最後は黙る

2016年2月14日 四旬節第1主日
・第1朗読:申命記(申命記26・4-10)
・第2朗読:使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ10・8-13)
・福音朗読:ルカによる福音(ルカ4・1-13)

【晴佐久神父様 説教】

 重力波(※1)が、ついに観測されました。
 私にとっての、先週のトップニュースです(※2)。二つのブラックホールがぶつかって、そこから重力波が全宇宙に広まり、地球上でそれを観測した、と。こういう壮大な話が、私は大好き。
 だいたい私、宇宙の話をするのが好きでしょ。スッとするんですね。日ごろ私たち、この地上のこまごまとしたこと、「あの人とうまくいかない」とか「この人に傷つけられた」とか、「あれがほしい」とか「これが足りない」とか、そういう現実のことで頭の中はいっぱい。まあ、それはそれで人間らしくていいんだけれど、時どきね、「ブラックホールが二つぶつかって、強い重力波が全宇宙に広まったために、ついに100年前の予言どおり、地球上で観測できました」なんていう話を聞くと、なんだかスッとする。
 ・・・なんかこう、地球上のことだけじゃなく、神さまがおつくりになっている、この全宇宙の神秘を感じるし、その大きな宇宙の中で神さまが生かしている、この小さな「私」という神秘も感じるし、・・・そういう偉大な力を前にして、私たちはただもう、「はいっ。神さま、あなたは素晴らしい方です。もはや私は何も申しません」と、頭を下げる。なんか、そういうのが清々(すがすが)しいですね。
 今日は、洗礼志願式(※3)です。今年も、30名以上の方が洗礼を受けます。志願者となる方はもちろん、すべての人は、この神さまのみ前で、頭を下げていただきたい。

 神さまは偉大です。皆さんが思っているよりも、一億倍偉大です。
 私たちが知っているよりも、一兆倍素晴らしい存在です。
 私たちが期待しているよりも、一千兆倍、神は愛です。愛そのものです。
 私たちは、分かってないだけ。知らないだけ。だからもう、その神さまを前に、私たちは黙ります。そして、「あなたこそ神です。ただ、あなたを礼拝します」と、そう申し上げる。
 イエスさまが誘惑を受けましたけれど(※4)、その誘惑は、たとえば、「パンになるように命じたらどうだ」(ルカ4:3)とかね、「一切の権力と繁栄を与えよう」(ルカ4:6)とかね、まあ、生理的な欲求とか、心理的、社会的な欲望とか、あるいは、「天使に守ってもらえ」(cf.ルカ4:10-11)とかっていうような、身の安全を確保する要求だとか。要するに、すべて自分に都合のいい話ですよね。この自分の欲求、欲望、要求、・・・そういう、人間中心の思いですね。
 これ、「悪い」っていうんじゃないんです。パンを食べなきゃ生きていけないし、安全を求めるのは当然ですし、ちょっとは権力とか繁栄もね、欲しいじゃないですか。すごく人間らしい。それがすべて悪いとは言わない。ただ、その要求を極め続けると、神からどんどん離れていっちゃう。
 だから、面白いことにっていうか、人間の欲求や欲望や要求って、極めようとすると破たんするんですね。ある意味、それが神さまのみ(わざ)でもあるわけですよ。それによってご自分に気づかせようという。破たんしたときにこそ私たちは、自分の思いをはるかに超えた、神の偉大なる愛を知って、「もう、黙ります」と言える。
 だから、あれこれ求めてもいいんだけれども、たとえそれが得られなくとも、「最後は黙る」。・・・これですね。
 大事な標語として、覚えといてください。
 「最後は黙る」
 ・・・「最・後・は・黙・る」、5文字です。覚えられないはずがない。「最後は黙る」。
 いろいろ言っても、いいんです。でも、最後は黙る。神のみ前で何を言っても無駄。すべてをご存じでおられる方に言う必要もない。

 昨日、去年の新受洗者のための聖書クラスっていうのがあって、昨日はヨブ記を読んだんですね。みんなで読んだんですけれども、改めて読んでみると、感動しますね。
 ヨブが苦しみの中で、神さまにあれやこれや、文句を言うわけですね。それは、私たちでも、そういうときがある。「神よ、なぜ私にこんなことを」とかね、「どうしてこんな社会に」とか、「なんでこんな災害が」とか、まあ、いろいろ神さまに文句を言うし、時には、「そんな神なんか、そもそもいないんじゃないか」とか、まあ、あれやこれや言うわけです。私たちの心の中は、そういう不満とか、文句とかでいっぱいですよね。
 だけど、神さまが、ヨブに突然、語りかけるんです。「この天地をつくったのは私だ」って語り始める (cf.ヨブ38〜) 。で、延々と、ご自分がつくったこの宇宙の神秘、大自然のさまざまな素晴らしさを語り尽くすんですね。たとえば、神さまがその言葉の中で、ヨブに向かって言うんですね。
 「天の法則を知り、その支配を地上に及ぼすのはお前か」(ヨブ38:33)
 そう、神さま、聞くんです。
 つまり、「この天の法則を知って、それを地上に及ぼすのはお前か? ブラックホールを二つぶつけて、重力波を全宇宙に広める。それは、お前がやったのか?」
 神さま、そう聞いてるわけですね。そんなふうに、延々とご自分のみ業(・ ・ )を語り尽くして、最後に神さま、こう言う。
 「全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。神を責めたてる者よ、答えるがよい」 (ヨブ40:2)
 そう言うんですよ。そうすると、ヨブは何て答えたか。
 「わたしは軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。わたしはこの口に手を置きます。 ひと言語りましたが、もう主張いたしません。ふた言申しましたが、もう繰り返しません」 (ヨブ40:4‐5)
 こう言うんです。
 「私はこの口に手を置きます。ひと言語りましたが、もう主張いたしません。ふた言申しましたが、もう繰り返しません」(ヨブ40:4‐5)
 そりゃそうですね。天地の創造主、全能の神を前にして・・・最後は黙る。
 神さまを前にして、私たちは、もう、何か言うだけ無駄。この宇宙の神秘の中で、ひたすらに自分の小ささを知って、口に手を置く。文句言わない。

 文句と言えば、先週のニュースで、もう一つ、私がど〜〜しても気になったニュースがあった。
 それは、ついに、「隕石に当たって死んだ人が出た」っていうニュース(※5)。インドでね、40歳の男性が、水を飲んでたら、隕石に当たって亡くなったそうです。
 それがどうして気になるかっていうと、「隕石に当たって死ぬ」というのが、私の夢だったから。(笑) これは私の、・・・もう、憧れというか。だって、いずれ死ぬわけでしょ、ぼくらね。病気で死ぬのか、事故で死ぬのか。ならば、「できることならば、神さま、隕石に当たって死なせてください」って、ず〜っと私、祈ってた。
 実は今まで、科学的に検証できるようになってからの記録では、「隕石に当たって死んだ」っていう公式の記録が、見当たらないんですね。けがした人はいるみたいです。だから、「私がその第一号になって、隕石に当たって死ぬんだ!」って思っていたのに、インドで、つい先日隕石に当たって亡くなった人が。・・・できれば助かってほしかった。私が第一号になりたかった。(笑)
 この願望には、実はもう二つあって、一つは、「無人島の浜で死にたい」っていうのと、「ミサの司式中に死にたい」っていうのがあって、これをぜんぶ組み合わせると、「無人島の浜で、ミサの司式中に、隕石に当たって死にたい」。(笑) ・・・夢見てます。なんか、宇宙的な最期じゃないですか。
無人島で、神を賛美しているミサ中に、何億年もかけて飛んできた隕石にゴンと当たって、天国へ。まあ、ただ、前から飛んでくるのは怖いから、(笑) 後ろからそっときて、「ゴン」っていうのがいい。(笑) しかも、ギザギザのは痛いから、ツルンとしたやつで。(笑)
 ・・・でも、これは、かなわないんでしょうね〜。・・・う〜ん、かなわないんでしょうね・・・。こういう人間の浅はかな要求や、勝手な思いなんて、絶対かなわない。むしろ、自分にとって、一番都合の悪いような、「あ〜あ、結局こういうことか」っていうような、まったく思ってもみなかったような、残念なことになってくんでしょうね、きっと。
 ただ、私、最後は、黙ろうと思ってます。
 とりあえず言いますよ、「神さま、この病気、治してくれ!」「神さま、死ぬときはこんなふうに!」って、まあ、一応言いますけど、・・・最後は、「黙る」つもりです。
 「何もかもうまく行かなかったけれど、もう、何も申しません。私はこの口に手を置きます。なぜなら、あなたがすべてだから。あなたのお考えがすべてだから。あなたの愛のお考えさえあれば、あとは私の貧しい考えなんか、何ひとついりません。私のすべてをお委ねいたします」
 そう言って、あとは、黙る。

 洗礼志願式で洗礼志願者となったならば、ホントにもう、洗礼式までの間、この「黙る」っていうやつをね、練習してほしい。あれこれ祈るっていうのも、まあ、大事ですけれど、最終的には、神のみ前(・ ・)で、「私は黙ります」っていう、そういう信仰を、育てていただきたい。
 だけど、この「黙る」っていうやつは、気持ちいいことですよ。大宇宙の神秘を前にね、神さまの偉大な愛を前にね、私たちは黙ります。こまごまとした、自分の足りなさとか、弱さとか、罪深さとか、そんなのもぜんぶ、神さまにお委ねする。・・・「神さまがぜんぶよくしてくださる」と信じて。
 だから、四旬節(※6)って、まあ、回心の季節ですけど、「私はこんな悪いことしました」「こんな弱い点があります」なんていうことを、洗い出すような、そんなことじゃないんですよ。そんなこと、もう神さま、千も万も承知ですし、「自分は弱い」「自分は過ちを犯している」、・・・そんなこと、自分が一番よく知ってますから、今更そこを糾明して、回心しようとか、そんなことじゃないんですよ。
 もう、そんな弱い自分、罪深い自分、自分ではどうすることもできない自分を、神さまがなんとかしてくれる。そこを信じるんです。そこにおいて私たちは、ただ、黙ります。

 「罪」っていえば、私、皆さんに告白しなければならない犯罪を犯しました。え〜、窃盗ですね。
 香部屋係の方、ミサ用ぶどう酒がなくて、お困りだったでしょう。(笑) あれ、私が持ってっちゃったんです。灰の水曜日(※7)の前の晩、謝肉祭(※8)だとかいって、近隣の牧師先生がたをお招きしてね、一緒に水炊きなんか食べてたんですけど、ある牧師が、「ミサで用いるぶどう酒、飲んでみたい!」とかって。(笑)
 あれ、「甘味果実酒」っていって、結構おいしいんですよ。「じゃあ、ちょっと飲んでみますか」って、香部屋(※9)に行ってね、冷蔵庫のぶどう酒を持ってきて、みんなにちょこっとずつ試飲させて、そのまま返すの忘れてたんですよ。で、今日になって冷蔵庫の中を見たら、新しいぶどう酒が入ってるんですね。係りの人が探してもなかったから、新しいビンを開けたんでしょう。私が慌てて前のビンを返したから、今、開いてるビンが2本入ってる。(笑)
 これ、「教会のぶどう酒を、勝手に飲んだ」ってことで、「窃盗」といえば、窃盗ですよね。・・・お詫び申し上げますが、こういう人間の罪とか、勝手な行動っていうのは、人に迷惑を掛けるわけですから、悪いことではあるんだけど、そういう罪を責め立てる、あるいはそういう自分を責め立てるとしたら、それは、四旬節の心じゃないです。
 むしろ、「そこまでだめな自分だけれども、そんなふうに迷惑を掛け合っている私たちだけれども、神さまは、こんな私たちを、ホントに愛してくださっていて、ゆるしてくださっていて、すべての悪いものを、よいものに変えてくださる。そんな神の愛を、どこまでも信じる」。これが、四旬節の回心。
 もう、そこにおいては、絶対に揺るがぬ信仰を持ちます。
 ですから、私たちが、神さまを前にして、ごちゃごちゃとしゃべりだすとき、これ、やっぱり危険なときですね。弁解をしたり、勝手な願いを並べたてたり。・・・特に「文句を言いだすとき」、これ、非常に危険なときです。「神さま、なんでこんなことをしたのか」とか、「もっと私をこうしてくれたらよかったのに」とか、神を責めたてるとき。・・・非常に危険なときです。
 「最後は黙る」。黙りましょう。神さまのみ前で、静かに、「沈黙」という信頼のしるしを捧げます。・・・黙想のとき、瞑想のときですね、四旬節。

 今日、このあとで「洗礼志願式」があるわけですけども(※10)、お一人おひとりの顔を、こうして見ていますと、かつて、お一人おひとりの中に、大変さまざまな、「文句」というか、「悩み」というか、身勝手な言葉が渦巻いていたのを、私、思い出します。
 最初にこの教会に来たとき、皆さんそれぞれ、私との面談で、い〜っぱいしゃべりましたでしょ。・・・まあ、神父はあまり聴いちゃいないんですけど。(笑) ま〜あ、いっぱいしゃべった。ダーッとね。ああでもない、こうでもない、と。
 私はこんな人生だった、こんなふうに苦しんできた、こんなふうに願ってきた、だけれど今はこんなふうに悩んでいる。どうしたらいいのか。神よ、なぜ。・・・まあ、いっぱいしゃべってきた。
 そのさまざまな言葉を、今日、洗礼志願式において、鎮めていただいたい。
 「人はパンだけで生きるものではない」(ルカ4:4/マタイ4:4)の後に、マタイ福音書では、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)っていうのがあります。
 あなたがしゃべってるうちは、神の言葉が聴こえないんです。
 ・・・やっぱりまず、黙らないと。
 「私の言うこと」なんていうものは、ホントにちっぽけなんだから、もう、「この口に手を置きます」(ヨブ40:4)って言わないと。そうして、宇宙の根源から広がってきたような、重力波のような、神さまからの、偉大なる力、完全なる愛、永遠なる希望、そんな恵みを、私たちは受け止めます。
 洗礼志願式では、もう、ごちゃごちゃ言わない。黙って、皆さんは志願者となってください。そして、洗礼式のとき、父と子と聖霊のみ名によって水をかけられたときに、皆さんは本当に神さまのみ前で、完全なる沈黙の存在となって、静かに神さまの恵みに身を浸します。

 この四旬節の間、ぜひ、祈り続けてほしい。
 ・・・しかし、その祈りは、自分の言葉を黙らせる祈りであってほしい。
 洗礼志願をする皆さんに、神さまが、そのような恵みを、今日、惜しみなくお与えくださいますように、心から祈ります。
 呼名をいたします。洗礼を志願する人は、返事をして、その場にお立ちください。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます)

※1「重力波」
◎「重力波」
 アインシュタイン博士が、1916年に提唱した一般相対性理論(ものすごく簡単にひと言でいうと、「重力」をうまく説明してくれる理論)によると、質量を持ったものは、ただ、そこに存在するだけで、空間と時間(あわせて「時空」と呼ぶ)にゆがみができる。重ければ重いほど、そのゆがみは大きくなり、移動するとことで、時空のゆがみは変化する。そして、その変化は、光の速さで伝わっていく。この、変化の波のことを、「重力波」と呼ぶ。(巨大な質量のものが、光速に近い速度で運動すると、「強い重力波が発生する」ということになる)。
 「重力波」は、時空のゆがみが伝わるものなので、星でも身体でも、すべてのものを突き抜けて伝わっていく。
(参考)
・ 「重力波ってなんだろう」2016/2/13(THE HUFFINGTON POST)
・ 「重力波研究の歴史」(「KAGRA/大型低温重力波望遠鏡」HP)
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※2:「私にとっての、先週のトップニュースです」
 一般相対性理論のなかで、唯一、直接観測されていなかったのが「重力波」。アインシュタイン博士によって、100年前に、その存在は「予言」されていたものの、「アインシュタインの『最後の宿題』」とされていた。
 その「重力波」を、2月11日、アメリカにある「LIGO重力波観測所」の国際研究チームが、初めて直接観測に成功したと発表。地球から数十億光年離れた場所で、二つのブラックホールが衝突することによって、時空のゆがみが発生しているのを観測した。
 この観測は、ブラックホールの存在を裏付ける証拠でもあり、また、ビッグバン解明の手掛かりとなるかもしれないともいわれている。ノーベル賞に値する成果と歓迎され、日本の専門家も「天文学の飛躍的な発展につながる」と、高く評価している。
(参考)
・ 「日本も目指した『重力波』の初観測2016/2/12(NHK「かぶん」ブログ)
・ 「重力波観測成功で梶田さん『歴史的快挙』2016/2/12(NHK「かぶん」ブログ)
・ 「重力波をブラックホールから『観測』 アインシュタインが予言2016/2/12(BBC NEWS JAPAN)
・ 「重力波の初観測、宇宙探究の新境地に 世紀の宿題に答え2016/2/12(朝日新聞デジタル)
・ 「アメリカLIGOグループの観測結果に関する記者会見内容を受けて
  -KAGRA計画代表、梶田隆章教授のコメント-2016/2/12(「KAGRA/大型低温重力波望遠鏡」HP)
・ 「『重力波』キャッチで原始宇宙の謎解明「予言」から100年、直接観測へ2016/2/11(産経ニュース)
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※3:「洗礼志願式」既出
 洗礼を望む人が、教えを学ぶ求道者の段階から、正式に洗礼を受ける意思を表明し、そのものとして教会に迎え入れられる儀式のこと。この儀式を経ると、求道者は「洗礼志願者」と呼ばれる。
 古来教会では、「恩恵に照らされた者」「資格ある者」「選ばれた者」などと呼ばれた。
 元来、四旬節が洗礼志願者の受洗準備期間として形成されたことから、洗礼志願式は四旬節の初めに行われるのが本来とされる。
 四旬節の間は、ミサの典礼と結ばれて、志願者への力づけ、清め、照らしを願う祈りが行われる。
*******
(備考)
 成人が初めてカトリック教会を訪れ、キリスト者になるまでの歩みは、三つの儀式(段階)と、四つの養成期間に分けて説明することができる。これらの段階や、養成期間は、神の恵みに応えるようとする人間側の順応性に配慮して設けられたものといわれている。
1.四つの養成期間 
 ①「求道期前」(福音の告知) ②「求道期」(入信準備期) ③「洗礼準備期」 ④入信直後の期間
2.三つの儀式 
 ①「入門式」 ②「洗礼志願式」 ③「入信の秘跡(洗礼、堅信、聖体)の祭儀」
==(流れ)==
 ①「求道期前」(福音の告知)→ ②入門式
求道者となる)=「求道期」= → ③洗礼志願式洗礼志願者となる)=「洗礼準備期」= → ④入信の秘跡の祭儀キリスト者となる)→ ⑤入信直後の期間
*******
 詳しくは以下の(参考)などをご覧ください。
(参考)
・ 『岩波キリスト教辞典』(岩波書店、2008 )
・ 『成人のキリスト教入信式』(カトリック中央協議会、1976)
・ 『カトリック教会のカテキズム』(カトリック中央協議会、2002)
・ 「入信のプロセスとは」(カトリック京都司教区
・ 「だれが洗礼を受けることができるか」(「カテキズムを読もう」ラウダーテ) ほか
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※4:「イエスさまが誘惑を受けましたけれど」
2016年2月14日(四旬節第1主日)の福音朗読箇所
 ルカによる福音書4章1〜13節
  〈小見出し:4章1〜13節「誘惑を受ける」〉
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※5:「『隕石に当たって死んだ人が出た』っていうニュース」
 2月6日、インド南部タミルナド州の大学敷地内で、謎の落下物が爆発。バス運転手1人が死亡、3人が負傷した。州当局は、「隕石によるもの」と発表したが、その時点で、科学的分析結果が出ていたわけではない。その後、インドの科学者チームが分析を進め、9日には、「隕石落下死亡説」に疑念を表明。一方、米航空宇宙局(NASA)も、10日、写真を精査した結果、隕石が原因だった可能性は低いとの見解を示している。
 地元の警察によると、爆発物が検出されなかったため、爆発物によるものでもないという。
(参考)
・ 「隕石で史上初の死者? =大学で謎の落下物爆発‐インド2016/2/9
   〔時事通信:Yahoo! ニュース:隕石落下関係ニュースリスト
・ 「インド 隕石で男性死亡?・・・事実なら約200年ぶり2016/2/10(毎日新聞)
・ 「隕石落下死亡説、インド科学者チームが疑念表明2016/2/12
   〔ロイター、Yahoo! ニュース:隕石落下関係ニュースリスト
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※6:「四旬節」
◎「四旬節」 〈 英:Lent 〉(既出)
 「四旬節」は、ラテン語で「第40の」意味。英語のLentは日が長くなる季節(= 春)を意味するlengthenが変化した語とされる。
 この「40」という数は、イエスが公生活の始め、荒れ野で40日間断食をされたことに由来し、同じく「40」日の祈りと節制を通して、回心と償いをする期間として、「四旬節」の習慣が始められた。
 もともとは「復活の主日」(復活祭)に洗礼を受ける人々の準備期間とされていたが、その後、すでに洗礼を受けた者も、洗礼の約束を更新するためにと、全教会で行われるようになった。
 元来、復活の主日(「春分の日」後、最初の満月の次の日曜日。ゆえに毎年異なる日にちとなる)に先立つ40日間だったが、現在のカトリックの典礼では、灰の水曜日から、聖木曜日の「主の晩餐の夕べのミサ」直前(日没の午後6時〜7時)までとなり、さらにその間の主日(日曜日)を除くため、正確には37日と18〜19時間となった。
 この間、キリストの受難を思い巡らし、回心と節制、愛の行いを通して、キリストの復活を記念する復活の主日を準備するよう勧められている。
 典礼色は紫を用いる。
*******
※例:【 2016年の「四旬節」 】 〈2016年「復活の主日」は3月27日(日)〉
🔸2月

 2月10日(灰の水曜日)2月29日(月・月末)
  ⇒ 20日間( 日曜日を除くと17日間
🔸3月
 3月1日(火)〜
3月24日(木)「主の晩餐の夕べのミサ」直前 (日没の午後6時〜7時)
  ⇒ 23日間と18時〜19時間( 日曜日を除くと20日間と18時〜19時間 )
🔸合計:2016年の「四旬節」

 2月10日(灰の水曜日)〜3月24日(木)「主の晩餐の夕べのミサ」直前(日没の午後6時〜7時)
  ⇒ 43日間と18時〜19時間(日曜日を除くと37日間と18〜19時間
の期間。 
(参考)
・ 『岩波キリスト教辞典』(岩波書店、2008)
・ 「四旬節 断食(大斎・小斎)とは?」(カトリック中央協議会)
・ 「典礼解説・四旬節」(カトリック中央協議会)
・ 「四旬節」(キリスト教豆知識ラウダーテ
・ 「四旬節」(ウィキペディア)」ほか
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※7:「灰の水曜日」(既出)
◎「灰の水曜日」 (英:Ash Wednesday)
 四旬節の最初の日。
 復活祭の46日前(日曜日を除くと40日前)の水曜日にあたる。
 この日、信者は前年の受難の主日(枝の主日)に祝福された枝を燃やしてできた灰を額や頭に受けて回心のしるしとする「灰の式」が行われる。灰は古代から悔い改めのしるしとして用いられてきた。
 初期のキリスト教もこの習慣を受け継ぎ、罪を犯した者が公に悔い改めを表すしるしとして、灰を頭や額に塗るようになった。信者がこの日のミサの中で灰を受けることは11世紀末から始まった。
 この日から復活祭の準備期間である四旬節に入るに当たり、信者は灰の式の中で自らの行いを悔い改め、福音に従う生活を送るよう司祭から勧められる。(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008年)
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※8:「謝肉祭」
◎謝肉祭 (カーニバル/英:carnival)
 四旬節直前の祝祭のこと。語源として中世ラテン語carnem levare「肉を断つこと」が定説とされる。四旬節直前あるいは2月から、「灰の水曜日※7」以前の三日間に行われる。
 四旬節に入ると、信徒は人間的欲求を抑制することを学ぶ。この肉を断つ期間に入る直前に、肉を与えてくれた神に感謝を捧げるのが本来の意義と考えられる。
 しかし、春を迎える異教の祭りや迷信との習合から、現在の形態になったと考えられている。
 現代では、リオデジャネイロのカーニバルに代表されるが、実際には、宗教色のない、単なる祝祭の意味に転化している。ドイツ南部やオーストリアなど、仮面舞踏会や仮装行列などを行う国もある。(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008)
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※9:「香部屋」
◎香部屋
 典礼の準備をするための小さな部屋で、司祭や侍者などの奉仕者が、聖堂に入退堂しやすい場所に設置されている。典礼で用いる祭器具や、祭服、典礼書などを保管し、祭服を着用する際にも使われている。
 「香部屋」の名前は、元来、ミサの間に、香炉の種火を取り替えるために待者が出入りしたことから付けられた。
 香部屋係は、この香部屋で奉仕する係の人のこと。
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※10:「今日、このあとで『洗礼志願式』があるわけですけども」
 この日は、ミサ中に、次の復活祭に洗礼を志願する方々の「洗礼志願式」が行われ、30人ほどの方々がこの式に与った。式は、式次第に従って進んでいくが、多摩教会では、以下のような流れになっている。
(1)司祭から、一人ひとりのお名前が呼名され、その場で起立。
(2)代父母、教話担当者(司祭、修道者)、入門係や世話役などに、彼らが「洗礼志願者」となる準備ができているかなどの確認の応答があり、求道者たちが心から道を求めて歩んで来られたことを証言する。
(3)司祭は、求道者に、入信の秘跡(洗礼、堅信、聖体)を受けることを心から望むかと尋ねる。
(4)求道者は、入信の秘跡を望むしるしとして、洗礼志願書に署名し、一人ずつ祭壇に捧げる。
(5)聖香油の塗油を受ける。
(6)「使徒信条」を授かる。
 
画像順に、
① 呼名の途中(一人ひとり、司祭から名前を呼ばれ、その場で起立します)
② 聖香油の塗油 ‐1
③ 聖香油の塗油 ‐2
④ 「洗礼志願書」に署名
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2016年2月14日 (日) 録音/2016年2月21日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英