霊的なアスリートとして

2014年2月23日年間第7主日
・第一朗読:レビ記(レビ19・1-2、17-18)
・第二朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント3・16-23)
・福音朗読:マタイによる福音(マタイ5・38-48)

【晴佐久神父様 説教】

 久しぶりに、全員集合って感じですね♪ 2週間、雪に閉ざされて、ミサに来られなかったっていう方も多いんじゃないですか?
 ミサは聖なるものですから、このミサに(あずか)らせまいとする雪も、邪魔する魔物というか、悪霊の片棒を担いでいるような気もしてきます。でも、ともかく今日は神の恵みのうちに、こうしてちゃんとみんな集まることができたんですから、3週間ぶりっていう人は、神様から愛されているっていう最高の喜びを存分に味わって、頂いた恵みを喜んで分かち合いましょう。
 皆さんは、今ここで、本当に神様から愛されています。「皆さんのうちに、もうすでに、神様は十分に恵みを下さっている」、これがキリスト教のね、本当に素晴らしいメッセージです。

 第1朗読では、「聖なる者となりなさい」って言ってましたけれど、(※1) 私たちはもう洗礼を受けて、「聖なる者」になってるんです。
 あるいは第2朗読で、「あなたたちは聖霊の神殿だ」って聞きました。(※2) 神様の愛そのものである霊が満ちる「神殿」なんですよ、私たち。すごいでしょ? この世界に、どんな立派な聖堂があるかわからないけれど、皆さんの存在自体が、神様の霊が宿る素晴らしい聖堂なんです。自分のうちに、もう聖霊は宿っているし、あとはそれが花開くというか、一人ひとりを通して霊の働きが発揮されていくのを信じて待つばかりってことですね。

 先週は、羽生結弦(はにゅうゆづる)の話をしましたけれど、(※3) 今週は、誰の話をするか想像つきますか? (笑) あ、わかっちゃいました? 浅田真央の話に決まってるじゃないですか。(大笑)
 いやもう、先週にも勝る感動があって。だって、あの涙見たら、泣けますよね。あの後、もう5、6回同じ映像見ましたけれど、最後、フリーの演技終えて真央ちゃんが天を見上げて泣きだすたんびに、私もまた涙がこぼれてきて。(笑) こうして話してても、感動がよみがえる。
 では、あの最後の涙の秘密は何なんですか? どうして泣いてるの? わかりますよね。
 羽生君のときもお話しましたけど、魔物がね、その人に与えられてる恵みを発揮するのを邪魔するわけです。ないものを得るのを邪魔するって話じゃないんです。あるものが発揮されるのを邪魔する。いっつも言うことですけど、何度でも言いますよ。・・・「あるんです」。皆さんの中に、すでにあるんです。答えはあるし、力はあるし、人を愛する本当に清らかな心、自分を信じる勇気、必ず救われるという希望・・・、ぜんぶあるんです。
 だけど、なにかの邪魔、いわゆる「魔物」が邪魔をして、本人を恐れさせ、疑わせ、信じる力、恵みを発揮する力を、消そうとするわけですよ。
 でも、結弦くんだったら、転んだ後、その魔物に打ち勝つ。彼、言ってました。「転んだ後は、気持ちとかじゃなく、本能で滑ってました」って。
 「本能」ってまさに、本人の獲得した力じゃないでしょ。最初っから与えられているもの。練習して得るものでもない。あえていえば、究極の練習の後にこそ発揮される、それこそ天から与えられた力です。そういう力を信じた時、魔物は消え、練習の成果も、持てる力も、十分に発揮される。
 真央ちゃんも、ショートプログラムでは、恐れに負けたけれど、フリーでは、その恐れに勝ったんです。あの演技見ましたでしょう? 「その人に与えられたものが、何の邪魔も妨げもなく、すべて発揮されて輝いている」っていうのが、やっぱり感動の本質なんじゃないですか? 私たちもそうできるんだっていう希望を与えてくれるんじゃないですか?
 だからその意味では、結弦君の場合は、次に滑った金メダル候補が彼以上にコケたから、「金」になりましたけど、本人は満足してないんです。インタビューで言ってましたでしょ? 本当の意味では満足できていないって。
 その点、真央ちゃんは何位ですか? 6位でしょ? だけど満足してるんですよ。
 これ、何が大切かよくわかりますよね。メダルじゃないんです。だって、成績が目標だったら、真央ちゃんは4年前の「銀」の方がずっと上でしょ? だけど「銀」のとき、真央ちゃん泣いてましたけど、あれは悔し涙ですよね。「金」を取れなかったから泣いたんじゃない。本人も言ってます。自分の最高の演技ができなかったからだって。まあ、それなりに良かったですけどね、4年前の演技も。でも、会心の演技ではなくて、本人はそれが悔しくって泣いた。
 今回は、6位で、彼女は同じく泣いてました。でも、今度はうれし涙なんですよ。自分に与えられたもの、自分にできる精いっぱいのことができた。・・・満足って、それじゃないですか? 人の評価じゃない。メダルの色でもないんです。自分が後悔せずに、与えられたものをちゃんと発揮できたっていうときに、人は満足するし、みんなも感動するし、神様も、お喜びになる。だって、その恵みを与えたのは神だからね。
 「やりきった」っていう、そういう喜びに向かっていきましょう。
 私たちでいえば、私たちは「霊的アスリート」ですから、氷の上ならぬ、霊の世界で勝負してるわけですね。いただいた恵みを、み心に従って、最高に発揮する。そうすれば、ホントの意味で、みんなを喜ばせることができる。それは、この世の何色のメダルっていうのと、ちょっと基準が違うんですね。
 みんなをホントに感動させることができるのは、その人が、与えられたものを、本当の意味で発揮したとき。それはだから、自分の持っている力の半分で金メダル取った人よりも、最下位だったけど、たとえば与えられた体が弱い体だったり、育ったのが恵まれない環境だったために最下位だったかもしれないけど、与えられたものを100パーセント出しきった人の方が、ずっと価値があるわけじゃないですか。
 それでいうんだったら、皆さんだって、体は弱いとか、いろいろ環境は恵まれないとか、経験が足りないとか、なんかいろいろと不満はあるかもしれないけれど、もらってるものを、たとえほんのチョットでも、精いっぱい輝かせたら、それが皆さんの、本当の満足だし、「悔いがない」っていう、そういう喜びがあるわけですよね。・・・メダルじゃない。
 まあでも、そうは言っても、真央ちゃん、日本国民は全員、「真央ちゃん、金メダルだよ!」って心の中で思ってるわけですから、見えないメダルは、もう山のようにかけられてるわけですよね。
 われわれだって、与えられたものは少なくっても、でも、自分にできることを、ほんのささやかなことでも、精いっぱいやったら、何かそこに、全天国の観客たちが、「金メダルだよ!」ってね、言ってくれる瞬間、これ、悔いなくっていいんじゃないですか?

 今日で、洗礼志願の締め切りですけどね。一応、昨日、期限内に面談予約した最後のひとりとの洗礼面談をして、締め切りました。
 まあでも、「ど〜しても今からでも受けたい!」ってごねる人が出てくれば、晴佐久神父様は、お優しいので、(笑)なんとかするかもしれませんが、一応、締め切って、今年は32名受洗します。
 今度の復活徹夜祭、またここに新しい家族が並びますよ。去年は30人に届かなかったからね、「入門係しっかりしろ!」とかって当たり散らしましたけど、(笑)それは八つ当たりですね。今年は入門係がしっかり頑張ってくれて、30名を超えました。
 なんか、ホントに一人ひとりに寄り添ってお世話しないと、その人の中の恵みが花開かないんです。面談で、受洗希望者の人生のプロセスを聴いていると、やっぱりこう、いろんな邪魔があるんですよ。その人の小さい頃からの環境、自分の中の恐れ、愛を信じられない気持ち、なんかそういう、いろんな邪魔があるけれども、それでもこうしてキリストの教会に出会って、福音を聴いて、その邪魔が、一つ、また一つって取りのけられていくんですね。そうすると、本来与えられていたものが、パッと輝きだす。

 昨日の入門講座でも、(この方が33人目になるといいのになあ)と思ってる方が来てました。その方にとってはまだ、「そのとき」ではないのかもしれない。ただ、昨日の入門講座で、その方が、少しお話ししたいって、みんなの前でお話ししてくれました。私が、「洗礼を受けるときっていうのは、啐啄同時(そったくどうじ)(※4)」って、禅の言葉を使ってお話してたら、「皆さんに私の体験を申し上げたい」って言って、お話してくれたんですよ。
 「・・・私は、ぜひ教会に行きたいと思ったけど、どこに行けばいいかわからなかったので、多摩市の教会をぜんぶ回って決めようと思った。調べたら、多摩市には11の教会がある。それで、順番に回っていった。ある教会で、私は仏教の教えも好きですって話したら、信者さんから、『あなた、教会で仏教の話ししちゃだめよ』って言われた。で、(あ、ここも違うな)って思って、次の教会へ。
 で、次の教会のチラシを持って、その教会に向かったのに、間違えてカトリック多摩教会に来ちゃった。(笑) 入門講座に参加したけど、どうもチラシの教会と様子が違う。あ、これは間違えたと思ったけど、そのまま座ってたら、神父が仏教の話をして、あらゆる宗教に働いている神の愛の話をしてた。それで(あっ、ここだ!)と思った」と。
 それ以来、去年の春からですから、もう1年近く、ず〜っと通っている方ですけれど、ちょうど昨日もね、禅の言葉なんか使ってお話してたもんだから、「自分はそういうところがうれしくて、この教会に来てるんです」って話をしてくれました。
 「こうでなきゃならん」とか、「そんな話しちゃだめよ」とかって言ってると、ホントに何かこう、その人の中で自由に花開こうとしている聖霊の働きの邪魔になるんですよね。
 「邪魔」の正体は、自分だけが正しいというとらわれ、狭い世界での思い込み、「こうでなきゃならん」っていう律法主義。それらが、やっぱり一番の魔物でしょう。本当はそんな魔物、いらないんです。全く必要ないんですよ。神様は愛であって、すべての人を幸せにしたい、喜ばせたい、そう思って、素晴らしい創造の(わざ)をなしておられるというのに、勝手にその中に悪を見出して、そこだけを見つめて、(あいつらは敵だ)、(こんなダメな自分は愛されてない)、(世の中が悪いから幸せになれない)、(今まで、運の悪い人生を生きてきた)、そんなふうに思い込んでる。それを取っ払ってください。一つひとつでもいい。
 教会こそ、さまざまな宗教を通して働く真に超越的な神の話をし、「神の愛のうちにすべての人が救われる」っていう、完全に自由でとらわれのない喜びを分かち合う場所なんじゃないですか。宗派、教派の邪魔を取り払い、自分はこうでなきゃならんというとらわれや恐れから解放されたときに、いったい自分が、霊的なアスリートとして、どんな演技ができるだろうと思ったら、ワクワクしませんか?
 自らの内なる神の力を信じることで、素晴らしい得点が得られるし、天においては神様が与えてくださるメダルが待ってる。これはホントのことですよ。それを楽しみにしたらいい。
 恐れて、自滅。信じて、花開く。・・・信じて、信じて、信じていきましょう。


 今年はまた一つ、夏に素晴らしいキャンプを計画してるんですけど、これ、どう考えてもなかなか難しそうな企画ではあるんだけれども、「信じる」っていうことだけで実現させようと・・・っていうか、必ず実現するって、私はもう分かってるんですけどね。
 去年、無人島のベースキャンプに合宿所とスタジオを建てたっていう話をしたと思いますけれども、(※5) これは私のいつものやり方ですけど、なんかよくわからないままに、ともかく目の前にあるものを生かす。
 「ああ、これはいい。合宿所になるね」。で、合宿所つくってから、「さあ、ここでなにしようか」って話ですよ。で、そういう話をする仲間がいて、古くからの大切な友人ですが、その彼とは今までも、実にいろいろなイベントをやってきました。今回も相談し合ってこの合宿所を建てたわけですが、この合宿所で何をしたらいいかっていう話が、なかなかまとまらなかった。
 「スタジオもあるから、ライブキャンプやろう」、「鹿児島教区の司教と相談して、鹿児島の青年たちとやろう」、まあ、いろんなことを考えたんだけど、どうも今ひとつピンとこないというか、うまくまとまらないままにきた。
 それがついこの前、2人で話し合ってた時に聖霊が(くだ)ったんです。まさに、教皇フランシスコ効果ですよ、「一番弱い人、一番苦しんでる人のために働け」っていう、それだけの話だって気づいた。
 それで、今年の夏、8月の上旬に、「心の問題を抱えている青少年のための癒やしのキャンプ」というのをやることにいたしました。資金集めて、なるべく参加者には安いキャンプにしようと思ってるんですけれども、ともかく、自信がなくて引きこもっているとか、社会に適応できずに苦しんでいるとか、病院で病名つけられて、自分の人生が暗いものになってしまったと思い込んでいるとか、そういう人たちに、こんな自分でも受け入れてもらえたとか、理解してくれる仲間に出会えたとか、共に祈ったり遊んだりして自分は幸せになれるんだと、実感してもらいたい。苦しんでいるその人の中にも、いや、まさにそういう人たちの中にこそ、素晴らしい神の恵みが隠されているから、そういう人たちを招いて、信頼関係をつくって、小さな天国を体験してもらう、そんなキャンプをやりたい。まずは、手伝ってくれる仲間を集めよう、当事者にも、最初からスタッフになってもらおうってことになった。
 それを思いついたときに、「ああ、これはうまくいくね」って、2人で感動して、「やっぱり話合ってみるもんだねえ」ってニコニコしてね。何かが花開く瞬間ですね。

 で、一緒に手伝ってくれる仲間を集めるわけですが、集め方っていうのは、僕はそういうやり方しか知らないので、「そういうやり方」で集めました。どういうやり方かというと、「現れるのを待つ」。・・・信じられます? ホントに今まで、ずっとそうやって生きてきたんですけど、それだけなんです。信じて祈っていると、目の前に現れるから、その人とやっていく。
 他のやり方を知らないんですけど、ホントに現れるんですよ。今までそうだったから、また今回も(そろそろ現れないかな〜)と。
 まず、全体の中心となる、総合司会役をやるような人間と、事務局をまとめていく事務局長みたいのと、その2人がどうしても必要。他にもいろいろ必要だけど、中心となるその2人がどうしても必要。で、(「コレ!」っていう人が現れないかなあ)って、つい先日考えてたら、電話が来た。私の友人の大学生からですけど、「大学の友人が多摩教会に行ってみたいって言ってるから、今日これから連れてくね」っていう電話だった。
 「大学の友人が多摩教会に行ってみたいって言ってる」。「今日これから連れていく」。
 当然私は、電話をかけてきた彼を総合司会に、(笑)連れてきた友人を事務局長にしようって決めたんです。(笑)
 (ああ、現れた。この2人だ!) そう決めて待ってたら、ピンポ〜ンってやって来た。
 で、その第1回目のミーティングを3月9日にやろうと決めてたんで、第1回目のミーティングから2人には出てもらわなくちゃならない。だから、ピンポ〜ンってやって来た、連れて来られたその友人に、玄関先で真っ先に聞きました。もちろんそれまで顔も知らない、まだ名前も知らない人ですから、初めての会話ですけど、「3月9日、空いてる?」って聞いたら、「はい・・・空いてます」。
 「じゃあ、ぜひ3月9日、ミーティングに出てください。頼みます!」
 「はい。いいですよ・・・でも、何のミーティングですか?」 (笑)
 で、そのキャンプの話を説明したら、その彼は大変やる気になってくれたし、学生の会の会長もしたことがあるなんてことなんで、これはもう、事務局長にぴったりなんです。聖霊が送ってくれたってことです。ありがたい、ありがたい。
 そして、友人を連れて来た彼に、「総合司会やってくれ」って言ったら、「やりましょう」って。
 後は、(精神科の看護の経験者もいるなあ)と思ってたら、ちょうど机の資料の山からバサッと落ちてきた手紙の中に、久しぶりに手紙をくれた、私の何十年来の友人の看護師さんからの手紙があって。精神科も経験してるんですけど、「また何か、晴佐久神父さんと活動したい」って書いてあったのをすっかり忘れてたのがバサッと落ちてきたので、「おお、ここにいた!」って電話をしたら、話すっかり盛り上がって、「3月9日、行きます」。
 それから、(みんなにおいしい飯、食わせたいね。キャンプではやっぱり、ごちそうを振る舞いたいな。おいしいもの食ったら幸せになるしね。シェフとか、連れて行きたいなあ)って考えてたら、これは「現れた」っていうよりは「思い出した」ですけど、(そうだ、パリで暮らしてた時に出会って、いつもアパートに招いて一緒に飯食ったシェフがいたなあ。今は日本で店を出してるし、電話してみよう)って久々に電話したら、「この何カ月、休みなしで働いてる。とてもじゃないけど5日も休めない」って言うから、「休みじゃない、仕事として頼む。断ると後悔しますよ」。(笑) 「聖霊に逆らうんですか。一生後悔しますよ」って言ったら、「・・・やります」。(笑)
 これでぜんぶ(そろ)った。(笑)
 信じて、信じて、絶対にうまくいくと信じて祈ってれば、秘められたものが花開く。
 (そんなのおかしいだろう)とか、(ありえない、無理だろう)とか思っちゃいけない。無理って思うその恐れが邪魔するんだから。邪魔さえ取り払って、信じていれば、必ず、神が働く。
 最高のキャンプをやりますよ。どうぞ応援してください。お金もかかりますけど、信じていれば必ず集まります。きっと、素晴らしい天国が実現して、きっと私は、その天国で、また泣くんでしょうねえ。ポロッと。「ああ、恐れを越えて、信じたから実現した。これで後悔はない」っていう、その満足感で。
 さっき読んだ今日の福音に、書いてありましたでしょう。
 「敵を愛せ」なんて言ってんですよ。(cf. マタイ5:44) できっこないと思うでしょう? でも、信じたらできるんですよ。敵なんて、最初っからいないんだから。愛しちゃえばもう、敵じゃないんだから。
 「右の頬を叩かれたら左の頬を出せ」(cf.マタイ5:39)って、「そ〜んなおとぎ話じゃあるまいし」って言うとしたら、それは違う。信じればできるんです。出せばいいんです。
 だってもう、その力は、皆さんのうちに与えられているんだから。・・・誰にでもできる。


【 参照 】

※1:「第1朗読では、『聖なる者となりなさい』って言ってましたけれど」
・ 本日(2014年2月23日<年間第7主日>)の第1朗読箇所
  レビ記 19章1‐2節、17‐18節
・ 「あなたたちは聖なる者となりなさい。」(レビ記 19章2節)から。
・・・< 文中へ戻る

※2:「あるいは第2朗読で、『あなたたちは聖霊の神殿だ』って聞きました」
・ 本日(2014年2月23日<年間第7主日>)の第2朗読箇所
  使徒パウロのコリントの教会への手紙一 3章16〜23節
・ 「あなたたちは聖霊の神殿だ」
 「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。 神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです」(一コリント3章16‐17節)から。
・・・< 文中へ戻る

※3:「先週は、羽生結弦の話をしましたけれど、」
・ 「魔物と戦って」 (「福音の村」2014年2月16日<年間第6主日説教> 参照
・・・< 文中へ戻る

※4:「啐啄同時」
・ 読みかた : そったくどうじ
  禅で、悟りを開こうとしている弟子に、師匠が、うまく教示を与えて悟りの境地に導くこと。「啐啄」とは、何かをするのに絶妙な時機を指す表現。
  「啐」とは、雛が卵の殻を破って産まれようとするとき、殻の中から殻をつついて音をたてることをいう。「啄」とは、そのとき、親鳥が間髪を容れず外から殻をつついてやることを指す。「啐」と「啄」があってはじめて、殻が破れて雛が産まれ出る。これを「啐啄同時」という。また、これを禅では師と弟子などに転じて用いる。
 (参考)
・ 「啐啄同時」(「鐘の音」‐仏教よもやま話 〈法話 京都 曹洞宗 出前法話〉より)
・ 「啐啄同時」(「法話」<「法話と禅語」〈臨済禅 黄檗禅 公式サイト‐臨黄ネット〉より)など。 ・・・< 文中へ戻る

※5:「去年、無人島のベースキャンプに合宿所とスタジオを建てたっていう話をしたと思いますけれども、」
・ 「見よ、それは極めて良かった」 (「福音の村」2013年9月1日<年間第22主日説教> 参照
・・・< 文中へ戻る


2014年2月23日 (日) 録音/2014年3月1日掲載
Copyright(C) 2014 晴佐久昌英