のカテキズム』(カトリック中央協議会、2002年)
    「病者の塗油の秘跡」1500番〜1532番
・ 「病者の塗油」(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008年)
・ 「病者の塗油」(ウィキペディア)
・ 「病者の塗油の秘跡」(ラウダーテ)
・ 「病者の塗油の秘跡()()(この秘跡を受ける者、授ける者)(この秘跡執行の効果)」
   (ラウダーテ)
・ 「教皇フランシスコの2014年2月26日の一般謁見演説」(カトリック中央協議会)
・ 「ためらわず『病者の塗油』を2014/3/6(カトリック新聞オンライン)
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※8:「ゆるしの秘跡」
 カトリック教会で、七つの秘跡(洗礼、堅信、聖体、
ゆるし、病者の塗油、叙階、婚姻)のうちの一つ。
 洗礼以後に犯した罪を、教会の司祭を通してゆるし、罪びとを神に和解させる秘跡。
 現代の「ゆるしの秘跡」には、個別の「ゆるしの秘跡」と、「共同回心式」がある。
 ただ、これだけが罪のゆるしを得られる道ではない。祈り、善行、愛の業、また、聖体や病者の塗油の秘跡を受けることなどによっても、神のゆるしを受けることができると、教会は教えている。福音は、神の無条件のゆるしを説いているのであり、人が神への回心を何らかのかたちで示すとき、ゆるしが実現する。
(参考)
・ 「ゆるしの秘跡」
   『カトリック要理(改訂版)』(中央出版社、1979年)
     第3部「秘跡と祈り」-第35課「ゆるしの秘跡」pp.190〜198
・ 「ゆるしと和解の秘跡」
   『カトリック教会のカテキズム』(カトリック中央協議会、2002年)
    「ゆるしと和解の秘跡」1422番〜1498番
・ 「ゆるし」-【秘跡】
   『岩波キリスト教辞典』(岩波書店、2008年)
・ 「ゆるしの秘跡」(ウィキペディア)
・ 「ゆるしの秘跡」(「キリスト教豆知識」>ラウダーテ
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※9:「ここヤシ」
「こころの癒やしを求める青年の集い」のこと。
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※10:「このヤイロの会堂長みたいなものでしょう」
2015年6月28日〈年間第13主日〉の福音朗読箇所
 マルコによる福音5章21〜43節〈小見出し:「ヤイロの娘とイエスの服に触れる女」(下線強調:引用者)〉
  この「ヤイロの娘」の「ヤイロ」という人が「会堂長」。
  >>>
「会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、 しきりに願った。『わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう』」(マルコ5:22〜23)
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2015年6月28日 (日) 録音/2015年7月5日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英