キリスト者は人を救うことができる

【カトリック浅草教会】

2017年11月19日 年間第33主日
・ 第1朗読:箴言(箴言31・10-13、19-20、30-31)
・ 第2朗読:使徒パウロのテサロニケの教会への手紙(一テサロニケ5・1-6)
・ 福音朗読:マタイによる福音(マタイ25・14-30、または25・14-15、19-21)

【晴佐久神父様 説教】

 先日の私の健康診断の結果を、信徒に報告する義務があろうかと。・・・「要治療」という評価を頂きました。その理由ですが、「隠れ肥満」と書いてあった。(笑) なんか、中性脂肪が高すぎるんですって。同じこと言われているお仲間もここにおられるんじゃないですか? ・・・やっぱり、ワインの飲みすぎかな~と反省して、先週一週間、控えましたし、なんと! 隅田川の河原を歩いたんです!(笑) 一日だけ。(大笑) 毎日、行こう、行こうと思うんですけど、寒いからなあ・・・。
 私、つくづくとですね、体が少しずつ弱ってるのを感じます。当然です。もう、還暦を過ぎました。歯も抜けて、今も・・・痛い。(笑) しかしですね、先ほども、ミサの直前に、「だいじょうぶですよ! ご安心ください」ってね、ご病気の方に申し上げたところです。
 体は弱り、確実に老いていくし、病むこともある。それは誰でもそうなんだけれど、じゃあ、なぜ「だいじょうぶです」と言えるかというと、すべて神のみわざだからですね。老いも(やまい)も、これ、神のみわざのうちでしょ。神は、病まない体につくらなかったんですよ。病むことのある体につくった。別に、悪魔がやって来て、病気にしてるわけじゃないですよ。すべての人が、何かしら、どこかしら、病む。そして、すべての人が老いていく。神がそう決めたんだから、当然のことです。ということは、そこに、神さまは何か特別な恵みを与えてくださってるってことですね。その、老いとか病とかを通してこそ輝き出るような恵みです。もちろん、元気いっぱいで働いているときも、それなりに実りをもたらしますけれども、実は、元気がないとき、落ち込んだとき、そういうときこそが、神さまのホントの恵みが輝き出る、恵みのときなんですよ。それを知っていると、まさに、「希望」が湧いてまいります。「ここが、神さまの場所だ。恵みのときだ」と。

 入門講座に来ている一人の青年が、先週、マタイ福音書をず~っと読んでたそうですけど、いろいろ書いてありますよね、今日もマタイの福音書を読みました(※1)。彼は、ず~っと読んでいって、イエスさまの十字架のところを読んで、復活のところを読んで、そしてついに、マタイの福音書の一番最後の一行までたどり着いたんですね。その、最後の一行を読んだら、おもわず涙がこぼれたって言ってました。なぜだかわかります? ご存じですか? マタイ福音書の最後の一行。
 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)
 それを読んで、彼、感動したんです。ああ、イエスさまが、こんな私と、「世の終わりまで」ですよ、共にいて、守り、導き、励まし、支え、働いてくださっている。こんなうれしいことはない。こんな安心なことはない。それに、はたと気づかされた。
 まあ、バラバラで読むだけじゃなく、やっぱりたまには、ず~っと通して読むのもいいかもしれないですね。
 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(ibid.)
 病んでいるとき、老いていくとき、なかなか、いろんなことがうまくいかないとき。クヨクヨするとき、なんでこんなことになっちゃったんだろう、もっとああすればよかったんじゃないか、・・・過去を振り返るとき。そんなときでも、落ち込む必要はぜんぜんないっていうことですよ。だって、愛である主が共におられて、世の終わりまで一緒にいてくださるんだから。落ち込むどころか、むしろ、この病を、この痛みを、この老いを、神さまが用いてくださるんだ、と。
 だからまあ、堂々と、わが弱さをですね、(さら)したらいいんです。なんの問題もない。それどころか、それが知らぬ間に、誰かにとって、とても素晴らしいしるしになったりもするんですよね。「こんなに情けない私だけど、それでも共にいる主を信じます」って言って、精いっぱい信じている、そんな姿を通して、見知らぬ誰かが、本当の信仰に目覚めていったりする。
 ・・・「働いてるのは主ですから、私はただ『弱い私』というこの場を提供します」みたいな、そんな感じでしょうか。

 さっき、ミサの直前に病者の塗油(※2)を受けた方は、もうお帰りになりました。都合があって、どうしても9時台にしか来られないっていうことなので、ミサの前に病者の塗油を受けて、ご聖体を頂いて帰られました。ただ、ミサの一番最初のところだけ、聖堂の後ろの扉の向こうから、名残惜しそうにのぞいていたので、それで私、申し上げたんですよ、「だいじょうぶですよ! 皆さん、ご安心くださいね」って。私、ミサの初めに、そう言ってましたでしょ。
 でもそれは、その人に限らず、みんな、一緒ですよね。その人は、わざわざ北海道から東京まで来て、病者の塗油を授けてもらいたいと願ったわけですけど、・・・重い病気なんですよ。不安でしょうねえ。何とか、福音を聴こうと、飛行機に乗ったわけです。さまざまなつらい思いがあるんでしょうね。
 でも私は、何も恐れることなく、そんなこと言っても無駄だろうなんてかけらも思わず、「だいじょうぶです、ご安心ください」と、そう言える。なぜなら、神がそう言っているからです。私の心の中では、いろいろモヤモヤした思いがあったとしても、そんなこと、関係ない。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」って、そうイエスさまが言ったんだから、この人とも共にいる。だから、「だいじょうぶ」なんです。
 この、共にいるキリストの言葉をきちんと取り次ぐお仕事っていうのは、キリスト者の特権ですね。なんの勉強もいらない。知識もいらない。才能もいらない。病んでいてもいい。老いてもいい。それでも、人ひとりに、希望を与えることができる。キリスト者は、人を救うことができる。これは特権ですね。

 「5タラントン預けられている」 (マタイ25:15) って聞いても、その価値を知らなければ、「ふ~ん、5タラントンね」って思うでしょうけど、知ってる人だったら、「え~!?」って驚く話なんですよ。「1タラントンは、一人の人の約20年分の賃金」って、そこに説明があると思います(※3)。「20年分の賃金」って、いうなら一生働いて稼ぐ金、みたいな額でしょ。5タラントンっていうと、×(かける)5ってことですから、まあ、正確にはどれくらいの額なのかはともかく、イエスさまがこのたとえを話したとき、聞いていた人たちは、「え~!?」って思ったわけですよ。
 「5タラントンも預けたって!?」
 イエスさまの意図は明らかです。聞いてる人に、「えっ? ってことは、私も神からそんなに預かってるの?」と、そう思わせるためのたとえですね。・・・でもね、事実それだけ、いやそれ以上に預かってるんですよ、皆さん。「5タラントン」どころか、100タラントンでも。・・・すでに、預かってるんです。神さまからの大いなる恵み。こうして皆さんと出会い、今ここで、この時間を過ごしているというだけでも、これ、1億積んでも、1兆積んでも、金で買えるもんじゃないですよね。神が与えてくれた、究極の、この「わたし」という恵みは、5タラントン、10タラントンをはるかに超えるような恵みでしょう。それは、皆さんが決めることじゃない。「私はこんな人間だから、50円くらいでしょう」とか、そんなこと思う必要がない。「神が」与えてるんだから。とてつもない価値を。それを信じてくださいよ。
 そうして、神さまが、主キリストをとおして、共におられ、働いている。「キリストを通して、キリスト者である私を通して、素晴らしいことがいっぱい起こる」って、私はそう信じたんです。「晴佐久」という一人のキリスト者の特徴として、皆さんに申し上げられることがあるとするなら、そこですね。皆さんも、できます。信じれば。
 「自分を通して、神が働く」って。
 ・・・誰だって、すごいことができるんですよ。

 昨日は高円寺教会でミサをしました(※4)。100人くらい集まってましたけど、珍しいミサだったんですよ。「受洗10周年記念ミサ」っていうミサ。2007年に高円寺教会で洗礼を受けた人たちが、10年たったので、ちゃんと集まってもう一度信仰を新たにし、洗礼の恵みに感謝し、再出発しましょう、みたいな、そういうミサなんですね。
 私、高円寺教会のときは、毎年、80人、90人と洗礼を授けてましたから、2007年組も80人近くいるんです。だから、10年たって、その人たちがみんな集まるっていうと、結構な数になる。もちろん、全員は集まれっこないですけど、代父とか代母の人(※5)とか、入門係の人とかもみんな集まった。で、洗礼を授けてくれた神父さんも呼びましょうっていうことで、私が引っ張り出されて、ミサを捧げて、昔のように、しゃべりまくる説教をしました。実際に言われましたよ、「久しぶりに晴佐久節の長い説教を聞いた」。(笑) ・・・すいませんねえ、しゃべりだすと止まらないんで。・・・話したいんですよ。どうしても福音を話したい。でも、それは、「私が」言いたいっていうより、やっぱり、私を通して、「神が」言いたいんだっていうふうに、私は思ってるんです。10年ぶりの仲間たちに、洗礼の恵みがどれほどだったか、あのときつらかったけど、乗り越えて、信じて、秘跡を受けて、復活の喜びに与った。忘れないでほしい、と。
 まあ、その10年目のミサをしたっていうのは、教会全体がね、ちょっとこう、・・・元気がなくなってきている。集まる人も少なくなってきている。「元気に、みんなが集まってた、あの時代を思い出そう!」みたいなね、そんな意味もあって。・・・カンフル剤? みたいなやつで呼ばれていって。だから私は、その役目を果たそうと思って、精いっぱい洗礼の恵みについて語りました。
 ミサ後、祝賀会もあって、かつて入門係を手伝ってくれていた方があいさつしてくれました。その方は、その後、脳梗塞で倒れたんですけど、リハビリを重ねて、最近は、また教会に来れるようになっている。そういう方なんです。私がいたときは、すごい元気だったんですよ。教会の仕事をバリバリ手伝っていた。彼女のおかげで、どれほど多くの人が救われ、受洗者も支えられたか。でも、そんな彼女も、その後やっぱり、そういう闇をくぐってきてるんです。だから、教会に10年前の神父が来て、元気だったときのことを思い出したんでしょう。マイクを握ってしゃべってるうちに、涙ぐんで、声を詰まらせました。大勢の人が、喜んで洗礼を受けていた、そのときのことを思い出したんでしょう、こう話してくれました。
 「皆さんは、ご存じないかもしれませんけど、晴佐久神父さんは、受洗者の全員と、何度にもわたって面談をしてたんですよ。毎日のように。それは、頭が下がりました。神父さま本人はそのことはおっしゃいませんけど」
 私、心の中で、「えっ? 結構それ、言ってるけどな・・・」と。(笑) いや、でもホント、言いたくなりますよ。大変だったんだから。私もそれ聞いてて、思わず、あの頃のことを思いだして、グッと来ましたよ。
 80人の新受洗者と、一度ならず面談をするわけです。あのころ、洗礼シーズンともなると、ず~っと一日中、面談して、ず~っと福音を語っておりました。あんなこと、もうやろうと思ってもできないだろうな。ちょうど10年前。50歳だったんですよ。まだまだ元気だった。・・・もう、あの体力、集中力はないですね。でも、今でも思い出します。一度の人生、できるときに精いっぱいっていう・・・。それこそ、さっき、「その日はふいに来る」って読まれました。・・・第2朗読ですね(※6)
 「盗人が夜やって来るように、主の日が来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が『無事だ。安全だ』と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。」 (一テサ5:2-3)
 私たち全員のことです。最後の日が来るんです。誰も逃れられない。神さまの御前に立つその日が来る。私はやっぱり、その日に後悔しないで、こんな自分だけれども、「でも、神さま、そこそこやりましたよね」って言いたいんですよ。「こんな自分だったけれど、ダメダメな僕だったけど、それなりに頑張りましたよね。神さま、あなたは知っておられます」と。大変だったけれど、みんなの話をひたすら聴いて、聴いて、福音を語って、語って・・・。それが、与えられたタラントンと信じて、もうそれを、精いっぱい。でも、それは増えていきます。どんどん増えていく。5人、10人、50人・・・。それこそが、「夜にも暗闇にも属していない」という「光の子」の話 (cf.一テサ5:5) (※7)
 1タラントン持ってた人はね、埋めといたってあったでしょ (マタイ25:18)。恐れたんですよ、自分を出すことを。弱い自分を、だめな自分を、恐れて隠した。そんな必要、ぜんぜんないんです。神さまはその弱さを知ってるし、神さまのお考えで、こんな情けな~い自分として、そこにおいてくださってるんだから。「私、失敗は多いし、愛はないし。でも、こんな自分でも、神さまのお役に立てるのであれば、ちょっとでも何かやろう」、そんな思いで自分を開くと、そこにたくさん、素晴らしいことが起こる。

 昨日、うれしかったことのひとつは、洗礼を受けたときは高校生だった女の子がね、もう結婚してて、ニコニコしてたこと。・・・10代半ばだったのが、今、20代半ばなんですね。キラッキラした顔をしてね。で、そのすぐ横に、寄り添ってる人がいる。・・・もう、一目見て分かりました。ステキな男性が並んでたんで、ああ、結婚したんだなって。「主人です」って紹介してくれたんで、「よかったねえ、おめでとう。・・・お母さまも喜んでるよ」って言うと、思わず目をうるませてました。お母さま、彼女が洗礼を受ける前に亡くなったんです。しかも、三人の娘を残して。
 私がそのお母さまに初めて会ったのは、病室です。ある方から、医師からもう助からないという宣告を受けた友人を何とか救ってほしいと頼まれて、お訪ねしました。ところが、病室に入ってあいさつしても、私と顔を合わせないんです。暗い顔で下を向いたっきり。で、小さな声で、ず~~っとおんなじことを繰り返して話し続けてるんですよ。
 「主人が死んだばかりなのに、なぜ私までこんな病気になってしまったんでしょう。私が死んだら、娘たちはどうなっちゃうんでしょうか」
 で、いろいろ、一通りつらい思いを話したら、また、そこに戻る。
 「それにしても、主人が死んだばかりなのに、なぜ私までこんな病気になってしまったんでしょう。私が死んだら、娘たちはどうなっちゃうんでしょう」
 それを、何度も何度も、ぐるぐると、ず~っと話してる。もう、何も考えられなくなってるっていうご様子でした。
 で、私は、申し訳ないけどそのお話を途中でさえぎって、「私は、あなたに福音を伝えに来たんですけど、聞いてください」と言って、福音をお伝えしました。そんなに複雑な話じゃない、「あなたは、神さまの世界に生まれていくんです」という、キリスト教の本質ですよね。
 「あなたは死ぬんじゃありません。この世の準備期間を終えて、神さまの世界に生まれていくんです。あなたは神さまに望まれて生まれて来ましたし、その親心によって生きて来ましたし、神の愛によって天国に召されていきます。あなたの本番は、その天国で始まるんですよ。愛と平和、喜びに満ちた神の国です。あなたはそこで、この世を生きていた時以上の、まことの命を生きて、働けます。ご主人も、先に生まれて行って、もう働いています。あなたも、その本番の世界で、娘さんたちのために働くことができるんです。娘さんたちは、天国のご両親の働きによって、幸せに生きていくことができるでしょう。神の愛は、完全で、永遠です。・・・信じましょう」
 私がそう話していると、話している間に、お母さまの顔が、どんどん輝き始めたんですよ。・・・あれは、忘れることができない。暗かった顔が、ほんとに、どんどん輝いていく。実際に光ってるんじゃないかっていうくらい。お母さまは、弾む声で、私に聞きました。
 「ホントですか? ・・・ホントですか?」
 「本当です」
 「そうだったんですね。知らなかった。よかった、そうだったんですね。私、信じます。神父さま、信じますから、今、ここで洗礼を授けてください」
 「授けることはできますけれど、今、ここでよりも、ご自宅で、娘さん三人が見守る中で受けたほうが、娘さんたちのためにもいいと思います」
 私、そうお返事しました。
 お母さまは、ちょうどその数日後に退院することになってたんですね。もう末期でしたから。それで翌週、ご自宅で、娘さん三人が立ち会う中で、洗礼式をしました。私はそのとき、娘さんたちにもお話をしました。永遠のいのちについての話。
 「私たちは死ぬために生きてるんじゃない。生まれるために生きてるんです。お母さまは、これから、永遠のいのちを生きていきます。病気はつらいけれど、すべての弱さは、神さまがよいものに変えるためであって、すべては産みの苦しみです。お母さまは、これから誕生して、神さまのお手伝いをして、みんなの幸せのために働くんです」
 はっきりと、そうお話しして、洗礼を授けました。
 お母さま、洗礼を受けた直後に、その場で娘たちに言いました。
 「あなたたちも、洗礼を受けてほしい。私は、神の愛と、永遠のいのちを信じたら、本当に救われた。あなたたちにも、信じて、洗礼を受けてほしい」
 その後、2週間くらいしてお母さまは亡くなりましたけど、ご葬儀の席で、娘さんが、こうあいさつしたんですね。
 「母は、洗礼受けた後、驚くほど輝いてました。洗礼を受けてから亡くなるまでの2週間は、母は本当に明るくて、うれしそうだった。私は、これほど幸せそうにしている母を、それまで見たことがありませんでした」
 で、その後、娘さんも洗礼を受けたんですけど、その娘さんが、受洗10年後に、ニコニコして、顔を輝かせて、伴侶を連れてきているわけですよ。私、そんな娘さんを見ながら、当然、心の中で思ったわけです。「・・・お母さん、やったねえ✌」と。
 キリスト者は人を救うことができます。お母さんは、5タラントンを10タラントンにも100タラントンにもしたと思う。一番弱っていた、絶望の底のような、これ以上はもう下がないっていうようなところで、福音を聞いてキリスト者となり、さらに、天の国で最高の働きをして、娘たちを救っている。
 ・・・十字架と復活です。
 私はそれを信じます。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます)

※1:「今日もマタイの福音書を読みました」
この日、2017年11月19日(年間第33主日)の福音朗読箇所は以下のとおり。
 マタイによる福音(マタイによる福音書)25章14~30節、または25章14~15節、19~21節
  〈小見出し:「タラントン」のたとえ〉
===(あらすじ)===
イエスが話された天の国のたとえの一つ。
 
ある人が旅行に出かけるとき、僕(しもべ)たちの力に応じて、一人には5タラントン、一人には2タラントン、もう一人には1タラントンの財産を預けた。かなり日がたってから主人は帰ってきて、その僕たちと清算を始めた。
 すると、5タラントン預かった者は、ほかに5タラントン、2タラントン預かった者は、ほかに2タラントンもうけ、主人は各々を、
「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」(マタイ25:21,23)とほめて、喜んだ。
 1タラントン預かった者は、主人は厳しいと恐れ、地中に隠しておいたままだった。それを聞いた主人は怒り、隠しておいた1タラントンをも取り上げて10タラントンになった者に与え、彼を追い出した。 (マタイ25:14~30)

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※2:「病者の塗油」 〈既出、もう少し詳細はこちらへ〉
 七つの秘跡(※)の一つ。司祭が病者に油を塗って祈る式、また、その秘跡のこと。
 重病あるいは高齢のために困難があるとき、死の危険が迫っているときに、病人の額と手に司祭が祝福された油を塗り、神の癒やしといつくしみ、聖霊のたまものを祈る。
(参考)
・ 「病者の塗油の秘跡」(キリスト教マメ知識>ラウダーテ)
・ 「病者の塗油の秘跡 () () (この秘跡を受ける者、授ける者) (この秘跡執行の効果)」
   (カテキズムを読もう>ラウダーテ)
・ 「病者の塗油の秘跡」#1500~#1532(『カトリック教会のカテキズム』カトリック中央協議会、2002年)
===
(※) 「秘跡」とは、キリストによって制定され、教会にゆだねられた、実際に恵みをもたらす感覚的しるしのこと。これによって神のいのちが豊かに注がれる。
 「七つの秘跡」は、洗礼、堅信、聖体、ゆるし、病者の塗油、叙階、結婚の七つ
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※3:「『1タラントンは、一人の人の約20年分の賃金』って、そこに説明があると思います」
 この日、会衆に渡された『聖書と典礼』には、該当箇所の説明として、以下のような解説がある。
===(『聖書と典礼』から)===
◎「タラントン」
 
ギリシアの貨幣単位。1タラントンは6000デナリオン。1デナリオンは一日の日当であるから、1タラントンは、約20年分の賃金に相当する。なお、ルカのたとえでは、全員が同じ額を預かる。 (『聖書と典礼』〈年間第33主日A年 2017.11.19〉、p5、オリエンス宗教研究所/赤字引用者)
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※4:「昨日は高円寺教会でミサをしました」
 カトリック高円寺教会のフェイスブック(11月18日)に、そのときの様子が、画像と共に掲載されています。
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※5:「代父とか代母の人」 (既出)
◎代父母 (だいふぼ) 〔ラテン語〕 patrinus, matrinus 〔英語〕 godfather, godmother
 代親(だいしん)ともいう。「代父(だいふ)」は、代親のうちの男性。「代母(だいぼ)」は女性。
 キリスト教の伝統的教派において、受洗者の洗礼式に立ち会い、神に対する契約の証人となる者。教会共同体を代表して受洗者の世話にあたる。また、受洗者の生活や信仰について、教会に証言する証人でもあり、信仰生活にとっての案内役でもある。  (文中へ戻る
===(もうちょっと詳しく)===
 男性の場合は代父、女性の場合は代母、また、被後見人(受洗者)は代子という。通常、受洗者一人に対し、一人の代父、または代母がつく。受洗者が男性の場合は代父が、女性の場合は代母がつくのが一般的である。
 求道者を教会に紹介した者が代父母になることが望ましいが、他の適任者が求道者によって選ばれる場合もある。
 洗礼志願式では、志願者の意志を証言し、洗礼式の際には立ち会う。堅信式の代父母も本来同一人が務めることが望ましい。
 代父母制度は、入信制度の成立と共に古く、受洗者一人ひとりと教会共同体を結びつける貴重な役割を担っている。
(参考)
・ 「代父母」(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008年)
・ 「代父母」(ウィキペディア)
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※6:「第2朗読ですね」
この日、2017年11月19日(年間第33主日)の第2朗読箇所は以下のとおり。
 使徒パウロのテサロニケの教会への手紙(テサロニケの信徒への手紙一)5章1~6節
  〈小見出し:「主は来られる」4章13節~5章11節から抜粋〉
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※7:「それこそが、『夜にも暗闇にも属していない』という『光の子』の話(cf.一テサ5:5)
===(聖書参考箇所)===
 
しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。 (一テサ5:4-5/赤字引用者)
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2017年11月19日(日) 録音/2017年12月22日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英